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『超訳釈迦Jクリシュナムルティ』③

「いまここ」「あるがまま」「からっぽ」
耳にタコができるほど、今ここ、あるがまま、からっぽって言葉はみなさんを洗脳している。
ですが、意味合いが独り歩きしていて、誰も真髄を見極めることができていないですね。

『今ここ』っていうのは、今の瞬間に生きましょう、過去も未来も今には無関係ですから。。。と受け止めるとどこにも行きつかない、単なるスローガンです。

いまここにあるという精神のスガタ、そしてカタチ
あるがままにあるという精神のスガタ、そしてカタチ
からっぽさにあるという精神のスガタ、そしてカタチ

悟りのスガタです。

そう言う風に具体的に指示さないと、愚にもつかない無駄なスローガンです。

まず。今ここにある瞬間に生きると言うこと。
これを、過去を振り返らず後悔せず、未来に希望を抱かず夢を観ず・・・などと要約してしまうと、不可能です。

こんなものは、簡単にクリヤができる。
「今、自分が何を考え、何を求めて、行為行動を成しているか、成そうと企てしているか?」
これを四六時中に「見て取ること」から、始まります。
今、自分が何をしていて、何を考えているか、何を行動に移そうと思考しているか?
まさに「今」の出来事、今渦中の精査・観察・洞察・認知・認識ではありませんか?これ以外にあなたの「今」がありますか?

自分の意識を俯瞰する精神の作業。

今の自分の考え事や悩みでも過去への逃避でも未来への願望や期待でも・・・そう考える「今」があるならば。
純然たる「あなたにとっての今」ではありませんか?
違いますか?

難しい事をこねくりまわす暇があるなら、自己思念感情行為の目的と起因について、今の自分思考を眺めていれば良い。

こんなことさえもやろうとしないので、あなたの進化はないのです。やる気もない。何も無い。昼ごはんに何を食べようか?などと考えて人生を食いつぶしてしまうのです。

一か月。自己の思念や感情に注視を抱くなら、何も意図しなくても自然に、今の考え、今の感情、今の行為と切離れた「俯瞰者の意識」になります。

そこからは容易です。考え、記憶の回帰、感情の機微、目的性、行動の因などを分析して、洞察し、原因を取り除けばいい。

そこが「からっぽの精神の行きつく先」です。

まさに「からっぽ」自己精神を俯瞰する自分しかいない場面に、埋めるものごと、感情も、思考も、気分も、目的も何もかもが消えます。悩みも苦しみも俯瞰者が見て取りさえすれば、その瞬間にそれらから「切離れます」自分ではない、単なる苦悩、単なる記憶、単なる感情、単なる行為への意欲であって、見ている先は、見ている自分ではないと明確に認知します。

わかりますよね?見ている場所は、見ている当人とは別個です。例えば、眼玉(眼球)が観て、映し出している風景や光景って、目玉そのものではありません。
ですから自分の側と相手の側は切離れます。

同じ理屈で、想起される思考も感情も思念も欲望も目的意識も・・・見て取れている以上、本人ではないのです。
意味が解ると、簡単なことです。
目玉は眼玉自体を見る事ができない。

例えば、あなたに本心、根源、源があるとして・・・
本心は本心を観れない。根源は根源自体を観れない。源は源自体を観れない。俯瞰する立場にないのです。
わかりますか?重要な話しをしています。

脳裏に想起が出来た事象は、あなた自身ではない。
あなたは想起した事象を眺めるものです。
肉体に感じる熱やけだるさや寒さは、感じているものがあなたです。あなたは、熱じゃない。けだるさでもない。寒さでもない。
この「理」が判ると、内面に感じられる感覚も、脳裏に想起される思考も、記憶も、概念も観念も、
「あなた自身ではなくて、あなたが外に見出だしている、いち光景にすぎない」のです。

この俯瞰ができますと、あなたは自我同一化をしていない。
自我の観る夢と一緒に葉なっていない、切離れています。
ですから、自己内面を「俯瞰する精神の作業」さえできれば、あなたは自我に素染まってない。同化同一化していないのです。

根源はどこにあるか?

俯瞰するあなたの全身全霊に、ある。

以上。


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