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許さないでくれ(20230726)

はあ、はあ。眠い。20時30分からもう眠くて眠くて。
寝る前に途中まで書いていたが睡魔に負けて結局朝書いている。

仕事で人に軽めの迷惑をかけてしまったのだが、その相手は全く怒りを滲ませず、私の失敗を全部許してくれた。困らせてしまったのに、全然そんなそぶりを見せない優しさが苦しくて「いっそのことブチギレてくれたなら」とさえ思ってしまった。怒られると救われるのだ。それが罰だから、ではなくこんな私を許さないでくれという気持ちと、相手にも理不尽さを向けられたら互いにストレスが相殺されて、非を半分背負ってもらえた気持ちになれるからだ。完全に私のエゴだなと思った。
しかしさてこそ優しい人には特に、私のせいで感じたストレスを我慢しないでほしいと願ってしまう。それは私が罰を求めているからか。前言撤回。



私はやっぱり社会の無秩序さが好きだ。先日交通安全の標語で「みんなが譲り合えば事故はなくなる」という旨の言葉を見かけたが、あれは果たして正しいのだろうか。譲り合う人だけの場では、その優柔不断さが流れを崩す要因になってしまわないか?行ったれ!と突っ込んでいくような豪快で場当たり的な人物によって生じるリズムが、社会の流れを作っているのだと考えてしまう。人間ってぶつかるくらいが丁度いいのかもしれない。自動車だとシャレにならないが。

あの標語が伝えたいことはしっかり周りを見て確認して、他人を優先できる気持ちの余裕が結果的に事故を減らせるでしょう?ということなんだろうな。求められているのは臨機応変に対応できることだ。別に思考停止の譲り合いをしろという話ではない。ごめんなさいね。ひねくれた気持ちがいちいち標語に噛み付いてしまう。喧嘩がしたいわけではないのに。標語を考えた人もまさか日記のネタにされるとは思ってもみなかっただろうな。



自分に酔っているという意味で使われる「イタい」「クサい」という言葉が苦手だ。この概念がなければ世の中は、人間は、もっと優しかったのではないか、という言葉はいくつかある。ネットミームの「チー牛」なんかがその代表で、それは非道どころではなくもはや差別と言って差し支えないと思う。無秩序を愛していても俗物的なものさえ全部肯定できるというわけではない。悪意もまるまる許せるような神の愛は持ち合わせていないのだ。他人を不幸にするためにある概念、言葉を消すには歴史から忘れ去るという方法しかないが、そういった言葉は必ずどこかで生まれ続けるものなのか?そういう悲しさを抱えて生きていかなくちゃいけないのか?


お気持ちばかりの日記になってしまった。なぜなら1日、仕事をしただけでなんにもおもしろい出来事は起きないからだ。強いて書くなら会社のトイレの便器で溺れている中くらいのハエトリグモを助けたくらいだ。あと、ぶどうのカルピスの概念の固形を舐めたりした。

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