三、猪鍋奉行

四ツ蔵は、あの醜悪な大黒がかしこまり、その横に物言わぬ人形のように据え置かれたリンの姿を思い浮かべた。
「いや、それはアカンて…」四ツ蔵は思わずそう呟きながら身を乗り出した。
「将軍と居を同じくするか!!」
陽下将軍が目を血走らせるかに怒りを露わにし、すでに空となっている茶碗を手に掴み振り上げた。
リンと高田が反射的に手で制した。
「母様!」「陽下様!」
既で陽下将軍は茶碗を投げつけるのを思いとどまった。

つい身を乗り出した四ツ蔵の手が畳に触れていたのだ。
「すんまへん……」
四ツ蔵は身を引き畳に触れていた手を下げた。

天子と段を同じくしてはならぬ。
法王と座を同じくしてはならぬ。
将軍と居を同じくしてはならぬ。

この世で最も尊きお方である天子様からは何人たりとも一段下にいなくてはならない。
だから天子様は常に一段高くした所におられるのだ。
そして尊称は陛下である。
これは一段下にいる者という意味だ。
天子様に直接声をかけることは憚られるので天子様の前に控える繋の者に言上するという意味がある。
仮に繋ぎの者がおらぬ場合でも「陛下」と口にすることによって直に声を伝えてはいないという建前を付く。

天子様を補佐し政を司るこの世で最も偉き方である法王の尊称は「猊下」だ。
これは獅子座にある者という意味だ。法王の名を直接呼ぶのではなく、獅子座にある偉きお方に申し上げるという意味がある。
猊下と口にすることで座を変えているとしているのだ。

天子様を守護し武を司るこの世で最も強き方である将軍の尊称は閣下だ。
これは武門を従えるその最高位を表す言葉である。
武を司る将軍は一度戦が起きれば武を統括する立場にあり、伝令等が参じ直接将軍に戦況等を伝える時は縁下や土間に膝をつき閣下と口にすることで礼は尽くしたとして、火急であれば名乗りや口上は必要なく言上すら要らぬとする意味合いが強い。

つまり将軍と居を同じくしてはならぬというのは、畳を同じくしてはならぬという意味ではなく、畳に上がらなくても良いという意味のはずだ。
事実、四ツ蔵の目の前でリンは陽下将軍を前に畳を同じくしている。

だが陽下将軍は四ツ蔵に対し怒りをあらわにした。
畳に触れた四ツ蔵に激怒した。
それは四ツ蔵が人ではないからなのか。

そうか、儂は獣やもんな。
四ツ蔵は親の顔を知らぬどころかその親に生きて地獄へと置き捨てられたのだ。
四ツ蔵は胸に今まで感じたことのない痛みを感じた。
四ツ蔵は獣として疾走り続けてきたことを恥じるどころか誇りさえ持ち、首買いの大名どもを見下していたほどだ。
だがあの時、陽下将軍が、いや巴様が団子の串を手にした時だ。四ツ蔵は人として生きることに初めて喜を持ったのだ。
獣のままであればこんな苦しみを味わうこともなかったであろう。
四ツ蔵は五臓に砂を詰められたような、肺腑に雪を詰められたような苦しみを味わった。
これは人であるからこその苦しみなのだ。
四ツ蔵は今、漸く人と成り得た。

半蔵の好物の一等はみたらしの団子だ。
醤油と黒蜜を混ぜたタレをたっぷりとかけた串団子だった。

あの妙な侍が黒山を訪れ半蔵の前に座りその姿を消した瞬間、半蔵は咄嗟に渡りの秘術を使った。
石家の侍、義経は変わらず座っていた。
半蔵は渡りを使われたことが初めてなら、それに対し渡りを使い返したことも初めてだった。

お互い渡りを使えば相手が見えるんか。
一つ重要な知見を得たが半蔵は動けない。
我慢比べでもしよう言うんか・・・。
その半蔵の心を読んだかのように義経は動いた。
経を唱えながらゆっくりと右手を動かした。
無駄や、渡りの中で何をするつもりや、互いに見えとるんや。
だが半蔵の義経の右手が刀に伸びていくのを見た。
バカな!刀を手にできるはずない!渡りの中なんや!

