見出し画像

【東京観光】不忍池のハスと夏の感慨

一面に揺れるハスを見たことがあるだろうか。

蓮池。中心に弁財天を祀る不忍池辯天堂がある。

気温が気まぐれに落ち込んだ夏の夕方だった。

上京してから苦手な接客業のバイトを始め、私は疲れ果てていた。慣れない土地で、しかし慣れない土地だからこそどこかに行ってやろうとずっと考えていて、ふと不忍池のことを思い出した。ハスが植っているらしいことと、西尾維新の作品に出てきたような名前だな、程度の知識で妹を誘った(妹は東京の西で学生をしていた)。豊井さんというイラストレーターの方が不忍池のハスを材にとった絵を描いていて、その憧れも少しあった。花の盛りは過ぎているが少しは見られるだろう。しかも入園は無料らしい。


ハスは好きだ。透けるようなピンク色の花弁と、大きな葉。小さい頃、祖父母の庭にあるクワズイモで水滴を転がして遊んでいたことを思い出す。学校を休んだ日に教育テレビで見た『蜘蛛の糸』の人形劇のハスもたいそう美しかった。
実物のハスはついぞ見たことがない。全ては想像の中のハスである。

バイト先から数駅を経て上野駅につく。上野には数回訪れたことがあった。気取っていて猥雑な変な街だ。街灯の形が蝙蝠の骨組みのようだと思う。
妹と構内で合流したのち不忍口から出て、少し行くと博物館や科学館に繋がる道が現れる。その途中から不忍池へ分岐する。
整った林に挟まれてアスファルトの鋪道は賑わっていた。複数の文化施設と上野動物園が集合して建っているため観光客も多い。想像上の蚊を気にしながら歩いて行くと分岐路が見えた。階段をくだり、開けた道路へ出て、横断歩道を渡る。不忍池へと入った。


人生で初めて見たハスは、想像のハスよりもずっとずっと大きく、美しかった。

ハスの葉
ハスの花
ハスの蕾

ハスは三つに分かれた不忍池のうちの一つを完全に覆っていた。


写真では伝わらないがものすごく大きい。巨大と言っても差し支えない。自分の背丈ほどもあろうかという茎が水面から長く空へと伸びているのだ。その先端に、横綱の盃のように大きな葉があり、放射状の葉脈が骨となり支えている。花は美術の資料集で見たことがあるような気すらする造形と質量を持っていた。茎はたおやかな天女の腕を想起させ、非常に大きな葉や花をどう支えているのか不思議なほどだった。
ひとつひとつを見れば繊細だが、すべてが大きい。とにかく大きい。これが植物。これが自然。「ダイナミズム」という言葉を体でわからされる。
妹と池の外周を歩く間、「すごい」と「大きい」しか話せなかった。


脳内にはさまざまな考えが去来していた。


都会のビルを掻き分けて池は存在する。いや、ビルを掻き分けているのではなく、池の周りにビルができた。池は、ハスはずっとここにあった。詳しくは知らないがおそらく数百年。数百年の間、人が種をつなぎ街を発展させている時間、ハスはずっとここに揺れていたのだ。芽生え、茂り、花を咲かせ、枯れ、眠り、長い時間ハスは当たり前のようにそれをしている。
人の小ささとか、自然の偉大さとか、そういう言葉では言い表せなかった。同じようにハスを見た数百年前の人はどう思っていただろう。数百年後も、同じ景色に同じ風が吹いていることを果たして想像しただろうか。


生から死までをハスが繰り返すように、私もまた大きな輪の一部であることを感じた。しかし私には個の意識があり、悩みがあり、喜びがある。なぜかその事実が自然と認め受け入れられた。
誰も見ていない宇宙で塵が寄せ集まりハスが揺れ私ができた。ハスは今、私の目の前に揺れている。私が塵に戻っても、ハスは揺れているだろう。ひょっとすると数百年後もまだ揺れているのかもしれない。


この小さな旅行以来、私の想像上のハスはよく揺れるようになった。朝が近づくまで起きている時、大きな葉が光を貯めるように広がっているのを思い出す。


東京へ来たら一度と言わず不忍池を訪れるよう薦めたい。外縁に桜の木が並んでいたように記憶しているから、春は花見ができるだろう。冬にはハスの代わりにアシが茂っているらしい。サギやカモやウもいるという。ウは好きだが、これもまた頭の中にしかいないのでいつか目撃してみたい。


花の盛りは夏の午前中だ。涼やかな風を受けて、満開のハスが揺れるのを見ることができるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?