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「スイーツに堕ちよ!」とハーレクインは言った。                   第二話「保健機関」

 愛国党が結成されたのは、2055年7月15日。
その歴史は日本が二度目の手痛い敗北を喫した翌年、中国の占領政策のもとで幕を開けた。
 誰もが占領軍に従属する中、愛国党は抵抗を続け、国民たちから絶大な支持を受けた。
結成から5年後には支持率が90%を越えた。占領軍は情報操作を試みたが、あまりに支持が強く、誤魔化しが効かなかった。占領軍がでっちあげた罪状により党首が投獄されると、各地で反乱が勃発した。
 そして結成から7年後の2062年。遂には占領軍が日本から撤退した。愛国党の党首である鷹田ナナキは新日本帝国の初代総理となり、愛国党は日本における絶対正義となった。
 鷹田は日本を復活させるための三つの柱を建てたが、その内の一つが「健やかな体に健やかな魂は宿る」と言うものだ。
 古代ローマの詩人の祈りが元になっているこの考え方を、鷹田は国民に徹底させた。
酒や煙草は勿論、食事なども国の制限下に置かれることになった。
この食品の取り締まりを担当したのが、新日本保健機関である。
保健機関の前身は特攻隊と呼ばれた愛国党の党内組織である。
特攻隊の初代指導者は鷹田ナナキの党結成当時からの部下であり幼馴染でもあった鬼頭遥である。彼女は結成当時から影のリーダーとして愛国党を支え続けた。愛国党が占領軍にとって明確な脅威でありながら、強制的に解散させられる事はなかったのは、彼女の活躍があったからだった。実際、暴走しがちな鷹田をコントロールし、尚且つ占領軍内部にも太いパイプを持つ彼女は多くの党員から支持されていた。また一方で、政治的敵対勢力の暗殺なども行っていた。
しかし、鷹田ナナキが投獄されて以降、彼女はそれまでの強かさと狡猾さを放棄してしまう。冷静さを失った彼女は2060年、鷹田の解放を求めるクーデターを起こしたが失敗し、新宿一揆の最中に銃撃戦により死亡した。
占領軍撤退後の2062年。特攻隊は新日本保健機関と名称を変えた。
その保健機関の初代事務局長となるのが鬼頭ナオヤである。彼は鷹田ナナキと鬼頭遥の私生児であった。
ナオヤは父親の激情と母親の冷徹さを受け継いでおり、その二つの性質は保健機関が進める「国民の食改革」において強烈に作用した。
改革を進める上でナオヤは「この重要な改革を進める上で、保健機関の政府内での役割に制限を設けるべきでない」とし、こと食の取り締まりに限り、あらゆる行政機関の指示は受けつけないとしたのである。
つまり、保健機関は警察を無視して食生活違反を犯した人間を自ら捕らえ、処罰するとしたのである。これは明らかに行き過ぎた判断であったが、鷹田ナナキは何も指摘せず、この問題を放置することで事実上保健機関があらゆる行政機関の上にあることが決まった。
と言っても、当時既に全世界的に酒や煙草は禁制となっていたので、保健機関がそれらについてすることは多くなかった。
その為、保健機関が主に目を付けたのが砂糖などの甘いものだった。
チョコレートやクッキー、クリームの類は言うに及ばず、飲料水なども厳しく制限された。当初、ゼロカロリー飲料水などは良いのではないかとの声もあったが、それらはカロリーがない代わりにスクラロースやアスパルテームなど、発がん性のある物質が多く含まれているため、他の飲料水よりも厳しく制限された。
みりんなど一部のものを除いて、甘いものは全て所持しているだけで罰金刑となった。
販売する側は更に重い刑が科せられ、飲料水メーカーをはじめとして多数の企業が廃業に追い込まれた。大規模な販売、製造を行った会社の責任者が極刑に処されることすらあった。
また、食料の殆どは配給制となり、朝一番で配給された健康飲料水を飲むことが義務となった。
当初、この独裁政治に異を唱える者は一人もいなかった。
それは鬼頭ナオヤが英雄の息子であったことに加え、これらの政策には何ら瑕疵が見当たらなかったことが要因だった。
―健康的な食生活の強制?結構じゃないか。
―馬鹿な民衆は強制されなければ自堕落な生活を送ってしまい病気になって国に迷惑をかけるものさ!
