ドラゴンスレイヤーズ

《あらすじ》
竜を支配するという杖の購入に失敗した騎士アラム。魔術師の杖と薔薇の剣を交換した男の子と女の子。竜人と戦い、大陸の危機を直感し王国を捨てた王。王国を征服したもののドラゴンを見て撤退した帝国騎士団。王は自らドラゴン退治を志し、帝国はドラゴン討伐を黒騎士に託した。帝国に編入された魔術王国の魔術師は皇帝の依頼を受け、薔薇の剣を送った幼馴染帝国の剣と大司教ラズエルを皇帝から借り、王は竜を神と崇めるリザードマン種にドラゴン討伐の許可を得た。彼らはドラゴンに戦いを挑み、負傷しては交代という地味戦術でドラゴンを討伐する。

大編一話 火竜を殺した者たち。

槍を手にした。
ランスではなく、スピアーだ。
騎士の武器ではない。
片手で使う騎士の剣に比べて総身が長く重心を保つのが容易ではない。
アラムはそれを片手に乗せて振るってみた。
石突きに近い、柄のしっぽの部分を握り縦に落とす。
槍の穂先が背中を超えて、後ろの地面をたたく前に全身の力で引き戻す。
ぐんっと人を背負って投げる投術に似た動きになった。
一度、手首を上に向け勢いよく前に返す。
もっとも人を投げるわけではなく、槍をきれいに切り落とすには腕を伸ばす必要がある。
アラムの膂力をもってしてもそれは容易なことではない。
食いしばった歯の間から「ぐぅ」と声が漏れる。
この一動作のために全身か汗が噴き出すどころか肩が抜けて腕が落ちてしまいそうな緊張とも衝撃ともつかぬ筋肉の動きにアラムは慄然とした。
槍の穂先は弧を描きつつも、アラムの正眼を通り過ぎていく。
が、止まらない。
振り下ろした勢いを止めようと全身を引き締めるが力及ばず振り下ろされる槍は止まらない。
穂先の位置に据えられたガラス瓶が粉々に砕ける。
砕けたガラスの容器の中からは金貨がこぼれ、飛び散る。
「いい線行ってたぜ」
槍を振り下ろした姿勢のまま、動くこともできないアラムにかけられた声に嘲笑はない。
だがアラムの負けだ。
「悪いがこいつはもらっていく」
男が手にしたのは金貨ではなく、杖だった。
アラムが奪還を命じれらた杖。
「お前は賭けに負けた。その金貨を持ってご主人様のところへ帰りな」
金貨百枚。
それが杖を手にした男にアラムに支払った金額だ。
ガラス瓶の中に入った金貨はもとはアラムの所有物であり、一時、男の所有物になり、今またアラムの所有物となった。
アラムの求めた杖と引き換えに。
もしアラムが最初にこの仕事を受けていたら、その杖に危険性を知っていたら騎士の誇りを捨ててでも男に襲い掛かり、切り捨てていただろう。
だがアラムはこの仕事に飽き飽きしており、しかもその杖が何であるかを知らされていなかった。
アラムは騎士である。
国に関わる地位のある大きな領地を持つ上級騎士ではなく、小さな街道町の領主であるラフムの雇い騎士だ。
街道のラフムといえば、骨董品の収集癖で知られている商人騎士だ。
領主の席を金で買ったといわれる男である。
実際にラフムは豪商と呼ばれるほどに裕福な商人であり、金貨銀貨をばらまくことに頓着しない。
たかが一本の杖に金貨百枚を支払うのだ。
その富は計り知れない。
今回の杖だけではない。
アラムたちは騎士であるにも関わらず、領主ラフムの古物商のような仕事を手伝わされている。
ラフムが商人騎士ならばアラムは傭兵まがいの騎士、あるいは商家の奉公人だろう。
もっとも熱心な奉公人とは言えない。
なぜならアラムはラフムの前の領主に剣を捧げ、騎士となったからだ。
いやアラムだけではなく、今のラフムの下にいる騎士は皆、前領主に見いだされ、仕えていた者たちだ。
街道の街は先の戦で帝国の領土に組み込まれた町である。
もっともその戦いは十年以上前に起こったもので、まだ十七になったばかりのアラムはその戦いに参加してはいない。
ただその戦いの中で閃光を放った見習い騎士の話なら知っている。
その見習い騎士こそが先の街道の街の前領主だ。
アラムはその輝きに魅せられ騎士になった。
いつか華々しい武勲を上げることを夢見て・・・
だが夢は去り、今は価値があるのかないのかわからない骨董品を捜して旅に出ることこそだけがラフムの騎士たるアラムの役割だった。
壮絶な役割ではない。
骨董品を手に入れるのに失敗してもラフムは「それは残念だ」と肩をすくめ、退出を許す。
そういう任務をアラムはもとより騎士隊の全員が軽侮の感情すらもって遂行していた。

風を切り、嵐を現すような白刃の下を上を横を、いやあらゆる方向を潜り、鍛え抜かれた褐色の肉体が見ている者の精神を惑わすように躍動している。
悪霊に取り付かれているような、自身の身を切り刻むのを望むような荒行に人々は目を奪われ、息を呑む。
白刃を手に舞を舞うこの技芸を人はソードダンスと呼ぶ。
もっともこれほど激しいものはそうはない。
今、舞手が手にしている偃月刀は先ほどテーブルとともに荒くれ者の一人の腕を叩き斬った代物なのだ。
そのあまりの見事さに誰もが息を呑み、腕を切り落とされた荒くれ者でさえ、賞賛した。
男は戦士であると名乗り、もろ肌脱ぎになり、こうして剣舞舞手として酒の席に興を添えている。
ただの戦士ではあるまい。
見る者が見れば手にした剣には魔法の輝きが見て取れたことだろう。
そうでなくても男の存在そのものが見る者を惹きつけてやまない。
野生と知性の融合とでもいおうか、不思議なアンバランスさが男の中には感じられる。
「さて飲もう!」
男が剣をおさめて両腕を広げると同時に、酒場は大きな歓声に包まれた。
それはまるで新たなる英雄の誕生を讃えているかのようだった。

「これがいいよ」
まだ幼い少年が指さしたのは薔薇の装飾が施された長剣だった。
「こっちのにしなさいよ」
反論したのは少年と同い年の少女だ。
そこには二つの竜首が絡み合って魔法石を支える杖が飾られている。
「ぼくはゆうしゃになるんだよ」
「まほうつかいのほうがかっこいいわ。まほうのちからがなかったらゆうしゃだってどらごんにまけちゃうわ」
「ぼくはさーらにはせんしになってほしいな」
「なんでよ」
「だってまほうつかいじゃいっしょにたたかえないじゃないか」
「たたかえるわよ。あれっ、いまなんていったの?」
「だからさーらにはこのけんをもらってほしいんだ。ばらのきしとして」
「なーんだ。あんたがほしいわけじゃないんだ」
「きみへのぷれぜんとだよ」
「じゃあ、わたしからはつえをあげる。あんたはまほうつかいになってわたしのそばにいるの。ばらのきしのまほうつかい」
「それじゃあならんでたたかえないよ」
「だいじょうぶ。わたしがまもってあげるから」
「ぼくはゆうしゃがいいのに」

風が走り、黒髪が風になびく。
いやめちゃくちゃにかき乱される。
塔の上を走る風は暴風というのにふさわしい荒々しい力強さを持っていた。
「いい風だね」
気負うこともなくつぶやいたのは赤いローブをまとった少年だ。
彼は今、魔術師としての試練に挑んでいる。
この都の魔術師の頂点たるラフーム・バジルーラの開いた魔術の学院の最終試験。
それは一つの大魔法に触れることだった。
アラム・ランカードは風の大魔法を試験の課題として選び、ここにいる。
吹きすさぶ風は嵐の王ハイランダーの魔法体の一部が漏れ出しているせいだと言われている。
その力が漏れる扉をひと時の間、閉じることが今回の課題だ。
「根源たる空にたゆたいし、偉大なる魔力の流れよ」
アラムの呼びかけに、暴風の勢いが弱まり再び強さを増して襲い掛かってくる。
そこにアラムは風の精霊の声を聴いた気がした。
その声は「選べ」と言っているようだった。
「選んで」と懇願しているようにも聞こえる。
だがアラムの答えは決まっている。
「猛き暴風、空を薙ぐ刃、雲を運びし、名を持つ者よ。名を持たぬ星の力の前に頭を垂れよ。ラウル・フー・ベズン。我が意に従い、しばしの平穏を。万物を支配する全能なる力よ。その律動を持って我が意を現せ! ディスペル・オーダー」
嵐の王が苦悶し、天空からその影響を消去されていくのがわかる。
「見事だ。アラム・ランカード。現時刻を持って汝は我が学院の正魔術師の資格を得た。二つ名を得るのは先なれど我が学院からは『風の』称号を贈ろう。正式な名称と合格証については後程に」
アラムの試験官であったやや年かさの魔術師が高らかに宣言する。
老人というには若く、青年というには老いている。
「ありがとうございます。導師」
アラムが頭を下げる。
するとその長い髪が天空へと吹き上げられる。
「嵐の王がお怒りだ。さっさと下に降りた方がいい」
導師の軽口にアラムは目を見張る。
そして静かにうなずくと先を行く導師の背中を追いかけた。

十年前、戦があった。
その戦によって小さな町が奪われた。
いや小さな町を与えることで相互融和を図ったのだ。
その町は各国の富の集積地であり、そこを収めるには自国の生み出した制度、設備、信用が必要だった。
それらが失われればその町は廃墟と同じである。
だから土地としての街を失っても痛手にならないと考えたのだ。
当時、宰相として国を牛耳っていた老人は指を繰った。
そこには強大な魔力の輝きを完璧に隠蔽しきった金色の指輪が嵌められている。
帝国からの「贈り物」だ。
その価値は金貨数千枚にも勝る。
小さな町を差し出すことで和平がなったのも宰相であった老人が帝国と気脈を通じていたおかげともいえる。
外交というものは利でできている。
だからその利を持って相手を動かし、動かされるという形は正しい。
老人は賄賂で町を明け渡したが、いざとなれば明け渡した町をコントロールして帝国に不利を食らわせられる。
少なくとも自国の不利にはならぬようにできると信じていた。
あの戦が終わった後も老人は帝国に割いた街道を封ずる街を掌の上で転がしているつもりだった。
いつでも取り返せる。
取り返さなくても利を得ることはできる。
そもそも自由都市、交易商業地というのは厄介な代物なのだ。
小さな町であっても大きな富の集積という条件、人脈と情報力の交差によって小国並みに、時には大国に勝る迷惑を王国が引き受けなければならない。
帝国にとってもそれは同じと思えた。
対処する方法はいくらでもある。
しかし三年前、宰相の地位を追われてからの老人は自身の残した歴史的業績に恐怖を感じている。
どんなことがあっても対処はできる。
だがそれは老人が「宰相」であればこそ、内政外交に関与できる立場にあればこそだったのだ。
あの金色に装飾された玉座の傍に立っていたときにはすべてが容易く思えた。
明日も生きていると信じて無邪気に今日を浪費する若者のように政策をもてあそび、外交を成り立たせるために恥を忍んだ。
皆が反対すればするほど自分の経綸に自信を深めたものだ。
一時の恥を忍んで、萬世に益をもたらせばいいではないかと今日を心配する者を笑った。
今、振り返ればまるで自分ではないかのような狭量さに戦慄すら思える。
帝国の魔術師に服従の魔法でもかけられていたのではないかとさえ思う。
街道の街を与えた王国は驚くべき速度で衰退しつつあった。
それを防ぐには町を取り戻すしかない。
老人が宰相を追われてすぐに交易商業地のすべての交易システム、信用を担っていた制度、古くから使われている王国の印章、割符、交易語まですべての慣例は王国から帝国へと譲渡されている。
「土地に付随する物は動かしがたい。土地を割いた以上、その成り立ちを与えぬのは片手落ちだ。長き和平のためにそっくりくれてやるのが吉だ」
新たに宰相の座に就いた男はそう言ったらしい。
「和平のために」
それは老人が宰相であった頃、擦り切れるほど口にした言葉だ。
だがそれは偽りだ。
帝国は肥え太り、王国はやせ衰えている。
王国の印章すら明け渡すというのは亡国のはじまりだ。
そこまで考え、老人は自嘲の笑みを浮かべた。
それと全く同じ趣旨の言葉を吐いた男をせせら笑い、追放した記憶がよみがえったのだ。
「土地を割く、それも行路交わる枢要の地を与えるとは亡国の所業ですぞ。和平もいい。しかし戦わぬ国は決して独立不羈ではいられませぬ」
老人はそのとき何と答えたのかも覚えている。
これ以上の犠牲は出せぬ。
美しい言葉だ。
卑怯な言葉だ。
権力の座にいない者には決して吐けない言葉。
「いや死力を尽くして戦っていない国の言葉か」
老人は椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げる。
あの男は今どこで何をしているのだろうか。
ふとそんなことを思う。
老人はひとりだった。

「たかが人間の平和のために戦っていると思われるのは業腹だが」
硬い鱗に覆われた竜人の腕をやすやすと切り落とした男はそばにいる騎士に舌打ちして見せる。
「人里を襲う魔物を放っておくわけにはいきませぬからな」
二人はともに馬上にある。
舌打ちした男の額には簡略化された王冠が載せられており、身分にふさわしい駿馬が力強く後押ししている。
並みの馬ではない。
大陸でもめったに見ることができない名馬であり、黒々とした肌艶と毛並みは黒い獅子を思わせる激しさと気高さを備えている。
その背中にいる男はさしずめ、敏捷な黒豹だろうか。
印象の話である。
男は王冠を被りながらもその王冠の持つ重厚さというものをかなぐり捨てているかのように気ぜわしい。
重々しい王冠よりも簡略化された王冠の方が価値のある本物ではないか。
見ている者たちにそんなことを思わせる男だ。
玉座にいるよりも戦場にいる方が、戦場にいるよりも剣術の試合をして汗をかいている方が似合っている男だ。
いや一人で技を練っている姿こそがこの男の本質なのかもしれない。
「やれやれ、そろそろ刃がつぶれてしまいそうですな。私の剣もなかなか立派なものでなまくらとは程遠いはずなのですが」
「腕の差とは言うまいよ。俺の方が慣れているだけだ」
「竜鱗を叩き斬るのに慣れるほど苦労はしたくありませんな。機会があっても私にはできそうにありませんが」
「なに、お前の国元での苦労に比べたら遊びのようなものだろう」
男は長剣を一閃させ、竜人の首を飛ばす。
「まったくですなと言いたいところですが」
耳障りな音を立てて鋼が弾け飛ぶ。
「折れたか」
「我が家の家宝。伝来の名剣だったのですが竜人の鱗の前には儚いものです」
「この世で最も硬いといわれる竜の鱗とまではいかんだろうがかなり固いことは確かだからな。退くぞ!」
そう言いつつ、簡略化した王冠を被った男は馬を操って折れた剣を捨てた騎士の馬に群がる竜人の群れの槍の間に割り込み、その銀剣を一閃させる。
そろそろ頃合いであった。
竜人たちは人間には、少なくとも男に理解できない言葉を交わし合い、追ってくる。
その姿から蜥蜴人間などと言われることもあるが実際に出会うとその印象は崩れ去る。
大きすぎるのだ。
二足歩行であり、手を使い、独自の言語も持っている。
だが決して人間ではない。
人間に爬虫類の鱗がついていると考えていては絶対に竜人には勝てない。
そもそも蜥蜴人間が噂されても発見されないのはそう呼ばれる竜人が誰もが想像する蜥蜴人間とは全く違うからだ。
首はやや長く、顔は蜥蜴に似ている。
似ていると言っても似たものを捜せばそうなるだろうというだけだ。
実際には蛇のようでもあり、竜の様だともいえる。
これはもちろん竜を見たことがあればの話だ。
馬に乗っている二人とまともに打ち合えたのを見ればわかる通り、馬の背を借りていなければ二人は人間よりはるかに長身な竜人たちに頭上を取られ、苦労したに違いない。
それでも負けるとは思わないが・・・
男の合図に二人と離れて戦っていた騎士たちも一斉に踵を返す。
それぞれが大袈裟に慌てているのは男の軽口のせいだった。
「俺たちに蜥蜴の顔色の違いは判らん。あっちもご同様だったらよっぽど大袈裟に騒がんと追ってこないかもしれんな」
さすがに馬から転げ落ちて見せるお調子者はいなかったがそれでも見ていて、情けないほどの慌てっぷりである。
「これはひどい」
男は馬の背に身を伏せて笑い、それからすぐ横を走る騎士を見てこういった。
「お前も見習ったらどうだ。そんな仏頂面では怪しまれるかもしれんぞ」
「もしや自らで蜥蜴に人間の顔色などわからぬとおっしゃられたことをお忘れですかな?」
騎士の言葉に男はたまらぬと言った様子で哄笑した。
馬上で背をそらし、笑ったのだ。
いかにも余裕あり気なその様子に竜人たちの足が止まる。
だがもう遅い。
逃げる振りをする時間はすでに終わっているのだ。

青い空に向かい、大きく伸びをしたのは緑の礼服をまとった青年だ。
その礼服の下には同じく緑の芝生が敷き詰められている。
その芝生の中に大の字に倒れこんでいる。
両手を組んで頭の下に添えている姿は昼寝としゃれこんでいるように見える。
実際にその意味もある。
こうやってぼんやりしている方が頭が働くのだ。
「せめて礼服を着替えてからにしたらどうだ」
青年の目の前に揶揄うような笑みが現れる。
「隊長、いや中隊長」
青年は慌てて身を起こそうとしたが、今度中隊長に昇進した男は「そのままでいい」と手で合図して青年の隣に腰を下ろす。
中隊長と言ってもただの中隊長ではない。
赤の騎士団大隊の中隊長である。
帝国の軍事の中枢を担っている十二の騎士団の正式団員というだけでもそこらの領地持ちよりは押しが効く。
中隊長といえば団長、副団長、大隊長に次ぐ地位である。
常時、百人ほどの騎士とその従者を動かせる力を持っているのだ。
そこらの小国の王と同じくらいの軍事力を持っていることになる。
今も赤の騎士団の一員として金糸銀糸で鷹の意匠を凝らした中隊長記章を付け、真っ赤な礼服をまとっている。
ちなみに青年はもと緑の騎士団の団員だったがこの隊長にひき抜かれ、ここにいる。
いまだに礼服が緑なのは青年に騎士としての才能が全くないからだ。
騎士としての才能がない=騎士としての収入がないということなので新しく礼服を仕立てる金がないのだ。
もっともそれ以外の収入はある。
戦時収入だ。
剣術も馬術も算術も苦手な男だが戦場での駆け引きだけは非凡であった。
いや引き時を見るの天性があった。
それはこの青年が十度の戦場を経験しながら一度も引き時を誤ったことがないことからもわかる。
その最も恐るべきは「アクシャーサの戦い」と呼ばれる一大決戦で、しかもそのときこの青年は一介の騎士見習い落ちの従者にすぎなかった。
帝国最大の苦難の時代の戦であり、この一戦に敗れればその威信は地に落ちたとまで言われた戦いだ。
もっとも帝国が隆盛を極めている現在ではそのことに触れる者も国もない。
緑の騎士団の一小隊が踏みとどまり、結果としてそれが帝国に勝利をもたらしたことも。
その小隊を指揮していたのが剣術も馬術もできない少年だった。
あまりに激しい激突に中隊長が早々に戦死してしまい、その後を預かった小隊長たちも倒れ、緑の騎士団の第四大隊が四分五裂しつつあった中、ただ一人生き残っていた小隊長が青年の上司だった。
こちらは剣術と馬術、算術などの騎士としての能力は段違いながら戦場での運がないと忌避された青年だった。
そのため寄せ集めの騎士小隊の騎士隊長となったといういわくつきの男はそれだけに騎士たちより落ちこぼれた従者を可愛がった。
可愛がられれば助けたくなるのが人情というものだ。
少年だった青年はあれこれとこの不運な専任騎士に助言を与えた。
さして聞く耳を持っていたとも思えないこの騎士隊長だが明らかに敗色濃厚なので自棄になっていたのか青年の提案をすべて受け入れた。
最期には攻め寄せてくる敵の騎士隊の中に単騎で突撃をかけたほどだ。
そしてその間にやってきた赤の騎士団の伝令騎士の手で立て直された小隊の動きが帝国を勝利へと導くことになる。
もっとも戦場が混沌としすぎていたせいで、それに気づいたものは少なかった。
特にその中に当時の皇帝自身が入っていなかったことは付け加えておくべきだろう。
敵中に戦略的な単騎突撃を仕掛けた騎士隊長はその他大勢の騎士道精神にあふれた者たちと十把一絡げにされ、称揚されるどころか無謀であるとの評価さえ得られていない。
もちろん戦局を変えるきっかけとなった伝令騎士の働きも不問にされた。
戦線を支え続けた少年の存在などは戦場には無い。
この戦いの殊勲は最後に敵の王の首を上げた青の騎士だった。
文武両道であり、先王つまりは初代皇帝の直臣として熟練の極みにあった騎士団長の姿は誰の目にも記憶される功績となった。
その功績によって青の騎士団長は近衛騎士団長に昇進している。
先王の右隣に席を与えられ、先王の剣と呼ばれている男がそれである。
この異常とも呼べる大昇進を見るだけで当時のこの戦いの重要性がわかる。
一方で赤の伝令騎士は自らを誇らず、剣もろくに扱えない少年を客として迎えた。
拾われた少年と伝令騎士はこつこつと戦場を踏み、一人は中隊長に、一人は中隊長の友として知られるようになった。
いまだに青年が緑の礼服をまとっている意味がそれであり、わざわざ緑の礼服を仕立てなければならなかった理由もそれだ。
「傭兵のように戦場雇いでは他の騎士が納得しないだろう」
という中隊長の言葉は真理であり、青年の考えとも一致した。
青年は「もう少し給金をはずんでくれたら」とも思うのだが、それを口に出すと間違いなく、「正式に赤の騎士団の団員として私の下に入れ」と言われるに決まっている。
つまりはきちんと騎士としての訓練をして騎士試験に合格しろいうことだ。
無理だと言っても、聞かないだろう。
この中隊長は驚くべきことに青年が立派に赤の騎士の団員として通用する才能を持ち合わせていると信じて疑わないのだ。
青年自身にもとても信じられないことを平然と信じ切っている。
青年が愚痴れば待っていましたとばかりに、それに見合う訓練を課してくるに決まっていた。
「どうかしたのか」
「いいえ」
青年は昼寝を決め込もうとしていた青年に対しての中隊長の言葉に短く答える。
そう今は「どうするべきか」わからない。
青年になった少年は本当にまだ何も思いついてはいないのだ。

強者は弱者として世に現れ、弱者を操って支配者となる。
これは世の真理である。
もともと弱い者が強くなるというのは「嘘」だ。
強い者が弱い者たちの上に君臨するためにうつ芝居である。
そういう芝居を打とうとする者は心に「鬼」を飼っている。
ひとを喰らうことを喜ぶ慚愧なき鬼を。
貴族という人種がいる。
「銀のスプーンをくわえて生まれてくる」と言われる者たちのことだ。
いや「生まれながらに銀のスプーンをくわえている」だったか。
貴種は強者ではない。
貴種に慣れる者が強者なのだと彼女の師は言っていた。
彼女の師によれば彼女の村は近隣でも最も実り豊かな土地で、作物の出来も国中を回っても比べるところがないほど良いという。
だがこの村は貧しかった。
黄金の稲穂も、紫のブドウも、村を守るように連なる山々からとれる野苺や山菜、木材、狩人が命がけで取ってくる獣さえも村に残ることはなかった。
いや村人さえも税として奪われていく。
奪っていく者はいつも「すまない」と頭を下げる。
恐るべきことにそれだけで村人たちは涙した。
恨み言を述べる者はその女を罵らない。
その女には野盗の群れから村を守ったという実績があった。
領主たる騎士が手を付けかねていた野盗のアジトに乗り込み、一刀のもとに野盗の頭の首を斬り飛ばしたという噂もある。
本当だろう。
女が野盗の頭の首を持ち帰るのを見た村人は少なくない。
そしてその首は字の読めない村人たちの前にさらされた。
そこには女が野盗の頭を討ち取ったことと領主の命によって従騎士に取り立てられることが記された高札もあった。
「それで野盗がでなくなったのですか? おかしいですね」
彼女の師は顎を掴むような仕草をしながらそう呟いた。
そして次の日、彼女の師は死体となって発見された。
その死体には首から上がなかった。
私も貴種だ。
彼女はそう確信している。
一刀を持って、天下に名乗りを上げる強者に並ぶものだ。
女は今、豊かな資を持ちながら貧しい暮らしを強いられている村の一村人に過ぎない。
そう今はまだ・・・

策士策に溺れるという。
大きな力と能力を持つ者が明確な理想と目標を求めるのは利の究極である。
衆に優れているがゆえに自己利益の究極の表現を求める。
策士であるには自分がすぐれているという自信がなくてはならない。
その先鋭的な例が自作自演の被害を受けることになりがちなのは策士が完璧を求めるからだ。
自らの利益を勝ち取るために動くための大義名分は策士にとって必要不可欠な成分だ。
多少いびつな嘘であっても理想的な自己利益の実現のために反転させるということができる、あるいは自己利益を得てしまうまでは嘘が通用していればいいと考えるのはごく自然に彼らが自らを上に立ちし者としているからだ。
能力的に優れているからか、あるいは理想に崇高性を持たせる何かの特性を持っているのか。
ともあれ、多少の犠牲や罪悪をものともしない強靭性があることは確かだろう。
もちろん自己利益を達成してしまえば自作自演の大義名分が粉々になってもそれを維持できるという確信を持っている。
そしてその自信のもとはすべての人間が策士自身が想定した思考と行動を大きく外れることがないという前提がある。
「どうやらしてやられたようですね」
豪奢な衣装に身を包んだ王子を守る任務を持つ護衛騎士の一人が上司たる女騎士に囁く。
妾腹の王女であり、正当な王位継承権を持つ八歳の王子の姉に当たる人物だ。
政治力も、人望もあり、その剣技も大陸に冠たる部類と言われ、戦場に立っても一流の指揮官とされている。
護衛騎士自身はまだ戦場を踏んだことはないので伝聞でしかない。
が、事実であろう。
交流外交使節団の外交顧問として王子とともに派遣されていることがその証左だ。
ただ一つ欠点があるとすれば弟である王子に甘いことだろう。
ひとり身であることは王族としては利点でもあるので可否がつけがたい。
「姉様」
そう言いかけた王子の言葉をかき消すように女騎士は状況の報告を求める。
口を開いた王子は叱責を受けたことに気づき、表情を改めるが護衛騎士にそれは見えていない。
見る必要がないからだ。
王女たる女騎士は報告を聞き、いぶかしげな表情を浮かべた。
しかし時間が経つとともにその表情は真剣なものとなり、やがて苦渋に満ちた。
「ここは逃げ延び、再起を図りましょう」
護衛騎士のささやきに王女の顔色が朱に染まる。
そして目を伏せ、あるか無きかの笑みを浮かべる。
諦めた者の笑みだと護衛騎士は確信した。
俗な表現を使えば王女が「落ちた」、いや王女を口説き「落とした」と確信した。
もはや王女は愛する弟を襲った賊を許すことはないだろう。
それがこの国の貴族の誰かだとしても、王国の兄王子の誰かだとしても、たとえ王その人だとしても・・・
彼女の名声と実力があれば王国を打倒し、近隣諸国を従えることは容易いだろう。
民は貴種流離を好む。
幼い弟のために奮闘する姉王女は望外の人気を得ることだろう。
それこそ、弟に変わるべきだという議論が巻き起こるほどに。
そのためには比類なき実績が必要だ。
それをあげさせる。
腐りきった王国を叩き壊し、帝国を作り上げることこそが平和への道しるべなのだ。

ひたひたと迫ってくる気配がある。
人ではない。
形が違う。
黒い肌を持った銀髪の男は人の目に見えぬ光を捉えている。
いや彼らの種族には当たり前に見えて、他の種族には見えない光と言うべきか。
彼の手には黒く湿った刃が握られている。
長剣の半分ほどの長さしかない短剣よりさらに短く、刃幅が剣の六分の一ほどしかない。
手元の鍔の部分は皿のようになり、刃に液体を流し込めるように加工されている。
刃には流れても、手元には決して液体が流れないという精妙な機構は彼らの種族とは仇敵とされる生まれながらに忌まわしき鉄を扱うドワーフの里の技術だ。
流し込まれる液体は毒だ。
もっとも彼の毒は自作のもので、技術体系の恩恵をあずかってはいない。
闇市で毒を買うことすら許されぬ彼の素性が独自の毒の開発という道を選ばせた。
ゆえに彼は「毒飼いの暗殺者」との二つ名を持つようになってしまった。
別に暗殺を生業としているわけではないのだが、毒の持つイメージというのは結局はそこに起因してしまうのだ。
ざっと木々が震え、それが姿を現した。
二枚の翼を持ち、鋭い牙とかぎ爪を持った漆黒の存在を目にした彼は硬直した。
人ではないが人型であった。
その人型が放つ光は、精霊のそれに似ている。
炎と風の精霊が乱舞しているかのような色合いを持っている。
それと小さな核ともいうべき光。
彼は臆病な質ではなかったがさすがにこれを相手に毒で勝負する気にはならなかった。
精霊には精霊を・・・
彼は細短い刺突剣を鞘に納め、ゆっくりと右腕を引き上げる。
広げた手の形に論理的な意味はない。
ただこうした方がいいと感じているだけだ。
魔術と似て非なる力、いや同質ながら形の異なる力、精霊を召喚し力を行使するためには・・・

領主の館では緊急に剣術大会が開かれることがある。
馬術や弓術、あるいは戦術盤の試合などもこれに含まれる。
ひとつには領民たちの娯楽として、ひとつには領主の力量を示し威圧するため、ひとつには優れた技術者を見出すため、あるいは他国との交流試合で恥をかかないため、理由は様々だ。
そして今、その大会の終了を告げるラッパが吹き鳴らされていた。
大会の優勝者たる男は憮然としていた。
年のころはわからない青年期はすでに過ぎ、老熟に入ろうかという雰囲気はあるがその肉体に衰えは見えない。
黒々とした髪を撫でつけ、鼻の下から頬、角ばった顎にかけて整えられたひげを蓄えている。
引き締まった肉体を覆う衣服は絹であり、装飾の趣味も良い。
貴族、いや王族の庶子と言っても遜色のない所作も心得え、領主が圧倒される場面もあった。
ただ一つ不思議なのは左目の眼帯だが、それも貴族的なファッションだと言われれば納得できてしまう程度のものだ。
大会終了後、わざわざ領主が自らの館にこの男を招いたのもそういう諸々のことが気にかかったからだ。
そういえば先王の第三子が領主を査定して回っているという話を聞いた気がする。
先王はすでに老境の半ばをすぎたといったところだ。
だがその頭脳の冴えには一片の陰りも見えないと言われている。
伝聞でしかない。
伝聞でしかないのだがその伝聞を集めるのでさえ、まだ若い、しかも先の戦の褒賞として領主になった下級騎士上がりの青年にとっては一苦労だった。
世に冒険者とも傭兵とも呼ばれる者たちがいる。
彼ら世故に長けた者たちは生死を制する情報を制するために独自の人脈をいくつも持つというが一介の騎士を父として持った彼にはそれがない。
才覚財力の問題ではなく、立場の問題である。
彼は平凡な騎士の家の平凡な騎士に過ぎない。
領主の命があれば剣を引っ提げて、館の門の前に行き、なければ領地を巡回する警備兵の詰め所で書類仕事をする。
それが彼の生活だった。
剣や馬よりもペンこそが彼の騎士道であり、勤務評定に付ける参考資料の参考となる日常の記録係こそが彼の本分であった。
領主のそれとは隔たりがありすぎる仕事である。
「領主失格の烙印を押されるかもしれない」
記録係よりはるかに重い責任と権限のある領主の解任には大きな罰が付きまとう。
自分だけでなく、家族にも害が及ぶことも少なくない。
自分では精一杯やっていても査定として不合格なことは十分にあり得た。
青年は領主をやったことがなく、信頼できる部下などというものを持てる立場ではなかった。
実のところ、領地の把握もまだできていない。
努力はしているのだが、どう努力してよいのかがわからないのが現状だ。
徴税官から指示されるままに税を徴収し、王都へと送ることは実行できているがそれ以外となると怪しいことこの上ない。
今回、剣術大会を開いたのも有為の人材を得るためであり、ひそかに領民の言葉に耳を傾けるためだった。
休憩中の警備兵の愚痴を扉越しに聞くことでいろいろと知ることができた記録係時代の経験を拡張しようとしたのだ。
もっとも今回のことで彼が痛感したのはイベントを開くための手間というのが想像をはるかに超える大変なものだと言う事だけだった。
剣術大会の試合に興じる領民の間に入り、民情を推し量るどころではない。
そもそも領主主催の大会で領主が好き勝手に動き回れるはずもなかった。
試合に出る領民たちは領主の前で剣技を披露することを望んでいるし、領主の姿を遠目にでも見ようとやってくるのだ。
皆に見える位置に座り、存在を示し続けることこそが最大の仕事だった。
試合の勝敗に金銀銅貨を賭けてもいいとの布告をするべきだという忠告を与えてくれる者はいなかった。
いやいたかもしれないが青年には拾い上げる力がなかった。
そしてその準備をしなかったために剣術大会の大きな収入源の一つを失ったことを知ることとなった。
声を上げた商人はぼろ儲けしたことだろう。
もっとも商人が声を上げてくれなければあれほど剣術大会が盛り上がることはなかっただろう。
感謝はしている。
が、飛び交う銅貨銀貨をかっさらわれたことを指摘されると心穏やかではいられない。
不満というより自身の不甲斐なさにため息をつきたくなる。
「ひどく疲れているようだな」
「慣れていないだけです」
言葉には出さず、心の中で「たぶん」と付け加える。
記録係だったころからの不安を打ち消すための癖だ。
「そうだな。慣れてもらわねばならん。だが慣れ方にもいろいろとある。お前にはぜひともこの地を、ひいては大陸の安寧のために戦う決意をしてほしいものだ」
そう言って眼帯の男は表情を正すと懐から一枚の書状を取り出す。
青年の周囲にいた武官たちが剣を鞘走らせる音とそれらが叩き折られる音がほとんど同時に響き、一拍遅れて眼帯の男が腰に長剣を納める音が続く。
「警戒心は買うが懐に手を入れただけで剣を抜かれてはたまらんな」
こともなげに言った眼帯の男は続けて「お前たちは剣を抜くだけのことを知っていて彼は知らないということだな。だが事態は一刻を争う。話ぐらいは聞くものだぞ」と笑う。
領主である青年にはこのやりとりの意味は分からない。
「何をご存じなのかな」
この領地に根付き代々の領主の相談役として領地経営に携わってきた一族の代表たる男が剣を引き抜いた。
剛直が歩いていると言われる男で謹厳な面持ちで叩きつけるような物言いをする。
いかにも豪傑といった体躯と鋼のようなそっけなさを威圧的に感じる青年領主がもっとも苦手とし、そしてもっとも頼りとしている男でもある。
「いろいろとな。だがここで話すことではないと思うぞ。だが稽古の相手はしてやってもいい。一人でくれば命は保証する。そうでなければお前以外は死ぬ。そう思ってくれ」
眼帯の男は再び剣を抜いた。
抜いた刀は長剣であったが直刀ではなく、ややそりがある曲刀のように見える。
「その剣は」
声を上げたのは領主であった。
見間違えるはずがない。
なぜならその剣の持ち主を退かせたのは青年自身であり、その功績によりこの領土を賜ったのだ。
「イアーブ王」
絞り出すようなうめき声が部屋の空気を震わせた。

本当に価値のあるものは価値のないふりをして市井を生きる。
その価値を見出されれば、世界を震撼させかねないことを知っているからであり、世界を震撼させるものは存在を許されるために奉仕する必要があると理解しているからだ。
人はそれは賢人という。
だがモノは・・・・
杖の頭の部分にこぶし大の宝石のようなものが埋め込めるほどの穴が開いている杖の価値を槍使いの男は知らなかった。
老人が突いて歩くには短すぎ、装飾品としては雑すぎる。
だがこれを金貨百枚で買おうとした者がいた。
槍使いは強欲というほどではなかったが人並みに欲深い。
杖の価値はわからないが売買を申し出てきた相手が騎士であることは一目で見抜いた。
相手が騎士ならばまだまだ吹っ掛けられると踏んで断ったのだ。
あの騎士自身に収集癖があるとは思えない。
そもそも金貨百枚というのは貧乏騎士の出せる金額ではない。
誰かが騎士に使命を与えたのだ。
ならば金貨百枚でダメならさらに金貨が上乗せされる可能性は高い。
騎士とは見栄と誇りを剣と盾に託した存在だ。
あるいは領地領民の守護と税金を、だ。
だからもう一度やってくる。
あの騎士の主人は旅する騎士に軽々と金貨百枚を出せる存在だ。
二度、三度断れば上限が見えてくるだろう。
槍使いはそう考えていた。
だが今はすでに後悔し始めている。
金貨百枚は大金だ。
家を買い、五六年遊んで暮らすか。
あるいは貴族の爵位を買うこともできるかもしれない。
そう思うとある種の後悔が湧き上がってくる。
あのとき金貨を受け取っていれば、という後悔である。
槍使い自身に杖の価値がわからないだけに相手が食い下がってこないかもしれないという恐れがある。
価値を知るために鑑定士に鑑定を依頼すれば安心できるのかもしれないが、鑑定料は鑑定に出した品の一割と相場が決まっている。
金貨十枚といえば銀貨百枚であり、今の槍使いにはとても支払うことはできない金額だ。
もしそれ以上の価値があるとすれば、と考えると気軽に鑑定に出すことはできない。
もし千金の値が付いたとしたら支払いの方もそうだが杖を手放すことにためらいが出る。
何より鑑定することでこの杖の真の価値を知ることが怖かった。
もしこの杖の価値が槍使いの男の思う価値とは全く違うものであった場合もそうだ。
たとえばある貴族の身分を証明する品であり、その貴族になり替わろるために必要な証拠品であったり、暗殺の物証であったりする場合だ。
権力闘争の場には暗闘と呼ばれる知られざる戦いがある。
そういう戦いのごたごたで外に流出する物証というのは厄介極まりない。
価値がないのに価値がある。
鑑定したと知られただけで命を奪われる可能性もあるのだ。
傭兵、遺跡荒らし、雇われと呼ばれる何でも屋を生業とする槍使いは高く雇われ、そういうごたついた修羅場をくぐったこともある。
お尋ね者にならなかったのは運が良かったからだ。
いや貴族の満足する退き際で権力闘争の場から退場したからだ。
金貨百枚と騎士という存在が槍使いを悩ませた。
何より退き時を間違えたのではないかと気を揉んでいる今、目の前に詰まれている二百枚の金貨の主こそが最も大きな悩みの種となっている。
相手は騎士ではなく、商人を名乗っている。

恐怖をつかさどる精霊がゆらゆらと揺れ、それに取り付いた。
鋭い牙とかぎ爪を持ち、蝙蝠の翼を持った魔物は両腕を広げ、天へと咆哮するように口を開く。
その口から軋るような音が漏れる。
黒い肌と銀色の髪を持つ男は肩を上下させながらそれを見守っている。
精霊を召喚するということは世界を創造するのに等しい。
その労苦は果てしない。
少なくともまだ40歳に満たぬ若木たる彼にとっては・・・
蝙蝠の翼を持った魔物の前に三つの光が生まれた。
光の中に見える精霊光の性質は「火」いや恐るべき「炎」だ。
あの火球一つだけでも男を髪の毛一本残さず焼き払い、さらに男の足元の草を焼き払い、木々をなぎ倒し、大地を荒廃させるのに十分な破壊の力を持っている。
それが三つも放たれた。
光は直線と弧を描きつつ、目標に着弾し、恐ろしい炎の爆発となって対象を包み込む。
爆炎が空気を焦がし、それを吸ってしまった銀髪の男はのどが焼ける感覚を味わってしまう。
咳き込むこともできない焦熱の颶風はさらに鍛えてはあるが痩身な男の体をやすやすと吹き飛ばし、木々の一本に叩きつけ、悶絶させた。
だが火球の直撃を受けたモノはそうはならなかった。
爆発の衝撃も、いまだに収まらぬ炎の壁をものともせず、その巨大なあぎとを持って、蝙蝠の翼を持つ魔物に襲い掛かる。
蝙蝠の翼を持つ魔物が右腕を振るう。
何をやったのか右手のかぎ爪が巨大化している。
巨大化したかぎ爪が撃ち込まれる。
その一撃で巨大なあぎとを持つモノの鱗が弾ける。
男が確認できたのはそこまでだった。
爆炎の余波でのどを焼かれた痛み、そして大木に叩きつけられた衝撃によって男の意識は休息を余儀なくされたのだ。

「その槍使いとやらは目端が効く男のようだな」
商人騎士と呼ばれる男はアラムの報告を聞き、そんなことを言った。
そして愛妾に金貨の入った袋を三つ用意させ、それをアラムの前に置く。
「これは?」
「金貨だ。往復の面倒を割くためにそれぞれ五十枚ずつにわけてある。まずは一袋追加し百五十枚を提示し、決裂したら三日後にさらに一袋を、三度目でまとまらぬときは盗賊として切り捨てろ」
騎士アラムは戸惑っていた。
今まで、どんな場合でも彼らの領主は骨董品に対して執着しなかった。
骨董品に金貨十枚の価値があると思えば騎士に金貨十枚を託し、それで購入を拒否された場合は「それは残念だ」と肩をすくめる。
それがアラムの知っている領主の地位を金で勝った商人騎士豪商ラフムだ。
「な、なぜ」
そう口にする。
口にしてから領主に対して無礼を働いてしまった事に気づき、無礼を詫びようとする。
「それだけの価値があるからだ」
ラフムはアラムの無礼を叱責せずにそれだけを言った。
淡々とした口調と違い、その目には強い輝きがある。
その輝きをアラムは知っていた。
それはまるで・・・・

