母について

 生まれてから、18歳になって父から絶縁され、家を追い出されるまで、僕は母からさまざまな質の感情を受け取った。極めて明るいものもあれば、絶望に近いものもあった。

 僕は時々、母のことを考える。

 僕が母の姿を思い返す時、彼女は概念として高度に理想化された平穏な日常の中にいて、彼女の持つ表情の中で最も自然で暖かい微笑みを浮かべている。

 今はその笑みを思い返すだけで僕はどうしようもなく悲しい。

 なぜなら、あの日々の中で僕の前に確かに存在していた、まだ100%だった頃の母とはもう会えないからだ。


 母との思い出の中で印象的な1つを語ろうと思う。2人で東南アジアに行った時のことだ。平成の暮れだった。

 飛行機を降りると凄まじい熱気が僕の全身を駆け巡り、僕のあらゆる皮膚を湿らせた。
 滑走路は三原色をぐちゃぐちゃに混ぜたようなさまざまな色の光が鮮やかに舞い、津波のような轟音がそれらを優しくつつんでいた。
 深夜2時半。タイについた。
 飛行機の下で待機していたバスに乗った。
 中は異常なほど冷えていた。全ての窓にはカーテンがかかっていて、いくつかのLEDが弱々しく車内を照らしていた。
 乗客はほとんど観光客のようだったがバスの中は狂ったように静かだった。飛行機からバスへ続く階段をさまざまリズムの外国語を喋りながら降りて来る乗客たちは皆、バスに入ると急に押し黙り、ゆっくりと空いている席に座った。
 全ての座席が埋まり、バスが走りだした。
 10分ほどしてバスは停まった。
 ビルはタイの暑い夜を突き刺すように存在していた。

 空港を抜け、僕らはその日のうちにミャンマー行きのバスに乗った。 
 それから二日間、僕らはいくつかのバスを乗り継いでようやく旅の目的地、バガンという街についた。バガンは古代に王朝が存在していた町で、ミャンマーの有名な観光地になっている。

 僕らは早朝からスクーターをレンタルして荒野のあちこちに点在する王朝時代の遺跡を見て回った。

 父と出会う前の若い時の母は数多くの国を一人で旅するバックパッカーだった。とても活動的な人間だった。

 ミャンマーでの母のさまざまな表情を、特に、小高い丘の上から夕日を見た時の彼女の表情を今でもよく覚えている。

 帰国予定日の2日前の夜、僕らは共にひどい熱を出し、寝込んでしまった。
 発熱の原因はなんだったのか、今でもわからない。


 母は去年の秋に統合失調症を発症し、今も精神病棟に医療保護入院させられている。
 統合失調症というのは手短に言えば、正常な思考ができなくなる病気である。
 母の症状は非常に重く、もうほとんど彼女の意思は存在しない。


 母の統合失調症が発症した夜のことを今でもはっきりと覚えている。
 深夜だった。母は一階から、僕の部屋がある2階に大きな音をたてながら押しかけてきた。僕の部屋の電気をつけ、僕を叩き起こして言った。

 「わたし、マインドコントロールされてる」

 意味がわからなかった。母が緊迫した調子で状況をあまりにも詳しく話すので、僕は混乱し、その話を真に受けてしまった。
 しかし、話を聞き進めていくうちにすぐに母の精神がおかしいと気づいた。

 その時期、僕は父から絶縁され、来週から一人暮らしを始めようとしていた。

 僕は父に母の治療を何度も懇願した。
 しかし、全て無意味だった。父は僕を家から追い出した後、母を家に放置し、母はもうあの頃には戻れなくなってしまった。


 僕は時々、母のことを考える。

 ミャンマーで見たボロボロに寂れた寺院のことを、猥雑な市場の喧騒を、そこで買ったランブータンのみずみずしい味を、母と共に寝込んだ時の熱を、僕は時々思い出す。

 全ての記憶は時間が経つにつれ、常にその解像度が落ちていく。 

 母と僕を取り巻いてきた一つ一つの記憶の束がどんどんと曖昧で集合的な一つのものになっていくのを感じる。

 その実感は僕をひどく動揺させる。


 しかし、今の僕にとっては今の僕が持つ記憶が母の全てだ。今の僕はどうしようもなく無力だ。今の僕はこうして言葉を使い、思いをどうにかして形にしようとすることくらいしかできない。

 そして僕はそれがどうしようもなく悲しい。

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