『インディゴの気分』 に泣かされる
丸木戸マキ先生のBLコミック『インディゴの気分』は3部作の2作目の作品です。
1作目『ポルノグラファー 』
2作目『インディゴの気分』
3作目『續・ポルノグラファー プレイバック』
そして1、2作目がドラマ化され、3作目が映画化されています。
これから書く感想は、それらすべてを読み、観た者の感想です。
作品のあらすじなどは紹介せず、完全なネタバレをしますので、未読・未見の方は、是非作品をご覧いただければと思います。
▼原作コミック
▼ドラマと映画
「言葉にしづらい関係」の設計図
大学在学中に21才で華々しく純文学デビューを果たした木島と、その同級生で、木島の才能に打ちのめされて作家になる夢を諦めて編集者になった城戸の「なんとも言葉にしづらい関係」の物語。
描かれる「作家」という生きもののせつなさ
蒲生田が言う「俺みたいなのが父親だったら、作家になんかなってねえだろ」という言葉が、作家という生きものを端的に表していてせつない。
才能そのものは天が与えたものだけど、作家になれるかどうかとその作家性は、後天的なもの、育った環境が大きく影響するものだと思うから。
「本なんか読むと馬鹿になる」と全否定する父親がいたから、理解されない孤独と悲しみが木島に情熱というエネルギーを植えつけ、作家性を育んだ部分があると思う。作品とはある意味で、その人の流した血だと思うから。
認めてくれる父がいる人生と、認めてもらえない痛みを経て作家になった人生の、そのどちらが幸せだったかを問いかけるシーンがせつない。答えなどないものだからだ。人間は、複数の道を生きることはできないのだから。
そして、木島の人物像に描かれるように、才能がある人間はどこか皆、儚い。才能とは逸脱だ。大きな輪から外れた場所にいる。才能と孤独は切り離せないもの。
何かを生み出すということ、表現するということは、結局その身を、心を削るということなんだと思う。削られた分、肉体が透けていくように、陽炎のように、彼らは儚く見える。
城戸や私たちのような特別な才能のない人間は、ずっと苦しい。美しくて、儚くて、輝く、一瞬の光のような彼らをただ、見つめることしかできない。
見つめるのが、自分たちの役割なんだろうとも思うのだけども。
天才と、その理解者
この物語は、木島が「作家」であることに対して、城戸が「編集者」であること、久住が「広告代理店に就職できるポテンシャルの人間」であることがとても重要なポイントです。編集者も広告代理店の仕事も、どちらもが社交性と対話術が100点満点中200点みたいな人間が生き残れる仕事だから。
世界にごく少数いる「天才」の才能を生かし、彼らの「世界への対話」を手伝う仕事で、いわば、天才と世界を繋ぐケーブルのような存在だ。常識では考えられない言動をとる天才という生きものへの対応を会社で仕事として学ぶし、寛容さと忍耐力を叩き込まれる。本質的に、一定レベルの知性のほかに、1を聞いて10解るレベルの聡さがないと採用されないし、続かない。城戸も久住も「対話力」が元々一般人レベルより遥かに高い人間ということになる。だから、木島の問題行動を読み解けて、根気強く寄り添える。
また、城戸はよくも悪くもルーズな感覚を持っている。自分の人生に起きたことを受け流して日常に戻れる。受け流せることも生きる意味で必要な強さで。パワハラで、人前で男同士で性行為をさせられる。これに耐えられるメンタルの強さが編集者や広告代理店の人間には求められるとこがある。
この物語では、天才への理解と寛容さを示せる二人の男に木島は見守られていることになる。そこにとてもリアリティがある。
一方の、天才には、大きく2種類いる
ひと握りの、社会と共存できる天才
一般の人間の感覚に合わせて、愛される振る舞いができ、締切を守り、問題行動を起こさない節度ある生活ができる。
残り大勢の、社会とうまくやれない天才
映画『ビューティフルマインド』で描かれる統合失調症を患った天才数学者や、映画『永い言い訳』の気難しくて人に好かれない主人公のように、人間不信や鬱など、精神的に不安定な部分を抱えている。
前者は本当にひと握りしかいない。名実ともに大成功を収め、大ヒット作を作り続けられ、最前線にいる。現実として、彼らだけでエンタメ経済は回るとこがあるが、後者の、苦しみから生まれる血の滲むような作品も、強く人の心を打つ。どちらが秀でているという話ではない。
ほとんどの作家が後者で、木島も世界とうまくやれない己の弱さに苦しんでいて、誰かと深い関係を築くことを諦めている。自信がない。『プレイバック』ではそこが描かれている。明るくまっとうに普通の世界で生きる家族が、大切だけど、どうしようもなく居心地が悪く感じる自分を、ダメな人間だと恥じている。