帝国の玉座を占有するただ一人の男が気合の声とともに魔法の輝きの宿った法剣を振りぬいた。
目の前に据えられていた鋼鉄の剣がバターがナイフで切り分けられるような容易さで二つになり、返す刀で切りつけられた全身鎧が弾け飛び、三枚重ねの大盾が紙のように貫かれる。
そして風に舞い落ちるイチョウの葉をその切っ先で支え、そっと大地へと流す。
「大陸の名を与えられし法剣を完璧に我がものとしたようだな。ジブリール」
そう声をかけてきたのは赤い髪の女性である。
彼に仕えるもっとも古き騎士であり、もっとも親しい家族でもある女性だ。
「姉上の教えの賜物です。ですがまだ開放までは至っておりませぬ」
「すまぬな。私は人を選ぶような剣は嫌いでな。刀剣開放については力になれぬ」
「いえ、帝国一の騎士たる姉上にできぬことをやって見せてこそ皇帝の威厳を示せるというものです」
若き皇帝は法剣を納めつつ、笑顔を見せる。
「こいつめ」
皇帝より頭二つは高い女騎士は拳を作って皇帝の頭を小突く。
それを受けて、うれしそうに笑う弟の姿に彼女は心がうずくのをおさえきれず、その頭を抱き寄せる。
「不敬ですぞ」
そう声をかけたのは帝国の大宰相たる男だ。
もっともその声には苛立ちよりからかいの色が濃い。
「ここには三人しかいない。あのとき逃げ延びた三人しかな」
女騎士、大宰相が皇帝にと望んだ元王女の言葉に大宰相となった元護衛騎士は苦笑いをするしかない。
女騎士、大宰相共に皇帝には告げられぬ過去を持っている。
だがその過去のおかげで帝国は帝国たりえている。
襲撃され、逃げ延びたあのときの王女の行動がなければ護衛騎士は様々に張り巡らせた策謀によって王国は築けただろうが帝国に至らせることはできなかっただろう。
策士策に溺れるとはこのことかと絶望し、しかし立ち上がるしかない状況に追い込まれたからこそ護衛騎士は一介の策士から飛躍するしかなかった。
それを読み切っていたのだとしたら王女の智謀は策士を自任していた護衛騎士よりはるかに上だったのかもしれない。
直感的な行動というには理が勝ちすぎている。
もっともそうだと断言できないところが厄介なところで、この女騎士の場合直感による行動ほど状況を大きく動かすという実績が多すぎる。
「姉上、大宰相殿をいじめるのはやめてあげてください」
「ジブリール陛下」
白衣の大宰相の顔を見て皇帝は楽し気な声を上げる。
姉である女騎士も声を合わせる。
大宰相はほろ苦く笑う。
皇帝にとってもっとも苦々しい相手となるはずだった策士であった自分を思うとついそうなってしまう。
かつて彼にとって取るに足りなかった幼い弟王子は今や太陽にも勝る唯一無二の存在となっている。
この皇帝を頭に戴き、大陸から戦を一掃する。
そのためにはどんなにあくどいことでもやってみせよう。
彼の中にはそんな思いが生まれている。
もっともそうとは知られぬように万全の準備を整えることは言うまでもない。
悪名によって得られた功績は必ず復讐される。
だが悪名を恐れずに断固行動しなければ何も得られない。
復讐者が全くいないと言う事は得るべきものを得られないか、持っているものを失ったかのどちらかだと大宰相は確信している。
帝国がその支配を盤石にするには得るものを増やし、失わないというのが
大前提であり、利益を出し続ける必要がある。
帝国は強欲だと思われてもいいが、悪辣卑怯だと呼ばれてはならない。
将来、今、悪であることが善へと変転することもあるかもしれないが、それは現在の利益には反するのだ。
だから大宰相は帝国の善性を示すことを躊躇わない。
人の心にある善悪の天秤を帝国に優位に傾けておくためには絶対に必要なことだ。
たとえそれが茶番だとわかっていても大義名分を掲げることは人心のよりどころとなる。
「ルガール、怒ったのかい?」
十も年下の青年皇帝が機嫌を損ねたのかと沈黙した大宰相の顔を覗き込む。
その仕草は帝位についた五年前のそれと大差がないように思える。
「陛下は人の心を掴むのがお上手だ」
「確かに私は甘え上手かもしれないな」
皮肉とも取れる言い方だったがその意図は誤りなく伝わったらしい。
「ではそれを生かして二人にお願いをしてしまおうかな。ここで食事をしながら話したいことがある」
青年皇帝は何気なく、庭先へと視線を向ける。
その視線を追った二人もまた皇帝の糸を正しく汲み取った。
この三人でしか話せぬ話をする必要がありそうだ。

「いい場所があったと言っていいんでしょうかね。隊長」
地形を偵察に行かせていた部下の一人が自らが見つけた洞窟へと仲間を案内しながらつぶやく。
せっかく見つけた寝床だったがどうみてもまっとうな洞窟ではない。
正確にはまっとうな輩が生活していたにしては生活感が荒々しく、その荒々しさと反比例するように、いやその荒々しさの正体が何かを現すように必要最低限でありながら明らかに集団戦力として活動するための設備が整いすぎている。
正規の軍施設ではない。
位置は領地と領地の境目だが領域警備の宿営地にしては大きすぎ、外観からはそれとわからないような秘匿設備が備え付けられている。
明かに領内へと侵攻するための設備だ。
「山賊野盗の類だな」
王から部隊を預かった男は薄くなった髪を撫でつけ、頷いた。
苦虫をかみつぶしたような表情はいつものもので特に何かを感じているわけではない。
「すみません」
「雨露に悩まされるのと山賊野盗と切り結ぶののどちらかを選べと言われたらお前はどうする?」
「どっちも御免こうむりたいですね」
部下の一人が答えると周りの連中と視線を合わせ、一つ息を入れる。
「それからバクダハ隊長、王様のまねをするときはそう言ってください。あなたはそういう冗談は上手くないのだから」
「そうか」
部下の指摘に男はいつもの表情で頷く。
どうやら騎士たちを預けられて、かなり気負っていたらしい。
いや騎士たちも気負っているからこそ、そういうことを見抜いてしまうのだろう。
「それも仕方のないことだが」
バクダハは独り言ちた。
大国同士が定めた国境線の上にあるイアーブ王国は大陸の地図に記されるとしたら国境線の上に緩衝地帯に無数に散らばる点の一つに過ぎない。
騎士団の兵力とて大国の一都市のそれに及ばないほどの数しかいない。
今、バクダハが率いている百人はイアーブ王国選りすぐりの騎士であり、騎士団の全兵力でもあった。
イアーブ王は過剰兵力を嫌う。
運用できかねるほど多すぎる兵はもちろん兵家の嫌うところだが、余計な兵士というものを一兵たりとも許さないというのは異常だった。
ありていに言えば余剰兵力なし。
それがイアーブ王の戦略であり戦術であるらしい。
実際のところ少数精鋭しか運用しないためにイアーブ兵の機動力と突破力はすさまじい。
もっともそれと引きかえに戦地を支配し維持する力は極めて弱い。
あるいはそれも計算に入れての少数精鋭なのかもしれない。
余剰兵力を持てば戦で勝った土地にばらまきたくなるのが人情というものだ。
少しでも広い緩衝地帯が欲しいのは国の業である。
たとえ兄弟の国同士であっても隣接する土地での領土問題は尽きることがない。
どんなに親密であろうとも最低限必要な礼儀はある。
国境の外に土地を持ちたいというのは国にとっては当たり前の欲求なのだ。敵を粉砕し、退却させれば、退却させた分だけ国は安全となる。
それを一時のものではなく、恒久のものとしたい。
そう考えるのがふつうなのだ。
だがそのふつうを行った国のどれもが成功するわけではない。
安全を求めた支配実行が微妙な国家間の力のバランスを崩してし、亡国を招いた例もある。
もちろん支配を放棄したために滅びた国もある。
「あるいは面倒くさいだけか」
ありそうなことだとバクダハは思う。
彼らの王は自らの使命と責任においては比類ない行動力を発揮する人間だが、他者の思惑に踊らされるのを極端に嫌う。
王は時折、子供が駄々をこねるのと同じような頑迷さでものぐさになるときがある。
本質から怠け者だとは思わぬが、そういうときに進言する立場にいると面倒な王だと思う。
結局はやらねばならず、やる力もあるのにやらないというのは甘えだ。
「入らないんですかい」
声をかけられ、バクダハは洞窟の中へと馬を進める。
その腰には剣の鞘だけがある。
あの戦いの後、イアーブの騎士たちは休みなく駆けてきたのだ。
幸いなことに剣をへし折って捨ててきた愚か者は彼一人だ。
そして彼一人が戦えなくとも山賊野盗に後れを取る騎士団ではない。
もっとも山賊野盗を退治しても、領主に報酬を求めることはできないわけだが。
「報酬か」
呟き笑う。
金貨銀貨どころか国すらも捨てた王の姿を思い浮かべると笑う以外にない。
もちろんそれはそれに従った自分たちに対しての笑いでもある。
驚くべきことに、王の言葉に従い国を捨てなかった騎士は一人もいない。
王に心酔している者もいるだろうし、王の言葉に動かされた者もいるだろうが惰性でついてきた者も少なくないだろう。
王がいればこそまとまっているが王がいない今こそ騎士団の危機だとバクダハはひそかに緊張している。
バクダハは世界の危機を感知し走り出す王とは全く違う種類の人間だと自身を規定しているのだから。

「競合者がいる」
商人は槍使いの男の迷いを見抜き、即座にそう判断した。
槍使いは人並みに強欲であるように見えたが勝算のない賭けをするタイプではない。
金貨二百枚という大金を前にして腰が引けているのではない。
これ以上に儲けられる可能性を持っているから迷うのだ。
「裏を疑われているのかもしれない」
商人にとっても金貨二百枚は大きな金額だ。
杖一本に出す金額ではない。
槍使いは杖に物品としての価値はなく、暗闘の世界での価値があると察したのだろう。
「いい勘をしている」と思う。
実際のところ、杖自体に商品としての価値はない。
少なくとも彼の商人としての鑑定眼で推し量れば金貨一枚にもならない棒切れに過ぎない。
ただ商人はこの杖が金貨千枚に化けることを知っている。
「金貨二百三十枚までなら今日中に用意できます」
「今日中か」
こぼれる笑みを隠さない商人の言葉に槍使いが眉根を寄せる。
槍使いの男は商人が伝えたかった情報を正しく汲み取ってくれたようだ。
「わかった。この杖はあんたに売ろう」
「ありがとうございます」
商人は頭を下げ、槍使いの了解を取ってから馬車に戻り、金貨三十枚が入った袋をテーブルの上に追加する。
槍使いの男はそれをテーブルの上にある金貨二百枚の上にひっくり返す。
そして金貨の山の真ん中に槍の穂先を入れる。
「これは?」
「口止め料だ。誰から買ったかを雇い主には黙っていて欲しい」
穂先で分けられた金貨の半分を商人の前へと押しやりながら槍使いは目を細める。
その一動作で商人は死を疑似体験した。
頭からつま先まで真っ二つにされる自分を幻視したのだ。
商人の中に恐怖とともに屈辱の炎が燃えた。
武人風情に気圧されたことに苛立ったのだ。
だが槍使いの男に「どうだ」と声をかけられた瞬間にため息とともにそれを吹き消すことに成功する。
命を稼ぐのが傭兵であり、金貨を稼ぐのが商人である。
いまさら命を稼ぐ技量の勝敗にこだわるのは商人としても武人としても三流以下だろう。
「よろしい。しかし私が漏らさずともこの場にいる誰もが今のやり取りを記憶していましょう」
「それは構わんさ。金を払ってもいない相手に義理立てを要求するほど俺はバカじゃない」
「なるほど」
商人は了承した。
槍使いの男はもしこの杖が暗闘の中で活躍するのだとしたら商人の雇い主が商人以外の言葉を信用しないだろうと踏んでいるのだ。
商人は店にいる傭兵あるいは遺跡荒らし、そして彼らの連れに奢りを宣言している槍使いを見ながら金貨と杖を別々の袋に入れ、持ち上げると槍使いの男を見た。
それから首を振って、その場を後にする。
あとで金貨の数を数えるとやはり百十五枚であった。
恐るべき技量だ。
だがあのときあの槍使いの男に是非とも護衛に雇いたいと言ったら商人の命はなかっただろう。
杖を手に入れた以上、商人は雇い主に届けねば利益にならず、そこに新しい護衛が加わっていれば痛い腹を探られることになる。
そういう危険を冒させようとするのはいかなる職業の仁義においても許されない。
それでも一瞬、手元に置きたいと思ったのは商人が槍使いの男の技量に惚れこんだからだ。
曲芸じみてはいたがそのためにどれくらいの修練と経験なによりも才能が必要なのかを商人は知っていた。
「何か気にかかることでも」
各国の商人たち御用達の厳しい警備の敷かれた宿で従者に尋ねられた商人は何も言わなかった。
出来すぎる従者が槍使いの男のもとへと独断で交渉に走るのを恐れたのだ。

国境線の外に緩衝地帯を得るためにイアーブ王国攻めを命じられた将軍シャウラールは有能な男だった。
見る影もないイアーブ王国王城シュテルンの傍の臨時総督府で領民の慰撫に勤めながらも他の将のように素直に戦勝を喜ぶ気分にはなれない。
騎士団はイアーブ王もろとも王城へ入り、三日三晩消えることのない炎によって滅亡したというのは確かに現実だと思える。
実際のところ、臨時総督府を開き、領民たちに接していてもおかしなところはない。
占領下ではごくごく当たり前に起こるシャウラールの部下と領民との軋轢も見受けられる。
警戒と怯え、支配者と被支配者の関係構築の間に必ず生まれるぎしぎしときしみあうような空気管をシャウラールはよく知っている。
そういうものが全くない場合は要注意ということだ。
それを考えれば現状はシャウラールにとっては順調な推移を示していると言えた。
領民の中には彼の部下の無法を訴え出る者もいれば、泣き寝入りする者もいる。
亡きイアーブ王のためにと抵抗する義勇兵も、イアーブ王が生きていると称して決起を促す輩も少なからずいる。
それらはごくごく当たり前の亡国の姿でしかない。
だが帝国第一の騎士として皇帝ジブリールの右手に控える帝国の剣の下で叩き上げた経験が心に突き刺さるとげを感じている。
理由は説明できないがしっくりとこない。
戦場ですれ違ったイアーブ王の率いていた騎士たちの驚くべき機動力とすさまじい突破力を目にしたせいかもしれない。
あるいはイアーブ王本人の剣技の冴えを聞き知っているせいだろうか。
数は明確ではないが総勢五十騎足らずを率いて、二万の大軍を翻弄したあの不敵な王がこうも簡単に自害を選ぶだろうかという思いもある。
十度も無謀と言えるが完璧な騎馬突撃をしかけ、二万の大軍が優秀なる将官たちにあんなめちゃくちゃな戦は二度とごめんだと酒の席で愚痴らせた男である。
その恐るべき王の快進撃がたまたま警備兵を指揮して移動中の騎士に不意に出会い、出合頭に打ち負かされて終わったというのがまた規格外というか納得できかねるのだ。
将軍位を持つ誰もが緻密なかつ大胆な獲物を自らの作戦行動の網でとらえることを競っていたのだから、突然もたらされたイアーブ王撤退の報に首を傾げ、それがたまたま巡回中の騎士の手柄だと言われては憤懣やるかたないとしか言いようがない。
しかも戦場を去ったイアーブ王はそのまま不帰の人となり、二度と戻ってこなかった。
あまりにも急な展開にその騎士はおろか見ていたそれを見ていた将兵たちも唖然としてしまった。
そして「貴様の顔は忘れん」と叫び一目散に逃走したイアーブ王の姿を見て、遅まきながら追撃したもののイアーブ王はそのまま王城に退却、城に火をかけ自刃したというわけだ。
その警備兵の巡回記録担当だった騎士はその手柄において無二とされ、その場で褒賞を与えられ、警備兵を置いてすぐに与えられた領地へと旅立っていった。
あまりの褒賞の大きさに困惑して、うろたえていた騎士の姿を思い出す。
人物として善良であり、決して自身を過大評価しない安定した人格能力を備えているように見えた。
イアーブ王を撃破しようと手ぐすね引いていた将軍たちもその騎士の人柄に触れ、励ましとイアーブ王を撤退させた功績の大きさを理解させることに力を注ぎ、悔しさを忘れたほどだった。
「苦労はしていようが」
運のいい男である。
英雄が英雄を殺すというのは古今よくある出来事だが、一介の記録騎士が戦場で敵王を撃退し、戦況を覆したなどと言う話は聞いたことがない。
戦場での無類の運の良さが平時にも発揮されるとは限らない。
だがあの騎士に限っては大丈夫という気がする。
理由はただ一つ、二度目の幸運を拾おうとは思っていないことだ。
戦場での幸運を日常での不運にしてしまうのは努力せずとも再び同じことができると考える傲慢さだ。
運がいいと言いつつも努力で運を磨く者だけが幸運の女神の前髪を掴み続けることができるのだ。
そしてあの騎士には戦を終わらせた大功績を迷惑と思っている節がある。
シャウラールはそういう者から幸運の女神が離れたがらないことを知っている。
私は運がいいと努力し続けて成果を出す者とは違う意味で、私は器ではないと本気で嘆きつつ行動する者からも幸運の女神は離れない。
そういう意味ではあの騎士についている幸運の女神はあの騎士にとっては希代の性悪女ということになるかもしれない。
ひそやかに暮らしたい夫の尻を叩いて権謀術数渦巻く王宮で働かせるようなものだ。
だが迷惑顔をしながらも必死で働く、そういう人物こそが国家の柱石として国を支え、苦難を超えて名を遺す。
そこまで考えて、シャウラールは笑ってしまった。
皇帝の左右に立つ二人を思い出したのだ。
帝国の剣赤の騎士団初代団長エイシャ・グランディールと帝国のペンと呼ばれた初代大宰相ラウリル・ハーベンの姿を。
どちらも大国を統べるに十全な才を持ち、その才をもってしてもさばききれない難題に襲われ続けた苦労人でもある。
次から次へと試練が与えられるということは幸運の女神の思し召しだろう。
帝国誕生物語には金貨一枚と馬三頭しか持たない彼らが幼い王子を守り、盛り立てていく姿さえ語られている。
もちろんそんなことはあり得ない。
初代皇帝となった先王は二人より十以上年上なのだ。
まさに眉唾物というやつだが先王が、大バーン帝国の首都となる都市を解放したことは事実だ。
そして大バーン帝国の前身となるパーン王朝を宣言し、人材を募ったことはよく知られている。
二十年ほど前のことだ。
ちなみにシャウラールが公募に応じたのは三度目の急賢礼のときだ。
「礼を持って、急ぎ、賢者を求む」である。
やってきた者たちがあれほど近くで皇帝の声を聴くことができたのはあのときが最後だったかもしれない。
「そして」
応募者の試験を帝国の剣と帝国のペンの二人が直接行うようなことは急賢礼以後はない。
「団長閣下」
「すまない。巡回の時刻だったな」
シャウラールは素早く思索を仕舞いこみ、椅子から立ち上がる。
戦火が収まって三日と経っていない。
執務中に武装を解いている暇はまだない。
それでも万の兵の命を預かり、その視線を意識しなくても済むだけでも十分に休めているとシャウラールは思っている。
そんなシャウラールを幸運の女神が気に入らないはずがなかった。

魂が消え果てるほどの衝撃に巡回兵の一人は膝から崩れ落ち、一人は錯乱し、もう一人は黒い尻尾によってその喉を引き裂かれた。
黒い肌と銀色の髪を持つ男の「逃げろ!」という声には全く現実感がない。
いやこれは現実なのか?
そう思いながら動けない巡回の警備兵たちの姿に黒い肌と銀髪を持つ男は歯噛みする。
(やはり風の精霊シルフィを通じての会話は無理か)
精霊とは自然の具現化である。
それだけにその事象に現実感を持つのは難しい。
吹く風の中に言葉を聞いたときに、まともな人間はそれに返事をしないだろう。
たとえそれがはっきりとした文脈を持つ言葉であったとしても。
風の精霊を使い、言葉を伝えるのが難しいのは見えない風が見えない言葉を運ぶという二重の困難があるからだ。
人は視界によって生きる生物であり、見えないものを「ある」とするのは難しい。
そもそも声だけが流れてくるという状態が異常なのだ。
それを発する目に見える存在がいなければ人はそれをまともに受け取り、反応することができないのだ。
そもそも声を伝えている男は火球の熱にのどを焼かれ、爆発の余波で意識を失うほどの勢いで吹き飛ばされ、いまだに動けない状態だ。
火球の爆発による破壊音と森に引火した炎の明かりを見て駆けつけてきた帝国警備兵たちの視界にあるのは倒れた男よりも巨大なあぎとを持つ獣と漆黒翼と牙、かぎ爪を持つ化け物だ。
巡回の警備兵の数は十名である。
今は一人減って九名になっている。
巡回の警備兵と言っても赤の騎士団に配属された精鋭である。
非常事態には戦いながらも必ず誰かが伝令に走ることは考えるまでもなくやっているというレベルの人材だ。
しかし十名の巡回警備兵の誰もが金縛りにあったように動けない。
「私が伝令に行きます!」
そう叫んだのは彼らを率いていた巡回騎士だ。
名をマリスという。
マリステラ侯爵令嬢として知られる女傑である。
マリスは宣言すると同時に後ろも見ずに駆けだそうとし、転倒する。
おかしいとは思わない。
ただそれを当然として受け入れるのに時間が必要だった。
獅子が咆哮を上げるように気合の声を上げ、精神を奮い立たせる。
マリスはこの現象が何を意味するかを知っていた。
早く知らせなくてはならない。
気合を入れたからと言ってすぐに走れるわけではない。
一度これに捕らえられたらそこから逃れるのは難しい。
地面に手を突き、芋虫のように這いながら、敵襲を知らせる笛を取り出し、決められた音階を吹き鳴らす。
もどかしい。
声が届けば、と思う。
今、マリスが吹き鳴らしたのは「敵の大軍を発見」という意味の音階だ。
数についての音階は吹かなかった。
数を吹かないことで異常性が伝わる可能性を考慮したのだ。
数が吹かれないことで笛を吹いている途中でやられたと思われているだろう。
それからゆっくり二十数えて、再び笛を吹く。
「獣」と「二」を意味する音階を。
そして部隊の全滅を知らせる音階が続いた。
この状態からが生還する可能性はゼロだ。
マリスの部隊が向き合っているのは漆黒の魔物と赤色の獣なのだ。
おそらくは伝説に謳われるデーモンとドラゴン。
どちらもとてもマリスたちのかなう相手ではない。
直に相対すれば一瞬で死に命を浸すことになるだろう。
そう思えばこの二大強者が相争っているのは幸運と言えた。
たとえ争いに巻き込まれて死ぬことが確定していたとしても、直に相対するよりはよほど長く生を繋ぐことができたのだ。

「約束の物だ」
爬虫類の鳴き声にも似たノイズの混じった言葉とともに差し出された陶器を受け取り、商人は頷いた。
大きさは大人の背丈の半分ほど外見は何の変哲もない木目調の土甕に見える。
その中にはときおり虹色に輝く鉱石がぎっしりと詰め込まれている。
ひどく雑味があり、純粋な鉱石というには混ざり物が多すぎる気もするが純粋な部分が甕の中身の半分もあれば小さな国なら半分は買える。
その甕が二十は並んでいる。
「なかなかの量ですね」
「これで杖を譲ってもらえるのだな」
「もちろんです。私は約束は守ります」
商人はノイズの混じった問いかけを十分吟味してから頷き、従者に甕を運ぶように命じる。
人足は雇っていない。
さすがにこの取引を目撃されては商人も安穏とはしていられない。
しかしこのような場所に住居があるとは。
商人は天空を舞う湖水を眺め、首をかしげてしまう。
入り口は確かになんの変哲もない山腹の洞窟だった。
そこから湖水の下であるここまでの道に特別な仕掛けは感じられなかった。
そもそもなぜ湖水を頭上に見て自分は息をしていられるのだろう。
正直、理解が追い付かない。
理解する必要はないと理性ではわかっているが、もどかしい気持ちも強い。
好奇心とは別の、ある種の本能が商人の頭脳を動かしている。
「これだ。これで我らが主を取り戻すことができる」
杖を受け取った者は興奮を抑えきれぬと言った様子で立ち上がる。
その勢いに商人は思わず、腰に手を当てた。
だが彼は何もできなかったし、相手も何もしなかった。
商人の腰に長剣はなく、杖を持った者の心には商人はない。
「では失礼します」
「おお、すまぬな。事がなった暁にはさらに石を用意しておく」
「いえ、取引が終われば去りかかわりを持たぬがごとくするのが人間の商人道です」
「そうか」
人間の商人が聞いたら目をむきそうな暴論を杖を持った者は受け入れた。
商人道にとって取引相手と末永く付き合い、その数を増やすことにこそが真髄であり、真理なのだ。
もっとも商人の取引相手を見れば誰もが彼に同意してくれることだろう。
なぜなら商人が杖を売った者は立ちあがれば商人のより頭三つは背が高く、しかもその高さは長い首を前に垂らした頭の位置であり、その体躯は熊でさえ及ばない厚みを持っている。
手も足も細長く見えるが、不思議なほどにしっかりとその体躯を支えて揺るがない。
髪を含め体毛は一切生えておらず、その代わりのように鱗が全身を覆っている。
蜥蜴人間あるいはリザードマンと呼称される彼らは高い知能をもつ古代の人間だとも、竜の卵の影響で誕生した突然変異種族とも言われて名高いがその存在が確認された例は極めて少ない。
一部宗教では悪魔の使徒と言われるほどに毛嫌いされており、ふつうの人間にとっても親しくしたい相手ではない。
そんな相手と取引をすることになるとはだれも思わない。
実は商人自身が一番驚いている。
いったいどこでこんな連中と知り合ったのだろうか?

雨が降っている。
耳に痛いほどの篠突く雨だ。
そんな中を一つの集団が進んでいた。
数十の騎馬兵とそれに従う歩兵である。
馬上の騎士たちは雨を避けるために鎧の上には騎士衣つまりはサーコートをまとっている。
彼らは正規の騎士であり、彼らが率いるのは国の正規歩兵だ。
雨に乗じて国境を超えた一団は報告のあった隣接村へと侵攻していた。
報告によれば密偵の活動によってその村は領主からの独立を希求する段階に入ったと言う事だった。
実際に協力を約束するという者が何人もやってきている。
もちろんそんなことで軍を動かすことができるのは自国の国力が相手国を上回っているからに他ならない。
大義名分がなければ戦争はできない。
勝利の後には統治が待っている。
大義名分な戦いに勝利した国を民は信用しない。
むしろ反抗的になる。
大義名分のない戦いとはたとえるならば酔っぱらいが理由もなく殴りかかり、相手の身ぐるみを剥ぐようなものであり、大義名分のある戦いとは酔っぱらいが殴りかかってきたので殴り返し、相手の身ぐるみを剥ぐようなものなのだ。
相手の身ぐるみを剥ぐのには違いはないが、見た人間の印象と安心感が段違いなのだ。
理由を与えなければ殴られないという信用はその後の統治に大きな利点となる。
民の信用は消極的であれ、積極的であれ、自国への協力となり、新領土に安定をもたらす。
もしそれを得られなければせっかくの勝利もただの浪費、戦いが終わっても終わらぬ耐えがたい負担へと変わってしまう。
力だけがすべてだと示せば人心は荒れ、治安は悪化する。
そうなれば治安維持のために戦時体制と同じかそれ以上の人員を割かれる。
しかも関係各国の非難や妨害が露骨に出てくる。
だからこそ各国は戦争を起こす前に大義名分を捜し、掲げる。
もちろんそれが真っ赤な嘘でなければ独善的なものでも構わない。
そして今、雨の中を進む一団にはそれがあった。
激しい雨のためほとんど視認できないが村を治める領主の館は小高い丘の上に建っている。
そこまでにはまだ距離がある。
そしてその丘をから続く下り坂の右側に村の中でもひときわ目立つ建物がある。
円形に柵で囲われた広い土地の端に家屋とは明らかに違う目的で建築された箱型の建物がある。
領主への税を納めるため村内の農畜産物を集めるための集積場であり、村人たちが集まるための集会場でもある場所だ。
村の代表者である村長が住む家屋の近くにあり、村全体で管理されているそこで一団は食事をとることにしている。
解放軍の侵攻が決断されたのはこの村の村民の総意でこの集会場の提供が提案されたからなのだ。
集会場を拠点として、陣屋を築いてしまえば最悪でも村は確保できる。
雨風をしのげて、物資を集積できる陣の有利を得ることは勝利を得ることに等しい。
部隊を率いる部隊長の騎士は集会場の扉についているノックを握り、木戸を叩く。
すぐに中から若い女が顔を出した。
騎士である部隊長は頭を覆っていた騎士衣のフードの部分を後ろへと跳ね上げて名を名乗る。
若い女は緊張した面持ちで頷き、彼を集会場の中へと招き入れた。

「嘘から出た誠、瓢箪から出た駒、冗談から出た災難」
「無駄口をたたいていると不覚を取るぞ。相手は野盗山賊の類ではない」
「でしょうね」
バクダハの言葉に彼の世話係を任じる騎士は肩をすくめるような気持がわかる言葉を返してくる。
敵と切り結びながら会話することは難しい。
剣撃には相手があり、呼吸がある。
呼吸は力であり、技でもある。
呼吸が乱れれば剣も乱れる。
心が乱れれば呼吸も乱れるが、結果としては呼吸が乱れるために負けるので心についての言及がされているというのが実態で主体は呼吸の調整にある。
呼吸はあらゆる場面で最も重要な力なのだ。
それを乱戦状態にした戦場で維持しながら会話をする困難は計り知れない。
戦場で部隊が判断を誤るのは指揮官の声が届かないことであり、戦場にある者がそれを聞き取るだけの余裕を失うからだ。
そのために旗やラッパ、太鼓などの目に見える指揮手段が発明されてきた。
手を振ったり、頷く、首を振るなどの動きでの情報共有も根は同じだ。
「しかしどこの騎士隊でしょうね」
「アードンか、ルーエル。アサリエルあるいはファエラスという線もある」
「わからいってことですね」
バクダハが言葉の間に息と剣戟を入れながら答えるとわかってましたよとばかりに返事が返ってくる。
王に鍛えられた騎士たちは剣の腕だけでなく、軽口の腕も上がるらしい。
実際のところイアーブの騎士たちの腕の冴えは恐るべきものであった。
たった二十四人で三倍の数の敵を圧倒している。
もっとも正騎士の数で言えばイアーブの方が相手方の倍となるので戦力の比較としては意味をなさないかもしれない。
そしてイアーブの騎士たちも相手もそれはわかっている。
正式な剣術の訓練を受けた戦士は兵士としての訓練しか受けていない者とは明らかに違う。
もっともだからと言って戦場で兵士に後れを取ることがないというわけでもない。
不死身と思われた豪勇の士が雑兵の一突きで嘘のように倒れてしまうのが戦場であり、総体としての数の不利というものは個々の実力を押し殺す力を持っている。
それを知っているからこそ、人は隊を作り、軍を編成する。
一対一なら絶対にかなわない相手であっても三対一に持ち込めば何とかなるものなのだ。
「こやつらは何なのだ!」
まだ年若い騎士がうろたえて声を上げる。
豊かな金色の髪に整った顔立ちをしたいかにも貴族令息といった騎士である。
「あれを押さえればなんとかなりそうだ」
バクダハはそう思い、大きく剣を振って周囲の敵兵をけん制するとあっという間に貴族令息のもとへとたどり着いていた。
「一手御指南願おう」
バクダハの言葉に貴族令息騎士はすぐに承諾の言葉をよこしてきた。
良い教育を受けているのだろう。
それだけに与しやすいように思える。
ちなみに王ならば声をかけるとともにこの貴族令息の騎士の首を斬り飛ばしていたに違いない。
彼らの王はそういうことをやれる男でもあるのだ。

「執務室にある私の剣を持ってきてください」
イアーブ王が抜剣し、領主の相談役として揺るぎない地位を持つ一族の代表たる男の挑戦を受けて立とうとしている。
イアーブ王は稽古と言ったが、彼が敗色濃厚になれば領主より彼いや彼の一族に忠実な部屋詰めの騎士や従者たちはためらいなく、命を投げ出す。
そうなれば領主である青年の価値は暴落するに違いない。
もちろん代表者を失った領主相談役の一族は次の代表者を彼のもとには送ってこないだろう。
次の代表者は現領主の彼ではなく、次期領主へと派遣されるはずだ。
つまりこの男を失った時点で青年領主の命はない。
「少し稽古をつけてやるだけだぞ」
「彼の地位と立場は私より上なのです」
青年領主は差し出された剣を掴み、目の高さで横にし、鞘を払う。
瞬間、涼やかな音が響き、清涼な風が室内を駆けた。
「これは」
領地相談役の鉄面皮にひび割れが入る。
イアーブ王の方は口元を緩め、青年領主へと向き直った。
「一介の剣士に対して剣を帯びていないのは不用心だと思っていたが」
「皇帝陛下直々の下賜品です。軽々とは扱えませんよ。しかしイアーブ王が相手なら抜くことも許されるでしょう」
「帝国皇帝ジブリール殿はそこまで狭量ではないと思うが」
イアーブ王の言葉に青年領主は苦笑した。
確かにそうだ。
だがイアーブ王を打ち負かしたとされている青年領主が皇帝下賜の剣を腰に下げて歩けば、この領地に根付いた実質的な支配者とその信奉者に無用な警戒心を与えてしまう。
ちなみに先ほどまで彼の腰に剣がなかったのは先の戦でイアーブ王と対峙したときに真っ二つにへし折られてしまったからだ。
伝来の家宝の剣だっただけに代わりを探すのに時間がかかっていたのだ。
先の剣はかなりの業物で魔法の剣が相手であっても、決して刀身が折れるようなことはないはずなのだが勇名高いイアーブ王が相手では勝手が違った。
もっとも・・・
イアーブ王はやや斜め後方に剣を寝かせ、青年領主は拝領の剣を右手だけで正眼よりやや右つまりは盾を持った騎士が剣を据える位置へと動かす。
そして思い出したようにそこに左手を添える。
動かない。
「タネはバレているか」
イアーブ王は剣の位置を正眼つまり自身の体の中央へと移す。
あのときは失敗したのでもう一度と思っていたがこの青年領主は想像以上にできるようだ。
「無様ではあっても剣を折られるよりは天高く弾き飛ばされた方がましだったかもしれません。あれは我が家の家宝だったのですよ」
「確かにいい剣だったな。だが驚いたのは俺の剣飛ばしに耐え、折れた剣で迷わず突いてきたお前の技量よ。帝国皇帝が秘蔵の剣を下賜したのもうなずける」
「秘蔵かどうかはわかりませんよ。確かにこの剣は魔法の力を持つ法剣ですが帝国の宝物庫には同じようなものがたくさんあることでしょう」
「裕福なことだ」
その言葉を契機にイアーブ王が動く。
青年領主は突き出された剣を皇帝下賜品の法剣の動かさずに避ける。
そして突き出された剣の腹に頬を寄せるように動く。
イアーブ王と青年領主の剣がぶつかり、その衝撃でまばゆい魔法の輝きがはじけた。
イアーブ王の片手突きはそのまま横薙ぎの一閃へと形を変えている。
並の騎士ならば首に刃を押し当てられ、勝負を決められているところだ。
イアーブ王の顔から笑みが消え、青年領主の顔が真っ赤に染まる。
かみ合った二つの剣を微動だにしない。
青年領主のこめかみに血管が浮き出し、剣の柄から離れた左腕が前に突き出される。
イアーブ王は突き出された拳が狙っていた剣を握り手をあっさりと離し、拳が持ち手を失った剣の柄を叩くのを許した。
柄を叩かれた剣はくるくると縦回転をながら落下していく。
間髪入れずに自由になった剣を突き出す青年領主。
だが下に向かって落下する剣を曲芸師じみた動きで蹴り上げ、再び手にしたイアーブ王はその突きを簡単に受け止め抑え込む。
青年領主の頭が振られ、イアーブ王のそれと激突する。
さすがにこれを避けることはできない。
イアーブ王は正面から頭突きを受け止め、力比べを続行する。
動かぬことこそ力の証明であった。
恐るべき二人の剣士の戦いに周囲の者たちは文字通り息をするのを忘れた。
さらに攻防が繰り返され、いつ果てるかもわからぬ稽古の熱は上がっていく。
このままではいけない。
誰もがそう理解した。
だが誰もがその理解を拒みたいと思ってもいた。
魔法の剣同士がぶつかりあう様子をはっきりと捉えられている者はいない。
だが魔法の剣同士がぶつかったときの輝き、そして静止し膠着状態になった姿は目にすることはできる。
あっという間の音と光が弾け、力比べをするように静止するという流れを目にするだけでも男たちは満足していた。
「そこまで!」
声とともに投じられた水がイアーブ王と青年騎士の髪を濡らし、顔から肩口を湿らせる。
さらに二度三度と投じられた水に二人の剣士は思わず、撃ち合う剣を止める。
「まったくいい年をした男と領主が客間で一騎討とは非常識にもほどがあるよ!」
危うく殺し合いになりかけた勝負に水を入れたのは青年領主の母であった。
そのそばには腰には剣を、手には人首を下げながらも困惑している女がいる。
「ご婦人、私が礼儀知らずでした。お許しを」
剣を納めたイアーブ王が膝をついて無礼を詫びた。
「あんたは?」
そう言われて慌てて母に謝った青年領主はイアーブ王に後れを取ったと言えよう。
「その様子じゃ。あんたの方に過失がありそうだね。うちの愚息がご迷惑をおかけしたようで」
「いえ、こちらも楽しませてもらい」
言いかけたイアーブ王は青年領主の母の表情を見て、慌てて口をつぐんだ。
「どっちもどっちみいだね。それよりあんたにいい知らせが来ているよ。おお客人の相手はあたしがするから、あんたはこの子の話を聞いてやりな。それからゴードンさんはお父様をこちらに。剣を折られた人は新しい剣を受け取るように。アンバーにはあたしから話しておくから。折れた剣を持っていくのを忘れないように。もちろんこの部屋の片づけはあなたたちの家族にやってもらうからちゃんと頭を下げておくんだよ。お客人はあたしについてくるように」
てきぱきと指示した女性は上半身がずぶ濡れのイアーブ王を連れ、部屋を出ていく。
のちに希代の女傑として歴史書に記されることになる第二次イアーブ王朝の初代国王の母と第一次イアーブ王朝最後の王の最初の邂逅であった。

「いやあ、本当に危なかった。命はありますかな? バクダハ隊長」
軽口を叩く部下を見るバクダハの顔色は青白い。
自身の剣の技量を過信した結果だ。
彼の眼下には金色の髪とその横に据えられた刃がある。
この一団の長と思しき貴族令息と自らの剣である。
彼と貴族令息の勝負がついた瞬間に、両部隊の戦いも決着となった。
大将同士が一騎討をして片方が勝利する。
もっとも単純な勝敗の形である。
いやこの場合は王を討ち取り、凱歌を上げるといったところだろうか?
バクダハは王の片腕ではあるが、替えが効かぬような人材ではないと自ら任じている。
対してこの金髪の貴族令息はそうではなさそうだ。
一騎討の決着がついた瞬間に敵の一団が諸手を挙げて、貴族令息の命乞いをしたのがその証拠だ。
それにしても
「王の真似などするものではないか」
バクダハは薄くなった前髪を撫でつけながら舌打ちを漏らした。
それからそれに気づいて渋面になる。
王の真似をしようとしたせいか、行動まで似てきているようだ。
苛立って舌打ちするなど人として褒められたことではない。
しかも今は一騎討を制し、勝利を確定させた喜ばしい場面なのだ。
王のように相手の剣をその手から弾き飛ばし、一気に相手の戦意を挫くという作戦が挫折したとはいえ、良い結果を舌打ちで汚すことはよろしくない。
「私の負けです」
半ばから折れた剣を鞘に納めた貴族令息は首に突き付けられた刃を気にせずに立ち上がる。
これにはバクダハが慌てた。
一つは誤ってこの人望ある貴族令息の首を斬ってしまわぬかと言うこと、もう一つは思わず剣を引いて反撃の機会を与えたこと。
「私はアルターブ王国騎士団小隊長ジェット・ランガインと申します。あなたの名を聞いてもよろしいか?」
貴族令息は名乗り、バクダハに騎士の礼を送った。
「バク、バクーだ」
「バク・バクー殿ですか」
部下の忍び笑いが聞こえる。
だがイアーブ王とその旗下の騎士団は帝国軍との戦いで王城に退却し、自決したことになっている。
下手に名を名乗るわけにはいかないのだ。
「ランガイン殿はなぜこんなところに?」
「それが」
ランガインは豊かな金髪に指を通しながら、恥ずかしげにその経緯を語った。
そしてそれを聞いたバクダハは呆気にとられた。
バクダハの剣飛ばしを失敗させ、折れた剣で迷わず突きかかってきた貴族令息はまさにその呼称にふさわしくただの迷子だったのである。

「中隊長殿が消えた?」
部隊の後列の荷馬車で昼寝をしていた青年は寝ぼけ眼をこすりながら繰り返す。
緑の騎士団の戦衣の上に赤の騎士団の記章が縫い留められている。
少年のころ、「アクシャーサの戦い」を潜り抜け、赤の騎士団の伝令騎士の客になったあの青年である。
今回も生き残るためにいろいろと考えつつ、しかしいつもとは違い、すべてがしっくりこない感覚に戸惑っていた彼は中隊長となった伝令騎士の姿を思い浮かべ、苦笑した。
「これは想定外だな」
緑の衣の青年は誤解されている。
優れた戦略家とまではいかないが戦場での戦術家としては優れた頭脳の持ち主だという誤解である。
彼の年上の友人はそう思っている。
あるいはその周囲もそうかもしれない。
だが彼にはそういう才覚はない。
「あんなものは偶然にすぎん!」
気色ばんでそう言ってくる者たちが正しい。
だから青年は素直に「その通りですね」と言ってしまう。
本当なのだから仕方がない。
だが認めると相手はさらに不機嫌になる。
不思議なことだ。
そして何度か戦場を踏むと「やつらは戦場に出ることに気負っているのです。二三度戦場を踏めばああいう誹謗を言う事もなくなるでしょう。私自身がそうでしたから」と恥ずかし気に笑うようになる。
そうしているうちに伝令騎士は小隊長から中隊長になり、大隊長候補に名が上がるようになってしまった。
それはいい。
彼を拾った伝令騎士は優れた剣技と戦術指揮能力を持ち、人望も厚い。
伝令騎士であったせいかその交渉力にも目を見張るものがある。
実際に「アクシャーサの戦い」で彼が生き残れたのは伝令騎士であった中隊長がその場に残り、兵の指揮を執ってくれたからだ。
あのときのことを思い出すだけでも戦慄と感動が青年の身を震わせるほどの奮励戦闘をした男がいなければ青年は逃げ延びても戦線が崩壊し、帝国を名乗り始めたばかりの王国は敗退していただろう。
「中隊長を探すべきでしょうか?」
「そうだなぁ」
騎士の言葉を受けて、青年は腕を組んだ。
騎士は待ちの姿勢に入る。
かつて青年に突っかかったことのある騎士は何度も緑の衣に身を包んだ青年がこうやって考え込む姿を目にしてきた。
もちろんそれを見て、死んだことは一度もない。

