はじめて嫌いなものを考える日


後輩との打ち合わせで嫌いな食べ物の話になった。
その子はこう言う。

「ずっと小さい頃からナスが大嫌いだったんですよ。味も食感も匂いも苦手で。

なのに山形出張に行って天ぷらそばを頼んだとき、ナスいたんですよ。でも一緒に来ている先輩に『ナスは食べられないんです。』と言えずイヤイヤ食べたんですね。すると案外食べれちゃって。

その時、なんか悲しかったんです。今までずっと嫌いだったものを食べれてしまったことで自分のアイデンティティを一つ失った気がして。」

それを聞いて、なるほどと思った。
嫌いなものも自分の一部なのか。

私はキャパシティという言葉が嫌いではない。
限られてるスペース、ルールの中でいかに楽しいことをするか。適度な不自由さは、より自由の蜜を甘く感じさせてくれると思う。

そして人にはキャパシティがある。
時間は有限だし、会える人にも限界がある。
知ることよりも、圧倒的に知らないまま死んでいく。だから人は選ぶ。何が自分にとって楽しいのか。逆に何が自分にとって嫌なのか。そこに思考を巡らすことで人それぞれの個性が生まれる、と私は思う。

だからそこを考えることはとても楽しい。自分の目で、本当の自分の姿を見ることはできない。だから周りのさまざまな環境に体を当てていって、「自分」という形を認識していく。あ、自分ってうなぎが好きなんだ、とか。あ、自分ってあんまり新海誠にハマらないんだ、とか。

今日後輩の子と話したことで、それに気づけた気がする。嫌いなものも自分を確かめる重要な要素の一つ。

そして、好きと嫌いにもキャパシティがあると思う。私のイメージは好きと嫌いはグラデーションの帯で繋がっていて、端に行けば行くほど好きになり、反対の端にいけば嫌いと感じる。
そして体験した万物の現象が、その帯の中にプロットされていく感覚。

先輩が、ある日を境にビールが苦手になったと言っていた。これは多分、この好きの帯が年齢によって動いているからなんじゃないかなとその時思った。昔好きだったものが今は嫌いとか往々にしてある。それってそのもの自体は変わってなくて、自分が好きだと思う帯の場所が変わっている。
でも裏を返すと、ビールが嫌いになった分、もともと好きゾーンにビールがいたところが空くので、また違うものが好きの帯に入ってくるということでもあると思う。

キャパシティという考えを持つと、嫌いなものが増えることで好きなものも増えるということにつながる。なんて粋なやつなんだ、キャパシティ。

嫌いなものを考える、というのも面白い。

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