半蔵が得た秘術「渡り」とは殺意を消すという所に極意を持つ。
二千年もの間、戦火に焼かれたことのない地はどこにもないこの国は殺意で溢れている。
だからこそこの国に生きるものは誰もが殺意を敏感に感じ取るのだ。
それを感じ取れぬ者は早くに死ぬ。
だからこそあの時、まだ口も利けぬ赤子でありながらも生まれながらの殺意を秘めていた半蔵は生き残り、折り鶴を手にした子はその鶴を赤く染める事になったのだ。

誰もが殺意を持ち、誰もが殺意を感じ取るこの国で一時的であっても殺意を捨てるなどという事は命を捨てるに等しい。
だがあの時、四方八方を囲まれた半蔵は全てが哀れに思え殺意を捨てた。

刀を手に斬られるためだけにその身をぶつけるかの如く飛んでくる生贄の獣、その生贄の獣ごと半蔵を討とうと苦無を構える獣ども。
黒山に思いを返す。
牡丹鍋ではおこぼれには預かれぬと気を落としつつもまだ、自身の麦飯に手を付けずに白飯と換えてくれるかもしれぬと粗末な希望を待ちわびる惨めな獣たち。
自分を黒山に置き捨てたであろう名も顔をも知らぬ父。
そして半蔵自身。
皆、哀れだった。

半蔵は殺意を捨てた。
それは自身の命をも捨てるに等しい行いであったが、それが半蔵の命を救ったのだ。
この国に生きる獣どもは殺意を敏感に感じ取る。たとえそれが民百姓であっても戦火に焼かれれば殺意から身を隠し逃げ惑い、戦火で焼く側と成れば殺意を持って追い奪い、そして殺すのだ。
殺意を追い殺し、殺意を避け生き延びる事に長けたこの国にある獣どもは当たり前に感じていた殺意を持たぬ者をその目に見ることが出来ないのだ。

殺意を捨てる。
それが「渡り」の極意だ。
殺意を捨てるという事は自身の命をも捨てるという事なのだがその塩梅は確かに難しい。
命を捨てたのならば逃げることもできないからだ。命を捨てた者が何から逃げると言うのだ。
だがそれでも半蔵は「渡り」の秘術を完成させた。
殺意を捨て、自身の命を捨てつつも無心で相手の死地へと身を進めるまでに術を昇華させた。
これは自暴自棄ではない、無我の境地である。
「悟り」と言い換えても良いかもしれない。

黒山の棟梁は「渡り」に入った半蔵を見ることが出来ずにいたが半蔵は殺意を消したまま棟梁の死地である背後に回った。
半蔵が刀に手を掛けた瞬間に「渡り」は解かれるが死地を取られた棟梁は為す術もなく首を飛ばした。

殺意を捨て相手の殺意を交わし必殺の足を踏む。
これが秘術「渡り」の極意だ。

だがお互いが「渡り」の中にあっては刀には手を伸ばせない。
殺意を持った瞬間に「渡り」は解かれ相手の姿を見ることが出来なくなり、必殺の足を踏まれることとなるからだ。
いわば究極の後の先という事だ。

しかし義経は経を唱えつつ刀の柄を握った。
それだけでも十分にあり得ない事だったが義経は刀の鯉口を切った。
チ・・と小さな音が鳴り、その瞬間に義経の背後に数百の、いや数千かの侍が現れた。