「そういうわけで頼む」
「そういわれてもなぁ」
魔術学院の学院長室に呼び出された男はねじくれた杖頭を持った魔術師の杖で肩を叩きながらそっぽを向いた。
年のころは三十半ば長く伸ばした黒髪は後ろへ流し首のあたりで結び紐でまとめられている。
白地に金糸と銀糸で複雑な模様の描かれたローブは上級の魔術を修めた者だけに与えられる特別な意味を持つローブである。
百人近い魔術師を育成しているこの学院でも今このローブをまとうことが許されている者は三人しかいない。
世に三賢者と言われる大魔術師である。
「金貨百枚出すぞ」
「金貨百枚ねぇ。そんな大金をポンと出すなんてよっぽどの裏があるんじゃねえの」
金貨百枚もあれば魔術実験に必要な装置は粗方そろう。
魔術の行使に役立つが貴重な魔宝石、それも大魔術クラスの魔術行使を可能にする超高純度の魔宝石を二十は買えるだろう。
昔ならいざ知らず、今の魔術学院がそれだけの財を吐き出すというのはどうにも解せない。
「魔獣退治の依頼なんじゃ」
「魔獣退治で金貨百枚だって? 村の領主が善良だとしてもおかしすぎるんじゃねえの? まだなんかあるだろ? 全部吐いちまえ!」
魔術学院の中では教師であり、学院長の一存でどうとでもできる男が口にする言葉とは思えないが、そういうことを言えてしまうのがこの三十男なのである。
「吐くも何も」
「いいからため込んでると体に悪いぜ。それに俺も引き受けにくいしな。そういえば俺研究室を立ち上げるように言われたばっかりでさ」
外ばっかりほっつき歩いていないでそろそろ学院に腰を据えて研究室の一つでも作れと言ったのは学院長自身である。
しかし今回の依頼は他の者には任せられない。
何せ相手があの・・・
「魔獣ってのは厄介でな。魔術の知識や腕だけで何とかなる相手じゃないんだよなぁ。経験、フィールドワークの経験が大事なんだよ。塔の中にこもって研究ばっかりしている連中だと森を歩くだけ、山を登るだけで息が上がって呪文を唱えることができないかもだしぃ」
その言葉通り、この三十男は魔術師とは思えない体格をしている。
そもそもの素質もあったのだろうが研究そっちのけでフィールドワークに励んだ結果である。
つまり遺跡荒らしや魔獣退治をする何でも屋について回り、荒稼ぎをして学院の自室に帰ってこないのだ。
「金貨二百枚でどうだ」
「金貨五万枚」
男はにやにやといやらしい笑いを浮かべながら言った。
もはや学院長を困らせることしか考えていないのだろう。
しかし
「では金貨五万枚で手を打とう」
学院長の座っている机の右手にまとめられているカーテンが揺れ、一人の男が姿を現した。
漆黒の鎧に白皙の肌の好対照があまりにも印象的な男だ。
「お、いやあなた様はいったいどなたでございますかななどと愚考する次第でして」
と言う三十男の首には剣先が突き付けられている。
抜く手も見せないというが、それ以上に剣の切っ先から放たれるオーラがいろんな意味で大魔術師たる男を硬直させている。
仕事柄、いや趣味を極めんとするものとして様々な剣士に同行し、様々な妖魔、幻獣、魔獣ときには巨人族などと戦ってきたが、ここまですさまじいオーラを放つ剣を見たのは初めてだ。
あるいは伝説に聞く魔人殺しの剣というのがこういう感じかもしれない。
「金貨五万で俺を手伝うか」
「もちろん、命を助けてくださればどこまでも」
魔術師は常に冷静であれなどと言うが、実際のところ命の危機に冷静でいられるような奴は馬鹿だ。
相手の危険性を本当に理解できないものだけが、あるいはそんな相手に勝てる可能性を持つ者だけが冷静でいる利点を得られるのだ。
そしてこの剣士には彼が瞬間移動を駆使してもかなわない。
おそらく無拍子で瞬間移動したとしても移動先にのどを貫かれた死体が残るだけだろう。
「相手がドラゴンだと言ってもか?」
剣を突き付けたまま黒の剣士があきれ顔で付け足した。
瞬間、魔術師の顔色が変わる。
「ドラゴンだって!! 伝説の魔獣いや幻獣、神獣とまで言われる伝説の、倒した者は勇者として永遠の名が語り継がれるという伝説の!?」
今度は剣士が顔色を変える番だった。
ドラゴンの名を聞いた魔術師が切っ先があることも忘れて、その身を乗り出してきたのである。
「危ないだろう!」
剣士の持つ剣は全身鎧も紙のように切り裂く切れ味を持っている。
剣の切っ先がのどを押さえている以上、ちょっと刃に触れただけでも魔術師の命はない。
慌てて剣を引いた剣士の様子も気にせず、その肩を掴み、魔術師は興奮したまま、言葉を続ける。
「竜殺しの英雄、勇者として称えられるチャンスなんて百年に一度もない。ぜひ連れて行ってくれ。俺は上級魔法どころか禁断の大魔法まで使える魔術師で、魔獣狩りの経験も豊富だ。絶対に損はさせん。そうだ俺から金を払ってもいい!」
あまりの変わりように剣士は頷くしかない。
その様子を見て魔術学院の学院長は安堵の息を漏らす。
賢者の学院として諸王国に顧問魔術師を送り込んでいたころならいざ知らず、帝国領内にただの研究施設としての存在意義しか持たなくなった魔術学院は、今の支配者たる帝国の要請に「否」を唱えることはできない。
学院の存続にかかわる予算は帝国の意思に左右される。
そう帝国は竜と対決しようとしている。
理由も勝敗の意味も聞かされてはいないが誰かが手伝わなければならないことだけは確かなのだ。

笛の音が聞こえた。
金貨の詰まった袋三つといざと言うときのための逃走資金をブーツの底に隠したアラムは警戒もあらわに自らが引く馬に飛び乗った。
移動用の馬ではなく、戦場を馳せる鍛え上げられた軍馬である。
馬車道から外れて森に入ってもその速度を落とさずに進めるのは人馬ともに激しい訓練の賜物だ。
笛の音は遠くに聞こえた。
急ぎの旅だ。
こんなところで足を止め、事件に関わる必要はないかもしれない。
だが放っていくにはアラムは若かった。
特に笛に続いて起こった聞いたこともない咆哮とバリスタでも撃ち込んだのではないかと思える衝撃音はアラムの好奇心を刺激した。
あるいは闘争心だったかもしれない。
功名心も少なからずあった。
いや杖を奪うために人を斬るという任務から一時でも逃れたいという気持ちこそが原因のもっとも大きなものだった。
だがこの無意識の一時逃れこそが、アラムの人生を決する大きな流れの始まりであった。
森から飛び出したアラムが目にしたのは黒い森だった。
それは焼け落ちた緑の葉であり、炎に嬲られた人間であり、土をも焼く炎の片りんでもあった。
そして水の膜に守られた人・・・
アラムは無意識のうちにそれへと近づき、その美しさに魅了された。
考えもなく、手を伸ばし引き上げる。
銀色の髪が揺れ、半裸の青年とも少年ともつかぬ人物が鞍の上に引き上げられる。
黒い肌を持った男だった。
だがその顔には頬髯ひとつない。
「エルフなのか」
アラムはあまりにもほっそりとした体の男を馬首にひっかけるようにして鞍前に置くと辺りを見回す。
森の中に、いや風景の中にぽっかりと黒い穴が開いているような奇妙な感覚が視界を覆っている。
だがそれすらもこの美しい存在の魅力を増しているように思える。
動く者が二つ。
一つは漆黒の翼とかぎ爪を持つ魔物であり、もう一つは白い幕に覆われた鱗を持つ魔獣であった。
デーモン、そしてドラゴンとして知られる恐るべき上位存在は、アラムにとって騎士が立ち向かうのに充分にふさわしい悪であった。
この瞬間、アラムは使命を忘れた。
獣のような咆哮を上げ、まっすぐに両雄の間に馬を入れると抜き打ちで剣を叩きつける。
結果はあまりにも残酷だった。
竜の鱗を叩いた彼の剣はすがすがしいほどいい音を立てて、折れた切っ先の部分がくるくると宙を舞う。
「逃げて!」
茫然としたアラムを叱責したのは先ほど笛を吹き終えて覚悟を決めていたマリスである。
彼女は突然の闖入者に驚き、そして戦慄した。
アラムは旅装である。
マリスは帝国騎士として、一般人を巻き込まない義務があった。
はっとしたアラムはすぐに馬首を返す。
そして命を救う声をくれたマリスの腕をつかむと鞍上に引き上げる。
鍛え上げられた軍馬は鎧を着た女性一人の重みが増えたことに不平も不満も見せなかった。
つまり常と変わらぬ快速でデーモンとドラゴンから離れたのである。
他の者を気遣う必要はなかった。
この時点で生きている者は二人以外にはデーモンとドラゴンしかいなかったのだから・・・
少なくともアラムはそう確信していた。

万の軍勢、二匹の獣。
その笛の意味を赤の騎士団団長のシャウラールは恐るべき洞察力で聞いていた。
まさかドラゴンとまでは思わなかったが、恐るべき魔獣の類が二頭現れたことは推察していた。
臨時総督府に残っている兵たちに城攻め用の大型の機械弓バリスタ二十五台の内、三台を曳かせ、ありったけの弩を騎士と見習い騎士たちに背負わせながら笛の根の聞こえた場所へと偵察兵を走らせている。
シャウラール自身も巡回用の軽装から全身鎧へと姿を切り替え、軍馬にも鎧を着せている。
腰に履いているのは魔法の力を帯びた法剣であり、馬の鞍には同じく魔法の力を帯びた盾を積んでいる。
そして手綱を握るのと逆の手に持っているのは槍である。
もちろん巻き上げ式の弩には矢をつがえ、これも鞍の横に括り付けている。
言うまでもないことだが赤い全身鎧も魔法の品である。
人里回りの森に出る魔獣と言えば牛ほどの体格がある魔狼や熊をもひと裂きにする鷲頭獅子グリフィン、最悪の場合は複合魔獣キマイラというのが相場だ。
老人の顔を持つ獅子王マンティコアだとは思いたくない。
いずれにしても最初に兵たちがバリスタの矢を撃ち込み、騎士と従騎士が弩を連射して、とどめはシャウラールが受け持つ手筈になっている。
巨大な発射装置バリスタから放たれる長大な矢は二メートルを超え、三百メートル先の目標を捉えることができる。
当たればいかなる魔獣と言えども無事では済まない。
もっとも当てることは難しい。
ドラゴンのように十数メートルもある的ならばどうにかなるだろうが・・・
それでもシャウラールはバリスタを持ち出しすことを決めた。
帝国の中でも先陣を任せられることが多い赤の騎士団の兵は戦慣れしており、バリスタをはじめ攻城兵器の操作についても頭一つ抜けている。
その手腕には期待していいだろう。
弩については確実に当てるつもりで揃えてきた。
騎士の数は十人、従騎士は一人の騎士についてそれぞれ五人だ。
六十人で威力の高い弩の矢を放てば半分は当たるだろう。
一つの弩が一度に発射できる矢の数は三。
六十をかければ百八十、そのうちの半分九十が命中となる。
それを下回った場合は叱責を与えるつもりだ。
バリスタはもとより弩も威力を上げるのと引き換えに連射性能が低い。
バリスタ隊が下がった後に、弩を放った騎士隊も下がる。
あとはシャウラールの役目だ。
状況によっては補助の騎士を指名し、防備に徹するように命じ、魔獣の注意を逸らしつつ、一匹ずつ確実に仕留める。
シャウラールの脳裏にはその戦いのビジョンも見えている。
一匹の喉を槍で貫き、返す刀でもう一匹に向かう。
剣を履いたのと逆の腰の後ろには三本の短剣が納められている。
投擲用の短剣で魔法の力を宿し、空中に投げ、合い言葉を唱えれば必ず目標を唱えるという法剣だ。
相手は人間ではなく、正々堂々などという言葉とは無縁の魔獣である。
このくらいの手品は許されるだろう。
シャウラールは偵察兵の報告を待ちながら準備が整った部隊から順に出発させていく。
そこへ猛々しい軍馬が駆けこんでくる。
馬上には旅装の騎士と巡回騎士であるマルスの姿がある。
「相手はドラゴンとデーモンだ。ここは退け!」
旅装の騎士アラムの叫びにシャウラールはすぐに先発隊の出動命令を取り消し、さらにイアーブ領内に散っている将軍たちに領民を守りながらの撤退を命じる伝令を出す。
「逃げぬという者はぶん殴って気絶させ、牢獄車に入れて連れていけ!」
という言葉はシャウラールの将としての器と責任感を示すものであり、苛烈な赤の騎士団らしい指示として知られることとなる。

シャウラールの撤退戦、あるいはドラゴンとデーモンの国盗りと呼ばれる駆け引きが始まった。
白色のドラゴンと黒色のデーモンが争うさまは光と闇、神々と悪魔の最終戦争を思わせた。
そういう想像ができる程度には教会の力は人々の間に広がっている。
悪魔とは神々と対立する者であり、神々と座を争って敗れた者たちのことである。
天の玉座を争って兄に負けた弟、あるいは弟に負けた兄などが悪魔と呼ばれ、忌み嫌われた。
もちろん教会の力の源である物語は創世の物語であり、神々についての善悪理非については混然としてはっきりとはしない。
だが悪神というものはあり、病や旱魃、不漁や痛みを伴う災厄の招き手として知られている。
朝と清浄さを現す白に対して、夜と不浄さを現す黒の対比は人々の心に刻み込まれている。
もっともその白と黒の間をつなぐ破壊の赤というのがこれが善神と悪神の闘争ではないことを示している。
それはドラゴンの放つ炎のブレスであり、デーモンのカギ爪や牙によって生まれる血の色である。
十数メートルはあるドラゴンに対して、デーモンの背丈は三メートルほどしかない。
だが戦いは拮抗していた。
「幸いなことに」
とシャウラールは思ったが、ドラゴンとデーモンの戦いを視界におさめられるのは「不幸なこと」だった。
特に小さな城塞ほどもあるドラゴンの姿は領民のみならず、兵士たちの心にも言い知れぬ恐れを生んでいる。
まだこちらにはまったく襲い掛かってくる様子のないドラゴンに向かっての攻撃命令を求める声が後を絶たない。
だがそれはまだましな反応だ。
ドラゴンの恐怖に慣れたとき、いや現状に耐えられなくなったとき本当の混乱が訪れるだろう。

友が帰らぬ。
法剣をテーブルに立てかけ、椅子に腰かけた皇帝は呟く。
皇帝の庭園にはいくつかの果実がなっており、今皇帝が腰かけたテーブルの上は絡み合う蔦によって生まれた植物の天蓋に覆われている。
「グザマのことですか」
大宰相の問いに皇帝は頷く。
「姿が見えないとは思っていましたがまさか何か無理な頼みをしたのではないでしょうね。ジブリール」
「里帰りをすすめたのですが」
帝国の剣と呼ばれる騎士としてではなく、姉として元王女の問いに答えながら皇帝は目を伏せる。
「ダークエルフとして追われた里に里帰りをさせるなんて」
「そのためにエピタフについて行ってもらいました。彼女がいればグザマがダークエルフでないことは自明のことになります。彼女の目には歴史が宿っているのですから」
エピタフとはエルフの歴史を見て、伝える者の意味である。
エピタフの言葉はエルフの歴史そのものであり、どんなに古いエルフでもその言葉を疑うことはない。
エルフの王でさえ、エピタフの伝える歴史を否定することはできない。
そして皇帝の友グザマを見たエピタフはグザマについての疑義をことごとく解いて見せた。
いささかやりすぎな感もあったが、それでもすべてを見通す目を持つエピタフがグザマがダークエルフである疑いを否定したことは大きかった。
黒い肌に銀色の髪というのは暗黒神に誘われ闇に落ちた邪悪な存在ダークエルフの特徴だとされている。
もともとのエルフの生まれが光に属するだけにダークエルフに向けられる視線は冷たく、憎悪に満ちている。
光のエルフたちにとってダークエルフの存在は忌避すべき可能性の証明である。
自分たちと同じ者が変わると言う事は自身にもそうなる可能性があると言う事だ。
それだけにエルフは潔癖なほどに純粋であろうとする。
自然を愛し、樹木を住み家とし、動植物を殺さず、戦争を憎む。
理性的に話し合い、混乱を避け、秩序を保つことに重きを置く。
エルフは他の種族に対して居丈高であるとされるが、それも自らが闇に落ちることへの恐怖の表れなのだろう。
自らを信じられぬ者は他者を貶めることが多い。
エルフの他種族への侮蔑的なほどの居丈高さは自らの種族の歴史欠陥ともいえる闇に落ちたエルフたちの存在への強い悔恨がある。
あるいは黒き歴史への否定が・・・
皇帝とその姉が言葉を交わすのを見ながら、大宰相は一人頷いた。
堕落とは忌避するものである。
だがそこには甘美な幻想、あるいは日常からの脱出感覚がある。
たとえば彼自身が王女を担いで帝国を築こうとしていたときのような・・・
あのとき彼が巡らせていた策謀は多くの毒を含んでいた。
大量の毒で清流を作ろうと試みようとしたという方が正確だろう。
もちろん毒が清い水の流れとなることなどありえない。
だが帝国建国と言う夢に溺れていた彼にとってそれは邪悪な堕落ではなく、甘美な夢であった。
もしそれが叶っていたとしたら、はたして大宰相などという名を名乗れたであろうか?
産声を上げた帝国が帝国として二十年も存続しただろうか?
もちろんわからない。
だが今のように穏やかな時を過ごすことはできなかったに違いない。
今でも毒の杯を仰ぐ決意はある。
いざとなれば毒を用いる決意もだ。
帝国の底流を流れる水が清流であればこそだ。
「ルガール、意見があったら言ってくれ」
姉上はグザマに対しては過保護になりすぎる。
そんなことを言われた気がした。
確かに先ほどから皇帝とその姉の会話はグザマが心配だという感情論の輪を描いているように聞こえる。
「私が愚考しますに」
大宰相は皇帝に意見を奉るときには必ずこの言葉を口にする。
それは皇帝の資質と命を捨て去ってしまおうと考えていた己の愚かさへの自省であり、同時に謙遜の言葉でもある。
そういうことができるのもすべて帝国の剣たる元王女が皇帝となる幼い弟王を生かすために彼の策謀を完全に否定してくれたおかげだ。
今考えれば愚策であったと思う。
だが今が訪れぬ状況であればそれに気づくことはできなかった。
「エピタフ殿が随伴している以上、エルフの里で害されることはありますまい。ただし歓迎も形ばかりのものでしょう」
大宰相の言葉に皇帝の表情が曇る。
公の場ではなく、親しい三人だけがいる場であるので厳格な皇帝の仮面を脱いだ若者の素直な感情が現れたのだ。
「もちろん彼の両親や彼を認める者もいるでしょうし、気持ちも軽くなったはずですが大勢としてはそうなります。皇帝はこの大陸の臣民すべてに愛されているとお考えですか?」
大宰相の言葉は正確であり、遠慮がない。
遠慮はないが一抹の優しさもある。
皇帝は苦笑しつつ、「そうは思わない」と答え、先を促す。
だが一度は晴れた皇帝の顔も大宰相が言葉を紡ぐにしたがって再び暗く陰っていく。
「そんなことがあり得るのか」
うめくように言った皇帝に大宰相は首肯する。
「私が申した通りとは断定できませんが、状況としては似たようなことになっていると思われます。彼が向かった森林王国に入ることはかないませんが周囲を探索させた方がよろしいでしょう」
「ファウラデーウの境界に一番近いのは先ごろ、イアーブ王国を下したシャウラールの軍だな。すぐに伝令を立てよう」
二人の会話を聞いていた皇帝の姉が帝国の剣の顔になって、提案する。
「シャウラール将軍なら私が予測したような事態が起こっていても大過なく務めを果たすでしょう」
大宰相が同意し、皇帝が裁可を下そうとしたとき、王宮から執政官の一人がシャウラールの伝令を名乗る者が謁見の許可を求めているとの知らせを持ってやってきた。
緊急事態を現す章印の押された割符を持っているという。
皇帝ジブリールは即座にその伝令をこの場に呼ぶように執政官に命ずるとテーブルに立てかけてあった法剣を手にし、庭園と王宮を繋ぐ通路へと歩を進める。
もちろん大宰相と帝国の剣の二人も同行する。
その伝令騎士は血まみれでも泥まみれでもなかった。
しかしその様子はただならぬもので、喉の渇きがひどいのか蚊の鳴くような声で何かを伝えようとした。
皇帝は伝令の報告を手で遮り、先に喉を潤すように命じる。
そして庭園にある果実を一つちぎると伝令騎士に与えた。
王宮庭園の果実は帝国の財であるがそれ以上に皇帝の私物でもあるという面が強い。
それを受け取るというのは名誉なことであり、だからこそ容易に口にするのははばかられる。
たかが果実とはいえ、ここにあるすべては皇帝の力の一部なのだ。
「かまわぬ。お前の喉が潤わねば私の聴力では話を聞き取ることができぬ。聞き取ることができねばせっかくお前が持ってきてくれた報告も無駄になってしまうかもしれぬ。帝国のために食べよ」
皇帝の言葉は柔らかであるが強く、伝令騎士はその言葉に従った。
伝令騎士は寸暇を惜しんで果実をかじり、種一つ残さずに腹に収める。
皇帝は微笑み、「よい」と一言。
そして伝令騎士の語る恐るべき事態に表情を凍らせた。
難事に挑む者が持つべき、平静の仮面をつけたのである。
「大宰相の危惧した通りになったな」
皇帝は独り言をつぶやくように言葉を発する。
その言葉に伝令騎士が大宰相へと顔を向け、慌てて首を垂れる。
(皇帝陛下は人使いがうまい)
呟きという形で名指しされた大宰相は苦笑をかみ殺す。
彼が語ったのはグザマが帰国しないのは帰国途上で何者かに襲われた可能性であり、その場合、偶発的な事故は考えにくく、帝国に対抗しようとする国、最悪の場合はエルフの里を滅ぼそうとするダークエルフの勢力がそれに関わっているかもしれないと話しただけだ。
もちろん皇帝もわかっているので「詳しい話」については触れていないし、伝令騎士にことさら誇示したわけでもない。
だがふとしたつぶやきの中の言葉が断固とした言葉より力を持つこともある。
皇帝のつぶやきを聞いてしまった伝令騎士はその機密性を思い、まるで大宰相がすべてを知っていたように感じるだろう。
そしてそのための準備が整っているとの誤解も生じる。
皇帝は一言のつぶやきで、伝令騎士の不安を払拭してしまったのだ。
しかしさすがの大宰相もドラゴンとデーモンを相手取る秘策までは持ってはいまい。
皇帝の仮面に刹那ためらいの色が走る。
その色を見て取った大宰相たる男はごくごく平静を装って進言する。
「伝説の存在に対する知識と探求ならばあの場所に勝るところはありますまい。かつて大陸にその知と魔術によって君臨し、各国に賢者を送り出した魔術王国と呼ばれし土地の者たちにドラゴン退治を依頼するのがよろしゅうございます」
「魔術学院か」
大宰相の言葉を聞き、皇帝の声が驚きに満ちる。
かつて魔術王国とまで呼ばれた賢者の学院を内包する宮廷魔術師派遣国家についてはこれまでその実用性について議論の外に置かれていた。
賢者と呼ばれる者は各国の宰相を兼ね反帝国の絆となりかねなかったからだ。
だから帝国は支配した賢者の学院を大幅に縮小し、魔術の研究さえも賢者の学院の塔の一つに制限し、迫害に近い扱いをしてきた。
賢者の学院の排出した魔術の導師を宰相に迎えている国を、それを理由に滅ぼしたこともある。
それに加えて賢者の学院出身者をかこっている各国にも相当な圧力をかけてきた。
今では賢者あるいは魔術師を宮廷に招く王国は数えるほどしかない。
帝国の方針に逆らう国も多かったが、魔術師を抱えぬ帝国が強大化するにつれ、賢者と言う商品の価値は下落し、各国の魔術師離れが加速する。
そして今では帝国の援助がなければ立ち行かないほどに魔術学院は弱体化した。
その恨みは帝国に向けられているはずである。
その魔術学院に援助を求めるなどふつうの神経では考え付かないだろう。
いやそもそも魔術師を傍に置く習慣を持たなかった皇帝には魔術の力の大きさというものが実感として理解できていない。
魔術師を使えばドラゴンと対決できるという着想を得る経験がないのだ。
それは帝国の騎士たちも同じであり、兵たちもそうだろう。
ただ魔術師のいる国を相手取るために大宰相たるルガールは魔術について深く研究し、対魔術師戦の戦略を練り上げる過程でその恐ろしさをその頭脳に焼き付けている。
恐ろしいと思えばこそ、魔術師の能力を封殺する戦い方を幾通りも完成させた。
実際に戦場で魔術師の力を完全に封殺してしまうための労苦は計り知れない。
先王の時代、初代皇帝として最初にして最大の戦だった「アクシャーサの戦い」が奇跡的勝利であったとしたら、魔術大国ラヴェルーナを滅ぼした戦は奇跡を起こさせないように盤上を精緻に設定し、一手のミスも許されぬチェスを進めるようなものだった。
どちらが困難かはわからない。
ただそういう理詰めの戦ができたのは相手が論理の王である魔術師であったからだと大宰相は感じている。
もしあのとき魔術を恐れて、並の国を対手として選んでいたとしたら、間違いなく、今の魔術師追放の流れは出現しなかっただろう。
そのすさまじさ故に魔術学院の外では「帝国兵は魔術を無効化する力を持っている」とさえ信じられた。
あの戦は大宰相の対の指し手である魔術師が最後まで理を捨てなかったおかげで完成した完全無比なる作品でもある。
そのため帝国成立後も各国が争って魔術師を雇っていたころとは逆の流れが巻き起こり、数多くの優秀な魔術師が野に放たれた。
優れた魔術師が二人もいれば騎士隊は十倍の兵力をも圧倒すると言われている魔術師を野に放つ。
非情に危険なことだ。
そのため各国内で密かに始末された者も少なくはない。
各国の王は魔術師の力を知っていたからこそ宰相として、あるいは執政官として、あるいはもっとも直接的に軍事参謀として招聘したのだ。
その力が離れるのを良しとするはずがない。
帝国の完勝によって魔術師を召し抱えることの優位性は消し飛ばされたが、それは帝国が相手の場合だけであり、それ以外の国に対しては強力な手札となりえたのだ。
だが魔術師をかこっていると帝国の圧力を受ける。
他国への牽制は必要だが、それなら自国が魔術師を召し抱えるより、魔術師を召し抱えている国を帝国の尻馬に乗り糾弾した方が良い。
魔術師を放逐し、魔術師を否定する帝国を味方につけるのだ。
こうして宰相の園とまで呼ばれた賢者の学院はその財力と権力、情報力、商品力、人脈を失った。
それを拾ったのが帝国文化研究室なる部署だ。
今はかつて賢者の学院の第三魔術塔と呼ばれていた場所が魔術学院本殿となり、その他は文化研究室の管理下にある。
文化研究室長が魔術学院長の上にあり、予算権を握っている。
幸いなことに文化研究室長はケチな男ではなく、魔術学院には十分な予算が与えられ、魔術の分野研究は盛んだ。
それでもかつての栄光を思う者には良く思われていないだろう。
「いっそ帝国からの要請として命じた方がいい。ただし協力に対する報奨金は多く出すことにする。金貨十万枚を上限として交渉せよ」
皇帝の言葉にさすがの大宰相も息を呑んだ。
金貨十万枚とは小さな城を建てても余りある金額であり、王宮の運営費用の十年分にあたる。
一時ならば二万の兵を養うことができる金額だ。
「竜討伐には私の近衛から一人を選び出発させるとしよう」
皇帝の脳裏には漆黒の鎧を好む、白皙の近衛騎士の姿が浮かんでいた。
極端に言葉を惜しみ、誤解を得やすいあの男もドラゴン退治と言う使命を果たすためにリーダーとしての役割を与えられれば変わらざるを得ないだろう。
皇帝ジブリールはその男の中に赤の騎士団団長であり、大陸屈指の将軍でもあるシャウラールに匹敵するか、それ以上の将器を感じている。
それが開花するとしたら金貨十万枚は安い。
優れた人材を見つけるのは西の大砂漠から一粒のダイヤを見つけるほどに困難であり、見出した人材の才能を発揮させえないのは人の上に立つ者として許しがたい罪悪なのだから・・・

傭兵家業というものは気ままなものだが、気楽なものではない。
自らの価値を決め、好きな時に好きな相手に売り込むことができる代わりに明日の保証はない。
今は戦乱の時代ではあるがだからといって常に戦場にありつけるわけではなく、傭兵としてではなく何でも屋として様々な職業あるいは厄介ごとに首を突っ込むことにもなる。
酒場の用心棒などはいい仕事で今日の食事と酒には困らない。
そして剣舞の一つでも舞えば臨時収入も入る。
戦いに飽きた彼にとっては楽しい仕事だ。
もっとも彼が戦いに飽きている時間と言うのはごくごく短い期間なのだが・・・
剣舞を終え、麦酒をごちそうになっていた男は店の扉のきしむ音に顔を上げる。
木製のコップを握ったのとは逆の手の下にある太ももが小さく動き、立て掛けていた剣を滑らせる。
鉄の臭い、それも重厚な騎士鎧の臭いだ。
扉が開いたときに男は椅子に寄りかかり、いつでもテーブルの下に潜り込める態勢になっていた。
しかし、扉を潜ってきた男を見た瞬間に跳ねるように席を飛び出した。
「兄さん、アラム兄さん! 何でここに?」
「やめろ。肩が粉々になる」
ばんばんと肩を叩き、再会を喜ぶ男をねじくれた杖を押し付け引きはがしながら魔術学院の問題児は顔をしかめる。
一応、魔術師としての最高位である賢者を現す白地に金糸銀糸で複雑な文様の刻まれたローブを羽織ってはいるが、その下にはしっかりと鎧をまとっている。
鎧をまとえば魔術が制限されるのは常識だが、それ以上に賢者のローブが儀礼用の品で携帯に不便と、肩掛けのカーディガン並みに短くカットされている様を見ると笑うしかない。
本来は全身を覆う巻頭衣型のローブは、その薄さと軽さによる防御力の貧弱さによって逆に魔術師の魔術の技量の高さを視覚化するのが目的の品でなのである。
魔術師にとっては魔術師のローブは自らの修めた魔術と言う技能に対する誇りと自信であり、魔術を使う者として他の者とは違う次元を生きているという象徴なのだ。
それをまあよくもこんな形に。
勇者になりたい賢者アラムは他の魔術師が見ればそう嘆き、眉を顰めるような恰好をして平気な顔をしている。
「今度は何をやらかすつもりなんだい。兄さん」
男が尋ねるとアラムは誇らしげに背をそらした。
「聞いて驚け、ドラゴン退治だ」
男は一瞬、硬直し、爆笑しようとして、もう一度アラムの顔を見る。
「なんだって?」
「勇者になるチャンスが来たんた。喜べ。べラムス」
「本気か?」
「本気だ」
答えたのはアラムの後から入ってきた黒い鎧をまとった騎士だった。
黒髪白皙のやや細身の男だ。
誰が見てもひと眼でいけ好かない危険な男だとわかる。
そういう雰囲気を持っている。
しかしそれは言動や容姿よりもその騎士がまとっているオーラのせいだろう。
強い気を放つことに余念がない騎士の言葉は一言で人の心身を消耗させる類の斬れ味を持っている。
本人は自覚しているかわからないが常に戦場で斬り合っているかのごとき気迫によって笑い話をしてすら他者にうすら寒い圧力を与えてしまうのだ。
こういう種類の人間を傭兵の間では「死ねない死にたがり」という。
最高の忠義の士でありながら、最強の騎士であるがゆえに王に生涯をささげながらもどんな戦場でも絶対に生き残り、王を見送るはめになるのだ。
そして最終的には不本意な生をむさぼるしかない。
そんな人種である。
しかもそれを助長するようにこの種の人間は王の傍に招かれることが少ない。
その鋭すぎる忠誠のせいで無駄口も叩かず、警戒心も強いため、その言動がわかりにくく、本人の真意が伝わらないのだ。
王からすればどう見ても謀反をたくらむ謀臣にしか見えない。
しかも騎士団の中では群を抜いて強い。
よほど肝の据わった男であっても、そういう人間を傍に置こうとは思うまい。
気がいいだけの王であればその言動の刃に耐えられず、強いだけの王であればその強さを感じるがゆえにそばに置けない。
両徳を伴う王であってもやはり使いにくい。
理由は「死ねない死にたがり」の忠誠の対象はただ王一人であり、その他に価値を見出す努力をしないからだ。
自分より弱い者など居ても意味がないと本人にとってはごく当たり前の論理で同僚との間に不和を起こし、しかも恬淡としていられるのだ。
これに似た人種はいる。
それは王という人種だ。
王が忠誠を示す「死ねない死にたがり」を遠ざけるのは本質的に避けられないことだと言える。
もっとも悲惨なのは、忠誠をささげた王が「死ねない死にたがり」に王座を奪ってもらいたいと願った場合である。
似てはいるが本質的には「仕えるもの」である「死ねない死にたがり」はそれを受けない。
支配欲がない者には義務感もない。
そういう者が継いだ王国はすぐに瓦解し、悪王の名だけが残ることになる。
「クロディス卿だ。俺の雇い主で帝国の騎士でもある。ささ、名乗りを上げてください」
後半は黒騎士に向けた言葉だ。
「こんなところで名乗らせるやつがあるか!」
べラムスは息を吸い込んだクロディスと促したアラムの腕をつかむとそのまま、酒場の外へと引きずり出す。
一人は騎士鎧着ておりを、もう一人も魔術師とは思えぬ体格に鎧をまとった男である。
その二人を軽々と引きずっていく半裸の剣士の剛力に酒場の中で歓声が上がり、今しがたまで男が麦酒を煽っていた木製のコップの中へと溢れるほどの銅貨が山と投げ込まれ、テーブルの上へと雪崩を起こし崩れ落ちていく。
ガチャガチャと触れ合う硬貨の山はしばらく放置され、やがては店主の懐に入るように思われた。
ひょっとするとあの赤毛の剣士の明日の給金に上乗せされるかもしれず、そうでないかもしれない。
だがそんなことはこの場にいる者にはどうでもよかった。
呑み騒ぐ。
それこそが酒場での唯一絶対のルールなのだ。

やや賢し気な首がテーブルの上で目を閉じている。
そしてその頭上には慌てもせずに事の経緯を語る女とそれに協力したという女騎士の姿がある。
どちらも首を持って、領主の危難を救ったという点では同じである。
女騎士はかつて国境に湧いて出た野盗山賊の頭を討ち、即座に騎士隊長として迎えられたものであり、今、経緯を語る女は一計を持って帝国の国境付近にある属する村々をじわじわと蚕食している謎の騎士団を一網打尽にしたという豪の者だ。
まだここに赴任してから一月も経たぬ青年領主が命じたことではない。
かといって賢明なる前任者の意を受けてのことでもない。
この二人が結託して、独自の判断で開始し完結させた作品である。
代々この土地に勢力を持ち領主相談役として活躍するゴードンたちへの相談をしたのかは今はわからない。
鋼のように剛直な謹厳さを持つゴードンは今、一族の長である父親を呼ぶために館を離れているから聞く術がない。
判断はただの巡回兵の記録係の下級騎士から一気に領主へと格上げされた青年自身が下さねばならない。
母に嵌められた。
青年領主は心の中でうめく。
日頃、青年領主の傍に仕え、一挙手一投足を制する気迫を見せてくる相談役としては甚だ頼りになるゴードンだけでなく、彼に連なる騎士たちも折れた剣の交換という名目で出払っている。
こういう判断に慣れ切っているだろう客人イアーブ王は着替えと称され、母の手の中だ。
そして今、テーブルの上に置かれた首こそが今まで村に離反を促す工作をしていた工作員だという。
「本当だろうか?」と思う。
実はそういう話を青年領主は全く知らない。
もともと領主になれるなどとは思っていなかったし、なるつもりもなかった警備兵の記録係の青年騎士は今、彼の支配地となった領土がどんな意味合いを持つ土地なのかもよく知らない。
一介の記録係であった彼に大陸の地図を眺める趣味はなく、各国の地理関係などは戦乱の時代である今は重要軍事機密に分類されるものだ。
この地が帝国と他国の国境に当たる枢要地であることは前任領主から引き継ぎを受けているが、そのやかましさについてはピンとこない程度に彼は政治的人格ではなかった。
青年領主はしばらく腕を組み、考えを巡らせ、目の前に座る思ったほど眼光が鋭くない女性に目を向けると一つ頷き、降参した。
「実は私は戦場の功によってここに封じられたわけだが政治にも軍事にも精通しているわけではないのです。そして相談役で実質的なこの地の支配を受け持つゴードンもいません」
青年領主の言葉に目の前の女は「何を言っているのかわからない」という表情をする。
視線を斜め右に動かすと座った女の隣に直立している女騎士も同じ表情をしていた。
つまりは二人には青年領主の理解できていない事情についての共通認識があると言う事だ。
「なんというか。無学な子供を相手にしていると思って、詳しく優しく丁寧に一から説明してもらいたいと希望しているわけです」
自分たちより明らかに年上な男の情けない言い草に二人の女性は顔をしかめて何度も視線を交わす。
そしてしばしの沈黙を置いて、表情を改めたのは今回、首を持ってきた女の方だった。
「正直にお話いたします。しかしまずはこの行動について彼女セリシアを罰さないことを約束してください」
「それはもちろん」
「領主さま、そういうときは考えてもいいとか言って意見をはぐらかしておくべきです。簡単に言質を与えてどうするのですか!」
「しかし約束しないと話をしないと・・・」
「それは・・・、それこれはこれです! そもそも」
言いかけた女の頭上から涼やかな忍び笑いが聞こえた。
視線を移すと女騎士が口元を拳で抑え、体を震わせている。
「可笑しいかな?」
「とても」
笑いの間にどうにか音にしたと言った言葉を聞いた青年領主は思う。
今まで青年領主が抱いていた自分を侮蔑の目で見ていた女騎士のイメージとは全く違うと。
「ミーナ、私はわかりやすく説明してあげた方がいいと思う。どうやら領主殿は私が思っていたのとは違い、分け隔てのない性格のようだから」
言いながらも笑い声は止まらない。
止まらないが、それが侮蔑的な意図を含むものでないことがわかるのが救いだろう。
よくわからないが自分はこの女騎士に誤解を抱かせるような行動をしてしまっていたようだ。
ミーナと呼ばれた女は女騎士を見上げると本気のため息を一つついて、青年領主に向き直る。
その説明はとてもわかりやすく、当然、話を聞く青年領主の顔面から徐々に血の気を奪い去る。
あまりの重大さに血の気を失った青年領主の顔は病的なまでに蒼白に染め上げられてしまった。
「どうすればいいんだ」
思わず口を突いた言葉に女騎士がこらえきれないといった調子で声をあげて笑う。
「そんなに笑わなくてもいいじゃない」
女騎士を制したのはミーナだ。
青年領主の方はことが重大すぎてそれどころではない。
そもそも巡回兵の記録係であった騎士は部下の無礼を叱責するという意識が希薄で人を叱り慣れてもいない。
いずれはそうなるはずだったが、まさかいきなり領主に抜擢されるなど予想だにしていなかった。
領主として領地を持つと言う事は年相応に身分相応な相手を叱るのとはわけが違う。
だが皇帝陛下の下命である。
一から学ぶしかない。
そしてそれは領内の人間の話を聞くことに始まる。
この点において青年領主は徹底していた。
ゴードンの意見のままに流されていたように見えたのは話を聞かせてくれる相手が彼に限られていたからだ。
何も知らない女騎士から見るとそんな青年騎士の「聞く姿」は地元の権力者に阿る狡賢く軟弱な男のそれにしか見えなかった。
しかし今は違っている。
一介の村娘の話を聞き、その要求を呑むという態度は狡賢さとは対極にある。
軟弱であることには変わりがないが、それは見方を変えれば好ましい柔軟さとなり得るのだ。
そこまで計算しているとしたら女騎士の到底かなうところではないが、ミーナの態度を見るにそういうこともなさそうだと信じられる。
彼女は騎士である自分よりもはるかに大胆で剛毅であり、当たり前のように緻密な頭脳を持ち、敵の工作員の動きを押さえながらその工作員の学問を盗み、発展させることさえして見せた。
天才と言うやつなのだろう。
「いいですか。領主さま」
「うん」
その場を仕切りなおすかのように青年領主に呼び掛けたただの村娘ミーナに対して青年領主は素直に返事をする。
女騎士は精一杯我慢したが肩が震わせ、笑い声が出るのを押さえられたのはほんの十秒ほどだった。

夕日が沈み、夜が来る。
二度目の夜である。
伝令騎士の報告ではデーモンとドラゴンの勝負はまだ続いている。
周囲にこの戦いに巻き込まれそうな、あるいは割って入るような不届き者がいないかを確かめるため、イアーブ王国討伐軍総督シャウラールは頻繁に旗下の伝令騎士を行き来させている。
伝令騎士は赤の騎士団の中の精鋭であり、シャウラールが総督として皇帝より与えられた軍事、行政、徴税、司法の権限の内、軍事司法つまりは軍令執行権の一部を委譲している。
「ドラゴンとデーモンの付近に留まることが故意であるとみなした場合、軍令違反として即座に斬刑に処することを許す」
という指令状と執行印章を渡してある。
もちろんそれだけですべてが片付くわけではない。
いかに赤の騎士団の精鋭伝令騎士とはいえ、命令違反をした部隊のすべての騎士隊長より強いわけではなく、シャウラールの権限移譲を受けているからと言ってシャウラール自身のように身分ある将軍その人の処罰を即座に行えるかと言うと難しい。
そもそも小隊長、中隊長クラスが功名心に駆られて命令違反を犯すなどといったことも戦場ではよくあることである
特に今回のように一気に他国を併呑するために大軍を率いている場合には将軍にその気はなくても突発的な混乱が起きることは仕方がないのだ。
実際にイアーブ王国への侵攻時においてもしばしば軍令違反は起こっており、その数は二十三にのぼっている。
そのうち処罰が実行されたのは二件である。
一国を飲み込もうとするときに限らず、戦場は生き物であり、過誤無き戦など存在しない。
過誤すらも戦力に置換してしまうのが名将であり、過誤に対する罰の線引きを動かすのが大将たる者の仕事なのだ。
殿を残して撤退命令を出したとき、退く将軍が殿を務める将軍に騎士を貸し、命令した以上の騎士が殿として残り奮戦した結果、本隊以下の将兵が無事逃げ延びたときに命令に背き騎士を貸しだしたとして退き際の将軍の行動を罰するかどうかといった判断だ。
今回のことに関しても同じで、ドラゴンとデーモンの戦いが終わったときにそなえて、殿覚悟で残り勝った方の脅威から本隊を守ろうとする将軍がいること自体は軍として喜ぶべきことなのだ。
シャウラール自身が総督の立場でなければ迷わず殿を申し出ただろう。
どう迎え撃つかと言うことも考えている。
だがすべてを鑑みて、振り返る余裕ができると異形の魔物を相手に人と人の間での戦争の基礎である殿と言う概念を持ち込むことはどう考えても間違いのように思える。
ドラゴンとデーモン。
両者の戦いが終わったときに勝った魔物が人間に向かってくるという確証はなく、彼らに人間に対する敵意を持つ理由がない。
人間であるシャウラールたちはそれをあるべき危険として認識し、先延ばしにしようとしているが実際のところドラゴンであれ、デーモンであれ、人外の魔物の嗜好性行は人間のそれと同じとは限らず、勝者が戦闘継続を望むかどうかもわからないのだ。
希望的予測と笑われるかもしれないが縄張り争いに勝った獣がその場を占拠するように、勝者は敗者を食い満足するという状況も成り立つのだ。
野生の獣なら人間にあえて近づくことはない。
魔物と呼ばれるゴブリンやオーガーでさえ、人里まで降りてくるのはまれだ。
最悪の事態を考えて対策を打つのは良い。
だが獣の習性を知らずに狩りをするような真似は慎むべきだとシャウラールは考えている。
今、ドラゴンとデーモンの傍で武器を持つと言う事は野生の獣に人の味を覚えさせる行為に似ている。
野生の獣は人の味を覚えると、人に勝てることを知ると人間ばかりを襲うようになるという。
魔獣も同じかもしれない。
そう感じる。
そうだと仮定すれば人の血と肉をぶら下げる行為は慎むべきだ。
もっともすでに巡回兵が犠牲になっている以上、それは徒労なのかもしれない。
だがそれでも正しいと思ったことを命じるのが総督たるシャウラールの役割なのだ。
「シャウラール総督」
伝令騎士たちの報告を手際よくまとめた覚書書類を持った書記官がゆっくりと歩いてくる。
「皆、私と同じように考えてくれたか」
書記官の動きでシャウラールは旗下の将軍たちが殿の勇名に惑わされていないことを知って、安堵する。
考えてみれば当たり前だともいえる。
何しろ彼が率いてきた将軍たちは帝国でも選りすぐりであり、皇帝陛下自らが編成したイアーブ王国征服部隊なのだ。
旗下の部隊のわがまま勝手を許すような愚将は一人たりともいない。
ドラゴンとデーモンという未知の存在に不用意に手を出すようなことはするはずがなかった。
「老婆心というやつだな」
シャウラールは苦笑した。
どうやら自分はひどく疲れているらしい。
だがそれはシャウラールが自覚しているよりずっとひどかった。
二日間、不眠不休で歩いた領民はもちろん鍛え上げられた兵たちも疲労困憊して立つこともできないほど疲れていることに、シャウラールは気づかなかったのだ。

