・彼もまた、思っていた。今、世界は完全になったのではないか、と

・ニーチェという大いなる滑稽にして偉大なるものが、そうであったように、今、世界は完全になったのではないか、と

・彼は、メビウスの1mgを吸いながら、思っていた。やはり、今、世界は完全になったのではないか、と

・外では小鳥が鳴いていた。それも、ちゅんちゅん、という擬音で表される他に方法がないほどに、チュンチュンと(彼は、べつに、小鳥の鳴き声は、チュンチュンでいいだろう、と思いなしていたのだった)

・同じことと異なるのことを思惟しながら、彼は、自らの偉大さを識るという滑稽に陥っていたのだった

・先週、彼は、人類の至り知らぬところで、悪魔の試しにあっていたのだが、悪魔さえ、神が創造し給うたものであることを、そのときに、忘れてしまう可愛さがあった

・彼は、重力に襲われていた

・それが、一度は、100キロを超えた体重。つまり、太ったことにおいて、そうなのか、重力による試しなのか、わからなかった

・彼は、自らの滑稽さを認めることで、滑稽たることを回避しようとは思わなかった/認めないことによる滑稽を、大いなるもの、と感覚してさえいたのだった

・窓の外では、飛行機たちが、重低音でうねりながら、もはや行く先のない世界を旅して回り、その光景を、これみよがしに、彼にささやきかけていた(ヴーンという擬音語だった/ひゅー、ぶーん)

・彼はトイレで排便した瞬間に、ミツバチのささやきという映画を思い出していた。主人公の美しい少女は、フランケンシュタインに邂逅し、気を失い、倒れてしまったのだった

・それが、リアルなことであろうと、現実ではない、という"都合"の問題を思いながら、自らが、出会った悪魔というもの、サタンと、名指して足るものに思いを馳せていた

・下水から、サタンは囁きかけるのだ

・だか、それしかできないことを、思いなしてもいた

・彼は思った「だから、何なのだろう」

・この静寂は一体何なのか、彼にも皆目検討がつかなかった

・彼に"も"、ということは、彼ではないものも、この皆目検討がつかないことに検討がついている個体がいることを思いなした

・彼は自らも個体でしかないことを謙遜気味に記すことで、何かのゆるしを得ようとは思わなかった/そのゆるしを乞うことがすでに謙遜を喪失した末路にさえ思えたからだ

・彼は、なぜ、今更、このような小説を書くのか、やはり、皆目検討がつかなかった/もはやどうでもよい、などとは言わなかったが、ある程度どうでもよかった

・彼は、まずは性ということに思いを為していた/それは小学生の頃にマスターベーションを覚えたときに、強い罪悪感とさえ言えない、酷い罪悪感に見舞われていたからだ

・仏壇の前で、泣き崩れて、はじめて、神を覚えたというのか、彼だった/彼はその後、止めようにも止められないという人間の無力さを思いなし、自らのみではなく、あらゆる他者にも、慈しみを覚えるようになっていた

・それが、彼のすでに出会っていた人間的な限界性というものだった

・悪魔は人間を凌駕するのだが、人間は悪魔に勝つことはできない、のではなく、そのことを、神からゆるされていない、ということに思いを馳せていた

・無論、それ自体が、彼の主張する文学性などではなかった(はっきりといえば、それらのことも、彼にとっては、ある程度どうでもよいことだった/性との出会いによって、自らの幼少期のように、苦しみ果てることのないように、というメッセージを少年少女に伝えてみたいという慈しみだった)

・彼の伝えたいことは、自明ではあるが、明確にはなり得なかった

・彼は、時折、瞼の裏側に、あの永遠にして、燦然と煌めく木々を見出していた

・そのゆらめきは、焔のように、また、永遠の風のように、彼に、そういった、ものがあることを伝えていた

・だが、彼はそのことを相手や他者に到底伝えられないことも〈なんとなく〉識っていた

・だから、彼は、ミルク味の飴玉を舐めることからはじめていたのだった

・ミルク味の飴玉は、彼の風邪で炎症を起こしていた喉をやさしく潤した

・彼は、「美味しい」と思った

・彼は、そういった仄かな一瞬一瞬を、神からのご褒美だ、と歓んでもいた/彼は難しい言葉も識っていたから、神の恩寵の、寓意的な体現というようなことも言いかけたが、「なにかめんどうくさいな」と思って、神からのご褒美という、神取引きのような言葉を使ってしまった

