橋本治『'89』の"ぜんぶ"感のこと
橋本治『'89』を初めて読んだとき、「あっ、ここには、この世界の"ぜんぶ"が書いてある。こんなすごい本があるのか」と思った。
もちろん、アカシックなんとかじゃないのだから、「この世界の"ぜんぶ"」を網羅した書物というのは、字義通りの意味では存在しない。まして河出文庫上下巻におさまるような、コンパクトなものであるはずもない。
それでも、自分にとってはその「この世界の"ぜんぶ"が書いてある」本、という『'89』という書物と、そんなものを書いてしまう橋本治という桁外れの人、という印象だけは、時間が経過したいまでも訂正されていない。
要は、「この世界の"ぜんぶ"みたいな言い方をしないと、これを読み終えた衝撃とか、与えられた情報の質みたいなもののことを、正確に相手に伝えられない」ということなのだ。つまり、自分にとっては、『'89』を読んだ、という体験を他人にどう伝えるか、ということにおいては、この大仰な言葉遣いは、なによりもまず「正確さ」のために選ばれている。……そのことが、昔よりもいまのほうが、より強くそう思うようになった。
そして、(ここからが、唐突にこれをポストしようと思ったきっかけなんだけど)Twitterみたいな場所において、いま、もしかすると一番伝わりにくい種類の情報が、この"せんぶ"みたいな言葉で伝えられようとする情報なんじゃないか。
「この世界の"ぜんぶ"」という言葉づかいは、誰か特定の、一人か複数かはおくとしても、特定の誰かを思い浮かべながら書く種類の言葉なんじゃないか、という気がする。そういう種類の言葉を、不特定多数に向けられている場所で書くには、大なり小なり、ある種の「覚悟」がいるように思う。文脈を共有しない人に、文脈を前提にした言葉を送って、それが通じたり通じなかったりする、そういう賭けが、そこにはその都度発生しているんだと思う。
そのこと自体は、ずっとずっと前からそうだったと、言葉が活字になって誰かに読まれるというのはそもそもそういうことのはずだったろうと、そう思う。そしてTwitterは、たぶん、その「活字で何かを伝えようとするときに多かれ少なかれ発生する賭け」の、分の悪さみたいなものが、ずっとせり上がっているのではないか……そう感じる。
べつに、だからTwitterはよくない、とかそういうことを言いたいわけではなくて、なんていうか、うまく言葉にできないんだけど、
初心に帰る
みたいな思考回路と同時平行で、ここに書いたようなこと、『'89』の、橋本治のこと、いろんなことがふっと浮かんできたので、つらつら書いて残しておこうと思ったしだいです。
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