「アラム、大丈夫ですか」
声をかけられ顔を上げるとそこにはアラムとは違い、しっかりとした騎士鎧に身を包んだ女性が立っている。
そう立っている。
ただの旅装であり、唯一の重量ともいえる剣をも手放して身軽なはずのアラムは座り込んで動けないでいる。
アラムとて帝国の騎士である。
昼夜兼行の行軍に耐えるために訓練を積んでいるし、剣の腕も磨いている。
学問の方はかなり不安だが頑強さと耐久力には自信があった。
だが訓練と実戦は違うようだ。
領主に仕える騎士と帝国直属の騎士団の差かもしれない。
五日間は不眠不休でいられるように訓練してきたつもりだったが、たった二日でこのざまである。
軍馬のラーファイエールの方がよっぽど元気で、それどころか彼より頭一つ背の低い女性騎士マリスも彼より元気がある。
「水だけでも飲んでください」
マリスが差し出す水袋を受け取り、栓をほどき、口を付ける。
そういえば今日は水を貰いに支給馬車へと足を運ぶこともしていない。
たった二日寝ていないだけなのにアラムは疲労の極にあった。
たった二日と思うところがアラムの精神的な疲労を物語っている。
珍しく商人領主ラフムに再交渉を命じられたアラムは急ぎ、杖を手に入れるために不眠不休に近い強行軍で旅路を進んでいたのだ。
マリスの笛を聞いたのはその中途であり、実質的にはちょうど五日間ろくに寝ていないことになる。
もちろん彼の疲労の原因はそれだけではないのだが、それに気づく余裕はない。
戦に慣れ、総督として全軍前兵士の命に責任を持つシャウラールでさえ、自らの疲労を過小評価してしまうのだ。
まだ一度も戦場を踏んでいないアラムがそうなるのも当然と言えた。
「すでに騎士の中にも動けない者がでてきています」
「あなたは動けるのですね」
「これでも赤の騎士団に所属する騎士ですから。それに巡回警備の仕事は剣よりも足腰と判断力なんです!」
腕ではなく、太ももを叩いて見せるマリスに、アラムは思わず笑みを漏らす。
自分のふがいなさを棚に上げて唇を尖らせたことが恥ずかしい。
そんな気持ちを吹き飛ばすマリスの配慮にアラムは好意を持たざるを得ない。
「どうかしましたか」
アラムはそう思ったがどうやら素での答えだったらしい。
不思議そうにこちらを覗き込むマリスの顔を見て、アラムは肩を震わせて笑いをこらえる。
この人が隊長ならみんな頑張るだろうな。
そんな感想が頭をよぎる。
ぶるるるっと激しいいななきの声が聞こえ、体が後ろへ引っ張られる。
「あらあなたの軍馬はあなたが心配なようですよ」
顔を上げると黒々とした毛並みの駿馬が自分に乗れとでも言いたげに首を動かしている。
「ラーファイエールは野生の軍馬で私をからかうことに余念がないのです。ただしとてもいいやつではあります」
そう答えたとき、アラムの体は軽くなっていた。
水を飲んだおかげか、この女性騎士の陽気さのおかげか、それとも軍馬ラーファイエールのからかいを含んだ気遣いのおかげかはわからない。
だがさっきまでの疲れは消えていた。
「じゃあ頼むよ」
アラムはラーファイエールの首を撫で、その鞍上へと身を躍らせる。
そして思う。
このまま少し居眠りをしようと。
賢いラーファイエールは手綱を曳かずとも彼を正しく導いてくれるはずだ。
「この恩は必ず返すよ」
ラーファイエールを見送りながら銀色の髪と黒い肌を持つ流麗な顔立ちの男が彼らと逆の方向へと馬を進める。
皇帝の友にして、デーモンと対決しながらも生き延びたエルフの密偵グザマである。
彼は強力な精霊使いでもある。
今、疲れ果てたアラムの心の中から自らの存在を忘れさせることに成功したと確信したのでここを去ることにしたのだ。
精神の精霊というものの存在はあやふやで扱いにくい。
帝国で密偵としての訓練を受け、エピタフの傍でその力に触れてきたからこそそんなことができるようになっていたのだが、そのことに確信を持てなかったのだ。
一時は姿を見られた以上、恩人といえども始末しなければならないと覚悟したほどだ。
だがそんなことをすれば彼の友は悲しむだろう。
きっとわかってくれるがそれでも心に傷を負う。
だからこの方法を試すことにしたのだ。
アラムの精神が強固であったのか、それともグザマの技術が未熟であったのか数日をかけてようやく効果を得られ、今その効果を目の当たりにした。
マリスが現れたときアラムがグザマに注意を与えなかったのがその証だ。
闇のエルフとされるダークエルフは人間の敵である。
たとえ彼自身は違っても、見た目がそうならば疑いは免れない。
だからアラムはここ数日、グザマをかくまい続けたのだ。
マリスには気づいたときにはいなくなっていたと嘘をついて・・・
その罪悪感が常にアラムには付きまとっていたが今日はそれがない。
「恩はからなず返すよ。アラム」
グザマはもう一度呟き、騎士舎からいただいた軍馬の耳元でささやく。
馬はその言葉に従う様に風のように疾駆する。

魔獣退治の専門家である賢者と酒場でソードダンサーとして遊んでいた傭兵、それに帝国近衛にして黒騎士の名を冠する騎士は黄金の鹿亭という店にいた。
賢者の名はアラム・ランカード、今は魔獣退治のために魔術学院を抜け出すときに愛用している皮のチョッキを羽織り、緑のズボンを履いている。
パッと見、いい商家のボンボンといった感じだ。
傭兵にしてソードダンサーの男は凄腕の旅商人といった格好をしている。
衣服は貴族風であるが、それを支える筋肉が異常に発達しているのでそう見える。
名をべラムスという。
最後の一人は見るからに騎士と言ったいで立ちで、黒い騎士服を着て帯剣していることを寸毫も隠そうとしていない。
この高級酒場では異様な三人組といえた。
高級であって最高級ではないところがポイントだ。
もっともランクの高い酒場にはこういう奇妙な集団は入れないし、さらにハイ・ランクの酒場にはなるとどんな集団であっても歓迎するだけの度量がある。
犯罪者だとしても金と信用さえあれば許容される。
王族クラスが愛用する酒場件宿屋がそれだ。
酒場自体のブランド力がすさまじいのでそこから追い出されたということは汚名となり、国家間の信用関係に影響を及ぼすほどだ。
「なあ、べラムス。ただ酒ってやつはうまいなぁ。今度はこれをつまみに頼もう」
賢者である魔術師アラムが軽く手を上げるとけしからん恰好をしたウエイトレスが洗練された動きでやってくる。
さすがは高級酒場である。
このまま夜の楽しみへもつれ込むことも考慮しての人選だろう。
「これとこれとこれを」
メニューも見ていないのではないかという動きで指を動かし、注文するアラムはさらにドラゴンパピーという名の酒に興味を惹かれたようで、いろいろとウエイトレスに質問をしている。
好奇心旺盛というか、場慣れしていないというか。
べラムスは赤い髪をかきあげ、人差し指を立てウエイターを呼ぶと慣れた様子で追加注文を済ませる。
そんな中、黒い騎士服の男は最初の一杯を注文してから動かない。
「どうした。雇い主の旦那、飲まないのか。それとも飲めないのか」
「安い挑発だな。だが受けて立とう」
べラムスの言葉に薄く笑った黒騎士クロディスは同じように人差し指を立ててウエイターを呼ぶと酒を注文した。
(挑発したつもりはないんだがな)
べラムスは思ったが、外から見れば挑発以外の何物でもない。
「おー、なんだ。二人だけで飲み比べをしようってか? 俺も仲間に入れろ~」
べラムスとクロディスの前にジョッキが並ぶのを見て、アラムが割り込んでくる。
「お姉さ~ん、俺もこいつらと同じものを~」
アラムは遺跡荒らしとか何でも屋とかあるいは冒険者と呼ばれるならず者たちがたむろしている酒場にいるのと変わらない調子でウエイトレスを呼ぶ。
それでも礼儀正しくウエイトレスはやってきて、丁寧な笑顔で注文を聞いていく。
決して「他のお客さんに迷惑でしょ!」と盆で殴ってきたりはしない。
「よ~し、飲み比べだぁ。今日は酔っぱらっちゃうぞ~」
高級感のあるテーブルに並んだジョッキを前に嬉しそうにアラムが宣言する。
(もう酔っぱらっているな)
べラムスとクロディスは同じことを思った。
べラムスは苦笑し、クロディスは冷笑する。
彼らの推測通り一番最初に潰れたのはアラムだった。
そして幸せそうに寝言を言うアラムをどちらが部屋まで運ぶかを争った二人がつぶれたのは夕日が沈み、朝日が顔を出し、昼も半ばになってからだった。

赤の騎士団の特徴である赤い騎士鎧の上に中隊長位を現す記章を付けた男は目の前に倒れている騎士たちを眺めて、ため息をつくような真似はしなかった。
疲れてはいたし、難事に巻き込まれたという意識はあったがそれはそれとして受け止めて対処するのがこの男の性格である。
名をレドリックという。
緑の参謀グリーンリパーの助けを借りて、あの「アクシャーサの戦い」を生き延びた伝令騎士である。
赤の騎士団の中では出世コースである伝令騎士としての働きが認められ、騎士小隊を任され、今では中隊長にまで昇進している。
周囲からは評価が低すぎるなどと言われるが、彼自身は順調にエリートコースを歩んでいると思っている。
実際のところ、十数度の戦いを経て未だに五体満足で生きていることが不思議に思う程度には彼は自身の実力を知っていた。
彼より剣術馬術の腕が上の者はたくさんいるし、政治的な才能もあるほうだとは思えない。
厳しい訓練を積んだ結果剣術馬術の方はそこそこ見れるようにはなったがそれも自己満足にすぎなかったように思える。
「ラルターク卿、ゴルメス卿、トラヌス卿、従者ガンド、ラル、ハイヤー、ジェラル、ハルダー、ワイト戦死。生き残っているのは私とヘルサイネス卿だけです」
偵察行動中に遭遇した魔獣を前に総勢十ニ人の偵察隊はその七割を失った。
戦場で兵の三割を失えば大敗北である。
まったくだらしのない指揮官だと言える。
「グリーンリパーがいないとこんなものだな」
今まで曲がりなりにも彼が損耗をさえ生き延びてきたのは「アクシャーサの戦い」で出会い、共に歩むことを決断してくれた五歳下の友のおかげであった。
緑の騎士団の従騎士だったグリーンリパーは死地において常に的確な判断基準を示し、大いに不足があるレドリックの指揮を助けてくれた。
騎士団の中で彼の隊ほど生存率の高かった隊は他にない。
レドリック自身は奇跡的にと言いたいが、それを支えてくれる者たちを思うと必然的にというしかない。
だが実際のところ、どこが必然なのかは説明できない。
ただ戦況報告を上げるために順序良く言葉を並べていくとどうしても当たり前に生き延びたという形ができてしまう。
彼は首をかしげながらそれを提出し、受け取る上司隊長たちは気にもせずにそれを報告書の山に投げ入れる。
それくらいに日常的な報告なのだ。
それは戦いが終わった後に勝敗の理由を語る人々の言葉を聞く旅人の気持ちに似ているのかもしれない。
すべてが必然であるわけはないのだが、すべてが必然だったように思い込み、確信的に話を受け取り伝えるのだ。
レドリックの非凡さは必然を必然として記しながらも、そこに奇跡が潜んでいることを忘れなかったところだろう。
しかしそれが結果につながるかどうかは別問題だった。
「中隊長見張りを交代しましょうか」
声をかけてきたのはヘルサイネス卿である。
あの遭遇戦で生き残った三人のうちの一人である。
彼の従者は今は眠っている。
「セリシア殿はまだかな」
セリシアとはこの領地で採用された女騎士である。
帝国の騎士である赤、青、黄、緑、黒の五大騎士団の騎士と領地付きの騎士でどちらが上位であるかはそれぞれの判断と状況に従う。
現在赤の騎士団の中隊長であるレドリックは領地騎士のセリシアの指揮下に入っている。
もちろん身分上は領地の雇われ騎士であるセリシアより帝国騎士団である赤の騎士団の中隊長であるレドリックの方が上なのだが、他国から侵攻を受けた領土を防衛する戦いとなれば地の利を知り、人の利を持つセリシアの指揮下に入り、その指揮を仰いだ方がいいに決まっている。
そもそもあの魔物との戦いで三人だけしかいない偵察隊が我が物顔で指揮権を主張するのは愚かしいことだった。
緑の参謀がいない今、ここにいる領土騎士の兵たちを指揮して生き延びさせる自信はレドリックにはない。
もっとも自身に失望しても絶望しているわけではない。
どんな状況でも自らの役割を完遂するという意思において彼をしのぐものはそうそうない。
失意の中でも全力が出せる。
それがレドリックという騎士だった。
今、村の集会場の館に幽閉されているアルターブ王国の騎士五名とその従者を見張っているのもセリシアの指示に従ってのことだ。
ただし領土騎士の指揮に従い集会場の館を囲んでいる兵に交じって、中隊長のレドリック自らも敵国の騎士たちを見張り続けているというのは彼独自の判断による。
指揮権を発動するつもりはないが戦いには加わるつもりなのだ。
左腕に傷を負っているとはいえ、騎士であるレドリックはふつうの兵士の三人分の働きができる。
ヘルサイネスとその従者と連携すればさらに戦力として貢献できる。
何と言っても相手は正規の騎士である。
騎士としての自信の力が役に立たないはずはない。
たとえ時間稼ぎにしかならないとしても、ないよりはましなのだ。
そういえば、とレドリックは思い出す。
領主騎士セリシアの傍には常に一人の女性が付き従っていた。
名前を聞く機会はなかったが、彼女はセシリアにとってのグリーンリパーなのかもしれない。
そう思うと一気に気持ちが軽くなった。
偵察行動中に魔獣と遭遇し、戦った結果、大隊から離れることになったが、参謀付きの領主騎士に従っていれば悪いようにはならないだろう。
それに
「中隊本隊の方は我が参謀殿に任せておけば心配はない。何とかしてくれるさ」
偵察行動のためレドリックが率いたのは自らを含め十二人に過ぎない。
簡単に言えば小隊長時代の部隊人数である。
中隊になればその十倍の人数を率いることになる。
偵察に出た彼が率いた兵を除いてもまだ五倍近い人数が中隊本体として大隊の中に残っていることになる。
だが頼りになる我が参謀殿は自分がいなくても立派に中隊を率いてくれるだろう。
レドリックはそんなことを思いつつ、この村に迷い込んで二日目の朝を迎えようとしていた。

「ドラゴンを操る杖ですか」
あからさまな疑いの声をイアーブ王は衣服を着替えながら聞いた。
青年領主の母とイアーブ王の間は大理石の壁と三重のカーテンで仕切られている。
壁は精緻なもので館と一体化している。
石室の中には熱された黒石が設置してあり、その隣に水桶が備え付けられている。
その水桶の傍にあるひしゃくで水を汲み、石にかけると蒸気が発生し、密閉された空間に満ちる。
熱せられた空気と蒸気の流れによって起こる気流と湿度で発汗を促し、それによって体を温めると同時に汚れを落とす効果を期待されているようだ。
イアーブ王自身としては冷たい井戸水でさっぱりしたかったのだが、帝国では、熱く熱した黒熱板に水をかけて、湧き上がる蒸気によって汗を流すことが一般的らしい。
作りとしては石の個室が窓側に設置され、その周囲にカーテンを重ねることで蒸気で温まり、汗をかいた体が急激に冷えることを防いでいる。
石室での熱気流によって体にあらわれる汗は石室の中にいる限り止まることはないので、外にこういう空間を作ったのだろう。
国と国境の関係に似ているかもしれない。
ちなみに先ほどの竜を操る杖の話は石室の中で、その使い方を聞き、蒸気の気流の中で汗を流すために座っている間に外にいる青年領主の母とやり取りをしている中で出た言葉だ。
「私も信じるのは難しいと思っていたのだが、竜を崇める竜の子らが現れてしまってはな」
「竜の子?」
「蜥蜴人間より竜に近い血を持つ竜人。リザードマンの貴種といったところかな。我が騎士団をもってしても正面からぶつかれば勝利は難しい。そんな相手だ。いや翼を持ち空を駆ける馬ペガサス、あるいは癒しの力が馬の形をとって現れるという一角馬ユニコーンなどが大量発生して大暴れしたと言った方がわかり良いかな?」
「ペガサスやユニコーンが大暴れ?」
「もともと神々の力に連なる者たちだ。絵画の世界のように人に従うような連中ではない。有名なペガサスを手懐けた一人の英雄の陰にはペガサスに蹴り殺された百の勇者の死体が積まれているのだ。ユニコーンの角は鉄の盾ごと騎士を一突きにするというぞ。それ以上の危険な力ももちろん持っている」
「しかしペガサスやユニコーンが現れたからって、何かたくらんでいるとは限らないでしょうに」
「御母堂は賢いな。もちろん俺もそう考え、探りを入れてみた。知っての通りわが国は優秀な魔術師を宰相として迎えていたのでね」
そのために小国ながら帝国の制裁を受けたのだ。
イアーブ王は布で体の汗をぬぐう。
「結果として竜人たちが人を操り、操竜の杖を求めていることが分かった。その杖で何をしようとしているのかまでは掴めなかったが、リザードマンのために心を奪われ、操られている人間を特定することには成功した。あとは」
イアーブ王は言葉をきり、顔の汗をぬぐう。
「俺の直感だな。よく当たる」
そして着替え用に用意された服を身に着けるとカーテンの外に姿を現す。
左目の上から頬にかけて斜めに傷が走っている。
ちょうど黒い眼帯で覆われていた部分だ。
ただし両目はそろっている。
「ああ、これか。変装と実益を兼ねた用心だ。別に不便はないのだが、眼帯をしていた方が印象に残りやすい。もちろん眼帯がな」
「その代わりにイアーブ王のお顔は霞むというわけですか。賢いというのは冗談に通じるようですね」
「どちらかというと逆だな。俺は冗談が好きだ。それが柔軟な思考に繋がっている。たとえば竜人の出現と大陸の危機を繋げてしまうように」
その辺りの感覚は実際に竜人と相対してみないとわからない感覚だろう。
青年領主の母の知をもってしても、さすがにそれを肯定するような発想の飛躍は起きない。
「まあ、わからずともよい。実際のところ俺の部下も俺が言っているからついてきたという感じで大陸に危機が迫っているなどと本気で考えている者はいないだろう」
「そうでしょうか?」
だから国を捨てるような真似をして、退くに退けない状況を作ったのだ。
後悔はない。
ただし任された王国を捨てたことには負い目を感じている。
万人を生かすために百人を犠牲にするという決断はイアーブ王の苦手とするところなのだ。
もちろん苦手だからとそれをやらないような馬鹿でもないが・・・
珍しく苦い顔をしているイアーブ王の前に黒い眼帯が差し出される。
「これでも付けて冗談を続けなさいな。そういう顔は人に見せるものではありませんよ。人の上に立つ者としてはもちろん世界を救うために人を騙くらかすようなときには特にね」
イアーブ王は差し出された眼帯を受け取り、大笑した。
「なに、世界が救われた後には俺の冗談はすべて神の思し召しか。英雄の伝説的な偉業として語られるようになるだろうよ」

「この重大事に二日酔いとは情けないぞ!」
ソードダンサー・べラムスと黒騎士クロディスはそれぞれの姿勢でその声に顔をしかめた。
べラムスは上着を脱いだままベッドに横たわり、クロディスは鎧を脱いで、手に果物で割った水の入ったコップを持って壁に寄りかかっている。
声を放ったのは魔術師のアラムで先ほどまで飲んでいた二人の間で寝ていたせいか元気が余っているように見える。
(酒に飲まれても残らないタイプか。それとも二日酔いとは無縁なのか)
べラムスとクロディスはがんがんする頭に響く声に同じようなことを考えながら顔をしかめ、顔をお互いに向け、目で「何とかしてくれ」と訴える。
「なんだ、なんだ、俺が寝ている間に友情パワーでもはぐくんだのか? 安心しろ二日酔いに効果のある呪文はないが、二日酔いを治す薬はあるし、他の方法はやめておくか・・・。どうもドラゴン退治に行けることになって俺のテンションが爆上がりしてしまっているようだな。あの術はダメだ」
(まだ昨夜の酒が残っているのかもしれない)
べラムスとクロディスは目を閉じる。
アラムの口調は陽気すぎるほど陽気であり、酒を飲んでいるテンションのように感じる。
だがドラゴン退治に行けるのでテンションが上がっているだけだと言われればそうかもしれないと思う。
(なぜかはわからんが)
(アラム兄さんだからな)
二人は今度は全く違う感想を抱いた。
だが
「二日酔いに効く薬とやらをもらおうか」
「二日酔いを治す薬をくれ」
アラムに頼んだことは全く同じだった。
アラムは「いいだろう」と偉そうにうなずき、やけに苦い飲み薬を調合した。
それを飲んだべラムスとクロディスが口と拳をそろえてアラムに殴りかかったほどだ。
その後、クロディスが常にない口調で宿の使用人を呼び、はちみつ酒と果実を頼み、落ち着いたころ、ようやくアラムは本題に入った。
二人に殴られて落ち着いたのかもしれない。
「クロディス卿、べラムス。ドラゴンという生物についてもっとも恐るべきことは何だと思う?」
「「皮膚の堅さだ」」
奇しくもというか、当然重なる二人の答えにアラムは一つ頷き、それから指を一本立てる。
「それも脅威の一つではある。ドラゴンの鱗はこの世のどんな剣をもはじくと言われるほどの硬度を持つ。魔法の力を宿した法剣でなければ傷つけられないなどと言う話もあるほどだ。それではもう一つ何か上げられるかな?」
アラムの話口調は魔術学院で講師として教壇に立つときのそれである。
いかに優秀でも授業の一つもできない問題児に部屋を与えるほど魔術学院は緩くはないとも言えるし、授業の一つもできればどんな問題児も放逐されない程度に緩いともいえる。
ちなみに賢者アラムの講座は魔術学院でも一番の人気講座である。
彼が講座を開くとなれば数時間でその席は埋まってしまう。
彼の授業はわかりやすく、派手なのだ。
難しい論理構成を黒板に書きだし、議論をするような形式の講義が多い中、それとは無縁と言いたげな派手な攻撃魔法がばんばん飛び交う授業に人気がないわけはない。
普段は禁忌とされている魔法も賢者アラムの指導の下であれば使いたい放題なのだ。
これで人気が出ないわけがない。
アラムにはそういう派手な一面とは別に日々のフィールドワークで才能を見抜いて魔術学院にスカウトしてきた少年たちへケアとしての指導をすることを好む面もある。
授業についていけずうなだれている生徒に声をかけ、勉強を教えている姿がよく見られるのだ。
「炎・・・」
「でかさとか・・・」
クロディスとべラムスが苦しそうな顔で答えを絞り出す。
アラムは頷く。
「一応答えたが、それほど脅威ではないと思っているというところだな。炎の吐息と言っても避けようはあるし、巨体を持っていると言ってもそれは弱点でもある。そんなところか。爪や牙は避けられるし受け止められる。巨体は攻撃の当たりやすさや発見の容易さにもつながる。いろいろと考えて答えを出したが竜の鱗ほどのインパクトはないと言ったところかな」
アラムの言葉に二人は素直にうなずく。
「ドラゴンに会った者は十中八九生きて帰れないし、そもそもドラゴン自体が超希少種とされているから実際には会えない。二人ともドラゴンに会ったことはないし、誰かに聞いた話を信じてもいないだろう。おぼろげに信じているのは酒場の英雄譚か、絵画の世界のドラゴンじゃないかな」
これにも二人は頷かざるを得ない。
「嘆かわしいとは言いたくないが、これからドラゴンに挑もうという勇者としては不勉強が過ぎる! だが一から書物を漁ってもらう時間はない。そこでだ!」
アラムは人期は大きく声を上げるとにやりと笑う。
「今からお前たちにはドラゴンの相手をしてもらう。心配しなくていい殺しはしないから」

老宰相は知り得る限りの人物、手段、もちろんその中には王の信任も含まれるを使って策士アイクキオンの記録を調べ上げた。
結果、策士アイクキオンの策については騎士団長はもとより、王も、それを推進する中心部にいた前の宰相でさえもその全貌を掴んでいなかったらしいということがわかった。
わからないことがわかったわけだが、それでも行動の指針となる情報であることは確かだった。
幸いなことに宰相の手記には魔術なき賢者、策士アイクキオンの策謀についての不安がつづられていた。
策謀の内容はわからない。
だがはっきりと「彼に従っていいのだろうか?」という前の宰相の自筆の一文がその手記に残っていることが重要であった。
魔術なき賢者アイクキオンの名は大陸では有名である。
知らぬ者などいないとまでは言いきれないが、国事に関わる者なら知らぬのは怠惰と言えるレベルの知名度はある。
「わからぬことが唯一のカードとは」
老宰相のつぶやきに味はない。
苦みを感じるほどに老人の舌は鋭くはない。
もっともこの感覚はアイクキオンに関わった者すべてが共感するものかもしれない。
賢者の学院で賢者のローブを与えられた者でも到底及ばぬ舌つまりは頭脳のを持つからこそ、アイクキオンは魔術なき賢者と呼ばれるのだ。
しかしアイクキオンの策謀で、騙されただけですと弁解するのもなかなかに難しい。
それはアルターブ王国の国としての防衛戦略の甘さの告白であり、大国としての威信にかかわる恥となり得るからだ。
完全なる大国ならば恥を持って他国の敵意を懐柔するということもできるだろうが、アルターブ王国は十年ほど前に帝国に敗北し、三年前に商業交易都市の利権を丸々奪われたばかりだ。
もちろん他の大国と呼ばれる国々も状況的には変わらない。
つまり「わからない」ととぼけて、また資源・戦略地を差し出すという形を取らざるを得ない。
可能ならば帰らぬ自国の騎士団との捕虜交換のために帝国騎士団を捕虜とするようなことが望ましいのだが、それを実現するにはそれこそ策士アイクキオンその人の頭脳が必要だ。
ちなみに赤の騎士団撤退の理由や状況についての情報に進展はない。
あれから半日も経っていないのだ。
アルターブ王国とイアーブ王国は離れており、最短距離でも帝国領を挟んで十五日の距離がある。
今、帝国内に放っている密偵たちが築き上げた情報伝達網を使ってもあと一日か二日は時間が必要だと言う事だ。
数時間前、帝国内でイアーブ王国方面に向かい出兵の気配があるとの知らせが届いたことからわかるようにその情報伝達網は大国のそれにふさわしい力を持っている。
敵国の出兵情報を事前につかむことは困難であり、それを本国に伝えることにはさらなる困難が伴う。
わざとイアーブ王国方面に兵を向け、実際には他の国を討つということもあるかもしれないが、今回に限ってはそういう疑いはないとのことだ。
「まだ猶予があると思っておいた方が良いな」
会議室についた老人がその言葉を呟いたのは騎士団長の焦りを鎮めるためだ。
策士アイクキオンの存在を聞いて、自ら騎士団長の危機感を煽るような行動を依頼しておいて焦るなというのは矛盾した発言に思えるが、十全に調査した結果慎重に打つ手を選ぶ時間があると出た以上はそれを共通認識としておくべきだった。
政治上の最適解は、戦場のそれと同じく刻々と変化していくものなのだ。
「アイクキオンの居場所さえわかれば手の打ちようも変わるのだがな」
何気ない老人のつぶやきに騎士団長は姿勢を正し、不明を詫びた。
(いかんな。どうにも愚痴っぽくなっているようだ)
老人は手を上げそれを受けると自らの心の内で呟く。
帝国領内へ派遣した騎士団は百名ほどだという。
彼らを王国とは無関係に暴走した者たちにすることは簡単なように思えた。
実際にただの騎士団なら簡単だった。
だがその中に王国の第三王子の名が記されているのを見て、それが不可能なことを知った。
アルターブ王国第三王子ジェット・ランガイン。
彼はアルターブ王国の至宝と呼ばれるほどに優れた王子であり、第一王子フラナガン、第二王子シャルハーに目の中に入れても痛くないほどに可愛がられている弟なのだ。
冗談ではなく、彼の命がかかっているとなれば二人の王子は全軍を率いて帝国と対決し、さらにブラハダーブル海王国に嫁いだ第一王女が海軍を率いて援助をするように夫である王を掻き口説くであろう。
魔術学院で密かに魔術を学んだ第二王女は自前の魔術兵団を率いて大暴れするだろう。
父である現王はそれを許すことはないと断言したが、「息子たちが私より優れていなければ」という条件を付けた。
つまり父王が動く前に息子たちにその行動を制せられる可能性を示唆したわけだ。
王と王子たちのどちらが優秀かというのは難しい命題である。
老宰相でさえ、王の優秀さを確信するのに騎士団長の抜擢、策士アイクキオン存在、その他もろもろの国家機構の構築の成果を見て初めてそれに気づいたのだ。
宰相時代にはそれを見抜くことはできなかった。
宰相を外された市井ではすでに成果を現していることごとの片鱗をも感じることはできなかった。
そんな老人が今、王子たちの能力について即座に評価を下すなど不可能だと思える。
下手に動けば第三王子拘束の事実を王子たちに察知され、事態を紛糾させることになる。
今の段階で第三王子の拘束が知られていないことこそが、王の優秀さを示しているのだ。
「第三王子が同行していることをあちらは気づいているのか? いや気づいていればこんな悠長な話にはなっていないか」
「イアーブ王国の異変でこちらまで手が回らないのでは?」
「手が回らなければこそこちらに牽制をかける必要があるのだ」
交渉のテーブルを準備しておけば少なくとも開戦の危機は避けられる。
「少し良いか」
会議室の扉が開かれ、一人の人物が姿を現す。
それほど目立つ容貌でもなく、やや肥満気味で少し頼りなく思えるような壮年の人物だ。
「アルターブ王」
老宰相と騎士団長は席を立ち、頭を下げる。
「今、帝国領から使者が来た。彼女にもこの場に入ってもらおうと思うが良いな」
王が示した帝国使者の紋章を見て、老宰相と騎士団長の二人はためらいなくうなずいた。

バク・バクーことバクダハは金髪の貴族令息の話を聞いてから落ち着かない。
当たり前だ。
山賊野盗の隠れ家を見つけて王の帰還を待とうとしていたら、大国の王子が迷い込んできたのである。
しかも金髪の貴族令息はバクダハたちが野盗山賊の類ではなく、騎士隊であることに気づくと自らの素性を明かし、保護を求めてきた。
帝国が出現する前は覇王国として大陸を主導支配したことがあるアルターブ、レンスア、アフガルド、ザイクネス、プロアズニの五覇王家の系譜の一つが彼の出自だ。
どの国も次なる千年王国と言われる大国である。
ネクストミレニアムと呼ばれるカテゴリーに入るには建国五百年以上の歴史を持たなくてはならない。
件のアルターブ王国は建国七百三十四年を誇り、そのうちの二百年ほどを大陸覇王国として過ごしてきている。
帝国の前身パーン王国は建国九百年を超えているが、覇王国には数えられていない。
理由は覇王国として君臨する前に、帝国と名を変え、覇王国による支配の断絶を宣言したからである。
ある意味、大陸史を書き換えたといってよい。
力ある者が覇者として、大陸の安定のために威勢を振るうことが大陸のルールであり、大陸の民の共通認識だったのだがそれが次の覇王国によって否定されたのだ。
次の覇王国はどこかと気を配り、その国に従うことが小国の国王たちの役割っだった。
次の覇王国として認知されていたパーン王国が帝国を名乗り、覇王国の支配を否定したことで大陸は戦乱華々しい時代に入ったと言ってよい。
覇王国誕生初期には覇王は帝を支える国という体裁をとっていた。
だがやがては不要になった帝は廃されたという。
帝国という名称は廃された帝の文字を国名に重ねることで覇王国の支配を破り、新たな秩序を作るという意思を表明なのだ。
若い世代にとっては覇王国が帝国に変わっただけではないかと思うきらいもある。
名が違っても実は同じだと。
正直、バクダハもそう思っている。
帝国と覇王国には決定的な違いとは何だろうか?
ともあれ今はアルターブ王国騎士団小隊長ジェット・ランガイン。
アルターブ王国第三王子の要請を受けるかどうかである。
流浪の王子にはその容姿礼儀正しさ、そして剣技の冴えもさることながら人を魅了してやまない何かがある。
バクダハに従う騎士たちも彼の魅力に抗いがたいようで捕虜に対するものとは思えない態度で彼に接している。
それを受ける王子の屈託のなさはイアーブ王に似ている。
まったく違う性格容姿ながらその本質に「王」の資質があるのかもしれない。
ただの王ではなく、戦場で戦う王としての資質だ。
さすがにこの王子を生かして置いたら危険であると考えるまでバクダハの思考は飛躍しない。
バクダハは騎士ではあるが宰相ではないし、各国の宰相でもそこまでは考えないだろう。
考えるとすればそれは天下を狙う野心のある大宰相だけだろう。
小さな火を消して回るにはそれ相応の欲望野心が必要なのだ。
結局、バクダハはこの王子の要請を受けることにした。
アルターブ王国の支援を受ければ祖国復興が現実的になるという理由を思いついたのは王子の保護を決めた後だ。

ミーアの話を聞いた青年領主はすぐに領主会議を開くことにした。
会議に呼ばれたのは領主相談役のゴードン、ゴードンを代表に選出した一族の長老、領土騎士の団長、執政官の長、女騎士セリシア、そして今回の議題となる騎士団の拘束を報告にきた村娘ミーアである。
領主である青年の右隣りにミーアの席を設け、そこから時計回りにゴードン、女騎士、騎士団長、執政長官と続き、一つの空席を置き、最後に長老が青年領主の左隣に収まる。
席は円形に設置されており、その真ん中には趣向を凝らせた会議机が設置されている。
議題は領内に侵攻してきた騎士団の処置に関するものであり、
「遅くなってしまったか」
イアーブ王の協力要請に対する答えを導き出すために詳しい事情を聴くためのものでもある。
「なんだ。難しい顔をしているな」
左目を眼帯で覆った王は笑い声をあげながら席に着いた。
本来なら領主の専権事項である領内に侵攻してきた騎士団の処置を決めるのにまでイアーブ王を同席させるのはミーアがその方が良いと青年領主にアドバイスしたからだ。
もちろん彼女の親友である女騎士セシリアの猛烈な後押しがあったことは言うまでもない。
イアーブ王が入ってきた瞬間、ゴードンと長老の表情に緊張が走ったのがわかった。
ミーアの言っていた通り、青年領主が彼らの決定を覆すための協力者としてイアーブ王の出席を求めたと思っているのだろう。
本来ならそういうことに気づく青年領主ではないのだが、今回は事前に知らされていたため気が付くことができた。
というよりこの席に座っている青年領主は村娘ミーアの操り人形を自任しているので気楽であり、そのため人の顔色を見る余裕があったというべきかもしれない。
今まで意見を言うのも考えるのも青年領主自身であり、それに対して意見を具申する者はゴードンしかいなかった。
しかも青年領主の考えは領主として未熟すぎて、ゴードンの意見に明らかに見劣りした。
結局、考えに考えた施策はゴードンの鉄面皮に容易く弾き返され、ひっくり返されるか、変更される。
それは事態は良いことだとわかっている。
だが考えに考えた自分の施策が一切通用しないというのは精神的にきつい。
子供が描き上げた城の絵を、画家にすべて塗りつぶされて完璧に仕上げられ面白くないと思う気持ちに似ているかもしれない。
子供なら「もうお城の絵はかかない!」と絵筆を投げ捨てられるが、領主である青年が「もう施策については関わらない」とばかりにゴードンに丸投げするわけにはいかない。
どうせゴードンの意見に従うんだからと思いつつも、毎回自身で施策を練り提出するのは苦痛であったがやらなければならない仕事なのだ。
青年領主は巡回警備兵の記録係の騎士出身であり、領地経営を学んだこともなければ、夢想したこともない堅実で平凡な下級騎士の出であり、そういうことは苦手というより関わったことがないので勝手がわからない。
偶然、イアーブ王を撃退し、その功で領主になって二十日目といえばその才能と立場がどの程度かわかるだろう。
「竜人はいないか」
イアーブ王は会議に出席している者の顔を見て回りながらつぶやくと席に座った。
「では会議をはじめましょう。イアーブ王には客分として意見を出してもらいたいと思っています。遠慮はなさらないようにお願いします」
青年領主は会議の開始を宣言し、イアーブ王に声をかける。
イアーブ王が「どういうことだ」と口にしたが、青年領主は聞こえないふりをした。
他の者からの意見はない。
「まずは我が領内に侵攻してきた騎士団の処置についてです」
その言葉に対して表情が動いたのは、イアーブ王のみ。
他は皆了解済みの話と言う事だ。
新領主である人格力量ともに不明の青年に実行中の極秘作戦を報告することのリスクは大きい。
同意を得られても不信を与えることになりかねないし、得られなければ作戦行動に大きな支障をきたす。
同意を得られても新領主が手柄を焦って、作戦時期を早めようとする可能性もある。
前領主は優秀な人物と思えたので青年領主はその決定に従っただろうが、来たばかりでそれを理解してもらえるはずもない。
だが「驚くふりぐらいはしてもいいじゃないか」とは思う。
「騎士団か。どのような素性の騎士団かわかっているのか」
「イアーブ王国の上級騎士が率いる百名ほどの先遣隊と言ったところでしょう。村の集会場に拠点を築き、私に村の独立を認めさせるのが目的だったようです。認めなければどうなったかはわかりませんが」
表情を消したイアーブ王の問いに青年領主は気軽に答えた。
最後の一言は青年領主の感想である。
その感想にミーアの表情が変わったような気がしたが何かまずかっただろうか?
「村の独立? なぜだ」
「なぜ」
青年領主はイアーブ王の言葉を口にしながら、ミーアに視線を向ける。
「発言をお許しいただきありがとうございます」
ミーアはそう断って一礼してからその理由を説明した。
「資源・領土闘争の一環というわけか。うちのような小国相手には効果がありそうだな」
椅子の手摺に肘をつき顎を指に預けたイアーブ王が首をかしげる。
「確かに効果的な戦略だ。大国間でも、いや大国間だからこそその適用は強力に作用するだろう。だがそれを帝国に仕掛ける意味はなんだ? 帝国が過去の法それも覇王国時代の象徴のようなそれを遵守するとはとても思えん」
それは自問自答だ。
もちろん最後の帝国に対する村の領有の意味には対する答えは出ていないが・・・
「どう思う」
「それは」
尋ねられたミーアが言葉に詰まる。
「断られることを見越して私の領地を攻める口実作りでは?」
「帝国と戦争を始める気があったと言う事か。勝ちの目が見えた者がいると。ふーむ、それは俺ではどうしようもないやつに違いないな。俺が考えてもわからんだろう」
イアーブ王は背筋を正して小さく肩をすくめる。
それから椅子に体を預けると大きく天を仰いで、目を閉じる。
先に進めろと言う事だろう。
「ゴードン、意見を」
謹厳な顔つきの壮年が頷き、意見を述べる。
青年領主は頷き、次の席にある騎士団長に発言を許す。
騎士団長の意見もゴードンと同じだ。
執政長官はやや私見を交えながらもゴードンの意見に同意した。
最後に長老に意見を求めると「領主さまの良きように」とだけ発言し、小さくうなずいた。
「ではゴードンの進言に従って捕らえたアルターブ王国の騎士たちには騎士牢に入牢していただきます。今回のアルターブ王国の領土侵犯は帝国への挑戦です。我が領土内に帝都から派遣されている帝国伝令騎士隊に緊急伝令を要請することにします。近隣の領主からの援兵が派遣されると思われるので、歓待のための準備も怠りなきよう」
青年領主はゴードンの意見を入れ、ミーアの準備してくれた草稿を記憶のままに読み上げる。
反対の声はない。
「私が意見を出し、ゴードンがそれを打ち砕くという流れがないとなにか落ち着かないな」
思わず漏らした青年領主の声に最初に笑い声をあげたのはイアーブ王だ。
「確かに反対意見が出ないというのは詰まらんかもしれん」
イアーブ王に続いたのは長老。
「説き伏せられることに不満を持つのも問題ですが、快楽を覚えるのは間違いですぞ」
「打ち砕くとは」
「そういうことは会議の席で言うものではありません!」
青年領主が女騎士に目を向けると
「私もミーアと同じ意見です」
と笑いをこらえながら返された。
「結論が出たところで少し休憩を設けるとしよう。俺の話はもっと大事だぞ」
そう言っておどけるイアーブ王の姿が契機となり、イアーブ王の要請についての会議は休憩を取った後でということになった。
ゴードンが不満そうな表情で出ていくのを見て青年領主は小さく首をかしげたが、
「ふざけすぎているとでも思われたのだろう」
と結論した。
ゴードンは謹厳であり剛直、会議の席で笑いが起こることにいい印象を持たなかったのだ。
「私も休憩するか」
次の議題であるイアーブ王の要請が何であるのかを青年領主は知らない。
対策も施策も立てようがない以上、することがない。

