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納得できる日もできなくなる

今朝は朝の7時過ぎに起きて、そのまま横になってTwitterとかを見て気がついたら8時を過ぎていた。




朝ごはんを食べられたので良かった。最近は明け方に寝る金曜が増えてきたので朝起きられなくなってきている。

無印のかぼちゃポタージュを初めて飲んだ。優しい味で美味しかった。



そのあと散歩に行った。昼からの雲行きが怪しいので珍しく午前中に歩いたのだけど、気持ちがいいね。なんだか小学生に戻った気分だった。この時間の日差しと草の匂いは懐かしい気持ちにさせてくれる。




そこから3000歩くらい歩いて、9時半ごろに家に帰ってから絵を描いていた。


2時になったら昼ごはんを食べた。




エビフィレオ。


それからも絵の続きを進めて、17時過ぎに完成した。自分でもそこそこ良いかもしれないと思えるクオリティにまで持っていけたので嬉しかった。良かったら見てください。私のnoteに連携しているTwitterアカウントのプロフィールに載せているアカウントで投稿しています。遠回りで面倒くさいね。見なくてもいいです。


それから風呂に入って、絵を描き疲れたので本を読んだりしていたけど、やっぱりソワソワするので別の描きかけの絵に着手していた。


今日は無駄な時間を作らず、色々好きなことができて良かったのだけど…。







なんかやっぱり







あの映画のことが気になってしまう。


金曜の夜に観に行った映画の感想を日記にも書いていて、私は曖昧な感想を述べて誤魔化しているけどやはり少し、めちゃくちゃ、気分は悪い。


原作を歪めて無理な改変をする映像化も、ネタ動画のミームやスクショを本人の投稿への返信に送りまくるつまんない人たちも、ネットの目に怯えずに「よくなかった」という感想をnoteの場末の日記にすら堂々と書けない自分の日和見主義な弱さも、全部クソだ。今だって私は具体的な作品名を出さないことで検索避けを図っている。最悪だ。


こういう気持ちになるのは身に覚えがあるからで、私は以前から好きな音楽のファンアートを描くことがあり、それでずっと思うことがあったのだ。音と詩で表現しているものを私が勝手に視覚化することで、この歌の繊細さを殺していないか?私の描いた絵がこの人の表現を蔑ろにしていないか?という不安が。零細アカウントでの投稿なので、規模としては映画と比較できないほど些細なものであり影響力は無く、本人に見られることもおそらくないだろう。だけどそのわだかまりは確かにあって、金曜の映画の上映中にも久しぶりに思い出した。好きだという気持ちを形にするための絵が、人を傷つけていたらと思うと恐ろしくて仕方がない。影響力の無い今の状態なら私のやっていることが人を食い物にすることは無いとは思うけど。



原作者が納得できていないのであればその作品は完成とは言えないし、公開しちゃいけないけど、でも、やっぱり商業ってそういうものだからネットで人の注目を浴びて流行ってしまうことの弊害なのかもしれない。そういう諦めも怒りもあるけど、だけど良いものを作った人が傷つけられるのなら、もう誰も創作をして生きていけない。



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