家から出ない人生の人間
作家という生きものは、家から出ない人生だ。そういう生活の人間から見える「外の世界」「外の人々」と、その接点についての描写が深い。
そもそも、ずっと家の中にいて平気ということも、一つ普通ではない部分。コロナの自粛で出かけられなくて息が詰まった人は多いと思うが、作家は何ヶ月も出かけないでいられる人種。人と関わらないでいられる。それを「孤立を恐れない」と城戸は表現しているけど、そういうふうにしか生きられないのが作家だ。
それで、ずっと家の中にいて、自分の頭の中と対話する人生だから、「家に来てくれる人間」というものを求める。人選はもちろん重要だけど、久住を家に招く算段も、城戸を簡単に住ませたのも、すべてそれが理由だ。自分は家から出られない、出たくない人生だから。
この「人といると疲れるのに、居心地が悪いのに、人が恋しい」という人間の性は、作家でなくても共感できるものだと思う。
だから『インディゴの気分』の終盤、木島は城戸に「君が僕を拾ってくれた日だよ」と言う。拾ってくれた、と認識している。家から出ない自分に、関わってくれただけで感謝しているのだ。拾ってくれて、家に来てくれて。仕事で導いてくれて、セックスもしてくれた。
だんだん遠ざかっていく城戸に対して、悲しくて、受け入れるまでに荒れたけど、最終的にはやはり、もうそれでいいと、城戸との「その先」を諦める。諦めるのが早い。どんなことが起きても、彼は「家」からは出ない。去る者を追えない。作家だからだ。
この作家と編集者という二人の人物像の背景を理解して観ると、二人の関係性が本当にとても「特別」で「言葉にしがたい」ものだとより納得できる。木島の行動や選択についても、リアリティが凄い。
城戸のことを「ただのクズ」だと受け取ることも、別に間違っていない感想だと思う。だけど、彼らの間にあったものを、私なりにもっと深く掘り下げてみたい。
どうにもならない想いは
多分この世にたくさんある
俺はぐちゃぐちゃにしてやりたくなった。才能にあふれ、高潔でプライドの高い、俺の憧れだった男を-。
城戸の感情の描写から、二人がうまくいかなかった理由が「男」ならではだと感じる。
BL作品を見るときに、これ別に男同士でなくてもよくない? って感じるものは、たぶん評価が高くならないのではないかと思う。
この作品は、男のプライド、男の征服欲、男の欲望と弱さがテーマと言っていいほどに描かれている。
城戸は蒲生田の仕掛けたパワハラによって異空間に放り投げられるような体験を経て、性的に、もの凄く強烈に、鮮烈に木島に惹かれる扉を開かれてしまう。木島とのセックスでは、ただの性欲だけではなく、男としての征服欲が満たされる。自分より優れた才能を持つ憧れの男を抱いてる、喘がせているという征服欲。愛情以前に、どうしようもなく掻き立てられるように欲望を引き出されてしまうのだけど、城戸にとって木島は、
たった一人、生涯で、自分の夢を折った男
だった。
作家としての才能、自分にはなかったものを持ってる木島とでは、一緒にいたら、ずっと永久に男のプライドがずたずたにされ続けるから、普通に自分を立ててくれる優しい女との家庭を選んでしまう。退屈でも、そっちを選んでしまう。
木島への愛情は芽生え、自分が守りたかったし、愛したかったという想いはあると思う。だけど、互いの性格も災いし、そして何より、2人はゲイとして生きてきたわけじゃないから、蒲生田によって突然放り込まれた "非日常" や "同性を愛すること" に混乱してうまく心の整理も対応もできないでいる間に、二人の想いはすれ違ってしまった。だから一生の未練。一生抱え、燻る、情熱。
城戸からみた木島の弱さ
城戸は、木島の浮世離れした感覚が心配で、面倒をみなければと感じている。作家にはよくあることだが、木島は人に頼らない。ヘルプサインを出さないからだ。
お金がないからって、水のシャワーを浴び続け、茅ヶ崎から新宿まで歩こうとする(茅ヶ崎ー新宿は直線で54km。徒歩約13時間)
酒を飲みすぎるし、心配になる酔い方をする。蒲生田を寝ないで看病したり、(久住との物語の中でも、スマホを持たされても恋人の久住に伝えなかったり、家族行事から逃げて家出をしたりなど)、普通そうしないだろという行動をあげたらキリがない。
そして情緒の面。感情が昂ると声を荒げる。感情の瞬間の高ぶりを制御できず、本音でもなんでもない悪態をついて相手を罵ってしまう(城戸はそういうことは絶対しない理性がある)。
城戸へのこの辛辣な言葉が最たるものだ。
「なんだ? 悔しいのか。信念はないのにプライドは一人前にあるんだ?」