「さあ、宝が欲しくば我を倒して見せよ」
暴風のごとき声でドラゴンらしい発言をして見せたのは魔術師であるアラム・ランカードである。
枝分かれした十本の角と六つの目とトカゲのような顔面とそれを否定するように風に揺らいでいる獅子の鬣のような髪を携えた頭部を支える首は長く伸びていて巨大な胴体と頭を繋いでいる。
胴体の背には六枚の翼が広げられており、さらに巨大な胴の前面から脇腹にかけて胴に比べて細い六本の腕が生えている。
胴から下は細く絞られており、乳白色の竜巻の中にある。
その下に緑色の尻尾がゆらゆらと陰って見える。
「これがドラゴンってやつなのか」
傭兵にしてソードマスターたるべラムスはその異様に思わず息を呑んだ。
傍らに立っている黒騎士クロディスは傍にあった大剣に手を伸ばし、留め金を外している。
こんな状況でもスムーズに留め金を外し、鞘を滑らせることができる黒騎士クロディスの姿にべラムスは多少、落ち着きを取り戻す。
一方で息を呑みつつ、無意識に曲刀を引き抜き、戦う構えを見せているべラムスを見た黒騎士クロディスもその影響を受けている。
「強欲な人間どもめ、決して許さぬぞ。我が炎の前に滅びるがいい!」
巨大な竜の咢が上下に開き、轟音とともに火線が走る。
べラムスは大きく飛び退き、黒騎士は騎士の大楯を構えるが竜の炎は恐ろしく巨大であり、しかも炎は同心円状に広がる熱波をも伴っていた。
大きく飛び退いたべラムスはその右足を炎の端に掴まれ、黒騎士は炎を受け止めた後着吸い込んだ熱波で喉をやられ、苦悶の表情を浮かべる。
そこへ六本の腕の内の二本が大剣のごとき、五本の爪を持って襲い掛かる。
胴に対して細いと言ってもその長さは二階建ての建物を三つ重ねたほどもあり、その重量威力は二人を吹き飛ばすのには十分すぎる威力がある。
しかも思った以上に素早い攻撃だ。
べラムスはその攻撃を避けるために天を仰いで重力に身を任せ、黒騎士は顔をしかめながら大楯で受け止める。
激しい勢いで叩きつけられる竜の爪を受けた大盾が魔法の輝きを発するのと同時に黒騎士は大剣を突き出した。
大楯と同じく魔法の力を宿す法剣の一撃が竜の鱗を貫き、肉を傷つける。
だがあまりに巨大な竜にとってその傷は全く意味が感じられないほどに小さい。
黒騎士の迷いを断つように凄まじい気合の声が上がる。
べラムスだ。
べラムスは右足をやられ、あおむけに倒れて竜の爪を避けた姿勢から曲芸のように体を引き上げるとその勢いのままに曲刀を竜の腕の手首の辺りへと叩きつけていた。
振りぬいた曲刀に従う様に竜の右手の平が血の糸を引きながら大地へと落ちる。
巨大な手が大地に落下するのとほとんど同時に竜の咢が開く。
今度気合の声を上げたのは黒騎士クロディスであった。
竜の手を切り落とし、硬直しているべラムスの前へと移動し、彼に向けられた竜の炎を大楯を構え、全て受け止める。
竜の炎の中心部の火力、そして圧力は先ほどの数十倍するように思えたが、黒騎士は耐えきった。
「すまん」
曲刀を振り切ったままのべラムスから吐息のような声が漏れた。
だが竜の炎を受け切った黒騎士クロディスにはそれにこたえる余力はなかった。
再び炎がくれば耐えきれぬ。
そんな感想を持った黒騎士はその感想とともに真横に吹き飛ばされていた。
炎の吐息の陰に隠れ、長大な尻尾が振るわれていたのである。
前方の視界を遮る大楯の下にいたせいで横方向からの攻撃に対して反応が遅れた。
そしてそれはべラムスも同じだった。
二人は仲良く壁に大地に叩きつけられ、意識を失った。
だが二人はすぐに目を覚ますことになった。
右手首を押さえて悶絶するアラムに叩き起こされたのである。
「お前ら、殺さないって、お願い。回復魔法使える司祭様のところに連れて行ってお金払ってこの手をくっつけてやってくれなさい。早くしないともどらなくなっちゃうから!」
悶えるアラムの姿に唖然とした二人だったが、落ちている右手を見て何となく事態を察する。
しかし
「腕をくっつけられるほどの高位神官など早々に見つけられはせんぞ」
「とにかく急いで神殿に担ぎ込もう」
「違う、魔獣退治の斡旋所! 受付のサーラってやつに俺だって言えばくっつけてくれるからぁ」
「斡旋所の受付け?」
「ならず者の酒場の地下にある! 早く、痛い、ホントに泣くぞ!」
先ほどまでの威勢はどこへやら、べラムスとクロディスは泣きわめくアラムとその右手をそれぞれに拾うとそれぞれの馬に乗って街へと駆け戻っていく。
二人とも気絶するほどのダメージを負っているのだが、アラムのから騒ぎを見ているうちにそのことを忘れていた。
アラムを斡旋所に運び込んだ後、二人はすぐに昏倒した。
原因不明の高熱と疲労感に侵され、食事も睡眠もとれない日々を過ごした。
魔術師アラムの変身した竜との戦いの影響であることは明らかだ。
二人の体を蝕んだのは魔術師アラムの変身した竜との対決の余波であり、もしこの体験なくしてドラゴンと対峙していたら確実に命を失っていただろう。
英雄譚で語られるドラゴンの力などは物語に過ぎず、それを持ってドラゴンの力を図っていた自分たちの愚かさと危うさに臍を噛む思いがした。
二人が熱と疲労に指一本動かせない間、アラムはいくつかの仕事を終えていた。
一つは目標であるドラゴンの情報収集であり、一つはドラゴンと対決するための仕事仲間の募集である。
さらに彼は竜化した自身の右手を切り落としたソードダンサー・べラムスの曲刀、そして黒騎士クロディスが掲げていた大楯と大剣、さらにあのときは身に着けていなかった鎧について調べ上げ、その効果を最大化するために魔術的処理を施してもいた。
勇者であろうとした賢者は魔道具の類の効果分析と効果増幅の専門家でもあったのだ。
べラムスとクロディスの二人が目覚めたとき、二人の武具は以前とは別物になっていた。
その形状だけではなく、発せられる魔力自体が桁違いに跳ね上がっている。
黒騎士などは「陛下から賜った武具に細工をするなど許さん!」と息巻いたものだが、ドラゴンを相手にするには以前の武具では足りないことも理解していたのでしぶしぶそれを受け入れた。
手をくわえれば元に戻るというアラムの言葉のおかげでもあっただろう。
ともあれ、実際に竜と手合わせしたことで二人の戦士は竜殺しの困難さを知り、覚悟も新たに技と心を磨く気になった。
黒騎士はドラゴン退治の勅命を完遂するためなら帝国では日陰者である魔術師の言葉も聞くという態度が明白になり、べラムスの方も今までの先入観を捨てドラゴンと対峙する構えである。
またアラムの方でも二人の力量を認め、それをドラゴン退治に生かすために特別な訓練メニューを組み上げて、実行させた。
その間にできるだけ仲間を集めるというのがアラムの方針であった。
ならず者の酒場の地下にある魔獣退治の仕事の斡旋所でもさすがにドラゴン相手に仕事をしようという者はいない。
そもそもドラゴン退治の仕事の張り紙さえも出すことが難しい。
魔獣退治の専門家として有名なアラムの実績があってもドラゴンは盛りすぎだと嘲笑される。
ドラゴンはまさに伝説の世界にだけ存在する夢物語なのだ。
竜に似て非なる存在である飛竜ワイバーンでさえ、めったに出現するものではない。
さらに言えば、魔獣退治の斡旋所にいる人間の中にドラゴン退治に耐える人材は二人もいない。
この斡旋所に、ではなく、大陸中の魔獣退治の斡旋所を探しても、だ。
そのうちの一人は近頃大金を得て、しばらくは狩りに出るつもりはないと笑っていた。
金貨一万枚の報酬を提示すると声を潜め「金より命だ。今は下手に名を売りたくはねえ」と槍を突き付けられた。
もう一人の方には「今、受付の仕事で忙しいから」と断られた。
神官としての高い適性と能力も、彼女が天職と考える受付嬢の仕事の能力に比べれば取るに足らないと言いたげである。
「ドラゴンが街を襲いにきたらどうするんだ」と脅してみても、「その時は別の街の斡旋所に行くから」と平然と答えるハーフエルフの看板娘ならどんんな厳しい環境でも斡旋所を経営できるだろう。
「百年に一度いや千年に一度のチャンスなんだぞ!」
そう言ってテーブルを叩くアラムを二人とも珍奇なものを見る目で見ていた。
「なぜみんな勇者確定の好機に飛びつかないんだ!」と唇を尖らせるアラムに同意の言葉を吐くのは難しい。
勇者になりたい人間は砂漠の砂の数ほどもいるが、ドラゴンを倒して勇者になろうと考える人間はアラム一人しかいない。
べラムスも、クロディスも決して英雄勇者と呼ばれるためにドラゴン討伐に名乗り出たわけではないのだ。
「他に当てはないのか」
「ない!」
情けないことを力強く言い切ったアラムの姿はいっそすがすがしいのかもしれない。
「クロディス卿、あんたは?」
「皇帝陛下からは魔術学院に協力を要請するようにとしか命ぜられていない」
こちらはこちらでその命令がなければ、一人でドラゴンに挑みそうな勢いで言う。
「俺が何とかするしかないか」
言っては見たものの、心当たりなどあるはずもない。
「いやダメもとで姉さんのところへ行ってみるか」
かつてアラムと勇者になることを争ったという話を聞いたとがある。
彼女ならこの無謀な冒険に手を貸してくれるかもしれない。
「なあアラム兄さん、確か魔術にはロケーションという呪文があったよな。思い描く品の位置を探知する魔術が」
「なんだ、探したい物でもあるのか? だがあれは俺が思い描けるものしか探知できないぞ。それから人探しは無理だ。俺がお前を探し当てたのもいつもお前が身に着けている王家のペンダントを覚えていて、たまたまお前がそれを手放さなかったからだ」
べラムスはそれを聞いて、行けると確信した。
姉がアラムの贈り物である薔薇の剣を後生大事に持っていることは弟として保証できる。
あの剣はアラム第一王子と姉の約束の品であり、大陸でも屈指の魔力を秘めた法剣なのだ。

「ドラゴン退治かぁ」
赤の騎士団ができる前から愛用している深紅の鎧と執務机の頭上に掲げられた柄の部分に薔薇の意匠の刻まれた華麗な剣を眺め、帝国の剣と呼ばれる女性はため息をついた。
昔ならいざ知らず、今の彼女は皇帝である弟を支える帝国の重鎮だ。
赤、青、黄、緑、黒の五大騎士団のみならず、近衛騎士団さえも指揮下に置いている彼女は帝国軍事の頂点だった。
さすがにあの場で「ドラゴン退治なら私に任せて! お願い!」などとは口が裂けても言えなかった。
言えばよかった。
そんなことも思うのだが、どうしてもそれは違う気がした。
なぜかはわからないがそんな気がしたのだ。
今じゃないという直感が働いたと言えばわかりやすいだろうか?
じゃあいつなんだと言われれば答えようが・・・
「ひさしぶり」
「アラム・・・王子」
帝国の剣と呼ばれる女騎士は目の前に現れた男が誰であるかすぐにわかった。
癖のある金色の髪に、おずおずとしているが人をからかうことをやめられないと言った口元、何よりその好奇心しかない青い目の輝きが彼女に男の正体を見破らせた。
「ちゃんと騎士やってたのか」
ねじくれた杖を左手に持ち、右手に包帯を巻いた男はそっぽを向いて、そういった。
それから杖を隣に立っている青年に渡すと彼女の前に左手を差し出す。
「ドラゴン退治に行くから一緒に来いよ。フリュティエ。勇者パーティになって歴史に名を残そう!」
最初はともかく、最後の口調はまさに子供のころの王子そのものだ。
フリュティエは「もちろん」とその左手を取り、それから「ちょっと待ってて」と慌てて鎧を身に着けると執務机の引き出しの裏底から大きめのリュックを引き出して背負う。
「竜とか魔人が来てもいいようにいろいろと買い揃えてたの。給料の八割がこれに消えたんだよ」
夢見る少女の口調でとんでもないことを言った女騎士は最後にちょっと迷ってから執務机の上にのぼると背伸びして薔薇の意匠のついた剣を腰に帯剣する。
「これでよし」と机を降りた彼女の後ろでは積まれていた書類の数々がぐしゃぐしゃになっている。
「そういえばそこにいるのは」
「姉さんひさしぶり」
赤い髪の青年が手を上げ
「・・・・・」
唖然とした様子で立っていた黒髪の騎士がはっとして頭を下げる。
「べラムス生きてたんだ。それからクロディス卿ご苦労様。う~ん、すぐ出発したいけどクロディス卿がいるなら報告した方がいいかも」
このまま出ていくのも面白そうだが、どうせドラゴン退治には行くのだから変な混乱を招くやり方はする必要はないようにも思える。
「じゃさっさとお偉いさんに報告に行こうぜ。どうせ怒られるのは俺になるんだから早く怒られておいた方が気が楽だ」
「それもそっか。じゃ行こっか」
フリュティエは気軽にうなずき、三人を連れて大宰相ルガールのところへと赴いた。
フリュティエの言葉に唖然とした大宰相は皇帝その人を呼び、皇帝の計らいでソードダンサーであるべラムスには鎧の指輪と魔糸で編まれた強靭な軽装鎧が与えられ、アラムには各種魔法を強化する指輪と魔術師用の際に疲労を肩代わりする純度の高い魔力の結晶石を五つ下賜された。
アラムの隣でフリュティエがそわそわしていたのはおそらくそういう品がリュックの中にあったからだろう。
帝国騎士団最高位にある彼女の給料は高いのだ。
しかも皇帝は皇帝付きの司祭を一人呼び出し、加勢として加えてくれた。
帝国大司教ラズエルは大陸最高の癒し手として高名であり、彼女の存在は百人の騎士に匹敵するとまで言わしめる実力者だ。
「魔法の武器を持った凄腕の戦士二人に、大魔術師、そして確かな癒し手の大司祭。これで負けたらどうしようもないレベルのパーティ構成だな」
アラムの言葉に反応する戦士はいない。
ソードダンサー・べラムスも、黒騎士クロディスも、女騎士フリュティエも自分が凄腕の戦士だと思っているからだ。
「つまらん」
「私もそう思う。姉上がいくのだから私だって竜討伐に加わっていいはずだ」
「それだけの実力があればな。皇帝と言ってもフリュティエよりは弱いんだろ。弱いやつは邪魔にしかならんぞ。魔術の心得とかがあれば別だがな」
「アラム!!」
「ぶはあっ!」
皇帝に姉上と呼ばれたフリュティエの拳を受けたアラムがもんどりうって床の上を転がった。
フリュティエはアラムの頭上に拳骨を落とそうとしたのだが、アラムの背が伸びていたので顔面にこぶしをぶち込む形になったのだ。
完全装備の拳である。
魔法銀でできた小手は重量は軽いが強くて硬い。
「皇帝陛下、ご無礼をお許しください」
帝国の剣は膝をつき、非礼を詫びた。
ひとつは無礼な口をきいたアラムの非礼であり、もうひとつは皇帝の宮殿を血で汚したことである。
床に敷かれたふかふかの絨毯の上を転がった魔術師には先ほど仲間に加わった大司教が駆け寄り、癒しの奇跡を祈っている。
実力主義の帝国らしくまだ若い彼女の強い非難の視線が痛い。
自身でも自覚しているが、今の手ごたえからすると鼻の骨はもちろんその他の部位が骨折していてもおかしくない。
殴られたアラムはすでに意識を失っている可能性が高い。
ダメージは大きいが意識があればもっとひどいことを言うに違いない。
これでよかったのだ。
「いいわけないだろ! ふざけんなよ! 俺は当たり前のこと言っただけだぞ!」
まだ顔を腫れさせているアラムが拳を振り上げて、体を起こす。
となりで「まだ動いてはいけません」と注意する大司教ラズエルを無視して立ち上がったアラムは何と皇帝に向かってその指をつきつけ――

「というわけだ。どうかな」
休憩後の会議で議題とされる要求を口にしたイアーブ王は真剣なまなざしで青年領主たちを見回した。
会議に参加しているのは青年領主、アルターブ王国騎士団を捕らえる策を前の領主に献策して成功させた村娘ミーア、この領土の実質的な主である一族の中から青年領主の相談役として選出された鉄面皮ゴードン、その一族の長老、領地騎士団長、アルターブ王国騎士団捕縛の実務に携わっていた女騎士セリシア、領地の執政を司る長である執政長官、そして今議題を提案した亡国の王であるイアーブ王である。
イアーブ王は左目を眼帯で覆い、その格好も旅の剣士と言ったいでたちだがその振る舞いはまさに王者のそれであり、この会議場の誰よりもこの会議を支配しているように見える。
誰もがつい彼の意思について慮ってしまう。
そんな状況ができてしまっている。
だがそれでもイアーブ王の発言は荒唐無稽に思えた。
蜥蜴人間リザードマン、いやイアーブ王は竜人と呼んでいたが、それが卵から竜を生み出したなどはさすがに本当だとは思えなかった。
青年領主はそう思う。
青年領主はその確信を得ようと右隣に座っているミーアに視線を向けようとした。
彼女は村娘でありながら広範な知識と類稀なる策謀の才を持っている。
自分よりは正確に事態を把握しているはずだ。
「まさか、それで」
青年領主がミーアに意見を求めようと視線を動かしたとき、ミーアが小さくつぶやき、青年領主の視線を避けるように眼球を右上へと動かした。
彼女に声をかけようとしていた青年領主はその様子に息を呑む。
さらにほとんど表情を変えなかったゴードンの顔が見るからに蒼白に近い色に変わり、長老の組まれた手が小刻みに震えているのを見て、背中に怖気が走るのを感じた。
騎士団長、執政長官も緊張の面持ちである。
ただひとり女騎士だけがいつもと変わらぬ様子に見える。
イアーブ王は青年領主の方に顔を向け、沈黙している。
その沈黙の圧力はすさまじい。
思わず、「私は何も知らない」と口走ってしまいそうになるほどに・・・
つまりは青年領主だけが蚊帳の外であり、他の者たちはイアーブ王の言う事に感じるところがあるということだ。
いや
「セリシアは今の話についてどう思う?」
聞いてはいけない相手に話を振らないというのは庶民の処世術であり、社会生活を営む者の礼儀だ。
まだ新米領主の域を出ない青年はそれを遵守することにした。
王の圧力を一人で受けることをあきらめたともいう。
「幸いなことに私自身は竜の卵に遭遇したことはありませんが、冒険者仲間だった者に竜、ドラゴンについて研究している者がおりましたので話だけは聞いたことがあります。ドラゴンは竜人、ハイアール・リザードマンの神であり、その誕生には必ずリザードマンの司祭あるいは魔術師に当たる者たちが複数かかわるとか。きわめて煩雑な儀式によってつくられた竜の巣と呼ばれる洞窟に召喚されたドラゴンが彼らの労を認めればドラゴンはリザードマンの集落の神竜となり、繁栄と安全が保障され、そうでなければドラゴンの怒りによってその集落は霧散するという話でした。話半分だと思いますが、その魔術師は魔術学院で賢者の位を得たと自慢しておりました。ただ魔術の腕の方は私の知る限りでは最も優れたものです」
「竜人、いやリザードマンの司祭に魔術師か。確かに竜卵の傍にそれらしき者はいなかったし、儀式の形跡もなかったな。もっとももしその儀式とやらが俺が国を捨てた後に行われていたとすれば俺はとんだ道化者ということになるな」
イアーブ王は自らの直感を信じていたので口元に浮かんだ笑みは悲観的なものではなかった。
「それでその儀式にはどれくらいの時間がかかるのかな? 二十日以内であったのなら俺は困るぞ」
「確かに竜の卵を見たのですな」
イアーブ王に促され、困惑している女騎士に変わって声を上げたのは一族の長老だった。
「それは間違いない。俺のところの魔術師殿の見立てでは火竜の卵ということだった。俺も見に行ったが人が十人手を繋いで輪を作ったくらいの大きさの細かな輝く糸で編まれた卵型の光の中に赤いものが揺らいで見えたのを覚えている。これがその一部だ」
イアーブ王が懐から出したひと房の輝きに青年領主は椅子から立ち上がり、思わず腰の剣把に手をかけた。
その剣幕に人々はぎょっとしたが、イアーブ王だけは楽し気に口元を緩める。
「領主殿は剣術だけでなく、その優れた戦士としての本能をお持ちのようだ。是非とも竜討伐に加わってその力を振るって欲しいと思うぞ」
「これは失礼しました」
イアーブ王の声に我に返った青年領主は会議に列席する人々に謝罪し、剣を納める。
会議室のテーブルの上に置かれた手のひら大の卵の欠片は恐ろしいほどに挑発的な気配を放っている。
それはたとえるならば傷を受け冬眠を忘れた熊の怒りであり、人を人として斬ることに喜びを感じる殺人剣の剣気に似ている。
こうして座って見ているだけでも相当な気力を持っていかれる。
彼の師にこんなざまを見られたら「未熟者」との叱責と剣戟を受けるに違いない。
しかしこんな強烈な気を放つものを常に携帯して平静でいられるとは。
「剣気を受け流すのにはコツがある。機会があったら伝授しよう。領主殿にはまだまだ延び代がありそうだ。それから俺が平静でいられる秘密はこの卵を包んでいた布にある。我が魔術師殿が拾ってきた布には魔力のある品を隠ぺいする力があるのだ。竜の卵の欠片も魔力の結晶と言える。その威も八割方減ずるのさ。あとは俺の腕だがな」
青年領主の目に気づいたのか、イアーブ王は肩をすくめながら卵の欠片を布に包み、懐にしまう。
「気を抑えるということですか」
「敵を威圧する感覚を内に向ける感じだ。気配を消すのではなく、一枚衣を作り、かぶせるような感じか」
師匠のようなことを言うと青年領主は思う。
わかりにくい。
「これは我々としても対応しなければなりませんな」
いつもは発言を控え、一族代表者であるゴードンに主導権を譲る長老が珍しく先を取っている。
それだけ事態が深刻なのだろう。
「領主さま、我ら一族の古くからの友人をここに招くことをお許し願えますでしょうか?」
「許します。すぐに使者を出してくださって結構です」
「ありがとうございます。しかし事前に了解しておいていただきたいことがございます」
「何でしょうか?」
「我らが一族の友人はリザードマンなのです」
「りっ」
と声を出しかけた青年領主は足を踏みつけられ、その言葉を飲み込んだ。
かかとで思いっきり、青年領主の足を踏んだのは右隣に座っていた村娘ミーアである。
「わ、わかりました。門番の兵にはその旨を」
「領主さま自らが迎えに出られた方がいいでしょう。領主さま専用の馬車ならすべての検問を問題なく通過できますし、礼儀にも適っているでしょう」
「私の息子の同行もお許し願いたい」
青年領主の言葉を遮るように村娘ミーアが口を挟み、間髪入れずゴードンがそれに続く。
思わず女騎士の方に視線を向けるとちょっと困惑した表情ながらもしっかりとした頷きが帰ってくる。
「どちらも許可しよう。長老、リザードマンの方々の好まれるものなどがあればお教え願いたい。イアーブ王には少しお待ちいただくことになりますが」
「かまわんよ。その代わりと言っては何だが一つわがままを聞いてほしい」
「それはもちろん」
「快諾をしてもらえるとは有り難い」
イアーブ王は手を叩いて喜び、その内容を口にした。
ミーアが止める間もなく、快諾した青年領主が青くなったことは言うまでもない。

シャウラールの撤退戦は七日目を迎えていた。
驚くべきことにドラゴンとデーモンの戦いは未だに終わってはいない。
どころかマリスがその存在を笛によって臨時総督府に知らせてから一時の中断もなく続けられている。
だがその勝敗は明らかになりつつある。
その巨体の各所を傷つけられ、血を流しているドラゴンに対し、デーモンは打つ手を失いつつあった。
文字通り手も足も出ないと言った方が正確かもしれない。
長い戦いの中で、デーモンはその四肢を失っていた。
どうしてそうなったのかをシャウラールは知らない。
ただ撤退を始めてから五日目、つまりシャウラールが伝令騎士に状況確認のための偵察を命じながら倒れたときにはすでにデーモンの三肢は失われていたと言う話だ。
シャウラールはそのまま二日間、眠りをむさぼり、将軍をはじめ騎士、兵の一人に至るまで同じように無防備に眠った。
シャウラールが目の前で倒れて眠ったことで気が抜けたのだろう。
偵察を命じたはずの伝令騎士さえも馬の足元で寝息を立てている。
いつかは休まなければならない撤退戦であった。
シャウラール自身もそれはわかっていたし、他の将軍たちも、兵たちもそれは理解していた。
だがドラゴンとデーモンという異次元の存在が彼らの理解を混乱させていた。
無知による畏怖ほど恐ろしいものはない。
シャウラールほど戦に慣れた者が休息時期を見誤り、倒れた兵士自身でさえ疲れを感じる前に自身のふがいなさを叱咤した。
結果として撤退軍を率いる頭である総督シャウラールが倒れるまで、不眠不休の強行軍をして、交代要員の一人も立てられない状況で全軍が一気に完眠状態へと陥ったのだ。
しかも二日たった今でも目覚めている者の方が少ないだろう。
シャウラールの目の前で眠っていた伝令騎士が目覚めたのはシャウラールの叱声に驚いたからであり、それを偵察行へ派遣し帰還報告を終えるまで酷使したのは他に目覚めている者がシャウラールの視界内にいなかったからである。
あえて探さなかったのはシャウラール自身が自らの失策を悔いているからであり、自身の気力と体力に自信があるからだ。
目覚めてくる将軍たちは必ずシャウラールのもとにやってくるという信頼もある。
それがないのは眠っているのか、あるいはそれ以上に大事なことをしているからだろう。
偵察に出向いた伝令騎士には叱声がシャウラール自身を叱る声であり、彼を攻めたわけではないことを伝え、偵察行の労をねぎらい、特別に褒美を与えた上で休むように言ってある。
二日間も腹にものを入れていないにもかかわらず、空腹感はない。
まだ疲れているのか。
それともこの状況にそれどころではないと感じているのか。
「こうなってはデーモンの方にあと二日は頑張ってもらいたいものだが」
四肢をもがれたデーモンがどれくらい戦えるのかはわからない。
すでに決着はついているのではないかとも思う。
だがシャウラールにできることはない。
できることといえば巡回くらいものもだが、それはせっかく眠って心身を回復させようとしている者たちの邪魔にしかならない。
「待つしかない」
シャウラールはそう結論した。
一瞬、眠った伝令騎士の代わりに偵察に走ろうかとも思ったが、目覚めた将軍が天幕にやってきたときに総督たるシャウラールの姿がなければそれはそれで一大事になるのだ。
それから半日ほどして将軍たちが総督たるシャウラールの天幕に集まってきた。
そしてそれぞれの隊の睡眠状況を報告していく。
幸いなことに兵士の遅れて目覚める騎士はいなかったという。
「当たり前だ。鍛えているから騎士なのだ」
とは言ったものの、睡眠時間については個々人の資質によるところが大きく鍛えようがないので、シャウラールはその偶然に見せかけた将軍たち、騎士たちの心遣いの行動に心から感謝をした。
「兵たちが目覚めるまで、騎士隊を巡回警備に回して警戒を強めろ。ただし交代については各隊に一任する。非常時だからな」
シャウラールの言葉に将軍たちは笑い声をかみ殺しながら強くうなずく。
無理に叩き起こした騎士を眠らせろ。
シャウラールはそう言っているのだ。

(なぜ従わない)
銀白色の鱗に覆われた腕を高々と掲げた竜人とも蜥蜴人間ともつかぬ存在は目の前で眠る星竜に対して苛立ちを覚え始めている。
彼の手に握られているのは『竜操の杖』。
この杖さえあればドラゴンを操ることができるはずなのだ。
最初に星竜の支配を試みてから、五日が過ぎようとしていた。
だがどのような手段を使っても、竜支配に進展は見られない。
(さすがに無理があったか)
精神支配系統の魔術を得意とする彼にとって、それを認めることはつらいことだったが進展のないものに必要以上に時間を割くことは彼の主義に反している。
彼以外の者がそれをするのはいい。
策は多いほど良いというのが彼の導き出した成功の秘訣であった。
「今日はこれまでにしよう」
黄金色の鱗を持つ竜を前に宣言すると彼に従っていたリザードマン、ハイアール・リザードマン、あるいはその混血児たちは素直にその場から離れる。
その数は百二十。
正確な数を把握しているのはこの魔獣とも魔物とも言い難いリザードマン種の竜人蜥蜴人間たちが完全に彼の精神支配の魔術の支配下にあるからだ。
もっともそれはただの精神支配ではなく、魔獣支配の秘術によってなされたものだ。
ただし彼らを支配している魔術は魔獣支配の秘術と人の精神を支配する術の両方の要素を掛け合わせたオリジナルである。
竜人、蜥蜴人間と呼ばれるリザードマン種は人間やエルフ、ドワーフなどに近い精神とグリフィンやワイバーンの獣性を併せ持った不思議な存在だった。
あえて言うなら老人の知恵と獣の肉体を持つマンティコアを支配したときの感覚に似ていた。
老人の知恵つまりは強力な魔術を使い、獅子の肉体と猛毒の針を持つ尻尾を持つ知恵深き魔獣王とリザードマン種特に竜人種は同じ性質の精神を持っていたと言う事だ。
竜人とも蜥蜴人間ともつかないくたびれた姿のリザードマンは広大な竜の巣の中に設けられた自室に入り、術を解く。
鱗に覆われた肌がゆらぎ、長く伸びていた硬質な獅子のような髪が短くなる。
集中を解いたわけではない。
変化の魔法の効果時間が終わったのである。
「やれやれ、スタードラゴンを支配できればかけがえの無い知恵の実をこの手にできたのだがな」
呟くその姿はリザードマンのそれからかけ離れた存在へと戻っている。
すなわち人間に。
短く刈った金色の髪に、金銀妖眼つまりは右と左で色の違う瞳を持った男である。
少年と呼ぶには老いており、青年と呼ぶにはやや若い。
そんな印象の男だ。
豪華ではないが、清潔な服装をしており、手には竜操の杖を持っている。
長身というわけではないのだが、ほっそりとした外見をしており、縦長な印象を受ける。
大陸に策士として名を知られているアイクキオンその人である。
そして魔術なき賢者の名を広めた張本人でもある。
アイクキオンは魔術を使える。
しかも他者の精神を操るという高度な魔術の使い手である。
魔術学院で禁忌とされる破壊の魔法も、完璧に習得しており、魔獣支配の秘術を発見し、実用化に成功した賢者でもある。
アイクキオンの知っている限りではこの秘術を知る者はいても、実際に運用できる者はいない。
強力なカードの一枚といえた。
だからこそアイクキオンは魔術を使えないという看板を掲げることにした。
策とは知られざる間に仕掛けるからこそ成功する。
アイクキオンが魔術を使えないという誤情報は彼の策を成功に導くための大きな仕掛けの一部なのだ。
アイクキオンは自分に与えられた洞穴にある椅子に腰を下ろすと机の上に竜操の杖を投げ出した。
そろそろ潮時だろう。
そう考える理由の一つが机の上に崩れ去っている魔獣の像だ。
それは人間の顔に獅子の肉体を持つ魔獣マンティコアのものだった。
人語を解し、飛翔能力さえ持つ魔獣王は彼の言葉を伝えるメッセンジャーであり、情報を受け取る窓口でもあったのだ。
その魔像が砕けたと言う事はマンティコアが殺されたことを意味する。
そしてそのマンティコアが向かったのがこの地の村であり、工作員から反乱の下地は整ったとの報告を受けた直後のことであった。
小悪魔インプでも上級騎士クラスでないと仕留めることは難しい。
魔獣王マンティコアともなれば騎士小隊が全滅覚悟で挑んでも勝てるかどうかという相手である。
彼が十全に魔法を駆使すれば騎士中隊を相手にしても引けをとらないかもしれない。
魔獣王マンティコアにはそれだけの力がある。
ただし逃走する意志と力においてはインプに軍配が上がる。
インプはその戦闘力はマンティコアに大きく劣るがその小ささのため飛翔能力と臆病さにおいてはマンティコアを凌駕するのだ。
マンティコアがその傲慢さゆえに命を落とす場面を、こざかしいインプは生き延びて見せるのだ。
「まあ、いい」
魔獣王マンティコアという駒を失ったのは痛いが、あれは魔獣支配の秘術の実験の成果としての意味合いが大きく、アイクキオンの策の中での役割はそれほどでもない。
情報伝達者としてはインプの方がはるかに使い勝手がよく、優れているのだ。
失ったマンティコアの代わりはインプで十分に務まる。
問題なのはこの巨大な洞穴のつらなり、スタードラゴンの住まう竜の巣のある土地の近くの村でマンティコアが消息を絶ったという点だ。
アイクキオンが支配した竜人から得た情報によると竜の巣のリザードマンは古くから人間たちと様々な恩恵を与え、受ける形での親密な交流がある。
リザードマン種が貴種として隠れていられるのは、その相手がエルフであれ、ドワーフであれ、神と崇める竜を持つリザードマンたちが竜の巣としてその土地の人々と交流しているからなのだ。
しかもその竜の巣が大陸内に七つあり、それ以外の部族集落も二十八を数えるという。
部族集落については増大しているかもしれないし、減少しているかもしれないが、それだけの数の隠れ里があること、リザードマンの実在を知れたのは大きな収穫だった。
何より七つの竜の巣それぞれに守り神たるドラゴンが住まい、そのすべてが地下水路でつながっているという情報はこれからのアイクキオンの策謀の大きな助けとなるだろう。
地下通路といえばこれまでは大地の妖精族ドワーフの専売特許であり、人の触れられぬ秘路であった。
アイクキオンは大陸を縦横に走るというドワーフ族の大陸秘路を使えないかと様々な策を打ってみたがその効果は絶無だった。
エルフの森、隠れ里にも妖精の道という不可思議な通路があるというがこちらは書物の中でしか確認されていない。
それも伝説に近い話としてだ。
もっとも伝説以外は存在しない竜、それも星竜が存在する以上、伝説を完全に否定するのも賢いやり方ではないのかもしれないが・・・
アイクキオンは小さく息を吐くと机の中から虹色に輝くこぶし大の石を取り出す。
激しく明滅する光を内包するその石は魔力結晶と呼ばれる物の中でも最高品質を誇る品である。
これまではほんの一時間ほどしか持たない姿変化の呪文ディスガイズの効果を一日に伸ばすために消費してきたがもはやその段階ではない。
「ライル・ジ・オール、我が双眸の招きし先へ」
呪文の響きが消えたとき、その場にはアイクキオンの姿はもとより机も椅子も、竜操の杖も残ってはいなかった。
そもそもリザードマンには椅子に座るという文化はないのだ。

アルターブ王とともに会議室に入ってきたのは老齢の婦人であった。
髪は白く染まっているが、きれいに結い上げ、整えられているので気品はあっても老齢による衰えとは感じられず、老いた顔に刻まれた皺はその微笑みによって、知恵の輝きに見える。
服装はパーン王朝風の貴婦人服ではあるが、肌の露出を少なくし、装飾をくわえて、それによって華やかさを演出している。
豪勢ではあるが、嫌味でない。
着ている当人が老いたと否定されず、かといって派手すぎると非難もされないぎりぎりのファッションラインを探り、試すことを楽しんでいるような気配がある。
「お久しぶりですね、ファルナサス宰相閣下」
「私などの名を覚えていておいていただき光栄でございます。王妃殿下」
「謙遜はなさらないでくださいな。わたくしなどあなたに比べれば小物もいいところですわ」
その理由をパーン王国がパーン帝国から大バーン帝国へと変化するまでの間ただの一度も皇妃を名乗らなかった王妃は言わなかった。
それは言うまでもなく彼女は知っているという意思表示であり、一度宰相の座を退けられた老人への気遣いでもあった。
「本日は我が息子ジブリールの願いでやってきました」
「ジブリール皇帝の」
パーン王国王妃には実子はなく、現皇帝ジブリールは彼女の義理の息子として皇帝位についている。
もっともそうでなかったとしても彼は皇帝として立っていただろうし、そうなったとしてもこの王妃はそれを後援したであろう。
彼女の夫である先王は覇王となれる能力を持った知者であり、その王子たちも同じく分を知ることのできる賢者であったのは現皇帝ジブリールと彼らの仲を裂こうとした国々がパーン王自身の手によって散々な目にあわされたことを見ても明らかだ。
初代パーン王にして初代パーン皇帝は裏表なく現皇帝ジブリールを二なき主君として敬っており、その下にいることにいたく満足しているし、その王子たちも現皇帝への一片の不満も感じさせない。
老人はそのことについて疑いを持っていたのだが、自国の年長の王子王女の第三王子に対する感度と、ジブリールの名を口にしたときの王妃の屈託のない笑顔を見るとそれがまことに小物の考えだと思えてくる。
ふつうの国では内紛の種になりそうなことが全く問題にならない国もあるのだ。
あるいは二人が特別なのだろう。
皇帝ジブリールも、第三王子ジェット・ランガインも人的魅力という意味でのカリスマだけでなく、それを受け入れ認めてくれる人に恵まれすぎるほど恵まれるという点で幸運なのかもしれない。
もっとも覇王国から転落した国の第三王子と覇王の名を否定し皇帝位を宣誓した王が席を譲る皇帝では格の違いは否めない。
皇帝は大陸を統一指導する力を有しているとされ、覇王国を超えようとしたただ一人の男の妻である女性に「お願い」をして、聞き入れられるほどの人物なのだ。
老人は帝国で先王と呼ばれるパーン王の在世中に謁見を乞うたことがある。
そのときはアルターブ王国の外交使節団の一員としての面会だったが、王の前に出た瞬間、裸で獅子のいる檻の中に放り込まれたような圧迫を感じ息が詰まりそうになった。
まだ妙齢といえた王妃の助け舟がなければ当時も皺首だったファルナサスの首は胴を離れていたかもしれない。
ちょっとした見分のつもりで使節団に混ざったのだが、あの時ほど自分の分別を疑ったことはない。
宰相たる者のするいたずらではなかった。
その頃、ファルナサスはすでに宰相位にあり、当時のパーン王より十三も年上だったにもかかわらずそんな真似をしたことを深く後悔した。
覇王の覇気に当てられた老人はその夏の夜に震えが止まらなかったことを覚えている。
酒瓶を抱えて一人でやってきたパーン王と酒席を共にしたのだ。
獅子に顔を舐られ、べろりと皮がめくれる幻視をした。
覇王の器というものを思い知らされた一夜だったと言える。
そんな豪強なる王の夫人が軽々と「皇帝のお願い」を伝えにやってくるという現実が皇帝ジブリールの人となりを現しているように思える。
もっともだからと言って唯々諾々と王妃の要求を呑むわけにもいかないのだが・・・
「アルターブ王」
「私もまだその内容は聞いていない。先に聞いてしまえば顔に出てしまうだろうから」
老宰相はアルターブ王の賢明さに目礼を返す。
王妃の要求がどんな内容かはわからないが、王がもしその内容を知っていたら、自身も、騎士団長も王の意を酌む方向へと流されたことだろう。
王の意思が決まっていればそれを翻意させることは困難であり、あえてそれを成そうとすれば不興を買う。
宰相の座にあろうとも老人は王の家臣つまり人臣でしかない。
人の家臣である以上、主人を喜ばせ、迎合することこそがその地位を得た者が払う苦労であり、思考の立脚点となるのは当然だ。
世に賢臣と呼ばれ、諫言を慎まぬ者は少なくないが、それも王がそれを望んでいると察しての行動に過ぎない。
王の望まぬ諫言をする真の諫言者は争臣というが文字通り王との争い、つまり戦争状態を作り出す。
そうなれば敗北は必然だ。
そういう者には賢臣の名と誉れは与えられず、すべてを奪われ失意の内に国を去ることとなる。
アルターブ王があえて「皇帝のお願い」の内容を聞かなかったという言葉を紡いだことは老人たちの思考の縛りを解き、自由に意見を出させる土壌をつくるのに必須のことだった。
人臣たる彼らの習性を知り、何より王としての自身の力量をわきまえた見事な判断、行動といえた。
王としての自己の欲望や感情に対する抑制力が決して高くはないことを理解し、受け入れていなければできない行動である。
どんな王でも自身が優れた王であるとの過信からは逃れることはできない。
過信しつつも優れた王として大成する者など百人に一人もおらず、それが偶然でしかない場合が非常に多い。
覇王として歴史に名を連ねる王たちでさえ、過信と実績がかろうじて釣り合いを取った結果そう呼ばれているという代物にすぎない。
真の名王など文字通り千年に一人でればいいのではないだろうか?
ともあれ老宰相と騎士団長は王妃に席をすすめ、その話を聞くことにした。
王妃の論旨は明快で、しかも今老人たちが直面している問題に直接かかわりのある話だった。
王妃の話しぶりからすれば、そのことについて知られている様子はなかったが、それでも老人は自身の顔色を確かめるために何度か自らの手で額を撫でる羽目になった。

赤い鎧をまとった騎士とその従者たちは柵で円形に囲まれた丘陵の中にある箱型の建物を囲む形で制止した。
かかげられた旗には赤の騎士団の中隊を示す、炎に剣が二本重なったの意匠が刻まれている。
「勝手に大隊から離れて大丈夫なのか?」
「その辺りは参謀殿が何とでもしてくれるさ。見事に中隊長の居所を突き止めてくれた参謀殿がな」
先に不満を漏らした若い騎士はベテラン騎士が軽口を叩く調子で緑の参謀グリーンリパーの功績を讃えたのに気づき、口を閉じる。
中隊長にして自身の宿り木であるレドリックが行方不明だと聞いたグリーンリパーは少しだけ腕を組んだ後に、その後を追うことを決断した。
レドリック隊は小隊から中隊へと昇格したばかりだ。
当然、新しく隊に配属された騎士たちは反対した。
だが残念なことにレドリックがいない間の指揮権は彼の参謀である緑の青年に委ねられている。
小隊外ではあまり有名ではない青年の言葉の中に中隊長と同じ説得力を見出すことは誰であっても難しいだろう。
しかし
「では、私一人で行ってきますから誰か指揮権を預かってくれませんか」
と指揮権の移譲を言い出されると「私が」と手をあげられるようなものはいなかった。
そもそも中隊長が行方不明な時点で、この中隊は大きな問題を抱えてしまっている。
返せる当てのない大きな負債のある店を譲ると言われ、喜んで受け取る者はよほどの愚か者か、楽天家だ。
不幸にも、いやあるいは幸いにもそういう者は今の中隊にはいなかったので結果として全員で脱走同然で大隊から離れることになった。
グリーンリパーは中隊長が率先して偵察行に出たと聞いて、あきれたものだがそういう行動力こそがレドリック自身だけでなく、参謀役のグリーンリパーを含めた小隊を生き延びさせてくれたことを思い出す。
レドリックの天性の戦術眼の作用は疑いもなく優れていて、今まで誤ったことがない。
グリーンリパーはその判断に従うことにした。
中隊丸ごとで、だ。
「中隊全体として動く」というのは緑の参謀と呼ばれるグリーンリパーの嗅覚である。
中隊長レドリックが偵察行に出た地点には二人の従者の死体が転がっていた。
ただの死体ではない。
見たこともない獣の牙で首を噛み破られ、頭を引きちぎられた無残な死体である。
点々と続く従者の血の跡をたどっていくと老人の顔に似た頭部を持つ邪悪な獣の背中に剣を突き立て、しがみつきながら死にかけている騎士と完全に意識を失って樹木に寄りかかっている騎士を発見した。
名前は忘れてしまったが、それぞれが小隊長として隊を率いてきた騎士隊長だったと言う事は覚えていた。
小隊が五つ集まって一つの中隊となるので騎士隊長クラスの実力者が五人集まる形で中隊は形成される。
樹木に寄りかかって気を失っている騎士の周囲は黒く消し炭になっており、炎のくすぶりすら残っている。
三人目は巨大な魔獣の体躯の下にいた。
鋭い爪を受け、騎士鎧の胸の部分に三本の傷がついている。
しかもその傷は鎧を貫き、騎士の胸筋の肉の奥深くに達しているようだった。
「すぐに治療を、喉や肺に血が入って窒息しないように気を付けて」
あまりの惨状に唖然とする騎士たちの前で頼りなげな青年はごくごく平静な様子で指示を出していく。
「参謀殿!」
呼ばれて顔を出してみるとそこには鋭い刃でめちゃくちゃに切り裂かれたかのように原形をとどめぬ死体が転がっている。
「あと二人は?」
ズタズタになった死体の前に膝をつき軽く目を閉じた青年はすぐに立ち上がり頭を巡らせる。
そばの木々に大人の親指ほどの太さのある針のようなものが複数突き刺さっている。
その先に二人が倒れている。
近寄ると太ももに針を受け、脂汗を流しながら気絶している従者が一人とすさまじい力で左腕をねじ切られたように見える従者が見つかった。
「こっちは毒ですね。あっちは何だ?」
グリーンリパーを呼んだベテラン騎士が首をかしげる。
「どちらも自分でできる限りの応急処置を済ませているあたりはさすがです。すぐに医療班を」
人数を限らず、中隊すべてを連れてきた成果である。
騎士隊にはけが人を治療するための医療班が随行している。
中隊になれば薬品や包帯などの支給も増える。
グリーンリパーはそれらをひっくるめて全中隊でここへとやってきたのである。
必死の治療活動の結果、魔獣に首を嚙み切られ、頭をちぎられていた二人の従者とずたずたに引き裂かれた二人、さらに猛毒の針を受けていた一人の従者を除いた四人が命を拾った。
戦場となった森を調べてみると森の木の葉の上を重量のある足跡が縦横に走っている。
相当な激戦だったのだろう。
その足跡の集まりの中から外れて森を抜けていく足跡が三つある。
おそらく倒れていた騎士と従者たちは中隊長のレドリックを逃がすためにあえてここに残り、この魔獣との戦い、結果として討ち果たしたのだろう。
「けが人は馬車で休ませておいてください。私たちは先を急ぎましょう」
こうして足跡を追った中隊は中隊長と合流することができたのだが、まさかアルターブ王国からの侵略騎士の見張りをしていたなどとは考えもしなかった。
捕らえた騎士団の総数は七十で、数として切りが悪い。
おそらく逃げ延びた者がいるのだろう。
レドリックに預けられたというか、レドリックが預けられたというかは別にして領土騎士団はの総数は五十、騎士が十人従者と兵士が四十名。
もし中隊全体で合流しなければ逃走した騎士団の残党あるいは主力の反撃によって打ち砕かれていたかもしれない程度の人数だ。
赤の騎士団の騎士中隊二十騎が駆けつけた今では負けはしないだろうが・・・
もっとも今捕らえているアルターブ王国の騎士団は先遣隊として送られてきたと考えられる。
彼らが持ってきている荷物を見れば、先遣隊としてはかなり長い時間を持ちこたえる覚悟か、必要があったように思える。
逃げた三十騎のうち騎士はその半分以下だろうからその三十騎に襲撃されても撃退できる。
援軍を呼び、兵力を増強してくるにしても一週間はかかるだろう。
この集会場を砦化するための荷物を見れば二月以上は持久戦を繰り広げる必要があったように思えるのでアルターブ王国が緊急に兵を招集しても一月は安泰だと思って良いだろう。
「援軍頼めればもっと安心できるんだけれど」
どうにもそういう気にはなれない。
レドリック中隊長の言うところでは二三日の内に決着がつくか、少なくとも解放されるということだ。
今はそれを信じて待っていればいいだろう。