・だから、彼は訂正することにした/神からの一方的な贈与として、彼に、今、ミルク味の飴玉が、因果律と一体になりながらも、与えられたのだ、と、そう書くことにした

・彼は、没入してさえいなかった

・自らの浮力が、もはや、到底、重力の檻の届かぬところに自らを引き上げていることを識っていたからだ/それがどこから来るのかまではわからなかった

・彼は鼻水を啜るときに、汚く思わないのに、外に出た鼻水は汚く思えるな、というクオリアの不思議を一瞬、思いなして、クオリアさえ、どこか完全なものではありえないのかもしれない、という多少危うい離脱に至りかけていた

・彼はそろそろ物語がはじまらなければ、マズイのではないか、と思いなした

・馬やら蝶やらが話しはじめて、主人公は異世界のようなところに誘いこまれなければならないのではないか、と思いなしていた

・だか、彼には物語をはじめることができなかった

・なぜなら、彼は、すでに、馬やら蝶が話しはじめている世界にも、異世界のようなところにも自らが歩み入っていたからだった

・彼には、ミルク味の飴玉ひとつでさえ、神とのお話しの道具になっていた

・今更、何の物語を語れというのか、と彼はある意味では、圧倒的なリアルのなかで、深い瞑想のようなものに入りかけていた

・だが、深い瞑想に入るとかいうことが、何か、人間からして、不遜なようにも思えた。それを言って、何か、意味があるのは、お坊さんだけだろう、とつまらぬ由無し事を思いなしていた

・彼は困っていた

・彼にとっては、ミルク味の飴玉は明らかに神からの恩寵であったのだが、そのことを言えば、気が変なのか、頭のゆるいイタい人だと思われる、という外聞を気にしていた

・だから、彼は、ある程度には優秀だった/ゴールドカードをきって、この時代に非電子タバコを人前で吸い、そこそこの学歴と社歴があることを話の脇に差し込んだりするくらいには、所謂、その意味での社交的というものだった

・だが、それが、だから、何なのだろう、と、彼は、ある程度、どうでもよい感慨を30代の頃には覚えていた/ゴールドカードをプラチナカードにするか、廃却して無一文を標榜するか、でいえば、後者だろう、というメタ世間体的な選択をしたに過ぎず、それ自体いずれになろうと、大した感慨を彼には抱かせなかった

・やはり、彼はベランダでタバコを吸うと、高速道路の健康的な倍音の中に、チュンチュンというよりも、チュルリ、ピチュー、という小鳥の鳴き声を聴いていた

・それは、彼を冒険に誘う言葉に変遷するかと思ったが、単に、チュルリ、ピチュー、というような音に過ぎなかった

・時と場合によるのだ/小鳥の鳴き声ひとつが、大いなる誘いの言葉になることもあれば、小鳥の鳴き声は小鳥の鳴き声に過ぎぬ、ということもあるのだった

・ただ、小鳥の鳴き声が、笛の音のように聴こえることはあった

・彼は虚無に陥っているのではなかった/彼はすでに、というか、どういうのかはわからないが、破格のその希望の実現した実態に出会っていたからだ

・木々は揺らめいていのだ

・彼は自らに求められていることは、あまりに特殊というほかにないことを、なんとなく、それなりには、まあ、理解していた

・彼は、全くの在野であることを、思った

・なぜ、在野でしかないわたしが、書くことをゆるされているのか、在野でしかないゆえに、書くことは何なのか

・彼は何か、在野、のなかに、煌めく、実態があるのではないか、と人間本性を見つめていた

・彼は求められて書くこともできないし、書いたからと言って、求められることもない、という静けさを有していた

・それでも、進んでいくこの叙述は何なのだろう、と神の恩寵を思っていた(彼は神の恩寵という言葉が、空け透けなくて、気に入っていたし、本当にそうなのだろう、と深い感慨も抱いていた)

・この世界はある程度、ゆるやかなのではないだろうか、そう、彼はなんの理屈もなく、唐突にさえなく、そう思った

・タバコを吸う、ということが、何かそういうひとつの象徴に思えていた

・タバコを肺に入れ始めたのは、原初からの誤配であった/もともと原住民はタバコを口に含みはすれど、肺になど入れなかったという

・西洋人が、それを見様見真似でやったところ、サマになってしまい、そういうことになったに他ならない

・そして、自分もまた、それを見様見真似をして、肺に入れてもしかしたら、健康を損ねるかもしれない、という不安など相殺する不安などを抱きながら、そろそろタバコの一本でも吸おうか、とベランダに歩き出すのである、この自分は