とまあ、著名人から隣人の偏屈爺まで、誰も彼もがこんな具合。
おまけに、この政策の効果は絶大だった。
この政策が行われたから20年で、日本人の平均寿命は10年以上伸び、肥満の割合は事実上ゼロになった。高血圧や糖尿病などの生活習慣病が減り――と言うよりこれらはもう、先天的な疾患以外ではありえない病気となった。国民全員が健康的な食生活を送れるようになった為、健康保険料も下がった。
大手の食品メーカーは、健康食品メーカーへと変わっていった。政府は逆らうものには容赦しなかった一方で、健康志向へ企業が転換する際には支援を惜しまなかったので、この食生活のパラダイムシフトはスムーズに進み、経済にも打撃はなかった。寧ろ、国民一人当たりのGDPはその前よりも30パーセント以上、上昇した。
一般民衆の眼からは何も問題はないように思われた。
だが、一部の識者が予測した通り、政府の締め付けは日に日に過酷になっていった。あらゆる添加物が禁止になった。
ほっと一息したいときに飲める飲料はお茶かコーヒーだけになった。
新たに健康被害のない人工甘味料を生み出すメーカーがあったが、人工甘味料の製造それ自体を罪として開発者が逮捕されることもあった。
刑罰それ自体も重くなっていった。健康管理法によれば、所持していたものは罰金刑のみであったにも関わらず、チョコレートを所持していただけで逮捕される者も出てきた。
そうして時間を追うごとに過酷になる管理社会に対して、異を唱える人間もごく僅かだが増えてきた。 
しかし、保健機関は自らに対する批判もデモもそれ自体は全く取り締まらなかった。実際に健康管理法に反するような行動に出ない限り、手出しはしなかったのである。
それは、鬼頭ナオヤの至上命令であった。彼は「批判したものに危害を加えた党員は即刻除名処分とする」と通達している。
彼は我が民の隷属体質をしっかりと理解していた。
大半の国民は、一部の者に圧力をかければあとは勝手に忖度してくれるので、下手に全体に圧力をかけて国民の反感を招くべきではないと考えたのだ。
 実際、デモ隊が街を歩けば怒号が飛んだ。
「反日め!」
「自分たちが怠惰な生活を送りたいだけでしょ!」
 石を投げるものまでいたが、政府はこれを逮捕した。
「いかなる批判的意見であろうとも、それ自体を持って危害を加えられることがあってはならない」
 英雄の息子が直々にそういうのを聞いて、民衆は皆彼の誠実さを心から信じるようになった。
それは真実であったが、その誠実さは狂気をはらんでいた、
その狂気を象徴する事件の一つがキューサイ事件である。
青汁に含まれるシュウ酸が尿結石を誘発すると保健機関に指摘され、発売禁止となった。キューサイは「過剰に摂取しなければ問題ない」と主張し今後も販売を続ける姿勢を発表した。その次の日、社長の井ノ原恵が行方不明となった。井ノ原恵は一週間後にキューサイ本社から約30キロ離れた井原山で死亡しているのが確認された。
遺体はダム上流の滝に近い渋谷ルート沿いで発見されたため、遭難事故として政府は片づけたが、社長の井ノ原に登山の経験などなく、社員たちも「社長に登山の趣味なんて聞いたことがない」と証言している。一部マスコミによれば井ノ原社長の死体は見るも無残に損壊していたそうだが、はっきりとした記録は残っておらず遺族は口をつぐんでいる。
保健機関は元々、政治的敵対勢力を悉く抹殺してきた特攻隊の構成員で出来ていた。彼らは一度自らの敵とみなした人間を国民とは見なさい。総理が保健機関の超法規的位置づけを半ば黙認していたこともあって、彼らのやり口はどんどん過激化していった。
相変わらず批判的意見は放置されていたが、そこから一歩でも超えれば次の日には行方不明者か不審死を遂げることになった。この明確な線引きに国民の多くは恐怖し、批判的意見は徐々に少なくなった。
そしてそれに比例して国民健康改革が経済市場に一定以上の効果をもたらすようになると、露骨な忖度も増えた。
やがて批判的意見が世間から消えた。
保健機関が飴と鞭を巧妙に使いこなした結果、国民は人であることを自ら放棄し、国家に奉仕する機械となったのだ。
皮肉にもこれは占領下よりも解放後に顕著にみられる事になった。
「国民は自ら犬の首輪を求める」
これは特攻隊初代指導者が息子に残した教えである。
こうして愛国党の独裁政治は確固たるものとなった。
やがて、生まれてからずっと甘い物を口にしたことのない世代が生まれた。
彼らは砂糖を毒物として恐れ、忌み嫌った。中年から上の世代も砂糖を口にしたことない期間が何十年も続いたため、特に砂糖を欲しなくなった。
2092年。スイーツと言う言葉が死語になって30年たった頃、ある事件が起きた。
横浜市のC地区で配られた健康飲料水が、あろうことか人工甘味料がたっぷり含まれた炭酸水に入れ替わっていたのである。殆どの者がペットボトルに口をつけなかったが、ごく一部のうかつな人間はそれを口にしてしまった。ただ彼らは、直ぐに吐き出した。黒烏龍茶と思ってコカ・コーラを口にした時の反応としては自然なものと言えた。
それにしてもコカ・コーラとは!