左目を眼帯で覆った男が山道を歩いている。
鼻から頬にかけての髭はやや乱れているが、その服装は清潔な絹の衣であり、騎士階級のものであることがわかる。
チョッキもズボンも青色に染められていて、その上にまとっている銀色の鎧と腰に下げた長剣の鞘と合わせるとどうにも不釣り合いに見える。
もちろんそれは普段の白い衣装を身慣れすぎているからであって、別段気にするほどの異質さは実はない。
「バクダハどこにいる? 迎えに来たぞ!」
山道を圧するような大きな声は間違いなく、イアーブ王のものだ。
「仮のお頭、本物のお頭が帰ってきましたぜ」
「まずは私が行ってこよう」
バクダハはたった二日の山賊野盗まがいの生活ですっかり状況を楽しむ態勢に入ってしまった部下を一瞥し、薄くなり始めた頭をなでる。
いくらイアーブ王とは言えどもこの洞穴を発見するのは難しいだろう。
一瞬、野盗山賊まがいの出迎えをしようとも思ったのだが今抱えている問題を考えると冗談ごとをやっていられる状況でもない。
「我らはここです!」
洞穴を出て、声を上げるとイアーブ王の顔がすぐにこちらを向き、今いる位置から直線距離で急な斜面を軽々とした足取りで登ってくる。
少し迂回すれば緩やかな山道があるのだが、そこから降りて声をかけるには時間がかかる。
山賊野盗のアジトであった洞穴は見つかりにくい場所にあるのだ。
「何か変事が起こったようだな」
茂みをかき分け、樹木をも蹴るようにして、バクダハの前にやってきたイアーブ王はバクダハが口を開く前に言い当てて見せた。
「理由を聞いても?」
「お前ひとりで出てきた。俺との話を聞かれたくない連中がいるな」
「よくお分かりで」
バクダハは肩をすくめ、今までの経緯を語る。
「アルターブの第三王子か。まあ、放っておくよりは手元に置いた方がいいが。何か考えはあるのか?」
「それがまったく。だから王を待っていたわけです」
「考えもなしに囲うとはお前にしては珍しいな。よし、会ってみよう」
イアーブ王は一呼吸も置かずに決断した。
バクダハはイアーブ王を伴い洞穴の中へと入り、イアーブ王とアルターブ王国第三王子ジェット・ランガインを引き合わせた。

イアーブ王がアルターブ王国第三王子ジェット・ランガインと顔を合わせている頃、この領土の主であるところの領主は領主旗と長老の一族の旗の二旈の旗を掲げた幌付きの大馬車である場所へ向かっていた。
それはこの地を実質的に支配してきたラゴーナ一族の力の源泉であり、この地が豊かである大きな理由の一つでもある場所である。
大馬車の中にはこの地に赴任して一月にもならない青年領主とラゴーナ一族の代表として一族から選出された領主相談役のゴードン、そしてラゴーナ一族の長老が乗っている。
ゴードンの傍に一人いる少年はゴードンの息子である。
父に似て、真面目そうな少年である。
ゴードンのように鉄面皮ではなく、緊張が表に現れているところが愛らしい。
いやゴードンも少年のころはこういう感じだったかもしれない。
そう思うと親近感がわいてくる。
「これからリザードマンの住み家へ行くそうですが御者は私の領地騎士を使って良かったのですか? あなたの一族の者の方を使った方が良かったのでは?」
「我らが領主さまの信頼を得るにはまだまだ時間がかかると考えております。未知の場所へ我ら一族だけで囲んでお連れしようとすれば領主さまはともかくあなたに属する領主騎士たちに様々な憶測と警戒を呼び起こすでしょう」
「私に属するですか」
青年領主は彼が選んで連れてきた十数人の領主騎士のことを思い出した。
正確には皇帝の推薦した騎士たちの中から、青年領主が選んで連れてきた騎士たちである。
正直、そこまで青年領主自身を信頼したり、信用してくれているとは思えない。
ふつうに頼りない領主だなと思われている可能性の方が高い。
だがいかに頼りない領主でも彼がこの地に根を張る一族に素直に従うことに反発を覚える者は多いのかもしれない。
前の領主の代にこの地で抜擢された領地騎士に比べて、その絶対数が少ないことを考えるとその反発は不自然に強いものになりかねない。
新たな領地をもらった青年領主自身は「土着の人たちの言う事を聞くにしくはない」と思っていても、領主騎士たちから見れば「勢力のある豪族の言いなりに動かされている傀儡」に見えるのかもしれない。
そういうことを考えられるあたり、長年に渡って領主相談役を排出し、根本的な支配体制を崩さずにやってきた長老は青年領主より優れている。
「確かにそうかもしれませんね」
頷く青年領主に追随して老人は小さくうなずく。
彼を愚かであるとは思わない。
それどころかこの素直さを見てしまうといろいろと教えたくなってしまう。
できないことを素直に表に表すというのは困難なことであり、それができる者はいずれ大成するだろうと期待させてくれる。
少なくとも長老の経験上はそうだ。
「どうかしましたか?」
尋ねる声に長老は小さく首を振った。
長老の傍に座るゴードンは隣に座る少年の緊張をほぐすようにその頭をなでてやっている。
だが表情は硬い。
その様子をみた青年領主は軽くゴードンの腕を叩く。
ゴードンが驚きの表情を浮かべた。
青年領主は小さくうなずきを返し、大馬車の御者窓へと視線を向ける。
大馬車は上方へと昇る道から下りへと差し掛かっている。
「ここから彼らの領域というわけですね」
青年領主の言葉に長老は静かにうなずいた。

柵で円形に囲まれた丘陵地にある箱型の村の集会場を赤い鎧の騎士団が囲んでから半日で彼らの任務は終了した。
領主館から捕虜を収監するという命を伝える使者がやってきたのである。
もちろん赤の騎士団の中隊を率いてやってきた緑の参謀グリーンリパーはその包囲監視に参加するときに、領地騎士たちに話を通していたので悶着はない。
捕虜の騎士たちも騎士としての礼節を保てる程度には平静さを取り戻していた。
もっともその内心まではわからない。
このときグリーンリパーはレドリック中隊長に負傷者の収容を願い出るように進言した。
レドリックは不思議そうな顔をしたが、グリーンリパーが謎の魔獣が討伐され、しかも生存者がいたのを発見したことを報告するとその顔は喜びに包まれた。
その表情に疲労の色がないのはグリーンリパーが、集会場内にあった眠り薬の入った麦酒をレドリックにすすめたからだ。
これだけの数の騎士をどうやって無傷でとらえたのかを知りたくて調べているときに発見した眠り薬は強力で責任感の強い指揮官の心労をものともせず、その精神を眠りの世界に追いやった。
眠りは肉体とともに精神の活力をも回復させる。
疲労を抱えたままでは残した九人の中で四人が助かってよかったと喜ぶための活力が足りない。
本来は楽天的で物事の良い面に目を向けがちで、そう心掛けているレドリックでも疲れていれば全員救えなかったと頭を抱えていたかもしれない。
その意味で眠り薬を処方したグリーンリパーは希代の名医であるといってもいいのかもしれない。
少なくともレドリックは深く感謝をし、その功績を心に刻んだ。
思考の暗い指揮官など害にしかならないというのが彼の経験則であり、持論である。
一方でグリーンリパーは素直に四人の生還を喜ぶ指揮官を見て、頭を掻いている。
あんな恐ろしい魔獣に襲われ、連れてきた騎士の七割を失いつつ、領土騎士の仕事を手伝い、疲労の極にあるにもかかわらず、部下の無事をあんなに喜ぶ指揮官というのはどうにもおかしいと思ってしまう。
「この人には反省とか後悔とかいう言葉は必要ないのかもしれない」
悪い意味での言葉ではない。
過去を変えることができるのは今の自分だけであり、未来というのは過去の繰り返しではない。
似た状況はあるかもしれないが、全く同じ状況はなく、似た状況であっても過去と違う行動をすれば打破できるというものではない。
人が昔こういうことがあったと過去の戦訓を持って語る時間を得られるのは成功が確定した後のことなのだ。
昔の話を好むのはいいが、拘泥するのは間違っている。
その意味ではあれこれと過去を振り返る癖のあるグリーンリパーは指揮官には向いていない。
ただしそれが参考になるからと戦術戦略を学び練るという面では優れていると言えるかもしれない。
何より参謀が指揮を執って上手く言った試しなど数えるほどしかないのを知っている。
彼が好む書物の上でさえもそうなのだ。
ともあれ赤の騎士団中隊は領主の館で休息する自由を得た。
あとは領主に面会して、弁解の余地を与えてもらえるようにと願い出ればすべては上手くいくはずだ。
このときは誰もがそう思っていた。
なぜって?
歴代の騎士隊で最高生存率を誇るレドリックの騎士小隊を支え続けた緑の参謀がそれを提案したからに決まっているではないか。

撤退を始めてから十日目、シャウラール率いる赤の騎士団の総督軍は帝国皇帝からの援軍と合流していた。
事前の取り決めではここからさらに十日ほどかかる国境城塞で合流するはずだった援軍の出現に総督軍は騒然としていた。
最初は敵かと緊張が走り、その大軍の旗色が明らかになると緊張は歓声にとって代わった。
今まで馬に枚を含ませるように慎重に動いていた軍にしては軽率な行動だったともいえる。
だがドラゴンの姿が見えなくなって五日もすぎている。
それも仕方のないことかもしれない。
成り行きでこの退却行に参加することになったアラムも、彼に救われた赤の騎士団の一人であるマリスも、赤の騎士の面々も皆同じような状態で緊張からの解放に声を上げていた。
さすがにシャウラール旗下の将軍たちはその周囲を窘めていたが、全軍が沸き立っている今、声を上げることをやめさせることは難しかった。
実際のところ将軍たちも気持ちの上では兵たちと同じなのだ。
ただ将軍として大部隊を率いる以上は感情に任せた動きをすることは危険であると熟知し、それを自制するだけの力量を持ち合わせていただけだ。
シャウラール自身もそれを持っていたが、巻き起こった大歓声に思わず、舌打ちをしてしまった。
兵たちに対してではなく、こういう状況にならないように後方への偵察を怠ったこと、そして気づいた後に合流方法を工夫して穏便な撤退をさらに加速させる適切な命令を出せなかった自身に対しての舌打ちだ。
「それよりも今はなぜ援軍がここまでやってきたのかを確かめるべきでしょう」
それでも副官の言葉にすぐに自身への叱責を投げ捨て、天幕の外へ出る。
援軍はまだ遠かったが、馬を飛ばせば数時間とかからぬ距離を進んでいる。
「今の状態では動けないだろう。将軍たちには警戒しつつの待機を命じておけ。日が暮れる前に酒を出して、お祭り気分を絶やすなとも伝えろ。私は援軍の事情を確かめてくる。そうだな。マリスとアラム殿を連れて行こう。彼らには悪いがデーモンとドラゴンと交戦して生きているのはあの二人だけだからな」
シャウラールはてきぱきと指示を出すと、マリスとアラムを待つ間に儀礼用の衣装に着替えていく。
重い鎧を着ていては馬足が遅くなる。
何か問題が起こったのならば無抵抗の証となる。
それでも剣だけは愛用の法剣を下げ、マリスとアラムには日頃の鎧姿での同行を許す。
副官も同行を願い出たが、それは許可しない。
援軍につくまではたった数時間でも、そこから帰ってくるまでにどれだけかかるかはわからない。
いざというとき指揮を任せられる人物が残っていないのは危険だった。
「お気をつけて」
「そちらも気を抜くなよ」
副官とシャウラールは短く言葉を交わし、別れた。
これが今生の別れになるかどうかはわからない。

デーモンとドラゴンの戦いはその出会いから十日の時間を経て、決着しようとしていた。
恐るべき異形の怪物と伝説の魔獣の戦いは眼下の土地をほとんど食い尽くしている。
その八割がドラゴンの吐息の影響であり、後の二割がデーモンとの角逐の影響である。
デーモンの体は小さいがその強靭性はドラゴンにも劣ってはいない。
いや、その隊格差を考えれば勝っていたと言えるかもしれない。
デーモンはその体の八割近くを漆黒から深紅に変えながらもその形を崩していない。
デーモンに再生能力があるのか、あるいは人の体が傷を受け、オレンジの幕を張り新生するように回復魔法あるいは邪悪な奇跡の癒しの力を得ているのかもしれない。
ただし完全なる破損からの再生である。
高位の神官の起こす奇跡でも失われた身体を呼び戻すには時間がかかる。
傷ついた体を賦活させ、新生を促すより、切り落とされ失われた腕を再び元に戻すことの方が難しく、数日の儀式を必要とするとも言われている。
それをこのデーモンはほんの数十秒でやってみせている。
しかも自らの体を失うという痛みをこらえながら、いや体に付属する痛みが人間と同じとは限らないだろう。
なぜならこのデーモンは奇跡を行うとき神官が例外なく使う掌をかざす、あるいは掌で触れるという行為が不可能になる負傷を負っても肉体の再生を続けているのだ。
今、漆黒の色を残すのは二本の角と顔の右半分、そして人間でいうところ胸部の中心だけである。
よく見れば胸の中心で赤黒く輝く光が脈打っているのがわかっただろう。
赤からオレンジ色に変わりつつある右腕が振り上げられ、その手の中に漆黒の槍が現れる。
凄まじい速度で振り下ろされた腕から放たれた黒い槍がドラゴンの左肩のあたりに突き刺さる。
鱗が弾け、血が舞った。
さらに開かれた拳から黒い雷の光が五つに分かれ、ドラゴンを上下左右から
打ち据える。
ドラゴンは咆哮を放ち、深紅の炎で反撃する。
どんなこの世のどんな炎より高い熱を持つといわれるブレスである。
それがデーモンに届いた瞬間、デーモンの前に傘型の光が明滅する。
直撃するはずだったドラゴンの炎はその光の傘壁によってデーモンの体をさけて椎の実状に広がってしまう。
デーモンによって拡散されたドラゴンの炎の吐息は森を焼きつくし、その熱は地をも嘗め尽くす。
その凄まじい熱量で拡散された炎の内にいたデーモンの両足と翼がボロボロと崩れ、風に運ばれ灰となる。
光が爆発した。
黄昏時の空を白色に染める大爆発だ。
その爆発はドラゴンを飲み込み、デーモン自身も飲み込んだ。
巨大な光の爆発が収まった後、中空を待っていたドラゴンが力なく大地に落下するのが見えた。
デーモンはその顔と胸部を残して中空に浮いている。
浮いているが再生はしない。
明かにこれまでとは違う消耗の仕方をしている。
デーモン特有の魔法でも使ったのだろうか?
地に落ちたドラゴンの体にひびが入っている。
強烈な熱で血液すらも蒸発したというのだろうか?
ごぞり、と音が聞こえたような気がした。
巨大なドラゴンの左腕が割れ落ち、尻尾が断絶した。
ボロボロと全身が崩れていく。
恐るべきデーモンの呪文に男はただ立ち尽くすことしかできない。
これほど離れているのにすぐそばに死が立っているようだった。
見る間にドラゴンの体は割れ、やがて粉々に砕け散った。
デーモンが勝利の声を上げ――
飛び上がったドラゴンのひと噛みでその姿を消す。
ドラゴンの鱗に付着していた乳白色の幕がなくなり、暗い深紅の鱗が煌々と輝いている。
ドラゴンの口に捕らえられたデーモンが抵抗するも、ドラゴンは意にも解さない。
デーモンの力が弱まっていること、そして明らかにドラゴンの力が強くなったことが原因だった。
飛び上がったドラゴンの足下には先ほど崩れ落ちたドラゴンの体が残っている。
いや飛び上がったドラゴンが脱ぎ捨てた古い体が・・・
ドラゴンの鱗に付着していた乳白色の幕は脱皮の兆候だったのだ。
体を覆っていた乳白色の幕とともに古く弱い肉体を捨てたドラゴンはより強いドラゴンとして生まれ変わったのだ。
伝説に謳われる真の竜のように・・・

イアーブ王と大バーン帝国の赤の騎士団中隊長レドリックは領主の館への道の途中で顔を合わせることとなった。
一方はアルターブ王国の第三王子を保護し、一方はアルターブ王国の騎士を捕虜としているそれぞれ五十人前後の騎士団を引き連れている。
正確にはイアーブ王の引き連れているのは元イアーブ王国騎士五十騎とアルターブ王国第三王子率いる騎士小隊であり、レドリックの方は中隊の騎士ニ十騎と領土騎士十騎を合わせた三十騎と従者に兵を合わせて七十六人である。
どちらも存在を知らされていない部隊である。
もっとも赤く染められた騎士鎧をイアーブ王はよく覚えていたし、そこに刻まれている紋章が赤の騎士団の中隊長を現すものだと言う事も知っていた。だがさすがのイアーブ王も自国の征服者となった恐るべき帝国の騎士団を相手に気軽に声をかけることはしない。
一方でレドリックの方もこの左目を眼帯で覆った偉丈夫が率いる部隊が何なのかはわからない。
イアーブ王国騎士団は不揃いの鎧を鎧の上に羽織る騎士衣を統一することによってその威容を示していたので、白地のサーコートに刻まれたグリフィンの意匠の刻まれた姿をしていないとそれがイアーブ王国騎士団であるとはわからない。
先頭を行くイアーブ王の眼帯姿は海賊や山賊の親玉、それも至極上等な戦士にしか見えない。
「あの方たちをご存じですか?」
と領土騎士に尋ねたのは緑の参謀ことグリーンリパーである。
しかしそれにこたえられる者はいなかった。
手落ちといえば手落ちなのだが、さすがに元王国騎士団を迎えに行ったイアーブ王と集会場のアルターブ王国の捕虜の見張りと護送を頼んだ帝国の赤の騎士団が道すがら鉢合せになるというのは偶然が過ぎたと言えよう。
しかも片方には行方不明になったアルターブ王国第三王子があり、捕虜となったアルターブ王国の騎士たちはその無事を喜んでいいのか、それとも同じように捕虜となってしまったと悲しみ死力を尽くして戦うべきなのかを迷っているところなのだ。
「帝国騎士団で最強と誉れ高い赤の騎士団の方々とお見受けする。俺は領主殿の客人として招かれたものだ。剣術大会で優勝し、仕官を願ったところ試しに仲間を連れて来いという命を受けてな。こちらは我らが雇い主であるさる王国の貴族の令息だ。我らの仕官を喜び、護衛の任務期間を延ばしてまで、祝いの宴に加わってくれるらしい。もっとも領主殿に認められなければ祝いの宴などありはしないわけだが」
捕虜となったアルターブ王国の騎士の間に困惑と戦意の揺らぎを感じたイアーブ王はその機先を制して、事情を語る。
わかるものにはわかり、わからぬものにはわからぬように脚色して・・・
「彼らは山賊野盗のように見えるが立派な護衛騎士ですよ。もしここで仕官が叶わなければ、私が父に頼んでみようかと思っていたところです。もし彼らが嫌でなければですが」
「山賊野盗は良いな」
アルターブ王国第三王子ジェット・ランガインの合いの手にイアーブ王は大笑した。
その様子を見て、レドリックの背後にあった困惑と戦意が、安堵に塗り替えられていく。
「王国ですか」
レドリックはそう口にしたものの、すぐに表情を改め、
「私も家出中みたいなものなので詮索はなしにしましょう。上手くいくなら私もあなたの家に雇ってもらう羽目になるかもしれない」
と肩をすくめる。
赤の騎士団中隊は今、脱走兵同然のやり方で大隊を離れているのだ。
本当に危なくなったらそういう選択肢もあるだろう。
レドリックの言葉を聞いたイアーブ王はそうと悟られないように頬髯の辺りに手をやって表情を隠した。
帝国最強の赤の騎士団の中隊長の言いようとは思えない。
何かあるのではないかと疑うのが当然なのだ。
「では先手を譲るとしよう」
「先陣を切るのは騎士の誉れ、承りましょう」
二人の物言いにひやひやしたのはバクダハである。
イアーブ王の袖を引っ張り訊ねる。
「まさか討ち取る気ではないでしょうな」
「奴が先手を受けなければそうするつもりだった。後ろから襲われるのは面白くない」
眼帯で隠れていない方の目が危険な輝きを放っている。
本当にやるつもりだったのだ。
「そうわかっていて先に行ったのでしょうか?」
バクダハの隣に来ていたアルターブ王国の王子が尋ねる。
「さて、な」
イアーブ王は短く答え、顎を撫でた。

「フリュティエ団長閣下!」
援軍を率いてきた将軍の隣にいる人物を見て、シャウラールは思わず声を上げる。
そこには黄金で装飾を施された深紅の鎧をまとった彼の上官であった人物が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
元上官と言わなかったのは、帝国の剣たる五大騎士団の最高司令官は今も彼の上官であるからだ。
「シャウラール団長、報告は聞いている。イアーブ王国にドラゴンが出たそうだな」
「はっ、ドラゴンは巨大であり、デーモンらしきものの姿もあったので両者が相争っている間に領民とともに軍を撤退させました」
「デーモンか、そいつはどんなやつだったんだ?」
ひざをつき、報告しているシャウラールとそれを聞いているフリュティエの間に割り込んできたのは賢者にして魔獣退治の専門家として知られる魔術師アラム・ランカードである。
「それはこの者たちに」
とシャウラールは自身から二歩下がってひざをつく、若い騎士姿の男と赤の騎士団の鎧をまとう女を紹介した。
「街道の街ラフリナータが領主ラフムの領土騎士アラムでございます」
「赤の騎士団、巡回騎士マリスでございます」
「アラム、アラムって言うと俺と同じ名前だな。きっと有望な騎士に違いない」
魔術師アラムが自慢げに胸をそらし、頷いている。
「デーモンのことを聞くんじゃないの?」
「おっとそうだった。で、そのデーモンってどんな奴だった」
「それは」
アラムとマリスはそれぞれが覚えている特徴を確認し合う様に並べていく。
「全身が黒く、二本の角と飛翔するのに申し分のないくらい大きな蝙蝠の羽を持つ、牙とかぎ爪を持ったデーモンねえ。尻尾はあったか?」
「無かったように思います」
「それはスカイデーモンというやつだな。そこそこ厄介な再生能力とかなり強力な闇魔法の使い手だ。かぎ爪は鋼鉄の鎧も貫く硬度を持ち、その牙は吸血能力を持ち、吸った血液の分だけ体力魔力を回復する。デーモンだから基本的に睡眠を必要とせず、その魔力も身体能力も並みの人間とは比べ物にならないくらいに高い。飛翔能力があるというのも厄介な点だな。人並みの知恵があるので一撃離脱方式を取られると弓でもないと攻撃できないし、かといってよほどの弓手でなければその体を傷つけるだけの矢は撃てない。まあ、魔法の使い手がいれば外れることのない魔光の矢で撃ち落とすことはできるだろう。ただし威力があるからと火球の呪文を使うのはどうかといったところだ。スカイデーモンは炎に対する耐性が高いんだ」
スカイデーモンに対する基礎知識とその対策を披露する魔術師アラムの言葉に同じ名前の領土騎士はもとより、シャウラールとマリスも講義を聞く生徒のように頷くしか術はない。
「それでデーモンとしての格はどうなんだ?」
「格? ああ、そういえばスカイデーモンには胸の部分に核があってそこを破壊することができれば一気に決着がつくぞ。まあ、お勧めはせんが狙えるなら狙ってもいいというレベルだな」
帝国の剣フリュティエの言葉に魔術師アラムは思い出したように付け加え、それからデーモンの格についての話を始めた。
「デーモンの格は下から並の騎士が並の魔術師とタッグで必死で戦って何とか勝てないこともない下位種レッサーデーモン、今、説明したスカイデーモンとか、ウオーターデーモン、カローバーとかいう巨人族と見まがう牛頭のデーモンなんかのごった煮の中位種のミドルデーモンたち、竜に匹敵すると言われる上位種グレーターデーモン、グレーターデーモンを束ねるデーモンロードまあ君主と呼ばれるが王みたいな感じかな。あとは五色の魔王と呼ばれるレジェンドデーモン、最後は魔王の中の魔王にしてデーモンの母とされる名もなきデーモンがいる。グレーターデーモン以上は知らなくていいレベルで目撃談がない。お前らが知っている物語なんかでよく聞く邪悪な悪魔はレッサーデーモンか、ミドルデーモンだな。けっこう空飛ぶやつがいるだろ。まあ、レッサーデーモンも飛ぶわけだが姫を誘拐するような知能を持つのはミドルクラスだ。竜をも屠るグレーターデーモンという名前が出てくるのは巷間で知られている物語の中では『星の落ちた地で』だけだから問題はない。ちなみに魔王殺しの剣の存在は確認されていない。グレーターデーモン自体がとんでもなくレアでグレーターデーモンを召喚できた魔術師は賢者の学院の地下深くに貴重品として封印されたという話もある。千年以上前の話らしいからくたばっていると思うがな。ちなみに俺はこいつが召喚したのが『星の落ちた地で』に登場する竜を屠りしグレーターデーモンじゃないかと思っている。本当に竜を殺せたのかは知らん」
「伝説は本当だったってことですか!」
長いアラムの話に食いついたのは同じ名前を持つ騎士だ。
「おっ、いい反応だな。さすがは俺と同じ名前!」
「実は僕はそういう活躍をして勇者とか英雄とか呼ばれたいんです。ただ今は無理です。この間もドラゴンに斬りかかったら剣が真っ二つに折れてしまう体たらくで・・・。もっと修業しないと!」
「ドラゴンに斬りかかった? マジか?」
「マジです」
騎士アラムは鞘だけになった剣を足元に置く。
「なあ、フリュティエ。こいつ連れて行こうぜ。ドラゴンに一番槍付けたのに名前が残らないなんてかわいそうだ」
「何を馬鹿なことを。遊びに行くんじゃないんだぞ」
「じゃあ、お前も残れよ。刀剣開放もできないなんちゃって騎士が!」
「私は剣技の話をしているのだ。いくら何でも」
「未熟すぎます」
領土騎士アラムは強く拳を握り、顔を伏せる。
「ほら見ろ、こいつは馬鹿じゃない。そもそも竜に立ち向かって生きている時点でレアなんだ。一撃を加えられる度胸の良さ、その後、剣を捨てて逃げる判断の良さ、何より竜に触れて生きている運の良さがこいつの運命を象徴している。俺がお前に薔薇の剣を送ってお前が大陸最強の騎士になったように、俺がお前から杖を送られて超絶すごい魔術師になったように、こいつにも何かあるんだよ」
「めちゃくちゃな理屈だ」
魔術師アラムの言葉に領土騎士アラム自身がそう思った。
だがせっかくのチャンスを逃したくはない。
この場合沈黙こそが最良の答えだろう。
魔術師アラムの言葉が終わり、沈黙が落ち、天幕の入り口が音を立てた。
「別にいいんじゃないか。姉さんが竜と戦うなら魔術師のアラム兄さんの護衛が必要だろう?」
「むっ」
天幕に入ってきたのは明らかに魔法の力宿した軽装鎧をまとった男だ。
名をべラムスという。
傭兵として各国を渡り歩き、ソードダンサーの名で知られる曲刀使いの戦士だ。
「確かに我々にはこの男に関わっている暇はないな」
冷たく言い放ったのは黒い重装鎧をまとった黒髪白皙の騎士である。
黒騎士クロディス。
細身に見える体の胸のあたりまで巨大な大剣の柄がせりあがっているが全く重そうには見えない。
「決まりだな。こいつに良い盾とそれなりの剣を渡してやってくれ。戦わないにしても武器がないのは寂しいだろうしな」
「よかろう。だが決して無理をせず、私たちの指示に従うのだぞ。ただし勝手に逃げることは許さない」
「ありがとうございます!」
騎士アラムは深々と頭を下げる。
活躍できるとは思っていない。
だが強欲領主のために人を斬るという使命に比べれば、竜との戦いの場にいることがどんなに素晴らしいか。
この人を全力で守ろうと思う。
自分を戦いの場に立つことを許してくれたこの大魔術師を。
「よろしくな」
「一命に代えましても!」
十七歳の領土騎士は誇らしげにそう答えた。

「あれはお前の部下たちだな」
「いえ私は本来騎士隊の小隊長に過ぎないので今回の出生隊を率いる騎士団隊長アロンゾが私の上司になります」
「それは一騎士隊長として隊長の命を守るという意思の表明ととらえていいのだな」
領主の館の門をくぐる一歩手前での会話だ。
イアーブ王の言葉にアルターブ王国の第三王子ジェットは迷いを見せつつも頷いた。
「それならやつらがどうなろうともかまわないと誓え。お前の信じる者に対してでかまわん。お前が騎士として騎士団隊長アロンゾの命を守るのならば逃げ延びるためにやつらを犠牲にする覚悟が必要だ」
イアーブ王は王子に目を向けるとそう言い放ち、王子が誓いを立てるのを聞いた。
もっとも本当に神罰があってもこの王子なら処刑場に切り込んでいくような気がしないでもない。
「まあ、悪いようにならぬよう俺も力を尽くしてみるが」
「力を貸すぐらいにしておいてくださいませんかな。尽くすのでは大事になりそうで」
イアーブ王の言葉に応えたのは王子ではなく、バクダハである。
「どちらにしても同じことだろう」
「どうやら王子のことが気に入られたようですな」
「お前と同じくな」
バクダハの言葉にイアーブ王がにやりと笑う。
「否定はしませんが」
苦り切った様子のバクダハを見て元イアーブ王国騎士団の仲間たちから笑いが漏れる。
「これは俺がいかなくても誰かが出そうだな。それなら俺が先陣を切る方がよかろう」
「確かに」
バクダハは頷くしかない。
しかしそれに助け舟を出した者がいた。
もちろんアルターブ王国第三王子その人である。
「私が不行動を誓ったのですからあなた方に暴走されては困ります」
これには騎士団だけでなく、イアーブ王も大笑した。
まさに王子の言うとおりだと。

「さすがに仕事を完遂して仕官しようという者たちは意気軒高だな。行く当てがなくなるかもしれない私たちとは大違いだ」
後ろから聞こえる笑い声に脱走騎士中隊を抱える中隊長レドリックはため息をつく。
「命あっての物種です。それにこちらにはマンティコアの死体があります。恐るべき魔獣王を討伐するために中隊を率いたことにすればいいでしょう」
先ほど追いついてきた医療班の馬車の中には負傷した騎士従者、そして従者の死体だけではなく、老人の顔に似た相貌に乱杭歯を持つ巨大な獅子の魔獣マンティコアの死体も収容されていたのだ。
その死体を見るだけでもその恐ろしさが伝わってくる魔獣である。
それがどんな魔獣であるのかを緑の参謀グリーンリパーは知らなかったが、中隊で囲んでやっと倒せるような化け物であったと言い張ってもおかしくはないと考えている。
少なくとも小隊の騎士隊長とその従者がまとめてかかっても相打ちにしか持ち込めなかった化け物であったことは確かだ。
グリーンリパーが中隊丸ごと隊を脱走し、駆けつけたからこそ、医療班の技術と豊富な医療品によって命を拾ったものもいたが、そうでなければ全滅していた。
中隊は五つの小隊の集まりである。
その中に三つの小隊の騎士隊長を務めたものがやられたと言う事実だけでも中隊が助力に駆け付ける理由になる。
実際のところは五つの小隊のまとめ役である騎士小隊隊長主中隊長レドリックも一緒に偵察行に出ていたので五つの騎士小隊の内、四つの騎士小隊の騎士隊長が寄ってたかって戦ったことになる。
中隊長すら戦いの場にいたとなれば、言い訳の信ぴょう性も増すというものだ。
「それに今までもこういうことはたくさんあったはずです」
「戦闘のさなかでの離脱と平時の脱走は違う」
レドリックは即座に否定したがすぐに
「それでも進軍中であることに違いはないから平時の脱走ではないか」
と頷いて見せる。
絶望に沈みそうになっても、無意識に光を見出す天性こそが彼の強みなのかもしれない。
「しかし戦いが始まってしまってからでは言い訳も聞きますまい」
五人目、一人中隊に残っていた小隊騎士隊長が苦言を呈する。
いや他の小隊の騎士と従者の気持ちを代弁したのかもしれない。
「いよいよとなったら首をくれてやるから安心しろ。脱走を使嗾した邪悪な中隊長と参謀を討ち取って帰還したことにすればいい。そうだな、ここから近いアルターブ王国の誘いを受けて寝返ろうとしていたなんてのはどうだ?」
「どうだと言われましても」
騎士隊長はまじめな男なのだろう。
不安を代弁したものの、こんな打開策が開示されるとは思ってもいなかったようだ。
しかもそれを口にしたレドリックは冗談のように自らの首を叩き、笑っている。
笑ってはいるが本気なのだ。
その気迫に騎士隊長は言葉を失ってしまう。
不安を解消するための言葉に、命をもって答えられてはどうしようもない。
「それではそのように心得ておきます」
と言えるような人間はそうそういない。
ある意味天性の人たらしなのかもしれない。
とても報われそうにない損な人たらしだが・・・
「あの門からお入りください」
領土騎士を率いている騎士隊長の一人がレドリックに声をかける。
その声には警戒の色が濃い。
「後ろにいる戦士団を警戒しているのか。捕虜の騎士たちが暴れるのを警戒しているのか」
レドリックはそっと後ろをうかがった。
そう言う行動を取ったのは捕虜の騎士たちより、隻眼の戦士が率いる戦士たちの方がはるかに危険だと考えているからだ。
数の上ではそう変わりはないが戦えば惨敗するような気がするのだ。
はっきり言うと野盗山賊に似ている護衛と雇い主は言っていたが、そんな生易しい連中ではなさそうなのだ。
戦場を駆け抜けてきた歴戦の戦士の香りがする。
しかもレドリックが今まで対峙してきたどんな部隊より恐ろしい。
もっともレドリックはそう簡単に戦いになるとは思っていない。
こちらが何か致命的な失策を犯したとき、彼らは牙をむく可能性がある。
それが何かはわからないがそれをしない限りは安全だという信頼感もある。
レドリックはグリーンリパーを呼んでその話をしてみた。
「つまりは選択権はここの領主さまにあるということです。私たちにはそれを止める権限はないのですからいつもの成り行き任せです」
緑の参謀グリーンリパーの答えはいつも通り簡潔だった。

「交渉は成功したようだな」
「そうでしょうか? 許可はもらえましたがその他の願いはかないませんでした」
「かまわんさ。第一は竜の巣を持つ竜人に介入を断念させることだ。我が魔術師殿の話では竜の巣には必ずドラゴンがいるらしいからな。さすがに二頭のドラゴン相手に勝てると思うほど自信過剰ではない」
青年領主は頷く。
青年領主は竜の巣にいた黄金竜一頭と戦うことも考えたくない。
絶対に勝てないという確信めいたものがある。
「私たちは外の竜に対して興味を持つことはない。我々に害をなす存在となれば別だが」
そう言ったのは見分役の竜人ハイアール・リザードマンだ。
その軋り声を聞いた青年領主はイアーブ王でもわからないことがあるのだと妙な感心をしてしまう。
イアーブ王はリザードマン種が人間のような同族意識を持っている存在と思っているようだが、実際に竜の巣に出向いた青年領主の印象では全く違う。
彼らにとっては竜の巣という守護竜がある地だけが守るべき世界のすべてであり、その他の世界つまりは竜の巣に対しての感慨はないように思えるのだ。
「それであなたが呼び寄せたいと仰っていた騎士団についてですがドラゴン退治には連れていかれるのですか?」
「それがな」
イアーブ王はにやりと笑い、「困ったことになった」と続けた。
その表情を見て青年領主はイアーブ王に館に滞在してもらっている村娘のミーアを同席させることを許してもらった。
ゴードンがいない今、頼れる者は彼女しかいない。
前の領主とも関係が深そうだし、考えも近そうなので青年領主自身が考えるよりもよっぽどうまく計らってくれるに違いない。
しばらく待つと思ったほどには鋭くないが知性と警戒の色のまぶしい瞳をした村娘が一人入室してくる。
「領主さま、御用でしょうか」
「用があるのはイアーブ王の方かな」
青年領主が応えるとミーアの視線が鋭く突き刺さってきた。
何かミスをしてしまっただろうか?
「この娘だけに話を聞かせるという判断に感謝しよう。正直、執政長官あたりを呼ばれたらどうしようかと思っていたところだ」
そう言ったイアーブ王の傍には薄くなった髪を撫でつける騎士が立っている。
ミーアを同席させる代わりに、イアーブ王が呼んだ者である。
「外には出せない話というわけですね」
話を切り出したのは村娘ミーアである。
イアーブ王はミーアの視線を軽く受け流し、皆に座るように言った。
右にミーアとイアーブ王が対面で座り、左に青年領主とイアーブ王の側近バクダハが対面で座る形式になったのは厩舎の隣にあるこの部屋に長机が一つしかないからだ。
この部屋は厩舎からの馬の持ち出しを記録する部屋の一つであり、他にも貸出し所、借入所、持ち込み所の三つの記録部屋がある。
あまり使われない場所であり、青年領主がここへ来たのは領主専用の大馬車を竜の巣に置いてきた馬の持ち出し期間を延長するためだ。
「回りくどいのは好かんので直截に言うが、俺の隊にアルターブ王国の王子がいる。拾ったのは三日前、そちらが赤の騎士団に捕獲を頼んだ騎士団がアルターブ王国の先遣隊だったわけだ」
「それはわかっていたのですが、王子までやってきていたとは驚きです」
「何だ。わかっていたのか」
「私の前の領主さまが優秀な方だったので、私が来る前におびき寄せて捕まえる手筈を整えていたのです。私もイアーブ王がやってきた日までそういう話は知りませんでした。知っているのは彼女です」
青年領主は気負いもなく、ミーアを紹介する。
「あの男だけでは荷が重いと思っていたが、そういうわけか」
イアーブ王は改めてミーアに視線を向け、頷いた。
「捕虜の騎士たちの処分はどうなる」
「領土侵犯をしてきた以上、極刑となります」
「助けられんか?」
「帝国伝令騎士が走る前なら何とかすることもできたでしょうが今からでは追いつけないし、追いついてもいい言い訳がないでしょう」
「なぜ、こちらを見るのですか!」
「いや、ミーアなら何か考えがありそうだと思って」
「手遅れです」
「本当に?」
「本当です」
「本当の本当に?」
「しつこいですよ」
「でも前の領主さまが星竜のいる竜の巣のある地でわざわざ戦が起こるような仕掛けをするとは思えないんだ。竜が戦の騒がしさで目を覚ましたら帝国領は大変なことになる。一つの村を境に隣接しているだけのアルターブ王国よりこの領地を囲んで領土を持っている帝国の方が痛い目を見ることは明らかだ。まあ、竜にとっては人間の引いた国境なんか意味はないし、竜が帝国領を攻撃しない仕掛けがあるなら目覚めさせてもいいんだろうけど」
「竜を操るための杖があるとも聞くぞ。それを所持していると言う事はないか?」
「ありません。そもそも前に領主さまは」
ミーアは思わず口にして表情を消した。
突然突拍子もないことを言い出したイアーブ王に釣り込まれてつい喋らなくてもいいことを口にしてしまったと気づいたのだ。
「何か考えがあったようだな。それを聞く前に第三王子の心づもりを伝えておこう。自分の国の騎士たちが無事に捕虜になって生きていることを王子は喜んでいた。そして彼らが助かるのなら自身は人質として皇帝のところへ行く意思があると言っていた」
「戦を起こす気ですか」
「そこまでの考えはないか。それを抑える自信があるのかはわからんが人好きのする男であることは間違いない。やつの説得になら捕虜の騎士たちも耳を傾けるのではないかな。たとえば王子の護衛という名目で王国を離れるという選択もとりうるかもしれん」
「そうなると王国出奔ですか。吟遊詩人の歌う建国王伝説みたいに新王国とか作るかもしれませんね」
「領主さま!」
イアーブ王と青年領主の会話と止めたのはミーアである。
「話がそれてしまったかな」
青年領主は笑い、ミーアをうながす。
イアーブ王はにやにやと笑み、ミーアはひとつため息をついて話し始めた。
それは前の領主の計画の全貌についてだった。
帝国の重鎮でもある前の領主はアルターブ王国が周辺諸国の村々を離反させているのを知り、その手が帝国領であるこの地にも伸びるように画策したという。
その目的はアルターブ王国から人質を取ることによって強固な外交ルートを開くことであった。
帝国はこの二十年間、覇王国制度を打ち砕くために戦い続けてきた。
それは破壊的支配体制の構築とでもいうべき力の行使による覇王国制度の否定である。
帝国はひたすらに王国の力を削ぎ、自らの力を増大させることで大陸一強体制を作り上げたのだ。
結果、覇王国制度は形がい化し、帝国制の名が各王国の王国史にも記されるようになった。
そうなると次に必要なのは融和的支配体制の構築である。
前の領主は各王国から人質を取るという形で、帝政の実を示し、帝国制の根を広げることが必要だと考え、その最初の対象国として覇王国として名高いアルターブ王国に狙いを定めたのだ。
名目は帝都に外交館を開くというものであり、各王国の王族にその館を与える形になる。
もちろんそれが人質であることは誰にでもわかる。
だから前の領主はアルターブ王国にこの案を提案しつつ、その間にアルターブ王国の帝国領侵略の証拠である先遣隊を捕らえて交渉材料にしようとしたのだ。
ちなみに外交館に特使としての派遣を要求する予定の人物はアルターブ王国第三王子ジェット・ランガインだ。
「形だけなら願ったり叶ったりです。ですか」
さすがにアルターブ王の認可のない出奔王子ではその役割は務まらない。
帝国と王国の楔は無法なる出奔者ではなく、公式な訪問者でなくてはならないのだ。
「それならアルターブ王に王子の状況と希望を伝えればいいだろう。困っているのはむしろ第三王子を捕虜にされたアルターブ王国の方だ。王子の希望は必ず通るだろう。使者に騎士隊長でも送ってやればあちらも否やはあるまい」
「独断で動いて大丈夫でしょうか?」
「帝国への伝令はコントロールできんのだ。できることをやるしかあるまい。色よい返事が返ってきたら帝都に再び使者を送ればいい。まあ、アルターブとしては単独で帝国と戦う力はない。悪い返事はしようがないさ。前の領主が切れ者ならばこういう事態は想定済みかもしれんし、そうでなくても上手くやるだろうさ」
「いい加減なことを」
「俺でも考えつくことだぞ。やつが考えていないわけがあるまい」
「前領主をご存じで?」
「青の騎士団団長にして、アクシャーサの戦いの英雄だぞ。知らんわけがない」
それだけではなさそうだが追及するのも気が引ける。
「ではイアーブ王の意見を取りましょう」
「領主さま」
「できることをやるのは領主の役割です。それに」
イアーブ王に従っていればどうにかなるような気がするのだ。
こうして第三王子ジェット・ランガインの生存はイアーブ王の耳に届き、王妃の持ってきた外交特使を第三王子に要請したいという「皇帝の願い」も叶えられることになった。
もっともイアーブ王国の第三王子のサーガは外交特使としての活躍など問題にならない伝説の中で語られることになるのだが・・・

