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第十八話 ハッカーズ

岸は橘京子の電車事故の記事が映ったパソコンの画面を見つめたまま考え込んでいた。
後藤と組んだ事で大きな問題をいくつも解決することが出来た、それは間違いない。
このイカれたゲームで後藤と組んだのは正解だった。それも間違いない。
では巻き込まれた後藤にとっては?おそらく正解だっただろう、おそらく。

岸は自分の、レモンイエローではなく赤い方のスマホに通知が来ていることに気が付いた。
スマホを手にしロックを解除してみると通知は和さんからのメールだった。
時間は昨夜の深夜1時。店を閉めてから連絡をよこしたというところだろう。

しかし注文なら店の方にメールするはずだし、和さんは「昨日配達してもらったばっかりなのに悪いんだが・・・」なんて言ってくるようなのんびりした人でもない。

なにか緊急の用事か?とも思ったがなんだろうか?そうかミズサキのパーティーの日取りが決まったのか。岸はそう思ってフォルダを開いた。そこには昭和の男らしくただ一言だけ記されていた。


後藤は部屋に戻ったか?そう思い岸はドアを開けて自室を出た。探すまでもなく後藤の居場所は部屋を出るなり分かった。
階下の車庫からバイクのエンジン音が聞こえてきた。後藤がバイクにまたがり時折アクセルを捻るたびにバイクは大きく深呼をしていた。脇に止まったCX3からも大音量でImagine DragonsのBonesが流れていた。 

ヴァルチャーに狙われている。
俺は炎に焼かれてもやるべきことをやる。
そしてベッドの上で闇を待つ。
まだやるぜ、楽しんでいるか?
やろうぜ、次のお楽しみだ。
俺たちは感づいてるが、お前にもわかるだろ?
俺はブッ壊れちまっているが俺の中にはとっておきがある。
俺たちの魂は感じている・・・。

イカれた歌だ。
岸は車庫の開けっ放しのドア越しに後藤に声をかけた。
「出かけるのか?」
バイクにまたがったまま後藤は振り返った。

「いや、たまにはエンジンをかけてやらないとな」
そう言いつつアクセルグリップから手を離した。エンジンは深呼吸を止め乾いた破裂音の様な軽い音を立てていた。

「うるさかったか?」
後藤は少しばかり申し訳なさそうな顔をした。
岸がここに来てから二年になるか?だが一度たりとも後藤は「ここは俺の家だ!」なんて素振りは一切見せない、そんな言動は一度もない。

「いや、大丈夫だ」
シャッターは開いていたが車庫はバイクの排気ガス、後藤の言う「これぞ2サイクルの匂い」で満ちていた。岸にはいまだに後藤の言う2サイクルエンジンと4サイクルエンジンの違いと言う物が分からなかったが本当に排気ガスの匂いでエンジンの仕組みの違いなど分かるのだろうか?
岸はそれを信じたことはなかったし、そう言う事がバイク好きだと言うアピールなのかとも思ったが、だからと言ってもどう違うのかと問い詰めるように聞くこともなかった。
岸は時折エンジンを吹かす後藤を見ていた。先に根を上げたのは後藤の方だった。

「どうした?」
岸は先ほどのキッチンでの後藤を思い浮かべ「どうした?」ってこともないだろうと思いつつも本題を口にした。

「和さんからメールが来てさ」

「あ?お前のところに?」
なぜ?という顔で後藤が返す。

「蕎麦食いに来い。だってさ」

「お前!そういう事は直ぐに言えよ!今か?今行くのか?」
後藤は瞬時にエンジンを切りバイクを降りた。

「今なわけないだろ、朝飯くったばっかりだろう?今日の夜だろ」
後藤の奴は和さんの作る飯が本当に好きだ、本当に美味そうに食う。まあ確かに和さんの飯は美味しい、それは間違いない。それに隣で飯をあんなに美味そうに食う奴を見ているとこっちまで楽しくなってくるくらい美味い。だがあれはやはり居酒屋飯で後藤の作る飯とは違う。それに蕎麦は・・。
和さんの蕎麦はまあ美味いが蕎麦って居酒屋で食う物か?というのが岸の率直な感想だ。
だが後藤は和さんの蕎麦に、まさに目が無い。
「ちょっとくれよ」なんて絶対に言えない、まあ言うつもりもないが。