作家は言葉のプロなので、喧嘩をしたときなどに、相手を即死させられる言葉を吐ける。それで言いすぎて、人間関係が崩壊してしまうのだ。友達を一瞬で失う。あの悪態に耐えられるのは、城戸が「編集者モード」に切り替えられる人間だからなのは大きい。
その問題行動とは別で、人間は不安定になると色気が増すものだ。木島は、自分がいなければと思わせる。その感情の高低差。良くも悪くも不安定で、剥き出しで、嘘つき。気難しい。城戸が「あいつの面倒を見れるのは俺だけだ」と感じて当然だし、実際、木島は城戸以外の人間との接点を増やそうとしない。城戸に依存し、それをのちの『プレイバック』で、君に負担をかけすぎていた、僕の怠慢だと自覚して語る場面がある。
実際、木島が信じるように、たぶん生涯、城戸は木島を見捨てない
彼が一人の男である前に「編集者」だからというのもある。蒲生田に「あいつを支えてやってくれ」という遺言を残されてしまったことも大きい。
編集者として「作家の木島」に生涯寄りそう姿勢と覚悟も当然ありつつ、愛しいと思う相手への不完全燃焼のまま抱える想いと、老作家の遺言。城戸は、付かず離れず、木島の人生と生涯併走する。そういう一生になるのだろうなと想像できる。
現実として、長く務めた編集者の多くは、その生涯で、担当作家の自死を経験する。セルフネグレクトに近い病死も。アルコールや薬物中毒の自滅も。
だから、城戸がこれから木島の生涯をどう見守るのだろうか、どちらが先に死ぬのだろうか、と、二人の最後の別れを想像すると私はとても苦しい。せつなくて、苦しくて、二人がとても愛しくてたまらなくなる。
一緒になるほどの強い覚悟を互いに抱けなかったけど、あとから振り返れば、求めあって、確かに必要としあった、二人だけの愛しい日々。その記憶。その彼らが互いへ抱くどうにもならない想いは、きっとこの世にたくさんあるし、私の胸にもあるから。
感情の推移を読み解く
二人の感情は入り組んでいて、時間にしても8年ぐらいの経過があると思われるから、『インディゴの気分』の冒頭から、出来ごとの起きた順に、片方ずつ、どういう気持ちだったのかを想像してみた。あくまで私が想像しただけなので、正解ではない。この2つの枠は読み飛ばしてもいいです。
原作とドラマの気になるところ
この二人の感情を時系列で想像しみて、気になる点が一つ。
『プレイバック』の東京駅で会った日と『インディゴの気分』のバーの夜とは、どちらが先か。
『インディゴの気分』
「ハルくんと付き合うことにした」と木島が城戸に言う。
『プレイバック』
城戸「お前らちゃんと付き合ってんのか?」
木島「まあ、いろいろあるけど」
このあとで「付き合って欲しい」と木島が久住に言う。※付き合っていたけど、改めて木島がそれを口にするという流れなので、この日から交際したという意味にはならない。
個人的には『インディゴの気分』のバーが先で、城戸はその数ヶ月後、久しぶりと言えるぐらいの時間を経て、再確認を東京駅の喫茶店でしたのだろうと思うのだけど、そうじゃない考察もあるとは思う。
二人の性格と想いの違い
どちらも良いのだけど、私はドラマで三木監督によって深く掘り下げられた木島と城戸の関係性にこそ、深く抉られたので、ドラマ版の性格のほうが好きです。竹財さんと吉田さんの表情の演技に圧倒されました。
木島
原作:少し人間臭い部分がある シャープな顔と子供っぽい言動のギャップ ヒステリック 興奮すると早口でまくしたてそう
ドラマ:ミステリアス ゆっくり抑揚のない話し方 城戸への優しさがある 城戸に抱かれて幸せそうな顔をして眠る 顔が可愛い 儚い 危うい
城戸
原作:流されている 木島への想いをあまり自分で掘り下げていない 見て見ぬ振りをしている 蓋をして生きている 長髪でルーズな人柄のイメージ
ドラマ:衝動と欲望と嫉妬が強い 愛情・愛着が強い かなりくっきり木島への想いが伝わる表情をする 短髪で漢気のあるイメージ
胸を打たれたもの
長くなりましたが、最後に、自分が最も胸を打たれた部分について。
「天才」とは「逸脱」だということ
凡人がうらやむ才能に溢れたひと握りの「天才」という人間、この物語では「作家」だけど、ミュージシャンや漫画家などもすべて含まれる、創作という自分のセンスを頼りに生きて、名を馳せ、作品で世界と対話をする人間。その彼らの悲哀と、人生がとてもリアルで、胸に刺さりまくった。
天才である木島の内面の描写。社交能力の問題。社会と遮断された空間で生きる人生の、圧倒的な孤独。だけど外には出られない、「不器用」なんて言葉では片付けられない、そんなふうにしか生きられない木島の姿。