「呼び出しに応じ参上いたしました」
イアーブ王国に第三王子生存の報告が届いたころ、領主の館には一人の魔術師が姿を現していた。
長身痩躯であり、髪の色は艶のある白色、瞳がやや赤みがかって、肌は透き通るように白い。
何より目を引くのは腰のあたりまで伸びた白い髪を押し上げる長い耳だ。
「賢者の学院の設立者にして、最初の賢者たる我が魔術師殿だ」
イアーブ王の言葉にエルフの魔術師は優雅にお辞儀をして見せる。
肩から膝にかけて体を覆っているローブは白色に金糸銀糸の複雑な文様が刻まれている賢者のローブである。
杖は手にしておらず、左手の中指に複雑な文様の刻まれた高価そうな指輪を付けている。
そして右手には長い筒状の金属檻を鎖でぶら下げ持っている。
「ああ、これは伝書鳩です。王の知らせはこれで受け取るようにしています。魔法で精神を繋げるのは距離が離れると大変ですから」
全身白尽くめなので謹厳な神官をイメージしてしまうし、エルフなので居丈高なのではないかと思てしまうが案外気安い。
「それで今回のご用は何でしょう」
「実は、な」
イアーブ王はどうにも困ったといった様子で事情を説明する。
「帝国にですか」
「そうだ。こいつが全部話してしまったらしくてな」
「すいません」
青年領主は素直に頭を下げる。
アルターブ王への使者に持たせる書状をミーアに書いてもらおうとしたら断られ、青年領主自身が自筆したところ、こういう事態になってしまったのだ。
記録整理などは得意分野だが、外交書簡の形式などはまだまだ勉強中というか、領主付きの書記官に任せっぱなしというのが現状だ。
だがさすがにアルターブ王国第三王子の生存を知らせる書簡をアルターブ王に出すから書いてくれと書記官に頼むわけにはいかない。
ことは極秘事項なのだ。
何とこのことは皇帝にさえ知られていない。
いろいろと外交文書に使う社交辞令や文章形式を調べ、悪戦苦闘した結果、青年領主はいろいろと余計なことを付け足してしまった。
外交文書手習いには「相手に真意を伝えるためにはわからぬと思われることを思い、わかるだろうという思い込みで、わからぬことを書き漏らさぬことが信義である」と記されている。
第三王子生存の理由として先遣隊が捕虜にされる中、逃走に成功し、逃走中にイアーブ王の部下の騎士の保護を受けたことを記し、イアーブ王の保護の元青年領主に騎士隊長たちの助命を願い、自ら帝都に行くこともいとわずとの意思を示していることを記して、しかし王子の独断では出奔となり騎士も王子も立つ瀬がなくなるので流浪の建国王のようなことにならないように許可を頂きたいと結んだ。
それに第三王子自身の文書を添えて、先遣隊の騎士隊長に託したのだが、そのことがイアーブ王から初代帝国王妃に伝わり、王妃から先王の耳に入り、先王の口から皇帝に伝えられ、帝国騎士団の伝令が帰ってくる前に伝書鳩で、領主たる青年とイアーブ王、そして外交特使たる第三王子を帝都に招きたいという旨の書状が届いたのだ。
本来ならその口の軽さを叱責されてしかるべきだが、伝書鳩の足に括り付けられた書状に「ドラゴンがイアーブ王国内に留まっているうちに叩くつもりなので」という文言があったことで青年領主はそれを免れた。
「俺の直感は当たったぞ」
「そうでしょうな」
自慢げなイアーブ王に向かい、バクダハがため息をつくような返事をした。
この王の直感は外れたことがない。
だが今度ばかりは外れて欲しかった。
なぜなら今回の直感が当たったと言う事は伝説のドラゴンとの対決に挑む運命を避けられないと言う事なのだ。
「竜操の杖はどうだった?」
「どうやら竜操の杖は宝玉、結環、杖の三つの部分に分けられ、大陸に散らばっているようです。その杖の部分を買い取った商人を見つけたのですが、どうやら精神支配を受けていたようです。ただの石ころをどんな宝石より高価な品として吹聴しているという噂が広がっていたので発見できたのですが」
エルフの魔術師は秀麗な顔に困ったような笑みを浮かべる。
「なんだ?」
「オリハルコンの原石でした」
囁くような、からかうような小さな声にイアーブ王はもとより、一人いや一匹をのぞいたその場にいる全員が硬直した。
竜の鱗をも超える硬度と価値を誇る神黄金と呼ばれる伝説の鉱石である。
実態はよくわからないが実在したのだ。
「買い取るわけにもいかず、かといって放っておくには危険すぎたので精神支配の魔法を解除し、私の隠れ家で眠ってもらっています。彼の執事と一緒に」
「相変わらずそつがないな。オリハルコンの武器を手にできればこれ以上のことはないが今は時間がないのでな」
「その石の出どころは我らが住まう竜の巣だろう」
イアーブ王の言葉に応えようとしたエルフの魔術師を遮り、竜人ハイアール・リザードマンが言葉を発した。
「実はしばらく前に我らの洞穴に一人の人間がやってきて我らのことごとくをその支配下に置いたことがあった。青と赤の目を持つその人間は我らを支配すると守り手のように振る舞い、我らが神を煩わせた。私は守護竜の心と強くつながっていたためにその害を免れることができたが、他の者は今も我らが守護竜にまとわりつき、意志を砕かれたように祈りをささげている。我と同じく二つの角を持つ者よ。汝の力であれば我らを救えるのか?」
「あの商人と同じレベルなら確実に、それ以上に支配が深ければ時間がかかるでしょう」
「それなら是非とも頼みたい。あの商人に渡したのと同じ分量の虹の石を渡すことを約束しよう」
「ドラゴンとの対決に魔術師は不可欠なのだが」
イアーブ王はやや不機嫌な様子で言った。
それに対してエルフの魔術師はポンと手を叩く。
「竜に対する知識と対策、戦術についてはわたし以上の者が一人います。彼を紹介しましょう」
「最初の賢者たるお前以上の者がいるのか?」
「私の最後の弟子の弟子にして竜殺しの勇者になると放言してはばからない若者ですが実力は確かです。私が最初の賢者なら彼は最後の賢者というわけです。名前は――」

「師匠の師匠、生きてたのか」
呆然とする魔術師アラムにエルフの魔術師はにこにこと挨拶をして、事情を語った。
「王様に領主さまか。気にくわん」
「王は気軽な方で、領主は素直な方のようです。どちらも剣の実力は確かです」
エルフの魔術師はイアーブ王に言ったのと同じような言葉を同じような口調で語り、虹色に輝かんばかりの魔法の額あてを取り出した。
「昔、あなたが欲しがっていた。遠見の魔法と火球の呪文、その他が込められた額あてです」
「師匠の師匠は俺の師匠も同然、任せてくれなさい」
「助かります。では私はこれで本当に危なくなったらテレポートで逃げてくるんですよ~」
そう言いながら瞬間移動の呪文を完成させたエルフの魔術師はその場から姿を消した。
おそらく竜の巣とやらに行ったんだろう。
「いやぁ、こいつはありがたいな。ドラゴンに自由に空を飛ばれたら厄介だからどうやって洞窟に追い込むか迷ってたんだが、こいつがあれば重縛呪で簡単に落とせるぞ。まあ、最初は俺の重呪文で仕掛けてみるがな」
額あてを付けてみるとあつらえたようにピッタリだ。
「さすがは師匠の師匠、いい仕事するぜ」
そのカッコよさを見ようと鏡を探しているところにイアーブ王たちが到着したという知らせが届き、呼び出しがかかる。
「ち、仕方ねえ。これのカッコよさは後で確認するか」
アラムはそう思ったがその後では三日後のことになる。
なぜならイアーブ王たちとの面会が終わるか終わらないかのタイミングでドラゴンを発見したとの知らせが入ったからである。

風が逆巻いている。
自然のそれではない。
超自然の存在が生み出す不自然なる嵐である。
その嵐の中で賢者にして魔術師、魔術師にして勇者であろうとしている男は高々と両腕をかかげ呪を唱える。
その右手にはねじくれた杖、ある魔獣退治を達成したとき遺跡で発見した超魔の杖である。
強力な魔法の品で術者の魔術の威力を増大させる力を有している。
「ランバー・エル・ドミネーション、四象の生み出す混沌たる力よ。重き枷となりて我が敵を叩き落せ!」
呪文が完成すると同時に軽々と空を制し、喉を鳴らして息を吸い込んだ巨体がぐらりと揺らぐ。
そして自信を捕らえた力に対する抵抗であったその揺らぎを最後に轟音とともに地へ叩きつけられる。
「今だ。戦士たち!」
呪文を唱え終え、高々とかかげた両手もそのままに叫ぶ魔術師はもちろんアラム・ランカードである。
よほどの大魔法だったのだろう。
その口調は緊迫しており、額から流れ落ちる汗は留まるところを知らない。
彼の言葉に応え、戦士たちが走る。
一人は一国の王だった男。
一人は帝国の黒き騎士。
一人は傭兵にしてソードダンサー。
一人はこの地の領主にしてかつて記録係だった男。
一人は王だった男に仕える元王国騎士。
一人は少年の域を出たばかりの金髪の第三王子。
そして高らかに勇者の名乗りを上げたのは帝国の剣にして魔術師の古くからの友。
全員が超自然の脅威であるドラゴンの傍までは馬を使い、それから徒歩になり疾駆している。
「超神ラー・セイラムよ。勇敢なる戦士たちに聖なる加護を。その鎧にあなたの衣を。その剣にはあなたの力を。その心には完全なる勇気を!」
大司教ラズエルの奇跡の力が戦士たちにあらゆる自然ならざる力に対する守護の力を与え、さらにその体の中に秘められ眠っているすべての力を呼び覚ます。
全身が沸騰するような力の解放とすべての物事に冷静に対処できるという自信が戦士たちを包む。
最初に竜に剣を付けたのは黒騎士クロディス。
大盾を振り回すように体をひねり、右手に持った大剣を全力を持って地に落ちた竜の左腕に叩きつける。
次に剣を振るったのはイアーブ王。
左腕にははめ込み式の小さな丸盾を左腕に、竜の鱗の間を狙って素早く剣を動かし、鱗の一枚を弾けさせた。
第三手はソードダンサー・べラムス。
盾を好まぬ軽装鎧の傭兵は王家のしるしの刻まれた首飾りを揺らしながら、全身を使って曲刀を振るう。
その威力はすさまじく、ひと振りで竜の指の一本を斬り飛ばした。
「炎が来るぞ!」
勇者の名乗りを上げた女騎士、帝国の剣たるフリュティエの警告の声に未だ竜に張り付くことのできない戦士たちが散開する。
魔術師アラムの重力の鎖によっても縛り切れぬ竜の喉が膨らみ、口腔から赤い炎がまき散らされる。
「うおっ」
炎の圧力でイアーブ王の側近であるバクダハが盾をかかげ、足を止める。
その隣を小柄なアルターブ王国第三王子ジェット・ランガインが走り抜け、炎線のもとへとたどり着き、その剣を叩きこむ。
王子の剣は刺突の力に優れたレイピアである。
硬い鉄の鎧も易々と貫く一撃は魔力の輝きとともに竜の左目を深々と突き破っている。
「やるな」
苦痛の咆哮を上げる竜の動きに巻き込まれないように素早く下がった王子の姿にフリュティエは笑う。
竜の前の大地には炎の吐息によってきれいに溶かされ抉られた地面の窪み道ができている。
その表面はガラスのように滑らかで竜の吐息の恐ろしい熱の威力が良くわかる。
「貴公も行っていいのだぞ」
「誰かが疲れれば代わりましょう。大魔術師アラム殿の話ではドラゴンの生命力は無限に近いそうです。出番は駆らなず回ってきます。それに」
つい一月前までは警備兵の記録係だった騎士は何と戦いを見ながら記録を取っていた。
竜と戦う戦士たちの姿、開戦の契機を作った魔術師の大魔法、それらを見ているうちに内から湧き上がってくる何かに逆らえなくなったのだ。
声をかけられた青年領主から離れた位置にいる魔術師アラムの傍には同じ名を持つ騎士が、大司教ラズエルの傍には赤い髪の女騎士が守り手として控えている。
そして見分役としてゴードンとハイアール・リザードマンのドラフールが魔術師と大司教の前、フリュティエと青年領主の後ろで巨大なトカゲに似た騎獣に乗って戦いを見守っている。
竜への接近のために乗り捨てた馬は主人たちの命を聞いたのか戦場から離れた位置で再び集結していた。
その様子はイアーブ王のひときわ大きな体を持つ黒く輝く愛馬に統率されているようにも見える。
「ほう、なかなか欲深いな。私も一番槍こそ皇帝陛下から勅命を受けているクロディス卿に譲ったが、とどめは私の手でと狙っている」
フリュティエは掲げた薔薇の剣を眺め、楽しそうに笑う。
「私はあの竜が私の領民を焼き尽くさないでくれれば十分です」
青年領主は帝国の剣とまで呼ばれる女騎士の様子を眺め、小さくため息をついた。

「そろそろか」
最初にその異変に気付いたのは手元から剣先に向けて緩やかに曲線を描く剣を振るっていたイアーブ王である。
イアーブ王は一撃を加えた後、竜の翼を狙って斬撃を重ねていた。
蝙蝠の翼にも似た被膜の羽にすさまじい剣技によって、細かな傷が増えていく。
細かいといってもその一つ一つは人の上半身ほどもある傷である。
それだけ竜の翼が大きいと言う事だ。
しかも全身鎧も紙のように切り裂く剣とイアーブ王の剣技をもってしてもその傷の一つ一つを確実に刻んでいくことは難しかった。
翼の被膜に含まれた油分のせいか、翼自体の材質のせいか、二度斬りつければ一度は弾かれている。
ひょっとしたら竜の翼の被膜の中には細かな骨が通っているのかもしれない。
もっともそれにしては切り裂いた翼に空いた傷の跡のそばにそれらしきものは見えない。
見えない骨ということもあり得るが。
イアーブ王が竜の右の翼に攻撃を集中させているのに気づいて、同調してくれたのがべラムスだ。
傭兵として暮らしているだけあって、戦いの流れを見るのがうまい。
そしてその斬撃の威力においては比類がない。
だがそれでも翼を斬り飛ばすことはできず、機能を失わせるような大きな一撃も出ていない。
竜という生物にとっての翼の重要性がどれほどのものかわかろうというものだ。
少なくとも手足の指よりはよほど頑丈にできている。
イアーブ王はすでに百を超える斬撃を繰り出し、当てている。
それでも翼の機能を奪えているとは思えない。
左の翼と見比べればずたずたに引き裂かれていると見えるが、それでも足りそうにない。
「大司教殿の加護を受けているというのにな」
心は研ぎ澄まされ、肉体は賦活している。
ほとんど超人になったと自覚できるほどの心と力をもってしても、竜を相手にするには足りないのかもしれない。
「交代します!」
息が上がってきたイアーブ王の隣に青年領主が滑り込んでくる。
「よく見たな」
イアーブ王はそう声をかけ、いったん竜から離れる。
まだ戦えている連中を見ると自身の老いが忌々しくなるが、そんな理由で戦場に残って足を引っ張るのは御免こうむりたい。
イアーブ王が下がったのを見て、バクダハがそれに追従する。
「お前はまだいけるだろう?」
「他人が自身と同じであるだろうと考えるのは王の悪い癖ですぞ」
そう返すバクダハの顔色は青い。
血の気が引いているのではなく、酸素が足りていないのだ。
「そうだったな」
イアーブ王はバクダハの背中を叩き、笑う。
息をすることも忘れるほどに疲労していたバクダハが大きく咳き込み、尻もちを搗く。
「ここまでですかな」
「残念だがそうもいかんらしいぞ」
イアーブ王の言葉に顔を上げたバクダハは自身の体内から疲労が消えていくのを感じ、唖然とした。
「神官の奇跡の中には相手の疲労を搔き消してしまうものもあるのさ」
そう言うイアーブ王の背中には大司教ラズエルの手が触れている。
「何度もというわけにはいきません。瞬時に疲労を取り除くというのは皆さんが思っている以上に強力な奇跡なのです」
「癒しの奇跡とどちらが上だ?」
「傷の程度に寄りますが腕を切り落とされたのと同じ程度には」
好奇心に駆られたイアーブ王に黒髪の女性司教は悪戯っぽい表情でそう答えた。
「バクダハ、腕一本分の奇跡だそうだ。今の奇跡で俺たちは腕を一本ずつ失う自由を失ったわけだ」
イアーブ王は笑い、
「だが疲労で剣先が鈍り、命を失うよりはよほど良い」
と表情を改める。
人は真に疲労したときそれに気づくことはできない。
戦いの場ではそれは即座に命取りになる。
たとえばイアーブ王国での戦いで青年領主の剣を弾き飛ばせず、折ったために反撃の刺突を喰らったときのように・・・

縦横に剣を振るい、正確に竜の翼を切り裂くという芸当はイアーブ王の剣技と速さがあってこそのことで青年領主がそれを真似ることは困難だった。
だから青年領主は竜の翼をけん制することに終始している。
イアーブ王の剣が攻防一体のそれだとしたら、青年領主の剣は防御主体の剣である。
右手に掲げる剣を振るいながらも左手に持った盾で竜の翼を押し引きし、その動きをコントロールする。
おかげでべラムスは攻撃に集中し、より大胆に曲刀を振るえるようになっている。
「さっきよりやりやすいぜ」
青年領主が防御に徹して竜の翼の動きを制しているのでべラムスはその手数を増やすことができていた。
べラムスの剣は剛剣である。
一撃一撃の破壊力は高いが動きが大きくなりがちで、それを知っているからこそ手数は減る。
一撃必殺といえば聞こえはいいが、それを外したときの隙も大きくなる。
もちろんべラムスほどの使い手ともなればその隙を補う体術も持っている。だがだからと言って無制限に大胆になれるわけでもない。
相手が身じろぎひとつでこちらの優位を覆す力を持つ竜ともなれば大胆さはより制限される。
大胆さが無謀に変わるまでの限界が他人よりはるかに大きなべラムスだからこそ、今のような戦い方ができるがそれにも限度があるのだ。
そんなべラムスにとって防御主体の青年領主の介入はその限度を広げる効果をもたらした。
剣の相性がいいとでもいうべきか。
べラムスの剣はさらに大胆さを増し、しかも勢いに乗っている。
「名前を聞いてもいいか」
「カラムコルンです」
「べラムスだ」
二人が名乗り会った瞬間、血をもがいていた竜の翼が力強く天を指した。

「ダメだ、重呪文が破られる!」
巨大な竜を大地に縫い付けていた見えない鎖が澄んだ音とともに引きちぎられる。
地に触れていた翼の先が持ち上がり、勝利を宣言するように天を指す。
同時に三つの瞳を持つ竜顔が咆哮を放つ。
「いやああああああああああ!」
竜の勝利の咆哮を裂帛の気合が気合が切り裂いた。
竜の鼻面に飛び乗った王子がその身が投げ出される寸前に竜顔にある真ん中の目を右手に持つレイピアで貫いたのである。
左目を貫いたときに感じたぐしゃりとした手ごたえはない。
鎧、いやルビーの鉱石を砕いたときのような澄んだしびれにも似た振動が王子の体を震わせる。
もちろんそう感じたときには王子の体は中空に投げ出され、勝利の咆哮は途惑いを含んだ苦鳴に変わっている。
「緩やかなる浮遊を」
重呪文を破られたアラムがひざをついた状態で杖だけを王子に向ける。
とっさに落下制御の呪文を唱えたのだ。
激しい勢いで投げ出され、強かに大地に激突するはずの王子がゆっくりと空中を浮遊するように落下する。
そして一度は大地の呪縛を離れ、飛び立とうとした竜も・・・
一度、浮遊した巨体が大地に叩きつけられる。
突然浮遊し、再び落ちてきた竜の巨体の下にいたべラムスとべラムスとともに竜の翼と対峙していた青年領主、それに左腕を担当していた黒騎士クロディスが竜の転倒に巻き込まれる。
右の翼を傷つけられていたので右半身が落ちるのが速く、左腕を担当していた黒騎士クロディスはかろうじて大楯をかかげ、その影響を最小限にとどめることができたが、盾を持たないべラムスと青年領主はそうはいかなかった。
べラムスは反射的に曲刀を振り、竜の右わき腹に傷を残したがそれは竜の重量をまともに受け止めることも意味していた。
もし青年領主カラムコルンが盾となっていなかったらべラムスの命の炎は燃え尽きていたに違いない。
「「誰かあの二人を引っ張り出してこい!」」
帝国の剣と賢者にして魔術師の二人が同時に声を上げた。
ただしその後の行動は全く違う。
帝国の剣フリュティエは薔薇の剣をかかげて竜へと突っ込み、魔術師アラムは呪文を唱え、青白い雷光を竜の鼻面に叩きつけた。
「本当は氷雪の嵐をぶち込んだがいいんだがな」
炎の竜の対極にある呪文を思いながら、荒い息をつく。
氷雪の嵐は竜の全身を包み込むほどの極大範囲呪文である。
味方がそばにいる状態で使える呪文ではない。
頭上に掲げた杖から一直線に放たれる雷光の呪文がせいぜいだろう。
火球の呪文は火竜に対してはほとんど効果がない。
一説には全く効果がないどころか力を与えてしまうと言われているがそれは嘘だ。
火竜を傷つける炎の呪文は存在する。
炎の呪文・・・
「くそっ」
アラムは一つ舌打ちをすると呼吸を整え、目を閉じる。
杖ではなく、指をゆるゆると動かし――
轟音とともに火球が爆発したのはそのときである。
そう竜は魔法を使うのだ。
人間の使うそれよりははるかに原始的であるがゆえに忘れられがちであるが、威力も呪文を唱えて導き出す魔法よりはるかに低いものの、瞬時に発動が可能な魔法が脅威であることは間違いない。
そして火竜は炎系の呪文を得意とするのだ。
火球爆発というには物足りないが、人に火傷を負わすには十分な炎の爆発が乱舞する。
威力は低いが数は多い。
見た目だけなら炎の嵐といってもいい派手さであり、その戦闘時効果についてはそれ以上だろう。
小さな火傷を負うだけでも人の動きは鈍る。
竜との戦闘において「熱い」と身をすくませるということは命とりになりかねないのだ。
しかも呪文なしなので、覚悟をする時間もない。
竜のからめ手とでもいうべきか?
決定的な場面でこれをやられればすべてが暗転する。
それが今だ。
「どうやら間に合ったようだね」
純白の鎧と同じ色の法剣、それに漆黒の肌と銀色の髪を持つ友を従えた青年が白馬の上で微笑する。
皇帝ジブリールとその友エルフのグザマである。
グザマの隣に浮かぶ水の乙女がその指を一本立てて微笑んでいる。
そしてその指のはるか彼方には乱舞する炎と同じ数の水によって守られ進む戦士たちの姿がある。
「皇帝陛下がこっそり竜討伐に参加するとは嘆かわしい」
「堂々と参加した方が良かった?」
「大宰相を呼んできましょうか?」
「それは・・・困るな」
「困るようなことはしないことです」
「それなら止めればいいだろうに」
「止めて聞く陛下ならそうしますが」
「さすがはグザマ、私のことをよくわかっている」
「付き合いは長くありませんが、悪事を共にしたことは多いので」
「冒険と言って欲しいな」
「その法剣も私たちが見つけて隠していたと知られたら大変でしょうね」
「まさかあの地下迷宮のある国を譲られることになるとは夢にも思わなかった」
「盗掘がバレたから王に認められたという話もありますが」
「お爺様に聞いたのか?」
「王妃様の方です」
「・・・・」
「まあ、私は彼らに恩があるので手を貸すことができてうれしくはありますが」
「竜に恨みじゃないの?」
「そこは美しくいきましょう」
「それはそうだ。私も姉上が心配でやってきた」
「では手を出すことはしないと約束できますか?」
「それは約束しよう」
「法剣も出しちゃダメです」
「・・・・・」
「まあ、姉の危機ともなれば手を出さないのも問題ですが」
「さすがはグザマ!」
「なにやってんだ。あいつら」
とつぶやいたのは遠見の魔術を発動させたアラムである。
正確には遠見の魔法の効果が封じられた魔法の額飾りの力を発動させたのだ。
魔法の効果を封じた品は簡単な動作や合言葉で魔術を発動させることができ、使用者の魔力を必要としない点が優れている。
もちろんリスクはある。
たとえば火球の呪文を封じた額飾りの力を至近距離の敵の前で発動させれば当然使用者も巻き込まれる。
今回の場合は竜との戦闘中に魔術師がよそ見をするなど以ての外だといった常識的リスクだろう。
ただし強い精霊の存在は戦況を左右する可能性があるので、確認しておくのは必須なのだ。
精霊とは本来悪戯好きな存在であり、強い精霊はその存在だけでも戦局を左右しかねない。
「今回は助かったが」
水の精霊の力は火竜の炎の乱舞を相殺する形の力を振るってくれた。
皇帝の隣にいるダークエルフの傍にいるのはおそらくは水姫と呼ばれる上位精霊だろう。
ダークエルフの精霊使いがとてつもない実力を持つというのは大陸の常識のようなものだ。
ダークエルフはその名の通り闇のエルフと言われ評判が悪いが能力的に判断すれば、光のエルフの上位種ではないかとアラムなどは考えている。
「天才は凡人には理解できんし、迫害を受けるものだ」
もっともこれは魔術師としては異常な数のフィールドワークをこなしてきたアラムの偏見でもある。
冒険者レベルでの交渉ではエルフと交渉するよりダークエルフと交渉する方が楽なのだ。
金で解決できるダークエルフと屁理屈をこねてきて論破したら拗ねるエルフというのがアラムの体験知である。
アラムが確認作業と感慨にふけっている間にも状況は進んでいる。
彼の傍を離れた彼と同じ名前の騎士アラムと大司教ラズエルの傍にいた女騎士セリシアがラズエルの加護を受け、竜へと走り寄り、竜の巨体の下敷きとなって全身を打撲し意識が朦朧としたまま曲刀を突き上げているべラムスとかろうじて盾と剣を交差して竜の巨体に対抗しようとしたものの、その衝撃で明らかに骨折してあり得ない方向に曲がっている右腕と左腕をだらりとたれ下げたまま、荒い息をついている青年領主のもとにたどり着いた二人は突如出現した小火球の爆発に顔を覆う。
が、衝撃は多少あっても熱さはない。
二人の周囲を、いや倒れて無防備なべラムスと両腕を下に垂らしたまま、動くこともできない青年騎士の周りでも同じことが起こっている。
もっと二人の視野が広ければドラゴンの胴体を挟んだ向こうの黒騎士クロディスの周りでも同じことが起こっていることに気づいただろう。
「いくら何でもここから二人を引きずっていくのはつらかろう。こいつに乗せろ」
声をかけたのはイアーブ王であり、そのそばにいるのは漆黒の巨大馬である。
「行け、ゴッドシャドウ」
魔術師と同じ名前の騎士アラムと女騎士セリシア、そしてイアーブ王についてきたバクダハが苦労してべラムスと青年領主の二人をその背に乗せるとイアーブ王が尻を叩くまでもなく、漆黒の駿馬はその場を離れ、大司教ラズエルのもとへと走った。
「アラムに、セリシアだったな。さすがにお前たちではドラゴンと斬り合うのは無理だ。これを使って、離れた距離から牽制しろ。何かあったときのために持ってきた弩だ。俺の分とバクダハの分がある。使い方はわかるな? それから」
とイアーブ王が投げてよこしたのは七色に輝きを変える鏃を持った矢が詰まった矢筒である。
「ニ十本ずつある。そうだな、その矢が尽きるまで馬たちを盾に射続けろ。そのあとは馬を一頭ずつ使って魔術師殿と神官殿のところへ戻れ。その頃にはあの二人も戻ってくるだろう」
「私は何をすれば?」
「俺と切り込むに決まっておろう」
「まあ、そうでしょうな」
「くれぐれも無茶はするなよ。ドラゴンがお前たちを狙ってきたと見たらすぐに逃げろ」
「私は?」
「お前は生きるも死ぬも俺と一緒だ」
イアーブ王はにやりと笑い、バクダハはわざとらしくため息をつく。
その間も竜は戦いをやめてはいない。
ただしこのとき竜の猛攻を受けているのは黒騎士クロディスとアルターブ王国第三王子ジェット・ランガインだ。
黒騎士クロディスは巧みに大剣を動かし、竜の攻撃を誘い、それを大楯でしっかりと受け止める。
そして竜の動きが止まったところへと王子ジェットが踏み込み、幅広のレイピアで竜の皮膚を貫く。
その連携はべラムスと青年領主カラムコルンのそれを思わせる。
だがどちらも騎士としての熟練ゆえか、二人に比べると単調であり、それだけに隙がない。
小火球が舞い上がり、周囲を舞う水とぶつかり蒸発しても気にもしない。
騎士としての訓練を積んでいる二人は反射よりも先読みに頼っている。
今、視界内で弾ける水蒸気の影響で一驚することも計算に入っているのだ。
竜の咢が持ち上がりその喉が膨らむ。
「竜殺しの盾よ!」
炎が爆発すると同時に黒騎士クロディスの持つ大楯から無形の力が解き放たれる。
竜の炎は黒騎士クロディスのかかげた大楯よりはるかに高い位置で不可視の壁にぶつかって四散する。
竜の口に巨人の盾が押し付けられたように、といえばわかりやすいだろうか?
法剣の刀剣開放と同じ原理で、この大楯にも「竜のブレスを防ぐ」という特殊能力があったのだ。
突如、遮られ目の前で四散した火炎の吐息にさすがの竜の首も下がる。
が、その不可思議さを払拭しようとするように再び竜の喉が膨らむ。
「ジェット!」
黒騎士の声と王子の気合の声が重なる。
王子の法剣たるレイピアが今、炎の吐息を生み出そうとしている喉を貫き、爆発させる。
その衝撃で巨大な竜の頭が大きく右に折れ曲がる。
そしてジェットは逆側へと吹き飛び、だがその勢いを減じてふわりと大地に降り立つ。
「この感覚、癖になりそう」
大地に降り立ったアルターブ王国第三王子ジェットは自らの右手にレイピアが残っているのを確認すると足を踏み出そうとして、ひざを折る。
その胸にはすさまじい火傷の跡が残っている。
赤く腫れるのではなく、黒く炭化する極度の火傷だ。
法剣であるレイピアは無事だったが鎧の方はそうはいかなかったらしい。
魔法の力を宿す剣や盾はあるが、鎧となるとその数は極端に減る。
それこそ鎧と武器が一揃えになった「名のある武具」を求めるしかない。
そしてそういう武具は王家の家宝であり、よほどの大戦のときにしか使用されない。
彼の兄であるアルターブ王国第一王子のフラナガンですらそれを身に着ける栄誉を得られてはおらず、ミスリル銀の鎧を買い求めたと言っていた。
「アクシャーサの戦い」で父王がそれを身に着けたと兄は憧れの目をもって話していたが、そのとき生まれてもいないジェットはその姿を想像するしかない。
すでに呼吸は苦しく、視界がかすんでいる。
かすむ視界の中で、黒騎士が一人で戦っている。
助太刀にいかなければ。
王子はそう思いつつ、意識を失った。

周囲を旋回する水の盾が炎に触れてもいないのに蒸発した。
小火球ではなく、竜の吐息の影響だ。
最初の吐息は竜殺しの大楯の特殊能力で防ぎ切ったが、ジェットが突き破った喉からあふれた炎の爆発の熱は防ぐ暇はなかった。
幸いなことにあふれだした炎の残滓の一滴すらも黒騎士クロディスの体には届いていない。
構えた大楯にすら当たらなかった。
しかし黒騎士クロディスの周辺に落ちた赤い溶岩の熱量はすさまじい。
黒騎士クロディスの周囲を守る水の盾はその影響で暫時も持たずに消失したのだ。
「竜殺しの盾よ!」
黒騎士クロディスは再び大楯の力を解放し、竜の破れた喉からあふれる炎の残滓に押し当てる。
不可視の巨大盾が竜の喉からあふれる溶岩塊にも似たものを喉の奥へと押し返す。
いや破れた喉の部分に押し付けるだろうか?
竜の口腔から明確な苦痛の叫びが放たれる。
そのそのとき、黒騎士は視界の端に影が動くのが見えた。
大楯は動かせない。
瞬時に判断し、大剣でそれを弾き飛ばすことに決める。
しかしその質量は黒騎士の想像をはるかに超えていた。
喉を突き破られた竜はその巨体を動かし、長大な尻尾を横殴りに振るってきたのである。
「竜殺しの剣よ!」
黒騎士の呼びかけに法剣が答える。
しかしそれによって竜の長大な尻尾が断ち切られると言う事はなかった。
長大な尻尾に撃たれた黒騎士クロディスの体はすさまじい勢いで吹き飛ばされ、しかし空中でその勢いを失い、ゆっくりと大地に落下する。
アラムの魔法であろう。
騎士として学問を学んだ黒騎士クロディスは知識としてこの魔術を知っていたが体験するのは初めてだ。
確か落下制御の呪文と言ったか?
この呪文を受けたものは高所からの落下時にも自身の意思でその速度を調節でき、大怪我をすることがないという。
そう言えば竜顔から弾き飛ばされたジェットもそんな動きをしていた。
大地に降り立った黒騎士は気合の声を上げ、竜を誘う。
先ほど尻尾を叩きつけられたときに逆らわずに吹き飛ばされたこと、そして竜の心臓に打ち込み、その力を解放すれば竜の命を絶つことができる法剣の特殊能力の解放で竜が怯みを見せたことが幸いしたのだろう。
多少けだるさを感じるがまだまだ体は動く。
が、その黒騎士の耳に何か重いものが倒れる音が聞こえた。
(ジェットか)
そう思いながらも黒騎士は大きく後ろへ飛んだ。
目前に竜の巨大な左腕が振り下ろされている。
それだけで地が震え――
黒騎士はとっさに大楯に自らの体を隠す。
瞬間、竜の左手の指から火箭が走る。
おそらくは炎の矢の呪文だろうと思うがそれにしては形がおかしい。
竜の指先から伸びた火箭は炎の舌のように長く叩きつけるような勢いで大楯を乱打する。
「炎の鞭の呪文か、あるいは炎の精霊の息吹きか」
ただの炎の矢の威力ではない。
「かといって威力が低いわけでもない」
火竜の特殊能力あるいはオリジナルスペルだろうか。
アラムは杖をかかげるとその効果を消去する。
ディスペルマジックを使ったのだ。
ディスペルマジックは魔法消去と呼ばれるが、実際のところは不自然な力の流れを断ち切る自然魔術の系統の魔法である。
魔法がすべからく超自然的力であるのでディスペルマジックが魔法を消去するというのは至極自然なことなのだ。
当然、ディスペルマジックでディスペルマジックを打ち消すこともできる。
「クロディス卿、王子を連れて下がれ!」
その声に黒騎士は思わず姿勢を正し、手渡された手綱を握った。
赤毛の馬は帝国の剣フリュティエの愛馬である。
深紅の鎧に金色で鷲が意匠された盾、見たことのない薔薇の長剣を携えた女騎士は楽し気な笑みを浮かべながら竜に挑みかかっていく。
小手にはめ込む形の盾は手を離してもその位置から動くことはない。
フリュティエは薔薇の剣を逆手に持つと全体重を乗せて、竜の左手の甲を上から下へと押し貫く。
黒騎士クロディスが二代目赤の騎士団の団長の戦いを間近に見るのは初めてだ。
その技量と迫力に思わず、目を見開いてしまう。
「早く、戻れ! 王子が死ぬぞ!」
左腕を動かそうともがく竜を相手に力でそれに対抗しながらフリュティエが叫ぶ。
黒騎士はその声に押され、鞍上へとその身を移す。
竜の力ある方向が響き渡ったのはそのときである。

それは咆哮というより呪詛に近かった。
いや実際に呪であった。
その咆哮を耳にしたものの心はくじけ、魂は砕けると言われる竜咆哮について魔術師アラムは半信半疑であった。
少なくとも後者についてはあり得ぬことだと割り切っていた。
だが実際に耳にしてみるとただの嘘ごとではないとも思う。
魔術についての知識のない者、あるいは戦う訓練を受けていない者の心はくじけるだけでなく、粉々に砕かれてしまうだろう。
精神支配の魔術の中にある「魂砕き」の呪文に近い、この咆哮を近くで聞けば自我は砕かれ、操り人形にするにふさわしい心のない人間が生まれることだろう。
あるいは竜の咆哮を聞いた魔術師がそれを参考に「魂砕き」を作り出したのかもしれない。
竜の咆哮の効果はその距離に比例するという。
近ければ近いほど影響を受けるのだ。
凄まじい勢いでこちらに駆けてくる赤毛の馬の上で必死で手綱を捌いている黒騎士が見える。
おそらくは鍛え上げられた軍馬であっても竜咆哮の影響を受け、魂が砕け、赤子のように怯えやすい状態にあったのだろう。
赤子を御する方法はない。
「一つを除いては」
アラムは素早く呪文を唱えると杖をかかげる。
杖の先から伸びた意識の糸が馬へとつながり、馬の本能を刺激する。
それは生物にとってもっとも抗いがたい欲求。
すなわち眠りへの希求である。
突然、ひざを折った馬から二つの人影が投げ出される。
もちろん眠りによってひざを折った馬の方も無事では済まないのだが、幸いなことに横滑りに滑った馬は無傷であった。
だがもう二度と軍馬として再生することはできないだろう。
魂が砕けた獣は永遠に赤子の心のままなのだ。
馬から投げ出された二人に大司教ラズエルが駆け寄る。
野戦用の司教衣は動きやすいように簡略化されているが、それでも動きにくいのか、黒髪の若い女性司教は長い裾を短刀で切り裂き、司教を現す頭巾を投げ捨てている。
数々の奇跡を行っているのでさすがに息が荒いが、それでも地を駆ける力があるところに日頃の訓練の厳しさがうかがえる。
大司教ラズエルは二人のもとにたどり着くと青い顔をして高らかに癒しの奇跡を行った。
「魔力結晶を使え、少しは疲労が回復するぞ」
このアドバイスはなかなかに苦しい。
魔力結晶は魔法を使うときに魔術師の疲労を軽減する、あるいは肩代わりする品として知られている。
だから魔力つまり魔法を使うための力が詰まった石という意味で魔力結晶と呼ばれている。
だが実際のところは超自然現象を起こすための力の結晶という方が正しい。
アラムはフィールドワークとして魔獣退治に関わっている間に精霊使いや神官が魔力結晶の力を使って、それぞれの特性である精霊術や奇跡を行うのを何度も見ている。
魔力結晶の力を「魔力」というものに限定するのであれば、それはおかしなことだ。
魔力結晶に宿っているのが「魔力」の枠組みを超えた力でなければそれはあり得ないのだ。
もちろん自身の力を消費せずに奇跡を行うことに抵抗を感じる者もいる。
ただ外の力を使ったからと言って奇跡の力を奪われたという話は聞いたことがないし、実際にもなかった。
自身の信仰が否定されるとか、負い目を感じるとかいう気持ちがあっても神々は寛容で、慈愛に満ちているらしく、奇跡が起こらないことはない。
実際のところ大きな奇跡を行うときには自らの信仰の力だけではなく、信者あるいは奇跡を行う力を持つ者たちが集まるのだから、他者あるいは他所から力を借りるということは表ざたにされていないが神殿や教会では認められる行為なのだ。
信仰する神は違えども邪悪な存在に対する戦いにおいてまで反目する必要はない。
問題なのは魔力結晶を使いなれているかどうかの方だ。
日頃、実験などで魔術を実践し、「力」を現象に変えることになれている者でさえ、魔力結晶の使うことができない者もいる。
使い方は魔力結晶に意識を向け、力の流れを得るようにイマジネーションを働かせる方法でも石を砕いて力を取り出す意識でもどちらでもいいし、両方を使っても、他の方法を使っても良い。
魔力結晶から力を取り出す方法は無数にある。
しかしそれを試すための魔力結晶の数が少ないのだ。
遺跡荒らしや魔獣退治を引き受ける何でも屋家業の冒険者なら見つけた瞬間に購入するほどに貴重で便利な魔力結晶はなかなか流通経路には乗らない。
魔力、精神力、意志力の消耗が激しく、一つの呪文、奇跡、精霊を使えないことが命を、あるいは依頼の成否を左右するぎりぎりの場に立ってみれば魔力結晶はどれだけ高くても手に入れておきたい究極の保険となる。
耳飾りについている宝石ほどの大きさの石でも金貨十枚はくだらない。
金貨十枚といえば半年は遊んで暮らせる額だが、命の値段と思えば安いものだろう。
「疲労を回復ですか」
腰に付けた袋から魔力結晶を取り出した大司教はその眉の間に険しい皺を刻んでいる。
「何となく力が流れ込んできて元気になるイメージを持てばいい。そう奇跡を願うときに神の力を感じるだろう。そんなイメージだ」
「超神ラー・セイラムに祈るように」
大司教ラズエルは魔力結晶を両手に抱きしめ、目を閉じて、空を仰ぐ。
長い黒髪が風になびき、次の瞬間、こぶし大の魔力結晶が粉々に砕け散り、その形を失い、無となった。
数瞬前まで青白く陰っていた肌につやつやと輝かんばかりに赤みがさしている。
「これは。ありがとうございます。アラム殿」
「お、おう」
魔術師アラムはこちらを振り向いた大司教の美しさに思わず、言葉に詰まる。
もとがいいこともあるのだろうがそれ以上に人を惹きつけて離さない魅力がでてきているのだ。
強力な魅了の魔力でも付与されたかのように、一気に彼の心を直撃する何かが生まれた気がするのだ。
あえて例えるならば彼を慕う生徒がキラキラと目を輝かせて、彼を褒めたたえるのを聞いているような妙な気持ちよさがある。
「俺も使っておくか」
そう思ったのは魔法の行使のための魔力としてではなく、奇跡を起こすための精神力でもなく、精霊を支配するための意志力でもない、元気とか生気とか言う方向へと「力」の流れを向けて吸収した彼女の手法に興味を覚えたからだ。
ああいう発想は仕事上の絶体絶命の危機の保険として魔力結晶を保持している者では絶対に思いつけない。
「魔力を生命力、元気のよさに」
取り出した魔力結晶を握り、呟く。
ぱきんと音を立て、魔力結晶の四分の一ほどが砕け消える。
一瞬鼓動が速くなり、筋肉が膨れ上がったような、体温が上昇したような、呼吸が楽になったような、様々な身体感覚が体を駆け巡る。
さらに続けると頭がさえわたり、気持ちが高揚し、今すぐにでも竜に殴りかかれそうな力が湧いてくる。
「これはヤバいやつかもしれんな」
魔力結晶のさらに四分の一が砕け、こぶし大の魔力結晶が半分になったところで魔術師アラムは「力」の流れをせき止めた。
心身爽快までならいいのだが、ひょっとしたら若返っているまであるのではないかと感じたのだ。
古くから魔術師は不老不死を求め、様々な禁忌を犯してきた。
不死者の王になる呪文の開発や悪魔の体を乗っ取る実験をはじめ、そのために作り出され、闇に葬られた呪法は数知れず、今もこれなら安全だろうという方法が試し続けられている。
まったく考えもしなかったが魔力結晶の「力」を若返りに使うというのは新たな不老長寿の実験として成り立つのかもしれない。
何か危険な落とし穴がある可能性が高いのだ。
健康に気を付けるのはいいことだが、魔法で健康を付与するというのはどうにも性に合わない。
まあ、疲れたときの景気づけに酒を飲むように、魔力結晶を摂取するくらいなら問題はなさそうだが・・・
と思う程度に魔術師アラムはその効果に酔っている。
麦酒と魔力結晶の「力」の接種を同じ土俵で語っているあたりが危険だと言えるだろう。
もっとも魔力結晶を握りつつ、なくなった魔力の肩代わりをさせる面倒さと不利を思えば、事前にその「力」を自身の魔力として体に注入し、片手を自由にできることは魔術師としては大きな利点であり、戦況を覆すとまではいかなくてもかなり有利に運ぶことのできる発見だった。
もっとも眼前の戦況は一進一退どころか、無限とも思える竜の体力気力の前にかなり後退気味に見える。
「勝負所だな」