後藤が和さんの作る飯で文字通りに目をなくすのは蕎麦、卵巻き、あと一つは何だったか覚えていないが、後藤が和さんの作る飯で何が一番好きかは分かる、絶対に卵巻きだ。
和さんはそう、寿司を握れる。見様見真似なんてもんじゃない、しっかりとした寿司を握ってくれる。でもそれは日常ではなくて、特別な日。つまりパーティーの日だけだ。

しっかりと厳選したタネを用意してきて抜群の寿司を握ってくれる。
その日だけは外人たちもカウンターから離れようとしなくなる。
誰もがマグロやイクラ(もちろん和さん自らの仕込んだイクラだ)煮アワビ(もちろん・・)と言った豪勢なネタに飛びつく中、後藤が誰にもやらないとばかりに意地汚く守り、隠し通して食べているのが和さんの巻いた卵巻きだ。

あんまりに美味そうに食っているもんだから一個くれよと言っても「お前が作ってもらえよ」というくせに、こっちで作ってもらうと
「お前、どうせそんな好きじゃないだろ?」と言って手を伸ばしてくる。和さんの巻く卵巻きの前では後藤の奴が珍しく子供っぽくなる。

そんな後藤が和さんが作る居酒屋飯で卵巻きの次に好きなのが和さんの蕎麦だ。近所の蕎麦屋から貰った蕎麦とスーパーで売っているような当たり前のめんツユで食べるだけの蕎麦だ。

俺は正直後藤の奴がそんな蕎麦になんでそこまで必死になるのかは理解しがたいし、やはり外人たちもほとんど興味が無い。
バイクの排気ガスの様に通ぶりたいだけじゃないのか?というのが岸の本音だ。
だがもちろん余計なことは言わない方が良い。
後藤の奴はいつも美味い飯を作ってくれるし、俺がピザのデリバリーを頼んでも文句一つ言わない。

「そっか、それもそうだな。じゃあ夜まで暇だし久しぶりにバイクで出かけるか?」
後藤はそう言って再びスターターを踏み抜いてバイクを生き返らせた。

「どこに行くんだよ」
岸が返すと後藤は
「そりゃあ、いけ・・・」と言って少し固まった。

「ちょっと走ってくる。メット取ってくれるか?」

岸は棚にあるヘルメットを手に取り後藤に放った。

「サンキュー!」
後藤はヘルメットを受けとった。

「どこに行くんだ?」

「そうだな、環状でも回ってくるよ」

環状。首都高の一番内側の環状線、C1の事だ。後藤のバイクは125CCだから本来ならばピンク色のナンバーだが一つ上の中型バイクに相当する白いナンバーを付けている。

「気を付けろよ」
岸は色々と含めたつもりで言ったが後藤もそこいら辺はくみ取ったようだ。

「ああ、ありがとう、気を付けるよ」
後藤はそう言ってからヘルメットを被ると顎ひもをしっかりと締め勢いよく走りだして行った。

岸は再び自室にこもりまた考え込んでいた。
あの時、後藤を助けて正解だった。いや、助けてはいない。後藤は自力であの男を殺したんだ、俺は何もしてはいない。
あの時、後藤の家、ここエビス屋に向かった。そして俺は後藤をこのゲームに巻き込んだ。
俺が後藤をこの狂ったゲームに「誘う」という決定をしたから後藤はまだ生き延びている。
それで後藤に感謝しているかと聞いたことは無いし、後藤から感謝していると言われたこともない。
ただ、あの時から全てが上手く回りだした。