・さて、自分は、物事や世界を達観などしてるのだろうか

・彼は、それだけはありえない、ということくらいは識っていた

・あの達観しただのどうだのというのは、世人の言うことで、あり、と書きながら、自らが世人ではない、という達観のポジショニングをしたい欲求くらいは、あるのだな、とほくそ笑んだ

・タバコが美味いのか、不味いのかは、彼には今ひとつ判断がつかなかった

・時代や心身の状態や都合で、これもまた変わっていくのだろう、と思う手前で、そんな不遜なことは思ってはいけない、という美的感覚くらいはあるのだな、と安心のような不安のようなものを思いなしていた

・彼は相応に、自らの近辺あたりの人間を咄嗟に救う、ということは、ある程度くらいにはできていたのかもしれない(マザー・テレサが「人類を救うために、何をすればよいですか?」と問われて、「あなたのご家族を大切になさってください」と言ったらしいことを痛切していた)

・彼は、「ああ、家族を大切にしないと」と心を少し痛めた

・けれど、今の彼には、立場上、どうこうできなかったので、とりあえず、手を祈りのカタチにして、「主よ」と数秒間、祈ってみた

・「神よ」と言うと、どこかあまりにも偉大に過ぎて、「主よ」と言うほうが、どこか、すっきりとした感覚だった

・彼は真面目だった。神と主の違いを知るために(それは西洋人と東洋人という異なりを知ることに等しいかもしれないが)、三位一体の教説を曲がりなりにも勉強したりした

・だけれど、アウグスティヌスが、天使から啓示されたように、人間には、三位一体の理解をすることがおよそ不可能であるこということ

・人間の限界性

・彼はそれを知ることからはじめることにしたのだ

・だから、彼は、また、ミルク味の飴玉をひとつ、舌に転がした

・神の恩寵

・ふたたび、彼には、その聖句が啓示された

・彼は幼子のように、なりはじめていた

・およそ、とうてい、人間には、人間などコントロールできない、というボロボロの感慨に抱かれながらも、「神に委ねます」という言葉をそれなりに本音で云うのだった

・彼がたかだか、35年程度で得た実感は、「神に委ねます」という言葉を真っ向から言うことくらいだった

・彼の舌に、また、ミルク味の飴玉が染み渡り、彼を愉しませた

・彼は思った

・自分はなんで、こんなにつまらないものを、延々と書けるようになったのだろう、と

・ある種、現代と呼ばれる時代に到達した、人類の力にも思えていた

・一応、歴史は進んだのだ

・様々な階梯を経て、変化が起こり続けただけではなく、相応には、それなりに、何かが、成長しているのだ、とゆるやかに思いなした

・しかしながら、彼は、自分が書くものが、こんなにつまらないもので、ゆるされるのだろうか、とも思った

・かつては、ドギマギするような苛烈なもの、超越的なもの、を、神前の供犠のように、振る舞っていた

・だが、どこかで、それがポッキリと折れて落ちた

・謎の欠片もないミステリーは面白いのだろうか

・面白くはないだろう

・そして、これは、諦念や達観ではなかったのだ

・木々のゆらめきを彼はたしかに見たからだった

・彼はまた、飴玉を口に含んだ

・その袋をよく見てみると、ミルク味の飴玉と、はちみつ味の飴玉だった

・それがゆるやかに解きあい、混ざりあって、「もう十分です、主よ」と彼に言わせた/現に、彼はそう、言葉で言ったのだった

・彼は一瞬一瞬、神なきでは満たさ得なかったであろう、その時を、満たされる歓びを実感していた

・ゆるされた想いを実感していた

・彼は、一方で、神、という言葉の危うさにも想いを馳せていた

・日本人がいう神というものなのか、キリスト教がいう神のことなのか、そのあたりはある程度どうでも良くなっていた

・瞼の裏側にゆらめく木々が、果たして、エデンの園の風景だっのか、モーセの出会った燃える柴だったのか、或いは、魂の中身だったのか、はたまた日本人が抱いてきた自然の奥側に見出される神だったのか、まあ、ある程度はどうでもよくなっていた

・なぜなら、すでに、真善美といえばよいのか、なんなのかを実現し、体現したその実態をどのように言い換えることも、また、神と呼ぶことも、その前では不遜に思えていたからだった

・はちみつ味とミルク味が唾液に交じり、ハーモニーを奏でている

・彼は、ここまで、書いて、ああ、そんなものに、わたしは出会ってしまったのか、と感慨した

・彼は風邪のまだ癒えない喉で、咳を、した

・人々に伝えたいこと

・それが、あまりに、もはや、ない、ということに、沈黙していた


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