「よっしゃ、手伝ったる!」
半蔵は右手を向けた。
義経は刀になど手は伸ばしてはおらず、手にした茶をぐびりと飲んだ。
端にいるくノ一には何が起きたのかは分からなかったであろう。
ただ銭を持たない一人の侍がくだらぬ願いを口にしただけだった。
だが、頭は控えろとばかりに手を向けその願いを受け入れた。
半蔵にしてみれば刀に手を伸ばせぬまま代わりに「待った!」と手を向けたのだが。
義経は一つ頷き
「頼むぞ」そう言って茶を飲み干し立ち上がった。
「次はもっと熱い茶を淹れてくれ」そうくノ一に言い残し義経は黒山を去った。
くノ一には何が起きたのかはもちろん分かっていない。

熱い茶云々は次は長居をするということだが、次はと、くノ一に言ったのは。
殺すなと言うんか。
アホな「渡り」見られたんや。

半蔵は配下の者を呼びくノ一の死体の処理を命じて一人考え込んだ。
あれは儂の「渡り」とは違う術なんか。
「渡り」は一対一では文字通りの必殺の技だ。渡りの中にいる者を目に見ることは出来ぬし、もちろん刀を向けることも出来ない。そして殺意を持って「渡り」を解いた時、それは必殺の足を踏まれた相手が死ぬ時なのだ。
当然「渡り」は組の技には効かない。
殺意を持って「渡り」を解いた瞬間に殺せるのは必殺の足を踏んだ一人だけだ。他の者に対しては無防備となってしまう。「渡り」は組の技に対しては逃げる事にしか使えない、無力なのだ。
しかしもし「渡り」にはまだ先があり「渡り」の中で刀を手にできるのなら……
いや、ありえへん。
なぜ義経という侍は「渡り」の中で刀に手を伸ばせたのか。
半蔵はいくら考えてもその理由がわからなかった。
傀儡の術はどうやろうか?運ばれていくくノ一の死体を見ながら考えた。
傀儡の術とは日頃からそれと気が付かれぬままにその心に暗示を深く刻み込みいざという時に暗示のままに操るという術だ。近くにある者ほど暗示を深く刻み込める。
棟梁から得たものだ。

傀儡の術に落ちている者は兆しを与えられるとその自覚のないままに暗示に動く傀儡と化す。兆しは何でもよい。
決めておいた声をかける、特定の音や仕草でも良いが一番は殺意を向ける事だ。半蔵が傀儡の術の下にあるくノ一に殺意を向けるとまさに操り人形のように動く。
棟梁は自分の娘を敵に苦無を放つ傀儡としておいたようだが半蔵は近習のくノ一に身を挺して盾となるように仕込んでおいた。
無理やな。
仮に傀儡の術を使えたとしても一撃を防いだところでどうにもならんわ。
半蔵は渡りのほかに四つの秘術を持っていた。
棟梁から得た傀儡の術と、秘術三つ返し。それに半蔵自ら生み出した天地返しの術に、蛇絡めの術。
どれも殺意の下での術で渡りの中では無意味だ。

半蔵はとりあえずは義経という侍に付き従う事にしたが、あくまでもとりあえずだ。近くに居ればあの術を破る手蔓も掴めるだろうし、あの偉そうなことを言う侍がどこまでやるのか見届けてやろうと思ったのだ。

しかし、義経の背後に見えた侍どもの影は・・。
半蔵の身体がぶるると震えた。

半蔵は、しばらくの間は変わりなく過ごしていたが石家には常に探りを入れていた。
そろそろやろ。
そう半蔵が思っていた頃に一人の侍が黒山を訪れた。
「客人が」配下の者が襖の向こうで言った。
「九鬼か?羽生か?」半蔵が聞く。
「いえ、高田の者です」
「ほうか、通せ」
高田が来るか。