エビス屋のバントラックは死体を運ぶのに最適だったし、ボディボックスは問題なくエビス屋の勝手口に設置できた。何より二人組と言うのが何よりの強みになった。
どちらか片方が背後から狙われていたとしてももう片方がさらにその背後を狙える。

だが、このイカれたゲームで仲間を作ろうと思うのはよほどの馬鹿だ。
背中を任せることが出来るような仲間を作ることは不可能とさえ思える。
背中を任せた相手がナイフを構えて振り向いてくる可能性は目を瞑れないほどに高いだろう。
最初のうちはいいだろう、うまくいくかもしれない。だがゲームを進めれば進めるほど、こちらに背を向けている相手にナイフを突き立てたくなる欲求は高まるだろう。簡単に、容易に大量のクレジットが手に入るのだ、仲間などありえない。

ではなぜ俺は後藤を誘ったんだ。あの時に後藤を殺していれば二人分のボーナスを手に入れることが出来た。肥え太らせて刈り取るつもりだったのか?違う、俺は・・・。

後藤はこのイカれたゲームにすぐに順応した。もちろん二人で初めてここエビス屋に来た日は岸が何を言おうとも半信半疑、いやほとんど信じなかった。それは当然だ、岸もそうだった。

しかし、翌朝になっても、次の日を迎えても公園に放置した他殺体が見つかったというニュースが一切流れないことでこのイカれたゲームが現実であると思わざるを得なくなった。

それも岸と同じだったが後藤は岸の説明の範囲でこのゲームのルールを理解しすぐに覚悟を決めたようだ、それが岸との違いだった。

次の週までに後藤は無料の死体処理の権利を使い切った。もちろん二人がかりだった。岸が囮となり後藤が仕留めたし、後藤が狙われたときは岸が敵の様子を伺いそれを逐次後藤に報告することで後藤は容易に敵を返り討ちにした。無料の権利が有効化されるための条件がはっきりとは分からなかったので岸の関与は出来るだけ減らす必要があった。
しかしそんな杞憂は直ぐに消え去った。後藤は二人を仕留め無料の死体処理の権利を使い切りこれからは殺した相手の死体をエビス屋に持ち帰りボディボックスを使用する必要が生まれたからだ。

一人が囮になりもう一人が背後から襲うという必殺のコンビネーションが生まれた。死体はバントラックでエビス屋へと運びボディボックスに納められる。
死体が収められたボディボックスはプロパンガス業者がガスボンベを交換するように中身の入っていない新品と交換してくれる。

常に二人のどちらかが「アンチ」を作動させ敵の「サーチ」を検知する。二人ともサーチされたとしてもどちらかが即座に「アンチ」の高位アイテム「インビジブル」を作動させる。
「インビジブル」これは文字通り姿を消すアイテムだ。一定時間「サーチ」されることを防いでしまう。通常の「アンチ」に比べて効果時間はかなり短いが背後から襲うには十分な効果時間がある。

直ぐに岸もエビス屋に住む様になり二人は順調に殺人を重ねた。このゲームに於いて二人組と言うのはものすごいアドバンテージを持つ。

例えばパソコンでFPSのバトルロイヤルゲームをしているとしよう。
目の前に現れた敵と共闘しようと手を振る奴はいるだろか?いたとしてもそんな奴は3秒後にはリザルト画面を見て自分の愚かさを痛感し次のゲームをスタートするだろう。
よほどの強者なら手を振ったところを攻撃されても即座に反撃し敵を圧倒することが出来るかもしれない。
だがそいつを仲間にするメリットはあるのかと言えば全くないだろう。
先手を取らせてやったのに足元にひざまずくような弱者に手を伸ばす奴がいるか?普通ならとどめを刺すだろう。
それにパソコンのバトルロイヤルゲームと違いこのイカれたゲームには「次のゲーム」は無い。
つまり自分の命が一つしかないと知っていたら仲間を作るというのはほぼ不可能なのだ。