何故そんなものが500㎖ペットボトルに入れられて3万世帯にも配られたのだ?
どうやって?
その疑問はさしたる問題ではない。
何せそんな狂気の沙汰を企む人間など今までどこにもいなかったのだから。保健機関の製造工場のセキュリティなどあってないようなもの。
その為、重要な問いはただ一つだ。
何故そんな忌まわしき毒物があるのだ?
コカ・コーラ!
国民が健康意識を持たず、退廃的な生活を送っていた頃に大量に出回っていた毒物。
コカ・コーラ!
怠惰で破滅的な生活を送る非国民のための飲み物!
コカ・コーラ!
国内ではとうに製造中止になっていた筈のものが何故ここに?
保健機関はこの恐るべき犯罪を企んだものを探し出そうとしたが、手掛かり一つなかった。
工場内には監視カメラすらなく、従業員名簿は紛失していた。工場の人員管理は大変杜撰であり、名簿が男によって盗まれたのか、元々無かったのかすら誰も把握していなかった。男が工場に忍び込むのは、鍵を開けっぱなしの家から物を盗むかの如く簡単だっただろう。
ペットボトルのパッケージの成分表は日本語で書かれているため、密輸入したものではなく国内で製造したものであるのは明らかだった。
保健機関は当初、製造場所は容易に特定できるだろうと考えた。大量の飲料水を製造できる場所など限られている。
が、実際は何もわからなかった。かつてコカ・コーラを生産していた工場は勿論、国内のあらゆる健康飲料水メーカーに保健機関から機関の専任職員である保健係、通称健警が送り込まれたが、何も発見できなかった。
保健機関に出来ることは予防策だけだった。コカ・コーラ事件以降、健康飲料水の工場のセキュリティは徹底的に見直され、監視カメラとその管理、人員名簿を工場に必ず置くことが義務となった。配給も民間に委託することをやめ、保健機関直属の組織が行うことになった。
しかし、そうまでしても保健機関が犯人が捕まえられないことに国民は不信感を抱いた。そしてこの事件以降の世論調査で、愛国党の支持率が0.3%下がったことが判明する。
この事は平和ボケしていた愛国党に衝撃を与えた。僅かではあるが支持率が下がったこと自体が20年以上無いことだったのだ。
そこでようやく愛国党は、これは保健機関のみならず、愛国党の信頼を揺るがしかねない事件だと認識したのだった。
鷹田ナナキは、ナオヤを呼び出し、「これ以上同様の事件は一件だって見過ごすことはできない。これは愛国党全体の問題だ。必ず犯人を捕まえてこの場に引きずり出せ」と言ったという。
そしてコカ・コーラ事件の三か月後。保健機関の保健係が警察保健局と名を変えて、新しい治安部隊として生まれ変わった。その発表をあざ笑うかのように、警察保健局設立の発表があった当日の午後に起こってはならない事件が起こってしまった。
 それが後の世で言うシュークリーム事変である。

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