・一切絶望することができずに絶望自体になってしまったその現実こそ民衆である(その体験や心に絶望はないが、外郭や現象のすべてが絶望を遂行し続けている)

・つまり、絶望を抱くものは、絶望自体ではない

・特に何も思わずに円満的に巨大企業などの一構成要素として存在し続けることはひとつの絶望の遂行形態なのである

・だが、どのように救済されればよいのか。そもそも救いを求める愛をこそ喪失した民衆が

・とにかく、民衆自体が差異化され続ける必要があることはひとつだろう(だか、だれが、どのように/各々の自ら―直性のみであろう/神は?)

・つまり、自らとは、自分などではなく、神のような永遠性としての絶対他者性なのである

・そして、だれが、この民衆を愛することなどできるのか(自らを愛していない自らである、民衆、を/愛していることは、好き嫌いの一切を意味しない)

・世界の終わりが来る方がまだ容易なのである

・自らを分かち合うことを拒絶し、拒絶されたゆえに、逆説的に、寄り集まる他になくなった形態こそ民衆なのである

・だが、だれが愛することなどできるのだろうか

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