そして後藤のこのイカれたゲームに対する適応力は頼もしいどころか恐ろしいほどだった。
二人目の敵を殺すときは僅かに躊躇したようだがそれもほんの僅かだった。
もちろんそこで躊躇しては囮になっていた岸に危険が及ぶという理由もあっただろう。
だが殺人なのだ。

後藤はさらにエビス屋のそれほど多くは無い在庫の保管場所であった半地下の倉庫を「捕えた敵からパスワードを聞き出す部屋」へと変えた。
後藤はあの部屋で敵を脅し、時に切り刻み、時に殴り潰し、うまくいけばだがパスワードを聞き出しボーナスを得るようになった。

後藤は敵が女であったとしても容赦はしない。
男と同じように扱う。レイプなどしない、女も男も同じように切り刻み殴り潰す。後藤は冗談交じりに「これこそが男女平等」だと言った。
しかしあれほどまでに慣れるものだろうか?

岸の心には常にそれが棘のように刺さり気になっていた。
だがそれが今日、少しわかった気がする。
あいつは橘京子を失ったことで心のどこかに狂気を抱えたまま生きてきたのだろう。
目の前で最愛の人が砕け散るのを見たのなら、そしてそれが少しも癒えていないほど脳裏に焼き付いているのなら自分の命を狙ってきた赤の他人など容赦なく拷問し殺せるのかもしれない。

そうして二人は順調にこのイカれたゲームに馴染み殺人を重ねてきた。
だが二つの大きな懸念が浮き上がってきた。
一つはこのイカれたゲームはいつ終わるのかという事だ。
目的もゴールも表示されない。
いつまでどこかの誰かに命を狙われ、そいつらを殺し続ければいいのか?
後藤は終わるまで続けるしかないだろうと言った。そのうちにラスボスとか最終ミッションでも出るんじゃないかとも言った。

お前は平気なのか!?それは岸の口からは言えなかった。このイカれたゲームに後藤を巻き込んだのは岸なのだ。
あの時、あの公園で岸は後藤を殺すことが出来た。だがやらなかった。岸は後藤の前に姿を現さずそのまま立ち去ることもできた。そうしていたら後藤は警察に通報して・・・。いや、しなかったとしても別の誰かに殺されていただろう。

あの時、あの公園で岸が後藤の前に姿を見せたからこそ後藤は生きのびて今も殺人を続けている。
それは俺のおかげなのか?
いや、俺のせいなのか?

このゲームはいつ終わるのか分からない。ハッキリと言えるのは、死ねば終わるという事だけだ。
もう一つの懸念、それがハックエイムの連中、ハッカーズだ。

ハックエイム。
俺たちはハッカーズと呼んでいる。
このイカれたゲームにおいて俺たちはコンビという最強の攻略法を手に入れたと思っていたがやはり問題はあった。

一つはこのイカれたゲームの終わらせ方がわからないということ。
もう一つがハッカーズの存在だ。

分からない。それがこのゲームの終わらせ方とハッカーズに対する正直な感想だ。俺と後藤はコンビを組んだ。そして二人で協力して敵に向かい陥れ、そして殺してきた。

ある時、捕らえた敵が言った。あれはまだ最初の頃だ、10人目より前だったと思う。

「同じハックエイムだろ?見逃してくれよ!クレジットをやるから!パスワードは1234だよ!」

そいつはあまりに隙だらけで簡単に捕獲することが出来た。いつものように岸が囮となりポイントに誘導し後藤が始末する手はずだったがあまりにも警戒心が無さ過ぎたその男を後藤は殺すことなくバントラックの荷台へと積み込んだ。

俺と後藤は順調にゲームを進めてレベルもどんどん上がっていき購入できるアイテムや物資の種類が日増しに増えて言った。それに伴いやはり敵も強くなっていくのだろうと思ったが意外とこういった初心者か何も知らない素人なんじゃないかと思えるほどの敵がやってくることもあった。