半蔵はその銭働きの為に常に各地に深く探りを入れているが特に石家の周りには多くの配下の者を入れておいた。
石家の勢力は急拡大しており坂東の地の支配者になりつつあることはもちろん知っている。
石家は坂東の東西南を支配するに至り残すは北にある中ノ条家と鶴ヶ家だ。
この二つは北坂東の両雄でありつつも、坂東の地を平らげようとする石ノ家に対抗するために手を組んでいる様子がある。
鶴ヶ家は古の華族である横八華の一つなのだから不思議ではない。中ノ条家が鶴ヶ家と手を組んだとなれば北坂東の残りの豪族もどきも皆その配下となったと見ていいだろう。
これでは飛ぶ鳥を落とす勢いの石家と言えどそう簡単には行かない。
半蔵がそろそろだと思っていたのはこういった勢力図を正確に把握していたからだ。
また義経自ら来るとは思ってはいなかった。今、石家の情勢を見るにそんな余裕はないだろう。しかし高田の者が来るとは思ってもいなかった。せいぜいが九鬼か羽生あたりの者が来ると予想していたのだが。

高田家は元は鷹ノ家と言った。
二千年の昔には、横八華と呼ばれる天子様に付き従う八つの華族がおりその中から法王と将軍が選ばれていた。
しかしその八家が二つに分かれ争いを始め、それが国を二分する大戦、八華ノ戦へと拡大した事がこの国が火の源の国と言われるようになった始まりだと言い伝えられている。
数百年の長い戦火のうちに八家のうち西の三家と東の一家は焼け滅び八華ノ戦そのものは一応の終結を見たが一度点いた戦火は消えることなくこの国を焼き続けている。
残った四家が坂東の石ノ家、鶴ヶ家、鷹ノ家、そして唯一関の西に残る坂ノ家だ。
石ノ家の義経が「戦火を消す手助けをしてくれ」などと言う世迷い事を口にするのは自分たちが点け拡げた戦火を消そうという薄っぺらい大義名分なのだ。
鷹ノ家はそれに呼応したのだろう。
横八華とは天子様の下に居並ぶ八家という意味だ。
そして一字の家名は横八華にのみ許されている。鷹ノ家が石ノ家に付き従うのであれば横ではなく一つ下にあるとして名を改める必要がある。
そのため、鷹ノ家は高田家と名を改めたのだ。
それでも高田家は少し前まで由緒正しき横八華であったわけだし、石ノ家と共に立ち上がった最古参と言える。
使いごときに出るような家柄でも立場ではないはずだった。

使いの者が座敷へと通された。
使いは若く身なりは小綺麗で育ちの良いさまが見て取れた。
育ちがいいだけに黒山と言う獣の郷に使いに出されたのが気に入らないのだろう。若侍はまるで馬小屋にでも通されたかのような態度ですぐ横に肥溜めでもあるかのように顔をゆがめて半蔵の前に腰を下ろした。
「なんや若造の方かい」
「なにぃ!!」
若侍はいきり立ち片膝を上げ腰の物に手を伸ばしかけた。
「やめとき、あんさんじゃこのくノ一すら斬れんで。まあ試してもええけど、お使いの仕事を済ましてからにしてくれんか」
そう言われて更に激高するかと思ったが若侍は両膝を正し直し、その両の拳を畳に付けて頭を伏せた。
砕かんばかりに歯を食いしばっているのが見て取れた。半蔵はそれがどうにもおかしくもう少しからかってやろうと思った。
「我が大殿・・・」そう若侍が言いかけたところを遮った。
「待ちぃな、茶ぁ出したるわ。こん山奥まで来て喉も乾いとるやろ、お使いの仕事も喉を潤してからの方がええ」
半蔵が顎で指図するとくノ一は立ち茶を淹れに行った。
座敷には半蔵と若侍が残された。もちろん見えはしないところに半蔵の配下が忍んではいるが。
「のう、ボン」半蔵は敢えて見下した物言いをした。
若侍はまたキッとした顔を上げた。
「それやそれ、獣の郷に使いに出されたのが気に入らんのかい」
「私は高田の者」その一言で若侍の心持ちが見て取れる。
横八華を成した由緒正しき家柄だと言う高すぎる自尊心だ。
「なら断ったら良かったんちゃうか」
「私は大殿の使い、そういうわけにはいかぬ」
「なら受けた以上はちゃんとやりぃな、そん顔じゃあのう、お使いの仕事すらできてまへんな」
若侍は更に激高すると思ったが顔を伏せた息を吐き動かなかった。

