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自由進度学習と中動態

自由進度学習について様々な意見が述べられるようになった。
これは良いことだと思う。
自由進度学習が市民権を得られ始めたということ。
ここでたくさん批判し、批評し、より良いものになっていけば良い。
ポイントは、主語は子ども、なのだから。

自由進度学習への批判は、様々だが、違和感を感じる人は、子どもがそこにいるか、どうか、内か外かの中動態の世界の話をしているように感じる。

自由進度学習を進めている人は、中、と考えているし、批判している人は、外、と考えている。授業の「深み」とよくいうが、全員が関わっていて「なるほど、そうか」と納得した答えが得られた時や、話し合い、言い合って、考え合う、そうした練りあった状態や、学力差に関係なく、考え合っている状況、個人が夢中で意欲的に、石井英真が述べるような「学びきった」「学びに浸る」感覚になった状態を「深み」とするならば、学習者は「内」にいる。何をもって、学びの中核にいるか、居ようとしているか、その差ではないか。

まず、推進者と批評者は、その感覚がずれているのではないか。
要は、自由進度か、一斉授業か、の 二項対立 では進展しない。

もちろん、子どもたちは「外」にいると思いつつも、知識的学力を明確につけたり、一斉に教えて溢れてしまうような状況であれば個別最適でと割り切っている先生もいるだろう。そうなると、内、外に加え、「学力(内容)の射程」の違いも存在する。

自由進度学習における「個」と「責任」の意識も重要になる。一斉授業は責任は先生にあるとするならば(といっても教えたからな!といって個人の責任にしている先生は結構多い)、自由進度学習は「やらないことは個人の責任にならないか」という懸念や不安がある。まあ、一斉でも同じかもしれないが、責任が個人になってしまうと新自由主義的な匂いが出てきて嫌がる人も多い。だから、『学び合い』を肯定的に捉えるのは、「一人も見捨てない」という哲学のもと、学力的に高い人は、学習が苦手な人のために何とかしようとする「ケアリング」の視点がそこにあるから、支持が広がったのではないかと考える。

そうなると、自由進度学習は、塾はうまくいく。知識的学力の習得がメインであり、概念的知識や対話から得られる人間性、関係性といった分野は考慮されない。むしろ考慮しなくても良い。知識的学力の習得と割り切って進めば、ガイドが明確で本人にある程度、やる気であれば、(中動態であれば)成立することができる。他の周りとの関係性は必要はない。それは、個別塾や進研ゼミなどの補習系塾や家庭学習ではすでに実績がある。ちなみに、コーチングはあればあるほどいい。なぜなら、そうすれば塾をやめられなくて済むからである。

ただ、学校は、知識的学力だけではなく、人と関わり合うといった構成的で構造的な学力(それを学力と定義するのはなかなか難しいが)や、関わる中で、「そうそれ、それな」と言われる学びの感覚などといった広い学力が要求される。また、自由進度学習が自習になって知識的学力が下がってしまう指摘がある。自由進度学習には、学習者のモチベーション、マネジメント、ケアリングの視点が必要になる。モチベーションがないと委ねる時間が増えるので、一斉授業の時より介在できず、厳しい、マネジメントの力がないと、バラバラになる。図工の教える先生が上手い人は、絵が上手とは限らない。むしろ時間のマネジメントができ、いかに限られた時間の中で創造的なものを産む出させるかにかかってくる、そして、ケアリング、一人ひとりの学びを全体の学びと捉えれ学ぶことができるか。だから、教師の力量は、一斉授業より自由進度学習の方がより求められる。この辺りを誤認している危うさはすごく感じている。この3点だけではないが、「誰でもできる感覚」で自由進度学習をすると形骸化だけでなくトラブルを巻き起こすことにつながる。

自由進度学習の示唆として、長岡文雄の実践を学ぶところがある。その辺りは解明していきたい。



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