いつからだっただろうか。ただ生きるということができなくなったのはいつからだっただろうか。何かを好きになるということ、恋をするということ。何かを信じるということ。当たり前に何かを信じるということ。何かを愛するということ。水彩の絵筆を洗ったバケツに残ったセピア色の水をばら撒いたような日々。セピア色の透明な水は常に轟音を鳴らして流れていた。網膜が曇った。ひどく疲れていた。目を動かすということを忘れた。世界は遅くなった。
もう生きるのを止そうかと考え始めていた。世界を生きるということに意味は存在しない。意味などというものを考えるということが問題だということはわかっていた。しかし、世界は意味で構成されていた。意味を受け入れて生きるということ。意味の中に自分が生まれてきたということ。本当に嫌気がさしていた。それでも僕は生きようとした。世界の意味を生きるということ。それを完全に受け入れるために、彼らが作り出した意味への最大限の同意として自殺するということ。
走るのが好きだった。運動を連続させること、それに伴う種々の感覚は僕にとって世界の中で、生きているということをはっきりと確かめられる数少ない実感だった。夜、暗闇の中で走っている時はただその連続に身を任せることができた。その他のあらゆることを忘れることができた。いつものように川沿いを走っていた。
目の前に光が走った。様々な色の光が僕の後方から僕を貫いて、僕を前方へ導いていた。僕の眼球は、曇った僕の網膜は、動きを思い出した。世界が開けた、ように思った。まるでゴーグルを外した時のゲレンデのように、世界は開けた。直感的に、その光を希望だと思った。それを希望だと信じるしかなかった。何が起きているのかはわからなかった。僕はただ光を捉え続けようとした。どうすればいいのかは見当もつかなかった。光が消えたら本当の終わりだと直感した。僕は走りながら、ただ目の前に走る光を捉えようと必死に目を動かし、想った。光を想った。いつも世界で鳴っていた轟音は、鯨が歌っていた声だったのだと思った。僕は光にどんどん近づいた、ような気がした。ずっと僕を包んでいたセピア色は、開き直るかのようにどんどんと強くなっていった。光とセピアと僕だけが世界にあった、そう確信した。僕は光を希望だと信じた。それが何かはわからなかった。でもそれで良かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?