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 「右奥の席にいる」
 ラインの通知を見ると急に緊張してきた。
 渋谷駅から西の方に少し離れたところにあるカフェだった。
 店に入ると茜が笑顔で手を振った。図書館のように真っ白な電球が明るく店内を照らす小さなカフェだった。暖かい店内をかき混ぜるように手を揺らす彼女は、思い出の中の姿よりも小さく思えた。走馬灯を見ているような気分になった。彼女とのさまざまな思い出を急に懐かしく思った。
冬の夜のカフェに他の客はいなかった。茜と会うのは三年ぶりのことだった。最後に会ったのは高校の定期テストが終わった日だった。
 最後に会ったあの日も12月だった。テストが終わって、僕は彼女に呼び止められた。一緒に帰ろう、と彼女は言った。それからの経緯はよく覚えていない。覚えているのは、僕らは12月の公園のベンチで、スーパーで買った500mlのアイスを二人で食べたことだ。
どうしてそんなことをすることになったのか覚えていない。僕らは真っ暗な公園で二人で凍えながらアイスを食べた。12月の冷たい夜は僕らを強く風吹いた。冬の夜の冷たさの淵にいるように思った。あの日に、僕は高校を辞めることを、茜に伝えたのだった。
 カフェは明るく、暖かかったのに、なにかあの時と似た冷たさを感じた。彼女と話す時によく感じていた冷たさだと気づいた。いつも明るく話す彼女の姿は、僕にはいつも冷たい何かを誤魔化すように感じられた。
 よく考えたら彼女の私服姿を見るのは初めてのことだった。茜は細かい縫い目の青いセーターを着ていた。
「藍色が好きなんだ」
 高校の時、いつも藍染のハンカチを持ち歩いていた彼女に綺麗なハンカチだね、と伝えたことがあった。自分で染めているんだ、と彼女は笑った。
 「もう頼んだ?」
 「ううん、まだ。私はホットミルクティーにしようかな」
 僕は手を挙げてホットミルクティーを二つ頼んだ。木製のテーブルの上で手を組んだ。冷たいテーブルを見ると、焦茶色の木目がクレヨンで描いたように濃い。服にクレヨンがつかないか、そんなはず絶対にありえないのに、心配になった。僕は緊張していた。茜もテーブルの上で手を組んでいた。目が合うと彼女ははにかんだ。彼女の後ろの壁の汚れを見てフェルメールの絵の背景みたいだと思った。
 「久しぶり」
 僕から言った。緊張していたせいで低い冷たい声しか出なかった。僕の声を聞いて彼女は頬を赤らめるようにはにかんだ。彼女の笑顔が好きだった。彼女はよく笑う時に下を向く癖があった。彼女が笑い方は何かコンプレックスを隠すように感じられた。
 なんかずっと辛かったけど、今は幸せだよ、と茜は言った。そうだった。去年のことを話したいと言われてここに呼ばれたのだ。彼女は用意し切った台本を読み上げるように2023年のことを話し始めた。
「どこから話せばいいのかな、順当に時系列に沿って話せばいいか、えへへ。今年は、大学に受かって上京してきたんだよね、そう、私一年浪人したの。それで普通に大学に通いやすい家を借りればよかったんだけど、当時、私には遠距離の彼氏がいて、彼に状況をややこしくされちゃったんだあ。彼が、大学の近くで同棲したい、できないんだったら別れるって言うから私の大学からはすごく遠かったんだけど彼の大学の近くに家を借りたの、いや今思えば本当にやばい人だったって思うんだけど当時は好きだったんだよね。どうしてあんな恋愛続けてたのかな。それで彼の大学から最寄りの駅周辺で家を探してマンションを借りたの。それがね、本当に酷い話で、二人で借りるのに彼全然家を探してくれないんだよ。知ってる?家探すのって本当に大変なのよ、不動産屋に電話して、一人で夜行バスで愛知から東京に行って、私、夜は漫画喫茶で寝たんだよ?