こういった奴らは簡単にエビス屋の地下室まで運んでこれるし、自分の置かれた状況を理解する程度の知恵はあるようで命乞いをして素直にパスワードを吐いてくれる。
しかし、当然だがそういった奴らのスマホには微々たる報酬しか入っていない。つまりは無駄骨だ。
手ごわい奴はたんまりとクレジットを持っているだろうが捕獲するのは難しい。

だがそれでもこうやって少なくない危険を冒して捕獲するのは多少なりとも敵から情報を集める必要もあるだろうからだ。

そしてこの男が言った「同じハックエイムだろ?」と言う言葉を岸は見逃せなかった。

男を地下室に拘束し岸が問い詰めた。
「どういうことだ?」

「どういう事だって、ハックエイムだろ俺たちは」

「ハックエイムって何だ!?」

「何って、ハックエイムはハックエイムだろ?仲間じゃないか!」
男の返答はいまいち要領を得ない。

「無駄だ」
脇で聞いていた後藤が男の頭に手を回し首を折り終わらせた。

「なんで殺した!?」
岸が後藤を咎める。

「なんでもなにもこの地下室で仕事をするのはオレだろ?オレはオレの仕事をしたまでだ」

「こいつは何かを知っていた!それを吐かせてからでも遅くはないだろ!」

後藤は男のスマホに聞き出したパスワードを入力しそれを岸に見せた。

「見ろよ、こいつのクレジット。初心者もいいとこだぜ。こんなヤツから何を聞き出すつもりだよ」

「でも聞き出して損はないだろ!?」

「いや、損しかないな。例えばこいつがそのスマホをブッ壊せばゲームから脱出できるって言ったらどうする?壊すか?死を覚悟したヤツらが何を言ったとしてもそれを信用するのは危険だろ?そしてこんな初心者のいう事を真に受けるのはもっと危険じゃないか?」
後藤は首の折れた男の頭を揺すって言った。

「でも、全部信用するわけじゃない」
岸の答えに力が無い。後藤の言いたいことがおぼろげに分かるからだ。

「もちろんそうだ。だけどな、いざって時の判断に『それ』が混じって来ないって言えるか?『それ』に一切の邪魔をされずに結論を出せるか?」

「それは・・・」
岸は何も言えなかった。

「敵に追い詰められた時にな、もうダメだ最悪だって瞬間にせめて最後の抵抗を試そうとした時に(そういえばあいつはこんなことを言っていたな)ってスマホをブッ壊すって選択肢が頭に浮かんだらどうするんだ。一か八か相手をブッ殺すチャンスを捨てて必死にスマホをブッ壊すという無意味なチャンスに目がくらんだらどうする?それが無いって言えるか?お前がこのゲームの終わらせ方を知りたがっているのはわかる、このゲームにウンザリしているのはよくわかる。だけどそこに余計な情報を入れるのは危ないって言っているんだ」

「お前は!?」 

「オレは誰も、何も信用しない。たとえこのスマホに『ゲームクリアおめでとう!』って表示されてもすぐに安心してパーティーを開いたりはしない。お前が情報とやらを得たいのならお前自身がこの地下室でやればいい、お前がこのゲームのエンドロールを見たがっているのは分かる、それはオレだって同じだ。でもお前がここを使うならここで得た情報はすべて共有しろ。判断は二人でするんだ」

「お前が得た情報は?」

「もちろん共有して二人で判断する。だがオレは必要以上には聞き出さない。お前もそうしろ」

そうだ、後藤が正しい。もしこの初心者が
「スマホを壊せばゲームから逃れられる」
と言っても岸は信じないだろう。
しかしその言葉は瓶の底に溜まったワインの澱のように決して消えることなく岸の心の奥に残り続ける。
いつの間にか靴の中に紛れ込んだ砂粒のように暗闇の中で歩き続ける岸の足をチクチクと刺激し続けることだろう。

