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アスペルガーの娘に生まれて9

父は多少変わり者ではあったが、子煩悩でとても優しい人だった。私は父が大好きだった。

駐独大使に初めてお会いした時に

この方は偉い人なのよ、

という母に

お父さんよりも?(周囲は大爆笑)

と素直に答える私。

父は私の尊敬する人だった。


そうこうするうちに、2年間のドイツ滞在は終わった。
大変だったのは、日本の小学校に戻ってからだ。学校の授業についていけない。特に日本にいなかった間に習った漢字は、全く出来なかった。まさしく犬が授業を受けている状態?だった。

そして3か月後にはまた、S市の小学校に転校だ。この頃には、もう転校にも慣れて初対面でもすぐに仲良くなれるようになった。
今振り返ると、転校が私を社交的にさせたんだと思う。

S市は果てしなく田園風景が広がっていた。網の目のようにクリークと呼ばれる用水路が流れていて、鮒や小さい魚がよく採れた。
だが、夏は一晩中牛蛙の大合唱。一斉にグァーグァーとなくから堪らない。

私たち姉弟はメダカをとったり、田おこししたばかりの田んぼで土に足をとられながら、鬼ごっこをした。
ある日、下の弟がクリークでザリガニをとってきたことがあった。一晩真水に入れ、次の日に母が湯掻いてくれた。それを家族で食べた。
海老のような味を期待したのだが、実際は泥くさくて食べられたものではなかった。
もっと長く水につけて泥を吐かせればよかったのだろうか、
という母に
私は2度と食べない、
と食べ残した。

この頃うちは父の給料では食べていけず、母がパートに出て生活費を捻出していた。
実はドイツ留学の費用も研究室からは一銭も出してはもらえず、開業医だった祖父にお金を工面してもらっていたのだ。

私は将来学者だけは、やめておこうと思った。


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