ていうか家自体を探すのも本当に時間がかかるの、彼は文句しか言わないし、私はお父さんを説得する必要があったし、ねえ私でもあんなところに住みたいっていう娘意味わかんないわよ。でも彼はそんな努力全然認めてくれなくて。ねえ、引っ越して、初めて家に案内した時、彼なんて言ったと思う?もっと近くがよかった、って言ったのよ。私の大学までは1時間かかるのよ!なんなのよ!って感じだよ。こんなに元カレのこと悪く言っていいのかな、でも私辛いんだもん、いいよね?それで同棲を始めたの。本当に今は後悔してることがあるんだけど、上京した時、私はある種の決心をしていたの。自立しよう、学費以外にかかる生活費を全部一人で賄おうって。そう決めて上京したのよ。でも彼はバイトもしてなくてずっとお金を親に頼っていたらしいの。ねえほんとに辛い思い出があるの、私ずっとお金貯めようと頑張ってたの、でも彼にお金を貸したりしてたから全然たまんなくて、それである日彼がパソコン買いに行くからついてきてっていうの。パソコン買うってお金どうしたのって聞いたら親からもらったっていうのよ。意味わかんないわよ、普段の生活費は申し訳なくてもらえないっていうから返すっていう約束の下私が貸してたのにどうしてパソコンのお金はのうのうともらえるのよ!結局、貸したお金も返してもらえなかった。彼、ずっとバイトもせずに時々親からもらうお金と、私から借りた生活費で生活してたのよ、私が新生活を始めるのと同時にあんなに頑張ってたのに!でも私今まで誰にもこのこと話せなかったの。元恋人のお金に云々文句言うの、よくTwitterでバズってるじゃん?あれみたいで嫌だったんだよね。でもほんとに金銭的に辛かったの。当時の私、生活費を全部自分で賄ってた上に、彼の生活費も稼いでたのよ。新生活を始めるのと同時にバイトを初めて、そう、私4月に教科書代を稼がないといけなくて必死になっていたのよ。お父さんが出すって言ってくれたんだけど私本当に申し訳なくて。だって彼の生活費をお父さんのお金から出すことになるじゃん?ねえ聞いて、私明治の入学式に運営のバイトとして参加したのよ。みんなが楽しそうに参列してる横で、私、彼らの列を整理してたのよ。なんか不思議な気持ちだった。私も今年から明治の学生なのに!って言いたかったな。派遣のバイトをいくつか続けてたんだけど体力仕事ばっかりで。それで焼肉屋で仕事を始めたの。それでそこの店長にすごく可愛がってもらえたの。ねえ、私、即日採用だったのよ。でもね、そこも長く続かなかった。社員さんに嫌われちゃったの。きっと店長がわかりやすく私を可愛がったせいなのよ。社員さんはみんな女性だったの。社員さんの一人に一度、どうしてそんなにいつも不機嫌なのと聞いてみたことがあったの。そしたら彼女、あなたのことが嫌いだからって言ったのよ。私本当に落ち込んで、それですぐやめちゃったの。」
 僕は時々相槌を打ちながら彼女の話を聞いていた。
 ウェイターがミルクティーを持ってきた。ずっしりと広いソーサーに小さなカップがのっていた。
 彼女の話し方を懐かしく思った。目を細めて笑う彼女の、目尻の皺が好きだった。いつもそれを見て、彗星が尾を引いているように思った。彼女の笑顔が本当に好きだった。彼女と会うことがなくなってからも僕はこの笑顔を何度も思い返した。茜と疎遠になってから、僕には二人の恋人ができた。それでも、茜の笑顔はずっと僕の奥底にこべりつき、時々それは僕を彼女との思い出の中に連れ去った。ずっと、もう一度こうして彼女と話したかった。何度も、夢にまで見た光景だった。二人きりで、こうして話すことを何度も願っていた。
 それから僕たちは2時間カフェで話した。それから僕たちが会うことは2度となかった。彼女が2023年の初夏にレイプの被害に遭っていたことを知ったのは彼女が2025年に自殺をした後のことだった。

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