もしかして・・・という想いは捨てることが出来ない。ハズレた事を確認していない宝くじを捨てる者はいない。

ふと、この呪われたレモンイエローのスマホを握りしめ振り上げたくなることなど決してないとは、言い切れない。

後藤はすでに岸の何倍もこのゲームに慣れ切っていた。
後藤は岸に誘われてこのゲームに舞い込んだせいかそのアカウントはサブかゲストかという扱いのままだった。そのせいか敵に狙われるのは岸の方が多く、当然の事として岸が囮になることが多かった。

囮は危険だ。下手をすると背後から銃撃されて一瞬でゲームオーバーになるかもしれないからだ。もちろん防弾ベストを購入し二人ともジャケットやコートの下に身に着けているし、後藤が敵を監視しているとはいえ危険であることに変わりはない。
そしてその敵を殺すか捕獲するかは背後を取った後藤の判断に任せられるし、捕獲した敵にエビス屋の地下で何をしゃべらせるかも後藤の仕事だ。

パスワードを聞き出せばその分ボーナスが多くなる。多くはなるが素直にしゃべるような奴はいない。殺されてしまえばどれほどクレジットを溜め込んでいようとも終わり、ゲームオーバーだ。

しかしパスワードを吐いてクレジットから何から全てを失ってもやはり終わりだ。それは素っ裸で猛獣がうろつくアフリカの草原に放り出されるようなものだから誰一人簡単にパスワードを口にしたりはしない。

この男の様に聞かれる前から自分からパスワードを口にするような奴は失うものが少ないプレイヤー、つまり何も知らない初心者だ。そうでなければそう簡単にはパスワードを吐くことは無い。

そこで必要になるのは拷問だ。しかし吐いても吐かなくても殺されるとわかっている相手の口を割らせるのは困難だ。
このゲームではパスワードを三回連続で間違えたらそのアカウントは消去される。それは死亡と同義、裸でアフリカ旅行だ。だからパスワードを吐かせたとしてもそれが本当かどうかを見極める必要がある。吐いても殺されるし、吐かなくても殺されるのならば、さっさとゲームから退場してやろうという考える者もいるだろう。
それは死を覚悟して嘘を吐き自ら全てを終わらせ最後に小さな勝利を得てやろうという魂胆だ。 

しかしそんな魂胆も後藤には意味がない。後藤は見極めないし、そもそも相手の言うことを聞かない。

この地下室を拷問部屋に模様替えしたのは後藤だし、ここを使うのも後藤だ。そして後藤がパスワードを聞くのは一度だけだ。

後藤はそこまでの過程で相手に何を言われても無視する。会話はするがそれは意見の交換でも議論でも交渉でもなく、罠に誘導しているに過ぎない。後藤相手に言い訳も謝罪も懇願も命乞いも意味がない。後藤の耳には聞こえていても心には効かない。

後藤は自分が聞いた時の答えしか聞かない。そして後藤は一度だけ聞く。

そこに至っては相手も後藤に嘘をついても真実を言っても何も変わらないことを理解している。たとえ負け惜しみの嘘を付かれたとしても後藤は相手を無駄に弄んで憂さ晴らしをしたりはしない。パスワードを言おうが言うまいが、後藤はベッドで寝る前に電灯を消すようにごく当たり前に相手の命を吹き消すだけだ。

この地下室で後藤相手にそこまで耐えて真実を言うのが約3割だ。大半はそこまで保たない、肉体的に壊れているか精神的に死んでいるかのどちらかだ。

岸はある程度までは人を殺すことには慣れた。自分を殺そうとしてきた奴なら躊躇なく殺すことは出来るようにはなった。

それでも殺人という行為に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。善悪などという人が作り出した価値観とは違う、ヒトという生き物が生まれながらにして持っている感覚だ。同種殺しの忌避感とでも言えばいいか。それは性善説などと言う戯言とは全くの別物だ。善だ悪だと言う概念は人が生きてきた上で考え出された薄っぺらい考え方の一つでしかない。

