「足るを知る」と「不平家」のあいだ 「PERFECT DAYS」と森鷗外

映画「PERFECT DAYS」を観て以来、ずっともやもやした気持ちを抱えてきた。主人公平山の生き方は素晴らしい。トイレ掃除の仕事を黙々とこなした後に銭湯で疲れを癒やし、帰宅後は古本を読みながら眠りにつく。自分に降り注ぐ木漏れ日に感謝する。物欲から離れ、多くのモノを求めず、今の生活に満足して生きる。監督のヴィム・ヴェンダースや平山を演じた役所広司は平山の生き方にあこがれていると言った。
 だが、何か引っかかる。それでは夢を持つのはやめたほうがいいのか、「分をわきまえろ」ということなのか。平山の生き方をたたえるヴェンダースや役所たちが一様に「成功者」であることも引っかかってきた。
 生きていることに感謝し、一日を大切に生きる。日常の出来事に「小さな幸せ」を見いだす。それが人生を充実させるための「真実」だとも思うようになっていた。それは何事もなしえていない自分への慰め、または努力をしないための理由にしていたのかもしれない。
 そんな中、1つの随筆に出会った。森鷗外の「妄想(もうぞう)」である。「海を眺めている白髪の主人」が歩んできた人生を振り返る内容。白髪の老人に重ねていると思われる。鷗外49歳の作品だ。そこで老人はこう独白する。
「足るを知るということが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である(中略)。どうしても灰色の鳥を青い色に見ることが出来ない」
 この時、鷗外は既に「舞姫」「高瀬舟」に代表される作品で、文豪としての地位を確立している。その鷗外にしても自分の人生に満足していない。
それまで鷗外はどちらかというと、小さな幸せを大事にし、それに満足した人だと思ってきた。
それは次女の小堀杏奴の随筆「晩年の父」に「何でもない事が楽しいようでなくてはいけない」というのが父の気持ちだった」という記述があったからだ。「(父は)埃が積もった本を引き出して、羽みたいなもので丹念に払っている時など、如何にも楽しそうにしていた」とも記している。
 だが、鷗外も実際にはそうした小さな幸せを大事にする考えと、とはいえ自分はこんなものじゃないという考えの間で揺れていたのではないかと思わされる。
 妄想の発表から11年後、鷗外は世を去る。臨終の際に「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」という言葉を残している。これが鷗外の本音だったのかもしれない。でも、幾ばくかの心残りがなかったとも言い切れるだろうか。
 そう考えると、自分のような凡夫はなおのこと、簡単に人生に満足できるはずがないとも思える。日々のささやかな幸せをかみしめて生きて行ければ幸せだと思うが、何かむなしさも感じる・・・。自分は死ぬまで「足るを知る」と「不平家」の間を右往左往して生きるのではないか。今はそんな気がしている。

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