くノ一が茶を持ってきた。
一つを半蔵の前に置き、一つを若侍の前に置いた。
若侍は顔を上げ、茶を置いたくノ一に深く頭を下げ「かたじけない」と言った。
なんやこいつ、おもろいな。獣の巣に通されて鼻に肥桶でもかがされたようなツラぁしておいて黒山の下女に礼を口に頭を下げおったで。
半蔵が茶に手をつけぐびりと一口飲むのを待ってから若侍も茶を手にし同じく飲んだ。
若侍は茶碗を置き両の拳を畳に付け首を垂れて言上した。
「我が大殿、石ノ家は義経。半蔵殿に直ちに馳せ参じるよう申されております。これ面目腹蔵なくお納めいただきますればこれ幸い」
そう言って懐紙に包まれた物を差し出した。
見たところ懐紙に包まれているのは大判で二十両といったところか。
坂東を統べた忍びの大頭を呼ぶにはちぃと足らんどころか屁にもならん。
だが半蔵はかしこまり両拳を畳に着き言上を返した。
「坂東は忍び頭半蔵、心づけ誠に痛み入る次第。我、大殿石家義経様に恩これ報いと直ちに馳せ参じ候う」
若侍は半蔵が「ああ、ええで」とでも返してくるかと思っていたのかハッとして顔を上げるが額を畳に向けて「かたじけない!」と言い残った茶を一気に飲み干すとすぐに立ち上がり、座敷を出る際に振り返り半蔵に深く頭を下げ、茶を出した下女には軽く会釈をしてから帰って行った。

半蔵は細々とした用事を済ませ、黒山の者どもに幾つか言い伝えてから山を下り石家へと向かった。
使いの若侍は向かうべき城を伝えはしなかったがそれは半蔵ならば言わずとも知れるだろうと言う事なのだろう。
もちろん、半蔵は自分が向かうべき城がどこかは知っていた。
並び立つ中ノ条家と鶴ヶ家の北坂東の両雄と石ノ家が今まさに坂東の地の覇権をかけて決戦するところなのだ。行くべき城は決まっている。
半蔵は石家の勢力の最北端、北利根の城へと向かった。

半蔵が訪れた北利根の城は石垣もなく僅かな土塁のみで守られた城とは言えぬような陣構えだった。驚くにはあたらない、石家の城は何処もこの様なものだったのだ。
それでも半蔵は思った。
妙やな。
黒山から来た半蔵を誰一人として訝しむこともなく通り過ぎてゆく。屋敷の門番の一人は半蔵が石家に忍び込ませている配下の者だった。その者でさえ半蔵を咎めることなく半蔵が門を進むに任せた。
半蔵が自身の頭であるからではなく、おそらく誰に対してもこうなのだろう。
なんや義経言うのは思った以上のポンコツかいな。
北坂東にはまだ半蔵の配下にはない黒山があるのだ。決戦前の城がこんな杜撰な警備では命がいくつあっても足りぬであろうと思えた。
「お、半蔵殿、よういらしてくれたの」一人の侍が声をかけてきた。
それは高田の当主だった。黒山に来たあの若侍の父のはずだ。
「大殿が出られるところです、いや危ない所でしたな。ささ、こちらへ」
そう言う様は元は横八華の家柄とは思えぬ黒山の獣に対し実に慇懃な対応だった。
高田の当主に導かれるままに半蔵は進んだ。
そこには実に見事な武者振るいを見せる義経が騎上にあった。
忙しそうにあれこれと指図をし今にも駆り出て行きそうな義経がそこにいた。
「大殿!半蔵殿が参られましたぞ!」高田の当主がそう言うと義経は半蔵に振り向いた。
「来たか半蔵!頼りにして居るぞ!すまぬが儂は忙しい、あとは高田殿に付いてくれ。これを持て!」
義経はそう言って懐紙に包まれたわずかな銭を半蔵に投げてよこすと馬を駆り行ってしまった。
投げ寄こされた懐紙は小さくおそらくは中身は四分銀の五、六枚であろう。
蕎麦でも食え言うんか。
半蔵は舌を打ってその中身を確かめることもなく懐へとしまい込み義経に告げられたままに高田の当主の下に付いた。
なんだかよう分からんわ。