殺人は確かに悪だろう。しかし仮に二人の人間が絶海の洋上で漂流し最後の最後となった時に相手を殺して飢えをしのぐことも悪と言い切れるだろうか?自分を喰おうと襲い掛かってきた相手を殺すこともまた悪だろうか?
善や悪と言うものは絶対的な物ではなくあくまで普遍的な物で、その時と場所によって変わる。
善や悪と言う考えは人類が成長しその社会の秩序を保つために考え出された物なのだ。
つまり人が生まれながらにして善か悪かなどと考えること自体が無意味な事なのだ。

岸は人を殺して、本のページをめくるように「はい次」と思えるような人間ではない。

ページをめくろうとするたびにどこかが引っ掛かり貼り付き本は少しずつ破れていく。

百人も殺せば慣れるんじゃないか?と思ったこともある。

だが、もし百人もの人を殺すまでになったらその時、そこにいるのは岸孝之という一冊の本ではなくボロボロの紙くずの山で出来た化け物であってほしいと岸は思う

岸にはボーナスをより多く貰う為だけにそいつを縛り上げ拷問することは出来なかった。2、3発殴ったところで吐いてくれればいいがそんな奴はいない。吐いても吐かなくても殺されるという事が分かっている奴に与える拷問は尋常な物ではない。
岸がそれを行うことは無理だった。

だが後藤はそれを簡単に行い、口を割らせる。
成功率は三割を超えるだろう。岸が地下室に同席することは無くなり後藤による拷問を監視カメラで見るだけになった。

ある日、地下室に運びこまれたのは女だった。後藤はその女も容赦なく拷問した。その顔と身体を後藤に切り刻まれ息も絶え絶えにもう終わりだろうと言ったところで後藤が女の耳元で何かをささやくと女はパスワードと感謝の言葉を口にして後藤に殺された。

その様子を監視カメラで見ていた岸は最後に何を言ったんだ?と後藤に聞いた。後藤は事も無げに答えた。

「パスワードを言ったら元通りに綺麗にしといてあげるって言ったんだよ。女には結構効くね」

女は美しさの欠片も無くなった自身の姿を、死ぬ前に後藤が綺麗に戻してくれると信じてパスワードと感謝の言葉を口にして死んだ。
後藤はもちろん女の身体と切り落としたパーツをそのままボディボックスへと詰め込んだ。

別の日に地下室へと招待されたのはいかにもレベルの高そうな屈強な男だった。

後藤はその男の口をダクトテープで塞ぎ両手を縛り天井から吊るし、男の意識が戻ると何も言わずにレザーグローブを嵌めた両手で男を殴り始めた。五分も経たないうちに男は鼻から血が噴き出しダクトテープでふさがれた口からは必死に何かを訴えようとしていたが後藤は全く意に介さず男を殴り続けた。全身から汗を吹き始めた後藤の身体から湯気が立ち上る頃、ようやく後藤は男の口からダクトテープを剥がした。男の口から勢いよく血が吐き出されそれが収まるとさらにパスワードも吐いたが、三桁目までだった。男がパスワードの四桁目を吐くことはなく、息を吐くことも無くなっていた。後藤は勘で四桁目の数字を当て男が所持していた全てを奪い取ると箱に詰めた。

岸は監視カメラの映像ですら後藤の拷問を見ることを止めた。

岸の最初の説明を受けて後藤は
「殺さなければ殺される」
「死にたくなければ、生き延びろ」
というこのゲームでの基本ルールを理解し実行した。二人目はまだわずかな躊躇があったが三人目は少しの迷いもなく殺し、十人目を殺す前にエビス屋の地下室へ初の招待客が招いた。