私自身は凡人側なので、それを見守り、振り回される城戸の気持ちのほうへのシンクロが凄かった。強烈に惹かれているのに、でもそちらにとても飛び込めない。その城戸が人生で浴びたものに同情するし、でも、その愛を経験したことはけして悪くない人生じゃないかなと彼に言いたい気持ち。
城戸は、木島の命綱だったし、命綱であり続ける。
その関係性は、唯一無二の、稀有で、輝く、美しいものだと思うよと。
だから『プレイバック』の終盤「お前だけは俺を見捨てないだろ」と木島が城戸のことを信じているモノローグを、心から嬉しく思う。木島がそう信じられているだけで、城戸は十分に役割を果たしている。木島の「命」を救っているのだから。
そして。久住と出会って、彼に初めて心を開いて、好きだと口にする木島。映画版で、そこで「知ってます。大丈夫ですよ」と受け止められて泣いてしまう木島の涙にもらい泣きしてしまった。人を心から好きになると、ただ涙が出る。この美しい経験を木島が出来たことに、ただただ嬉しくて涙が出るのです。
「言葉って凄いねえ」と作家が呟く場面
作家にとって、言葉とは作品だ。自分の気持ちを表現するときに、彼らは作品に昇華させてしまう。「言いたいことは、作品で言いたい」と多くの作家が云う。そして、作品で伝わらなかったこと、描ききれなかったことを、ブログやインタビューなどで補足するのは野暮で、蛇足だ、やりたくないとよく云う。
言葉で生きているのに、自分の言葉は制限するのだ。
言葉のプロを自負するからこそ、陳腐な言葉は絶対口にしたくないというこだわりもあるように思う。うまく言えないとも違う、やっかいな、面倒くさい世界との繋がり方をする生きもの。愛されない態度をとってしまうことも多い人たち。
才能で生きる不器用な彼らは、言葉を持たないに等しいのかもしれないとも感じるときがある。社会との間に何重にも閉ざした扉があるような。そんな社会と共存できない花が、咲き続けるのは難しい。誰かと真に心を通じ合わせることも、簡単ではないと感じる。
だから。そんな作家の彼が、久住から注がれる言葉がすっと刺さって、言葉の力に感動する場面が泣けました。そして、自分も初めて想いを口に出して、涙する場面にも。
木島はきっと初めて成就した愛を糧に、純文学の世界に戻っていける気がする。その兆しを感じさせる終わりを、心から嬉しく思うのです。
それでも世界と対話をしたくて
この3部作を読んで感じたのは「人といると居心地が悪いのに、人が恋しい」という人間の性についてだ。
人が恋しい、世界と対話したいという望む、作家たち。
世界という大きくて静かな湖に石を投げる。小さな石で小さな波紋を起こす。そうやって生きる、創作に生きる人間の営み。「命のともしび」という昔からある言葉が頭に浮かびます。
彼らは満員電車に乗っていない。そのへんにはいない。そのまさに「浮世離れ」した人間たちが、世界の片隅で生み出したものが、こうして届いて、私はこんな長文を書くほどに感動しているわけです。私たちは「対話」をしている。出来ている。その事実もしみじみと嬉しく、世界に希望を感じるのです。
私は丸木戸先生の作品は今作が初見なのですが、春子が言う「プラスはマイナスの可能性。だけど真っ白な預金通帳に意味はない」という、この含蓄のあるセリフに象徴されるように、丸木戸先生の言葉には哲学がある。失うことを恐れて、何も手に入れない道を選ぶのではなく、ちょっとだけ頑張ってみてよ、と背中を押してくれる。そんな優しさが滲んでいることに、嬉しくなった。先生も作家なのだから、人生に痛みや苦しみが多くあったはずだから。
最後に
この作品のために書き下ろされた、鬼束ちひろさんの楽曲が本当に素晴らしいです。
木島と城戸の互いへの想いが狂おしい「End of the world」
木島が久住とゆっくり歩み出す世界を描く「スロウダンス」
スロウダンスの優しさに、心底に癒されます。
私は木島が愛しくて仕方がない。
城戸が愛しくて仕方がない。
この作品に描かれた人の弱さが、愛しくて仕方がないです。
丸木戸先生が作家になって、木島を生み、
三木さんが脚本を肉づけて映像で綴り、
竹財さんが演じ、鬼束さんが曲を書く。
そして、それに触れた誰かが、作家を目指す。表現者を目指す。
そんなふうに、人と世界との対話は続く。
連鎖し、循環していくのだと思います。
城戸のような人が、その世界を支えながら。
この物語の中の「誰かを愛して、誰かが支えて、作品が生まれる」
その側面に感じ入り、泣かされた作品でした。
私にとって、今年のNo.1です。
私はきっと、城戸の想いを思い出しては、この先も泣くと思う。
この曲を聴いては、一生泣くのだろうと思います。
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