半蔵は高田の当主と共に北坂東の地、鷹崎へと向かった。
半蔵も馬を与えられ騎上にいた。高田の軍勢は見るに八千と言うところか。多くはない。いや、むしろ少ないのではないか。
もちろん北坂東の地にも半蔵の手の者は深く入り込んでいるが多くはない。北坂東には北坂東の黒山があるからだ。半蔵配下の忍びがそれと悟られることは少なくなかった。
鶴ヶ家は沼平盆地の中心に城を構えているが、その周囲の山々にある八卦陣と呼ばれる八つの城で堅牢に守られている。
周囲八つの城が落ちれば鶴ヶ家の沼平の城は丸裸も同然だがその周囲の城々は鶴ヶ家に付き従う者達が守りそれぞれに五百から八百の兵が籠城しているはずだ。それに高田らがまず向かう南の守りの要である森上の城には中ノ条家が入っておりそこには千を超える兵が詰め込まれているはずだ。
沼平を囲む八卦陣の城だけでもそこにいる兵は高田の八千に僅かに足りないくらいか。しかし城攻め三倍と言う言葉の通り足りないのは高田の兵の方だ。
仮に森上の城と対峙するとしても城兵は多くて千、それならば八千の高田が勝つだろう。
しかし、一つの城を攻めた途端にその脇にある城から挟み撃ちにされるだろうし、よしんばそれを防いだとしても更に遠巻きにある城から本陣を襲われるかもしれぬ。
半蔵は戦の事はまるで分らないが、これくらいの読みは付く。

いわば組の技やな。
義経が先行しているのかとも思っては見たがその様子もない。鷹崎の地には高田の八千の兵しかいない。義経はどこに行ったのか。

しょうもないの。
儂に鶴の首を取ってこい言うんか。
もしそうなら高田は小物も小物、それを従える義経も見とるのもつまらん侍やな。
しかし高田はそう言ったことは口にせず、鷹崎の地に簡素な城を築き動かなかった。
半蔵は高田が何処からか義経が援軍を連れてくるのを待っているのかと思い、さらに探りを入れたがその様子もない。義経は文字通り一騎で坂東の更に東北、福須磨の地へと向かったようだ。石の一文字で福須磨を従わせるとでもいうのだろうか。

そして高田の陣は攻め寄せるような様子もなく半蔵は暇を持て遊ぶように日々、陣中を歩き回るだけだった。
由緒正しき元横八華の高田の陣中を黒山の獣が歩き回っているのを快く思わぬものは多かった。いや、それに意を介さぬ者は高田の当主だけだった。
半蔵は少しばかり落胆し、自身の読みをそのまま高田にぶつけた。
「のう、鶴ん首を取ってこい言うなら、高いで」
「ほう、高いとな。いくらか?」高田の言葉はまだ抜けぬのか華族のそれだった。半蔵はそれを特に気に留めることもなく答えた。
「そうやな蔵一言うところやな」
蔵一杯の銭をよこせという事だ。もちろん石家にそんな銭が無いことは分かっている。しかし半蔵は無理難題をぶつけたわけではない、今の鶴ヶ家の首には間違いなくそれほどの値が付く。もちろんそれはその首そのものの価値ではなくそれがいかに難いかという事だ。