今まで、後藤が聞き出したハックエイムの情報は大まかに言えばこんなところだ。

岸と後藤というたった二人のコンビに比べハックエイムの人数は膨大だという事。事実、捕えた敵の大半はハックエイムでそこに属していないと思われる者は少なかった。

そしてハックエイムの連中は岸と後藤に比べレベルが低いものが多かった。これはパスワードを聞き出せなくても殺して得られるクレジットの少なさから分かることだった。

そしてハックエイムの連中の最大の特徴はお互いを認識していないという事だった。緩い共同体とでも言えばいいのか。下手をするとハックエイム同士で殺し合いをすることもあるようだった。言ってみればハックエイムは江東区民、後藤と岸はそこに紛れ込んだたった二人の埼玉県民と言ったところか。後藤と岸の二人に比べれば江東区民の人数は膨大だ。だが全ての江東区民が一致団結して二人の埼玉県民を殺しに来ているというわけではないという事だ。下手をすると隣人の顔すら知らずに江東区民として生活し、時に区民同士で殺しあっているということだ。

おそらくわずかな税の様な物を支払い、なんらかの行政サービスの様な物を享受しているのだろう。そのサービスの一つで岸と後藤が狙われやすくなっているという事なのだろう。

そして後藤は実に頼もしかった。

しかし「殺さなければ殺される」という一言でこうも簡単に人を殺せるものだろうか?

当然恐ろしくもあった。
「ボーナスは多い方が良い」
という理由だけでああも人を拷問できるものだろうか?

岸は殺人に対して潜在的な嫌悪感を持っている。だが世の中には人を殺めることで高揚感を得ることが出来る人間も僅かながら存在する。
それは間違いない、何人か見た。このゲームの中には現実社会よりその手の人間が多いようだ。

後藤は違う。
人を殺して高揚感を得るタイプではない。もしそうなら岸は後藤に対して強い嫌悪感を抱いていただろうし、どこかで仲違いしていただろう。

後藤は殺人を実行しても罪悪感に苛まされることはなく、高揚感を得ることもない。
だがその理由は今日分かった。

後藤はまだ橘京子を探している。

奇跡が起きて京子が二人の子供を宿し後藤は幸福に包まれていただろう。
しかもそれが幸福の最大ではない。
今からプロポーズをし二人は結婚し子どもが生まれるだろう。
その子は女の子だろうか?男の子だろうか?名前はどうする?

後藤の幸せはこれから京子と共に、これから生まれる子供の成長と共に大きく育っていくはずだった。

だがそれは弾けて壊れた。バラバラになって死んだ。
後藤の目の前で。

だが後藤は京子が死んだという事実を受け入れられないでいる。
まだ幸せな生活の続きを見ることを諦められずバラバラになった京子の事を探し続けている。

それに比べたら、自分の命を狙ってきた者を返り討ちにし、時にその身体を切り刻み殴り潰したところで気に病むこともない・・というわけでもない。

後藤は既にこれ以上ないほどに病んでいた。

後藤の中で「死」という概念が歪んでしまっているのだろう。

おそらく今の後藤は「死」という意味を正しく理解できていない。

死という概念を歪めているからこそ京子の死から目を背け認めずにいられるのだ。

死の意味から目を逸らすことで消え去った幸せを追い続けることが出来るのだ。

後藤は殺人を犯しても何も感じていない。
高揚感も嫌悪感も感じていない。

だからこそタバコの火を消すほどの感覚できっちりと人の命の火を消すことが出来る。

岸は後藤をこのゲームに巻き込んだことに対し常に後ろめたさを感じていた。

もちろんあの時に岸が後藤を誘っていなかったら、後藤はすでに殺されていただろう。

それでも岸は、後藤を何一つ迷いなく人を殺すことが出来る殺人鬼に変えてしまったということに罪悪感を感じずにはいられなかった。

だがそうではなかった。

後藤はとっくの昔に壊れていた。

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