八卦陣を潜り抜け沼平の城へと忍び込み鶴の首を取り帰る。
口にすればただこれだけの事だが、鶴ヶ家に飼われる黒山の獣はそこいらにいるだろうし、坂東の遠く北にある三越の地を統べる雪山の獣たちも多く沼平に来ていると分かっている。
石家が坂東を平らげればその次は北三山と呼ばれる三越、入羽、河奥の三国に目を向けるのは自明の理。北三山からも多く雪山の獣が沼平に来ているだろうこともまた同じなのだ。

北三山では獣の郷を黒山ではなく白山と呼んでいる。
年の八月を雪に覆われているからだ。
そう呼ばれる獣どもがどのような術を使うのかは図り知れない。
黒山の獣である半蔵が虎であるならば白山の獣は狼。
例え半蔵が猛虎であったとしてもまだ見ぬ白狼の群れの中で忍ぶのは難い。
渡りの秘術を使ったとしても、もし相手方に一人でも渡りを使えるものがいるだけで半蔵は動くことも出来なくなるのだ。
十中八九どころか九分九厘無理だ。
だからこそ半蔵は蔵一と答えたのだ。
半蔵は九分九厘に死ぬと分かったうえで、蔵一なら試してやると答えたのだ。

「蔵一とな。坂東一の忍び頭にそう言わしめるほどに鶴の首は高いか」
戦の事は半蔵には分からない。分からないからこそその雌雄を決する首の如何を忍びに託すのならばそれは首買い大名と変わらぬという事になる。
もしそれを高田が買おうとしたら半蔵はこの陣を、つまりは義経から離れるつもりでいた。
だが高田はその値に驚きはしたものの値切ろうともせずに、薄く笑いこれまで通り陣を見て回ってくれと言うだけだった。

半蔵配下の忍びが沼平の城に入り込むのが難い以上に北坂東の忍びがここ高田の陣に忍び込むのはより難い。
半蔵とその配下の忍び達は高田の陣に忍び込もうとする者どものを人知れず斬り捨てていた。
半蔵の目の届くところで「昨日は居なかった者」が高田の陣に忍び込むのは不可能だった。
そうかい、北利根の城で誰も儂に目もくれなかったのはそういう事かい。
半蔵は半ば合点がいったが古の横八華の石ノ家がそこまで自分を信用しているとも思えない。
半蔵には義経の意図がまだはっきりとは分からない。だが分からないからこそ面白い。

ええやろ、何するつもりや。
そう半蔵が思っていた時に高田に呼ばれた。
高田は沼平の城より三つの物を盗んできてほしいと半蔵に言った。
それは赤樫の木剣、白柘植の櫛、黒真珠の付いた首飾りの三つだった。
首やなければまあ行けるやろ。
半蔵は承諾した。
この三つは中ノ条家の息子と娘、それに奥方の持ち物だ。
中ノ条家は人質と言うより最前線となる城に自身の大事な者を置いておきたくはないがために息子に娘、それに何よりも大事な細君を沼平の城に送り置いているのだ。
半蔵は鋼の匂いのする刀も苦無も持たずに、押し込められるように沼平の城の片隅にいた中ノ条家の屋敷から三つの物を盗み取り高田の陣へと戻った。
すると三つの品を改めた高田は土間に膝をつく半蔵に言った。
「半蔵殿は牡丹鍋が好きとな」
「ああ、よう知っとるな大の大好物や」
高田がにこりと微笑み「これ、例の猪を持て」そう言うと鍋が持ち込まれた。
囲炉裏に鍋が吊るされ脇に置かれた櫃には白飯があった。
高田がグツグツと音を立てる鍋の蓋を取る。
「おお、良い塩梅じゃ。ん?何をしておる、上がれ」そう半蔵に声をかけた。
半蔵は膝に付いた土を払い言われるままに高田と畳を同じくした。
鍋の旨そうな匂いが半蔵の鼻を衝く。鍋を覗き見ると人参に大根、太葱に猪肉がたっぷりと入っていた。値の張る豆腐も入っている。
部屋には高田の半蔵の二人のみ。高田は自分で木杓子を手にすると鍋を掬い椀を満たし、箸を手にした。
「うむ、旨い!猪肉は精がつくよのぉ」高田は一人舌鼓を打った。
なんや、儂の大好物と知って見せつけたかったんか。まぁ牡丹鍋くらいで焼きはせんけど嫌な侍やな。
高田は櫃から白飯を猪肉の入った椀に入れて箸で混ぜると掻き込む様に食った。
半蔵は思わず唾をのんだ。実に旨そうな良い匂いがする。
高田が眉をひそめ言った。
「なにか、好物なんじゃろ。食わんのか?」
何を言うとる、食うわけないやろ。
そう言われても微動だにしない半蔵を見て高田は空いたもう一つの椀に牡丹鍋を満たし半蔵の前に置いた。
「鍋は自分でよそるからからこそ旨いのじゃぞ」
高田はそう言ってまた自分の椀を手に牡丹鍋を満たし鍋汁を啜った。
「旨い!」
半蔵はもちろん椀にも箸にも手を伸ばさなかった。
「どうした、なぜ食わぬ。お主は沼平の城から戻ったばかり、腹は減っておるじゃろう?食え食え」
半蔵は恐る恐る椀を手にし、箸を持ち高田の顔を伺った。
高田は啜れとばかりに半蔵に唇を突き出した。
半蔵は意を決して椀を満たす牡丹鍋の汁を啜った。
思わず吹き出しそうになるほどに旨かった。茶色に染みた大根を箸で摘まんだ。旨い!猪肉に箸を伸ばす。これも旨い!また汁を啜る。本当に旨い!
「これ、汁を啜りすぎるな。飯を入れるのじゃ」
半蔵は言われるままに櫃の白飯を椀に入れた。
「よく混ぜるのじゃ、飯に染みるぞ」
半蔵は白飯が茶色に染まるまで箸でかき混ぜ汁ごと飯を掻き込んだ。
なんやこれ、本当に牡丹鍋かい。
「太葱も旨いぞ、深谷の太葱じゃ。これが無くては牡丹鍋とは言えぬ」
「味噌じゃないんやな」
「そうじゃ、黒蜜が混ぜてあるからの。黒蜜には味噌より醤油じゃ」
「この辛いんは山椒やないな」
「生姜じゃ。猪肉をより旨ぅする」
二人は鍋談議に花を咲かせた。
「牛蒡がないんやな」
「牛蒡はいかぬ、鍋を黒うするからの。それより豆腐じゃ。この汁に染みた豆腐をの、飯を混ぜて食べてみい」
二人が箸を手にし木杓子を取り合ううちに牡丹鍋の具はすっかりと無くなり汁を残すだけになった。
高田はそこに残った白飯を入れ鶏卵を割り入れ軽く混ぜてから蓋をした。
高価な鶏卵を三つも入れたことに驚いた半蔵は思わず蓋をされた鍋に身を乗り出した。
高田が手で制した。
「ここが大事じゃ。火が通り過ぎてもいかぬの」
何やこのオッサン。まるで奉行やな、そうや鍋奉行の高田や。

ここぞと気を読んだとばかりに高田が鍋の蓋を取る。すぐに木杓子で自分の椀を満たし放るように木杓子を半蔵に向けた。
半蔵も鍋の中身を椀に掬った。
頬が落ち舌が蕩けるような旨さだった。鍋の中身はあっという間に空になった。
味噌ではなく高価な醤油味の鍋、同じく高価な豆腐。生姜の辛味も実に旨かった。そして鶏卵の締め。飲み込みたくなくなるほどの、まさに首が締められるかのような旨さだった。
だからこそ半蔵は聞いた。
「元は横八華の高田はんが黒山のもんと鍋を同じくしてええんかい」
高田は鼻で笑って答えた。
「鍋と言う物は一人で食しても旨くはないものぞ」

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