「勝負所だな」
竜の左手の甲に突き刺した薔薇の剣をフリュティエごと持ち上げ引き抜こうと左手に力が入ってのを感じ、彼女は下にかけていた体重を斜め後ろへと移動させる。
上へと持ち上げようとする力と斜め後ろへ下がろうとする力の和を剣に伝える。
咆哮とともに左掌が持ち上がり、フリュティエの体が斜め後ろへと滑る。
ぎしぎしと骨や筋が引っかかる感触とそれが断ち切れる感触が交互に襲ってくる。
強力な法剣である薔薇の剣であっても当てどころが悪ければ折れてしまうのではないかと思える硬さである。
しっかり剣の半ばまで左掌の甲に突き刺していなければそうなっていただろう。
竜の咆哮が苦痛の色を濃くした。
フリュティエが突き刺した薔薇の剣が竜の左手の甲から中指のあった位置を通って抜けたのだ。
つまり竜の左手の平は真ん中から二枚になったと言える。
すでに五本のうちの一本の指を失っていたので正確に半分になったようには見えないが・・・
苦痛の叫びをあげる竜に向かい、フリュティエは素早く、鎧にひっかけてあった弩を引き抜く。
フリュティエは三本の矢を同時に放つことができる弩のロックを片手で器用で外すとそれを竜の首元に空いた穴へ向かって叩き込む。
アルターブ王国の王子ジェットが竜が炎を吐くため動作に入ったときにレイピアで貫いた穴である。
三本の矢は狙い過たずにそこに命中する。
「よし」
矢が命中すると同時にびゃしゃあという異音が響き、竜の喉元に巨大な氷の結晶が生まれる。
氷嵐の力が込められた魔法の矢から解放された破壊の力に竜の体が震え、ただ一つ潰れていない右目が見開かれる。
その目の中にキラキラと輝く石が映っている。
数は十、いや二十はあるだろうか?
黄、白、青、緑、黒、様々な色に輝く石は、魔法石だ。
それらは竜の体にぶつかると同時にその力を解放した。
すなわち封じられていた魔法の力を。
黄色い雷が弾け、白い氷が舞い、青い水流爪が裂き、緑の衝撃波が撃つ。
そして黒い闇が竜の精神を犯そうと侵入してくる。
「こっちのことも考えて欲しいものですな」
頭上から降ってくる魔法石の発動の余波に辟易しながら、バクダハが頭上を振り仰ぐ。
「気を散らすな。あれは衝撃を受けると同時に発動するものだ。巨大な竜の下にいる俺たちに届く前に始末はついているさ。しかし思い切って使うものだ」
魔法石に込められた魔法の強力さを見るにあの石一つで金貨二十枚以上の価値があることは間違いない。
「三つ数える。皆出来る限り竜から距離を取れ!」
帝国の剣の朗々たる声が響く。
「来い!」
イアーブ王は声とともに指笛を鳴らす。
馳せ参じた漆黒の巨馬に飛び乗り、バクダハを引っ張り上げる。
そしてオリハルコン製の矢を放つ騎士アラムと女騎士セリシアを目指して全力で駆けながら二人にも離れるように警告を発する。
少し離れすぎているのではないかとも思うが仕方がない。
大きな方円の盾を背負ったアラムが走り、セリシアがそれを先導する。
その横をイアーブ王とバクダハが漆黒の巨馬とともに駆け抜けたとき、大地が甲高い悲鳴を上げた。
大地と空を繋ぐような乳白色の氷雪が吹き荒れたのである。
「なんと」
バクダハが呆然と店を見上げつぶやき、アラムとセリシアは無言で口を開けている。
「巻き込まれていたら死んでいたかもしれんな」
自身の判断の良さを確認したイアーブ王は自信に満ちた目で氷雪の嵐の吹き上がるさまを眺めている。
視線を動かすと戦線に復帰しようと駆け寄ってきていたのだろう青年騎士と帝国の剣を姉と呼び、魔術師を兄と呼ぶソードダンサーが足を止め、空を見上げている。
「あちらの距離も測っていたのだろうな」
小威力の魔法石で竜の意識をひきつけ、さらに至近で戦っているイアーブ王たちの警戒心を刺激しておいて、逃げる決断を速め、強い警告の声によってその場から退避させる。
もちろん戦線から離れ、再合流しようとしている状態で全容を視認できる二人にはさらに効果的だっただろう。
「ダルム・エル・ライラスト。氷の巨人の抱擁よ、鋭き冷たさの証たる氷柱よ、吹き荒れよ。逃れぬこと能わぬ氷雪の嵐となって我が敵を蹂躙せよ!」
天地をつなぐ乳白色の巨大な柱の上に、すさまじい氷雪の嵐が重なった。
乳白色の柱はその色を激しく変え、見ているだけでも手足が凍りそうなほどの完全なる白色が視界を染め上げる。
さきほど魔術師アラムが味方を巻き込むから使えないと口にしていた氷雪の嵐の呪文だ。
禁断の呪文の一つであり、魔術師の禁忌として知られる火球の呪文よりはるかに危険な魔法である。
戦場でこれをぶっ放せば騎士大隊の八割は死傷し、戦線は崩壊するだろう。
ただしその戦いの後で魔術師はすべて殺しつくされるか、狩りだされ、自由を奪われることだろう。
それほどに強力な呪文である。
もちろんそれを使えるのは一握りの魔術師だけであり、現時点ではアラムを含めて三人しかいない。
三賢者の資格を持つ三人だけがこの呪文を実際に行使できる。
もっとも
「大魔術師殿、回復を」
大司教ラズエルの言葉に魔術師アラムは真っ青な顔でどうにか首を振り、取り出した魔力結晶から「力」を吸収する。
真っ青な顔に血の気が戻り、荒かった呼吸が鎮まっていく。
「回復の奇跡は戦士たちの方に使ってやってくれ。俺の方にまだまだ手持ちの魔力結晶があるからな」
ほとんど気絶しかけていた魔術師アラムは水袋に入れていた果実水を口に含む。
竜の吐いた炎のせいか、竜に対する緊張のせいか、はたまた強力な呪文を使ったせいか、たった十数分の間に喉がからからに渇いていた。
魔獣退治に慣れているアラムでさえこうだ。
いや魔獣退治の感覚で戦っているからこうなっている。
「戦士たちは水を飲んでいるか? あんたもちゃんと水分補給はしろよ」
「そういえば」
アラムの指摘を受け、大司教ラズエルは喉に手を当て顔をしかめた。
おそらく緊張で気づかなかった喉の渇きに気づいたのだろう。
「忘れていましたね。緊張しているのかも」
しれません。
そう口にする代わりに腰に下げた魔法の品らしい水入れに口を付ける。
きれいな文様が刻まれている木製とも陶器ともつかない硬い勾玉状の水入れは貴族がピクニックに行くときにでも持っていきそうな高級感がある。
「俺もああいうのを持ってくればよかったかな」
そういう魔術師アラムの視線の先には帝国の剣であり、幼馴染でもある女騎士の持ってきたリュックが放置されている。
背中に担げるほどに大きく、まだその中身の半分ほどが残っている。
帝国最高の騎士であり、皇帝に姉と呼ばれる人間がその収入のほとんどすべてをつぎ込んだ成果である。
相当いろいろと仕入れているだろうとは思っていたが、まさか吹雪の魔法を封じ込めた魔法石まで購入していたとは・・・
「あれ、禁呪扱いなんだぞ。封じ込めたやつは誰だ」
魔法石は使用法が単純なだけに作るのはそれほど難しいわけではない。
だが魔術学院の総意としては基本的には制作禁止としている。
そう言う品が出回ればいろいろと面倒ごとが起こりやすくなる。
一つ例を出せば火球の呪文の魔法石で殺人事件を起こると真っ先に疑われるのは魔術師だといった具合に・・・
「今回は助かったが」
炎には水あるいは氷雪系の魔術が効果的である。
強力な氷雪系の大魔法を、重ねて兼ねればその相乗効果は計り知れない。
魔術は魔力を用いて超自然現象を「発生させる」という性質上、打ち消し合う消滅よりも高め合う増幅の方向に振れやすい傾向がある。
今の吹雪と氷雪の嵐の魔法もその威力効果は何倍にも膨れ上がっているはずだ。
「替えの鎧はないか。ジェットの鎧がもう使い物にならん」
白い柱を見上げている魔術師アラムに黒騎士クロディスが声をかけてくる。
「鎧か。ちょっと待ってろ」
アラムは両手の手の指すべてに嵌めている指輪の一個を取り外すと黒騎士の方へ投げる。
「指輪をはめた状態で合言葉を唱えれば魔法の鎧が出現するアラムの盾と違って、炎に特化した物じゃなくてふつうに魔法の鎧がでてくる。軽装鎧どころか皮鎧よりはるかに軽いが頑丈さはミスリル銀にも勝る品物だ。
「合言葉は?」
魔術師アラムは「守れ」という意味の合言葉を教え、指輪を王子に渡すように促す。
「ガディアス!」
王子が指輪をはめて合言葉を唱えると頭から足先まで隙間なく、全身を守る鎧が出現する。
緑青を混ぜたような色の文様の刻まれた鎧で、フェイスガードで覆われた顔の部分に空いた目の穴以外は露出していないという徹底ぶりだ。
「軽い。しかもこんな状態なのに呼吸も苦しくないし、声もよく通ります。しかも剣までついている」
鎧をまとった体を動かしながら王子は頻りにうなずいている。
それはそうだろう。
このレベルの魔法の鎧と剣が一揃えで現存し、しかも指輪から合言葉ひとつで呼び出せるなどふつうはあり得ない。
「ま、どっかの王侯貴族の家宝ってあたりだろうな」
帝国が遺跡荒らしをしているという話は聞かない。
滅ぼした王国のどこかから没収した宝物の一つなのだろうと考えるのがふつうだ。
「それにしてもあつらえたようにピッタリだな」
「そういえば」
黒騎士クロディスの言葉に、アルターブ王国第三王子ジェット・ランガインは改めて鎧を確かめる。
「運が良かったのさ」
魔法の鎧は現在でも生み出すことが困難な貴重品である。
それは過去においても同じようで剣や槍などの武器に比べて鎧が発見される頻度は極端に少ない。
運よく鎧を発見できても体格に合わないことも多く、肩当や胸当ての部分を外し、体に合わせてつなぎの部分を新調しなければならない。
新調した部分が魔法の鎧部分には及ばないのは当たり前だが、それでも魔法の鎧の部分の影響で新調した部分の硬度と抵抗力は驚くほどに跳ね上がる。
紙でつなぎ目を埋めても使っているうちに皮鎧以上の堅さを持つようになるのだ。
だから魔法の鎧というのものは貴重であり、身の丈に合う鎧を発見できるというのは望外の幸運である。
今の場合は幸運としか言いようがない。
もしあの魔装の指輪が持ち主の体に合わせて魔法の鎧を作る類の品だったとしたらその価値は国ひとつに匹敵する。
それを軽々と貸し出すあたり、帝国の強大さ、いやあの皇帝の気前の良さがよくわかる。
竜が大陸で暴れる被害に比べれば安だろうと言われればそうだが簡単に貸し出せるものではない。
「ではいくか」
黒騎士は水を一口含むとその白さを減じていく天を突く大柱に向かうために自身の馬を呼び鞍上の人になる。
全身鎧の王子もそれに倣い、馬上の人となる。
「ちょっと待て、大司教のねーちゃん。こいつに何か奇跡を使ってみてくれないか」
魔術師アラムの言葉に王子は小さく首を傾げ、黒騎士は「なんだ」と声を上げる。
「この魔法の鎧が防御の魔法まではじくような品だったら困るだろ」
と言った魔術師アラムは即座に筋力を増強させる呪文を唱えた。
「どうだ?」
「何だか力が増した気がします」
「戦いありて、戦士あり」
小さく祈りをささげる大司教ラズエルの声が途切れるとジェットは我慢できぬと言った様子で咆哮を上げる。
「戦の奇跡です。戦いに対する恐れが薄くなります」
「どうやら大丈夫みただな。頼むぞ」
魔術師アラムの言葉が終わる前に黒騎士クロディスとアルターブ王国の第三王子ジェットは馬を駆けさせている。
「ひょっとして両方にかけたのか?」
「超神ラー・セイラムの戦いの加護をすべて付与しました。戦の奇跡は二重がけになってしまいましたが」
「つまり王子様の方が気勢が上がってるってことか」
「ですが彼の役割を考えれば悪くないのではありませんか? 我が神ラー・セイラムは戦神エラファと違い、信者に無敵の戦士となることを要求はしません」
「冷静に一手一手詰めて行ってもらいたいんだがそうも言ってられん状況か」
高揚した精神を冷ますというのは戦場においては危険なこともある。
勇敢に戦っていた戦死が突如臆病風に吹かれるのは気勢が削がれたときであり、今それを行うのは危険に思える。
「まあ、氷雪の柱の影響下に突っ込めば頭は冷えるか」
魔術師アラムはそう結論付けることで頭を切り替える。
竜を覆い隠していた氷雪と吹雪の魔法力が合わさり誕生した極低温の白い柱は霧散しつつある。
竜の右方向からは距離を取っていたイアーブ王とバクダハが黒い巨大馬に相乗りになり、竜との距離を詰めて行き、右方向からは帝国の剣たるフリュティエが飛ぶような速度で竜へと接近している。
その体を覆う外套に飛翔の魔法が掛かっているのだろう。
前方からは今しがた馬に乗って駆けだした黒騎士クロディスとアルターブ王国の第三王子、さらに前方にこちらは自身の足で走っているソードダンサーべラムスと青年領主の姿がある。
白から乳白色、そしてキラキラと輝く小さな雹へと変わった柱の残滓の中に竜の姿がはっきりと見えるようになる。
血の赤よりもなお深い暗い深紅の鱗の輝きは氷雪と吹雪の破壊の魔法の複合の影響で生まれた極低温空間のせいでほとんど白色に染まっている。
レイピアによって突き破られた左目の瞼は下の部分に傷とともにくっついて凍り付いているし、イアーブ王とべラムスの斬撃でずたずたに引き裂かれた翼は半ばから折れ、尻尾の付け根にその先端を拘束されている。
無事だった右の翼は不自然に天を指し、そのまま白く凍り付いてしまっていて、フリュティエの薔薇の剣で二つに裂かれた左掌は互いに絡み合う様にして一本の指のようになってしまっている。
その他にも凍結部分は広がっており、火竜を指し示す名である赤竜王ではなく氷竜を示す白竜王の名で呼んだ方がふさわしいと思えるほどに白が赤を凌いでいる。
「さすがに堪えたか。ざまあみろ!」
魔術師アラムは思わず快哉を叫び、すぐにそれを引っ込める。
凍り付いた上顎と下顎をめりめりと音を立て血を流しながら開いた竜が力ある言葉を発したのだ。
咆哮ではなく、言葉。
呪なしで炎を操った火竜が呪を発して魔法を発動させたのだ。
ぐぅっと空気が縮まり、一気に弾ける。
「嘘じゃねえか」
もがくようなそぶりで言葉を発した竜の周囲には五つの小型の太陽が発生していた。
おそらくは魔術師が唱える火球の呪文の原型。
ひょっとしたら天空にある太陽も超高度な火球の呪文で生み出されたのかもしれない。
世界を創造した神々が魔法を使えたとすればそれはあり得ない話とは言えないだろう。
魔術師であるアラムがそう思うほどに出現した炎の塊は圧倒的だ。
「あれ一つで城の一つや二つは木っ端微塵にできそうだぜ」
くるくると竜の周りを回転する小型の太陽にアラムは舌打ちをするしかない。
だがその炎が炸裂することはなかった。
何と炎を出現させた竜はその一つを自らの牙で噛み砕き飲み干したのである。
「!? あっ、そうか。しまった」
相手は「火竜」である。
氷雪や吹雪の魔法が効果的であるのと違い、炎の魔法はほとんど効果がない。
だから巨大な火球を接近してきた戦士たちを巻き込んで炸裂させる算段だとばかり思っていたのだが・・・
「竜が祈りをささげたように聞こえたのですが」
「それで正解だ。たぶんあれは竜にとっての回復手段。呪で回復効果のある炎を生み出して食べることによってその効果の恩恵を受けるんだろう。竜が神に祈るなんて聞いてねえぞ、ちくしょう」
まあ、奇跡のように一瞬で回復するのではなく、段階を踏んで回復しているので本当に神に祈ったわけではないだろうがズルい。
だがあれだけの熱量の炎球を食べても見た目上の変化はほとんどない。
ほとんどないだけに畳みかけられなかったことが悔やまれる。
外見が回復していないと言う事はあと一撃とは言わないが竜自身が危機を感じるレベルまで追い込めていたと言う事なのだ。
となると
「あの炎球をつぶせ。これ以上回復させるな!」
魔術師アラムが叫ぶと同時に竜は二つ目の炎球にかみつこうとした。
瞬間、炎球が爆発四散した。
氷雪と吹雪が吹き荒れた大地を熱風が走る。
そして竜の忌々し気な咆哮。
大きく開かれた竜の咢の内側から銀色の矢尻が突き出ている。
イアーブ王に弩を与えられていた騎士アラムが放ったミスリルの矢が炎球を消滅させ、竜の上顎を貫いたのである。
「ナイスだ、アラム! さすが俺と同じ名前!」
魔術師アラムは同じ名を持つ騎士を激賞すると自らの腰にあるミスリル製の短剣を宙に放り投げ、素早く念動力の呪文を完成させる。
ミスリルの短剣は意志を持った武器のように飛翔し、炎球を喰らおうとしている竜より先にその炎球を貫いた。
赤く燃える炎球が一瞬縮み、逆渦を巻いて消えていく。
「ミスリル銀だ。ミスリル製の何かをあの大火球にぶち当てろ! 回復されるぞ!」
五つの炎球の内、一つは食われ、二つは消滅させることができた。
残るは二つ。
魔術師アラムがそう思っている間に一つの炎球が消滅する。
青年領主の領土騎士セリシアがミスリルの矢を命中させたのだ。
「あと一つ」
アラムの願いにこたえるように一本の矢が放たれ、見事に炎球に命中する。
竜が心底忌々し気な声を上げる。
「ナイス、アラム! お前が殊勲賞だ!」
回復系の魔法というか奇跡を魔法で消滅させたという話は聞いたことがない。
かといって呪文や物をぶつけたらどうなるかを試している余裕はない。
下手をすれば魔法の相乗効果でとんでもない炎球がとんでもない回復力を持つものへと変化した可能性すらあるのだ。
その意味でミスリルの矢で炎球を打ち消せることを発見させてくれた騎士アラムの功績はこの上なく大きい。
「今だ、ドラゴンは死に体だぞ。押せば倒れると思ってぶちかませ!」
巨大な炎球の前に戸惑っていた戦士たちに発破をかける。
「おう!」
戦士たちが応え、まだ白い部分の多い竜へと駆け寄っていく。
黒騎士クロディスは馬に乗ったまま、大盾を捨て大剣を水平に構えて竜の左手が張り付いた部分を目指し突撃する。
黒騎士に与えられた竜殺しの大剣にはその刃を竜の心臓に突き刺し、合言葉を発すれば即座にその命を絶つ特性が付与されている。
本来ならとても望めることではないが、今までの戦いで左目をつぶされ、片翼を引き裂かれ、額にある竜力の結晶カーバンクルさえ砕かれ、左掌を二つに割かれ、氷雪と吹雪の中で大きなダメージを負って這いつくばっている状態の竜になら届く。
そのとき竜の喉からひゅぅぅううと風の吹きぬるような音がした。
漆黒の巨大馬で駆けよったイアーブ王が馬上から剣を叩きつけ、その邪魔にならないように馬から転げ落ちたバクダハが転がりながら竜の二の腕辺りを斬りつける。
白い氷に覆われた肌が鱗ごと切り裂かれ、真っ赤な血が流れ、あるいは剣撃とともに氷が砕け鱗にひびが入る。
飛翔の外套の力で竜の翼の間に降り立ったフリュティエが薔薇の剣を突き立て、全体重をかけて押し込む。
一撃を加え、鱗を砕き、さらに体重をかけたニ撃目で肉を抉る。
剣を突き立てる動作が繰り返されるたびに薔薇の剣は竜の血で赤く染まり、やがてはその根元まで竜の肉に埋まる。
竜の鱗がはがれ、剣が切り裂いた大きな傷口には炎以外の破壊の魔法の詰まった魔法石を投げ込み発動させる。
肉に差し込んだ薔薇の剣を片手で引っ張り傷口を広げながら、魔法石をその中に投げつけるのだ。
竜の背中を切り裂いて投げ込まれた魔法石は五つ、赤を除いた万色の輝きが力となって荒れ狂い、竜は苦痛に身をよじる。
魔法石を投げ入れたフリュティエもその影響は免れなかったが、竜殺しの戦いに挑んでいる高揚感で薔薇の剣を握っている右手の小手が吹き飛び、風に裂かれ、血が凍っても、心を削り取るような闇が芽生えても、そのすべてを受け止め弾き返す。
馬上で剣を振るうイアーブ王はついに右の翼を根元から断ち切った。
凍った翼の根元から血液とも体液ともつかない何かが噴き出し、牙をむき嚙みつこうとしてきたが、その形はイアーブ王の目前で崩れる。
バクダハが立ち上がり、剣を振るったのだ。
だが災難は終わってはいない。
切り落とした翼はあまりにも大きく切り裂かれた箇所は氷に覆われている。
イアーブ王は頭上を見上げると素早く馬から飛び降りるとその陰に隠れたが、獅子のごとき気性と並の馬に枚する体格を持つ巨馬でもそれを受け止めることできなかった。
それでも凍った翼の重量を直接打撃として受けるよりははるかにましな結果だった。
何しろ竜の片翼をそのまま受けた巨馬の首は嫌な音とともにあっさりと折れ、その巨体は崩れる前に垂直に押しつぶされている。
とっさに馬上を離れたイアーブ王は転がるように落ちたために大地にキスをしたがそのおかげで生きている。
だがここから抜け出し、戦線に復帰するのは難しそうだ。
「とどめは任せるしかないか」
そう思えることにイアーブ王は感謝した。
共に剣を振るったソードダンサー、青年領主、大陸に名高い帝国の剣、白皙の黒騎士、バクダハに土を付けたアルターブの第三王子、誰もが優れた剣の使い手であり、戦士である。
彼らがいれば何とかなるだろう。
何とかなっていなければもちろんここから抜け出して、自分がとどめを刺す気でいる。
イアーブ王が真っ先に思い描いたソードダンサー・べラムスは竜の右手に取り付いていた。
その前には青年領主カラムコルン。
慎重に盾で受け止めるカラムコルンに、大胆に曲刀を振るうべラムスのコンビはあっという間に竜の右手を切り裂き、二の腕をも制覇してしまう。
相性がいいのだろう。
まるで双子が心を相通じさせ、見事な舞を舞う様に振るわれる盾と曲刀の演舞として金貨を稼げそうなほどに流麗である。
二人の人間ではなく、一人の巨人がそれを成しているかのようだ。
もちろん巨人族の末であるトロールとは違い、無限ともいえる再生力を頼みに魔獣を屈服させるような芸当はできないが・・・
「べラムス殿、上からきます!」
青年領主は短く警告を発すると横に飛び地面を転がる。
地面を転がった青年領主の体が二度ほど地面から跳ねる。
べラムスの方は同じように横に飛びながらも曲芸のような動きで距離を取り、転がりはしない。
さすがに足を大地から離さないわけにはいかず、二度ほど足を頭上に見ながらも宙返りをするはめになったが降り立った時には攻撃態勢に入っている。
「アラム兄さんの竜ででかいは怖いを体験しておいてよかったぜ」
もしあの悲惨な体験がなければ今のでやられていたかもしれない。
それを思えば一度目で巨体の恐ろしさに対応できた青年領主の技量と才能には舌を巻くしかない。
起こった事態はごくごく単純だ。
二人に気づいた竜がその長大な首を大地に叩きつけたのだ。
だがその単純さを逃れることができる人間はそうはいないだろう。
理由はただ一つ、人間は単純に竜ほどにばかでかい生物と戦う経験を積む環境や体験に接する必要がないということだ。
べラムスは青年領主に手を貸して立ち上がらせると大地に叩きつけられた首へと駆け寄ろうとした。
再び竜の首が持ち上がる。
それでも駆ける。
細く短く響く竜の口から洩れた咆哮が間違いなく、苦痛のそれだったからだ。
「姉さんがやってんな」
べラムスは竜に駆け寄る過程でフリュティエがその背に飛び乗ったのを見ている。
そしてここまで竜をもがかせるのはあの姉以外にいないだろう。
王女と呼ばれた彼の姉は彼が百回打ちかかっても笑って、殴り返してくるような女傑だった。
「あたしがりゅうだったらあんたいまのでしんでるわよ。ドラゴンクロ―っていうの」
結局、姉が出奔するまで一本も取れなかったなと思う。
勇者になりたいと言ってはばからなかった姉は彼にとって伝説の英雄に等しい。
だがこの竜を倒すことができればその姉に再び挑むこともできるだろう。
竜の三つの目の中で唯一潰れていない右目がこちらをとらえている。
赤く輝くような瞳の上には視線を遮るように数十本の氷柱が落ちているが、それでも畏怖を感じる。
竜の体がびくんと痙攣し、突如、その首を支える力が失われた。
その動きに対応できずにいるべラムスの前に盾をかざした青年領主が割り込んでくる。
先読みではなく、反射的な動きだ。
「そうとう弱っているようですね」
歯を食いしばり竜の首を大地へと流した青年領主は噴き出す汗もそのままに呟いた。
「確かに」
べラムスはそのひとりごとに応え、「助かったぜ」と礼を言った。
今のは狡猾なフェイントではない。
単純に長大な首を支える力が途切れたのである。
無意識の行動であるからこそ、戦場経験豊富な傭兵でもあるべラムスも一瞬反応が遅れたのだ。
いや戦場経験豊富なべラムスだからこそというべきか?
べラムスは反応が遅れたことへの腹立ちを動けずにいる竜の鼻面をよじ登り、残った右目を曲刀で切り裂くことで晴らす。
「見たか!」
快哉の声をあげながらべラムスは大地に投げ出された。
まるで見えない巨大な手によって掴み上げられ、大地に叩きつけられたような感覚だ。
「べラムス殿!」
青年領主は声をかけながら、自分の剣が届く範囲の急所すなわち竜の耳の下あたりへと剣を叩きこむ。
耳朶の後ろを打たれれば人は平衡感覚を失い、自らを御することができなくなる。
青年領主の法剣はその剣技も相まって見事に竜の耳の後ろを深く切り裂く。
リュウ血液と粘液がぶちまけられ、破壊された器官の残滓が飛び散る。
瞬間、べラムスをとらえていた見えない手が消滅する。
魔術師アラムならそれが並外れた念動力の魔法だと指摘しただろう。
そして竜がわざわざそうした意味も解説したかもしれない。
だが今の彼にはそんなことをしている余裕はなかった。
焦っていたともいえる。
先ほどの回復の炎球を見て、魔術師アラムはすでに竜の体力が限界に近いことを理解した。
同時に、竜に体力を回復をする能力があることも知った。
それは戦慄に値する認識だった。
なにせ、今、あの回復術を妨げる方法は「ミスリル製の何かをぶつけて炎球を消滅させる」以外にないのだ。
法剣で撃ってもよさそうだし、魔法をぶつける方法もありそうだ。
ひょっとすると小石でもいいから衝撃を与えることが鍵なのかもしれない。
だがそれが間違いであった場合、この竜討伐は失敗となり、大陸は恐怖と破壊に包まれるだろう。
何より
「俺様とあいつが勇者になれなくなっちまう」
魔術師アラムは呟くとあらん限りの魔法を唱え、竜の体にぶつけていく。
電光刃が、雷撃光が、氷雪剣が、光突槍が、風乱剣が、弱った竜の体を容赦なく打ち据える。
強力な魔法ではない。
だが乱戦の中で使用できる絶対必中の呪文群である。
氷雪の嵐や光刃の竜巻、雷光の雲雨、重力呪、神火などの禁断の魔法群はその威力の高さゆえに味方を巻き込む危険性が高い。
禁忌とされる攻撃魔法群でも同じことだ。
そしてその魔法を放つために味方を離脱させれば、今苦痛にあえいでいる竜に隙を与えることになる。
戦士たちが間断なく傷を与え、回復呪を叫ぶ暇を与えないからこそ、竜は追いつめられても回復の炎球を召喚できずにいるのだ。
一撃で竜を沈める自信があればともかく、いや自信があってさえ禁断の魔法に頼るのは危険に思える。
危険を思うことこそが未知との戦いを制する極意なのだ。
「最後に大魔法と行きたいが」
魔術師アラムは荒い息を吐きながら、視界内にいる戦士たちに身体能力を上昇させる呪文を唱えていく。
筋力、俊敏性、持続力、集中力、人には様々な力がある。
それを一つ一つ丁寧に引き上げる。
繊細な作業であり、使う魔力量より、魔法の構成とコントロールの精妙さ、精神力や我慢強さが重要になる呪文の数々は派手な攻撃魔法を好む生徒たちからは評判が悪い。
だがこういう一手こそが魔獣退治においては有効なのだ。
導師の資格を得て、フィールドワークの魔獣退治をはじめて自信を持ったころに魔獣殺しとして名が知られてきた槍使いが酒場の喧嘩で通りすがりのよそ者に負けたときにその勝敗を分けたのがこの補助呪文の有無だった。
魔力消費は少ないが、小さな貯金を続けるように、素早く正確に順序良くそれらをかけていくことの重要さを知ったアラムは野生の黒猫や鷲を追いかけてその練習をしたものだ。
仮にも竜を殺して勇者になろうとするものが訓練を怠っていいわけがないではないか。
その成果が今、発揮されている。
おそらく魔術師アラムの補助魔法を素晴らしいと激賞してくれる者は誰一人としていないだろう。
だがその効果は賞賛を度外視してもおつりがくる。
すべての呪文を唱え終えた魔術師アラムはひざをつき、横に倒れた。
そのまま前へと崩れ落ちれば、竜が倒されるところを見れないので歯を食いしばって横向きに倒れたのだ。
彼の手の指と実は足の指にも嵌められていた魔法の効果のある指輪はすべて崩れ去っている。
呪文の行使と強化と確実性を増すためにすべて使い切った。
「今、癒しを」
「俺はもう何もできん。あいつらのためにとっておいてくれ。戦いで必要になるかもしれんし、戦いの後でそうなるかもしれんからな」
大司教ラズエルに応えた魔術師アラムはふと意識を失いそうになり、慌てて付け加える。
「あー、偉そうなことを言った後でなんだが、俺が寝込んで竜の最後を見れないなんてことにならないように起きていられる奇跡があればお願いプリーズ」
「わかりました。これは教会内では秘密の奇跡なのですが」
大司教ラズエルは横になったままの魔術師アラムの額あてのあたりに手をかざし、目を閉じる。
アラムの頭の中に光が満ちた。
太陽を直接頭の中に叩き込まれたような衝撃に閉じかけていた眼が強制的に開かれる。
目を閉じると頭の中にある強烈な光のまぶしさを感じ、目を開けずにはいられない。
「こいつは?」
「名前はありませんが、不眠不休で作業を続けなければならないときに眠らないようにする奇跡の光です。急ぎの仕事などがある場合には便利ですよ」
大司教ラズエルは本当にそう思っている顔で言い切った。

べラムスの曲刀と青年領主カラムコルンの連携は盲目となった竜の右半身を縦横無尽に切り裂いていく。
氷に覆われている部分が割れ弾け、そうでない暗い深紅の鱗は砕け散る。
鱗を砕き、肉を裂く斬撃の数々は竜の全半身を本来の鱗の色と同じ赤に染めていく。
竜はその凄まじい斬撃に反応しようと頭を起こし、そのまま長い首を左右に捩る。
なぜなら背中にもそれと同じかそれ以上の痛みが走りづづけているからだ。
凍り付いて直立した左の翼を震わせてみたが動いてくれそうにはない。
瞬間、竜はその身を硬直させ、歯ぎしりをした。
甲高い音がしたかと思うとずるりと言った調子で今しがた動かそうとしていた翼が根元から断ち切られたのだ。
「見たかアラム。刀剣開放できたよ~!」
竜の翼を一撃で断ち切ったフリュティエが快哉を叫んだ。
自慢げに掲げられた薔薇の剣は竜の血で柄の部分まで真っ赤に染まっており、それを握る右腕にあった小手は弾け飛び、中の骨が見えそうなほどに深い傷を負っている。
「相変わらずだな」
竜の翼が切り倒される樹木のように大地を叩くのを見ながら魔術師アラムは苦笑した。
竜の尻尾が持ち上がり、自らの背中を叩く。
だが竜の身体構造上それは不自然な動きだ。
フリュティエは軽く竜の背中を蹴ると飛翔の外套の力を解放して飛び上がる。
自らの尾で傷ついた背中を打った竜が悶絶する。
竜の鱗はどんな鉄よりも硬く、背中から尻尾にかけて棘のように這えている角状のヒレも鱗と同じ硬度を持つのだ。
城壁すら一撃で破壊する尻尾の一撃を自身鱗で受けるだけならそうでもないだろうが、フリュティエに深く傷つけられ、肉を抉られ、その中で複数の破壊の魔法を同時に何度も炸裂させられた背中を打ってはたまらない。
広く開いた傷穴にめり込んだ尻尾の棘が引っかかたのか尻尾を打ち付けた態勢のまま、苦悶する竜の上を飛んでいたフリュティエが思い切りよく、飛翔の外套の効果を使い、竜の尻尾の上に加速をつけて落下する。
尻尾の棘をその体重で竜の背中の傷に押し込むように踏みつけたフリュティエはさらに薔薇の剣を避け手に持ち、尻尾に向かって突き刺した。
正面から切り裂くのではなく、剣先を押し込んで傷を広げる戦い方を選んでいるあたり、フリュティエの竜に対する並々ならぬ情熱が感じられる。
帝国の剣フリュティエは徹底して、突き刺してから引き裂く剣に拘っていた。
巨大な竜にとっての斬撃が、人の受けるそれとは違うと理解しているのだ。
巨大な竜を人と同じ大きさと考えれば、巨大な斬撃跡も人間にとっての切り傷の一つに過ぎない。
腕を斬られた、足を斬られたというのが戦闘不能の材料となるには腕でも、足でもその太さの八割方を切り裂かれてはじめて成立することがらだ。
一撃で首を断つ。
あるいは手足の活動を不能にする範囲を切り裂けなければ、いくら斬りつけても戦いを終わらせられない。
人でも苦労する。
竜ほどの巨大生物になればそれは不可能に近い。
だが突き刺し切り裂く方法なら竜の戦闘能力を確実に、素早く奪うことができる。
精神力に優れた騎士ならば腕の一本を切り落とされても戦えるし、足の自由を失っても戦うことはできる。
だが体の一部でも失えば、その戦闘力は確実に低下する。
突き刺し切り裂くという戦い方はフリュティエが考えに考えた末に行きついた竜殺しの秘策なのだ。
「薔薇の剣よ、血の花を咲かせよ!」
フリュティエの呼びかけに答え、薔薇の剣が輝き、血の花が咲く。
無色無形の斬撃が薔薇の花のごとく咲き誇り、剣の周囲を真っ赤に染める。
竜の尻尾がずたずたに引き裂かれ、ついには背中に埋まった部分を残してちぎれ飛ぶ。
もちろんそんな衝撃波の花の中心にいたフリュティエの全身も真っ赤に染まっている。
衝撃波の形を示すようにちぎれ飛ぶ尻尾の肉片の中に、赤に黄金で装飾された鎧の破片が混じっている。
薔薇の剣の無形の斬撃を制御できなかったのか、それともあえて制御しなかったのか。
竜の尻尾に剣を突き立てた姿勢のまま、フリュティエはひざをつく。
もちろん薔薇の剣を受けていた尻尾ははじけ飛んでもうない。
支えを失ったフリュティエは竜の背に倒れこみながら、まだ動く手で革袋の中から掴みだした魔法石を握った拳ごと竜の肉が抉れた部分に叩き込む。
何を叩きこんだのか?
竜の背中は爆破されたように弾け飛び、その勢いを受けて、フリュティエが空中へと放り出される。
天高く放り出されたフリュティエは竜以上に傷だらけで、そのまま大地に叩きつけられれば命がないように思えた。
アラムは落下制御の魔法を唱えようとしたが失敗した。
もちろん飛翔の外套は先ほどの薔薇の斬撃で原形もとどめていない。
だがフリュティエが大地に叩きつけられ、四散することはなかった。
大地に叩きつけられる寸前に誰かに優しく受け止められたように落下速度を落とし、ゆっくりと地面に降りたのだ。
さすがのアラムにも一瞬何が起こったのかわからなかった。
だが嵐の王ストームブリンガーの声を聴き、その理由を知った。
「あとであのダークエルフに礼を言っとかないとな」
小火球への対抗といい、今の風の加護といい。
今回、アラムが見落としていた危機的部分をよくフォローしてくれている。
もうできることはないと満足するようでは竜殺しの魔術師は務まらない。
自己充足に甘えてはいられないのだ。
「なあ、魔力結晶が余っていたら貸してくれ。小さいやつでいいから」
魔術師アラムは大司教ラズエルに言った。
ラズエルは頷き、耳飾りほどの魔力結晶をアラムに手渡した。

黒騎士クロディスが馬を駆けさせ、馬上突撃の態勢に入ってから数十秒の内に竜の姿は激変していた。
竜は左右の目を失い、額のカーバンクルを砕かれ、引き裂かれた左手は捻じれて一つの指のようになった形で二の腕ごと氷漬けにされ、右手腕と全半身はズタズタに切り裂かれて自らの血で染め上げられている。
右の翼を根元から断ち切られ、左の翼を斬り飛ばされた上に自らの尻尾を突き立てた背中が爆発してその尻尾も失われてしまった。
文字通り死に体である。
あとはこのままうずくまっている竜の心臓を大剣で貫き、合言葉を唱えればすべては終わる。
黒騎士は愛馬をかけさせながら、確信した。
だが――
力なく崩れ落ちた竜の咢が勢いよく開く。
その喉の辺りにはどろどろと燃え上がる竜炎の原資がある。
「プロテクションフィールド!」
魔術師アラムはとっさに防御の魔法を発動させた。
手の中にあった魔力結晶が音を立てて崩れ去る。
しかしこの世で最も熱いと言われる竜の炎はその壁を易々と貫く。
黒騎士は最初から馬上突撃の態勢を取り、その意志も体勢を微塵も揺るがさない。
目の前に迫る炎に突っ込む形になっても、いやなるからこそ、逃げるわけにはいかない。
馬上突撃の態勢に入った瞬間から馬上の騎士と軍馬は一心同体である。
騎士が怯えれば軍馬もそれに従い、騎士が命を懸ければ軍馬もそれに従う。
それができてこそ真の騎士と言える。
赤い炎が広がり、その中心に蒼い光が見える。
竜放つ炎の中心、外の熱量を生み出す究極の蒼線光がはっきりと見える。
地面に首を垂れた竜の心臓はこの炎を超えてやや左だ。
炎より早く熱風が吹き付け、黒騎士の黒髪を、馬の鬣を溶かし、視界をゆがめる。
その熱さに涙がにじみ、すぐに乾く。
炎が届くまでもなく、このざまだ。
黒騎士はわざと唇を噛み、血を流し、それで渇いたのどを潤す。
たとえ大剣の刃が届いても合言葉を唱えなければ効果はない。
眼前の炎が膨れあがる中、黒騎士クロディスはそこまで考えている。
使命を達成する意志とは思考であり、行動なのだ。
空気の膨張により激しい耳鳴りがする。
乾いた目がその視力を失っていく。
この間、数瞬でしかなかった。
だがこの場にいる誰もが黒騎士の失敗を予見しなかった。
あまりにも短い時間なので呪文も、奇跡も届ける暇がない。
それでも意識のある者も、無い者も、黒騎士の姿が見えている者も、見えていない者も成功を確信していた。
「竜殺しの盾よ!」
膨らみ黒騎士を包もうとしていた竜の炎が寸前で消滅した。
黒騎士の捨てた大楯を掲げたのはアルターブ王国の第三王子ジェット・ランガイン。
巨人の盾のごとくその圧力を強めた大盾が炎を竜の喉奥まで押し返す。
「クロディス卿。行ってください!」
ジェットの声を聴いた黒騎士クロディスは咆哮した。
竜が放つ炎の咢から逃れた黒騎士クロディスは霞んだ眼を閉じ、竜の心臓を感じようとした。
見えないはずの心臓が見える。
それはまるで人間のそれであり、緩やかに鼓動を打っている。
黒騎士クロディスはもう一度気合の声を上げ、両手で掲げた大剣を見えた竜の心臓に突き立て、高らかに叫んだ。
「竜殺しの剣よ!今こそ竜を殺せ!」
黒騎士クロディスの叫びに応えるように大剣が振動し、一瞬後に粉々に砕け散る。
塩のようにバラバラと崩れた大剣と同じように竜の心臓がその機能を失ったことは言うまでもない。

「やったぜ」
一部始終を見ていた魔術師アラムが力ない声で快哉を叫ぶ。
この戦いに参加した者で、戦いの全貌を語れる者は魔術師であるこの男しかいないであろう。
竜と至近距離で戦っていた戦士にはそんな余裕はなかったし、癒しの奇跡に集中していた大司教ラズエルは奇跡を祈っている間の状況はわからない。
「勝ったのですね」
喜びに顔を輝かせる若き大司教にとってそれはどうでもいいことかもしれない。
「とりあえずあいつらを回復させてやってくれ。フリュティエのやつはもとより他の連中も相当に疲れているはずだ。しかしやってくれたな。あの迷子王子」
最後の最後でカッコよく決めやがった。
吟遊詩人がサーガとして歌うなら一番盛り上がるところだろう。
魔術師アラムはそう思いながら目を閉じ、すぐに目を開く。
頭の中の太陽がそれを許さない。

竜との戦いが終わってから二日後、竜討伐成功の知らせを聞いたシャウラールが赤の騎士団の大隊ひとつを率いてやってきた。
大隊の中には死体から腐肉を切り落とし、鱗を縫い合わせて剝製化するための道具や技術者も大勢混じっている。
だがその作業は思った以上に難航し、すべてが完成するまでには半月の時間を経ることになる。
しかもその完成品を見た全員が「なんだこれ?」と口をそろえたほどに実物とは異なった化け物に仕上がっていたという。
この竜討伐で最も名をあげたのはもちろんとどめを刺した黒騎士クロディスであり、その功績をたたえられ、白竜騎士団の初代団長に任じられ、一万の兵を率いる将軍騎士となった。
いつも不機嫌な顔をしている団長の傍には常にそこにいるだけで人々を安心させる金髪の王子ジェットがたたずんでいたという。
竜殺しの勇者二人が率いる騎士団は勇猛果敢であり、常にその白い鎧が真っ赤に染まるので別名炎竜騎士団とも言われた。
もっともその先頭に立つ団長だけは黒い鎧を手放すことはなかったらしい。
帝国の剣たるフリュティエはこの戦いを機に「薔薇の騎士」の二つ名を頂くことになった。
竜殺しの勇者薔薇の騎士フリュティエの剣は竜の血のせいか、その柄から剣先までが深紅の薔薇のように真っ赤であり、竜の血の剣と恐れられもした。
魔術師アラム・ランカードは眠ることができないはらいせに竜の内側の牙を抜いたり、貴重な内蔵部位や竜知の結晶カーバンクルなどをせっせと研究所に運び、一財産二財産、いや巨億の富を手に入れた。
そのせいか、授業で恐るべき禁断の呪文を実践して見せるなど破天荒さに拍車がかかったらしい。
もちろん相変わらず、生徒たちからの人気は高く、フィールドワークで魔術師の卵を拾ってくるのにも熱心だ。
彼と同じ名前の元領土騎士は彼の悪事に加担して、魔術師の騎士の名を得ることになる。
竜殺しの二人のアラムの内の一人が忠誠を誓ったのは帝国ではなく、もう一人のアラムだったわけだ。
青年領主カラムコルンは領主としての義務である一年を勤め上げた後、ソードダンサー・べラムスと武者修行の旅に出るという名目で帝国政治から距離を置いた。
次の領主として推薦されたミーアは「逃げられた」と悔やみつつも見事にその責務を果たしている。
その傍らに竜殺しの女騎士セリシアがいたことは言うまでもない。
エルフの魔術師に助けられたリザードマンたちは虹色の石を彼に押し付けて、いつもの暮らしに戻った。
その中に一人の少年とはるか昔に少年だった長老の姿がよく見かけられたという。
「さて、俺はどうするかな」
国を捨てたイアーブ王は首をひねりつつ、魔術師殿が拾った商人の館で客分としてゴロゴロしている。
竜殺しの名声を持って国を建てることも、傭兵隊として戦場をめぐることもできたのだが、この時ばかりは怠惰が勝ったらしい。
「実はいい年ですからな」
というのがバクダハの言である。
皇帝ジブリールとグザマは知らぬふり、竜殺しの勇者の一人、大司教ラズエルは信者の子供たちを叱る材料とされる日々である。
「竜殺しのラズエルさまが来るよ」
という警句を聞いた子供たちはすぐに泣き止んだとか・・・
























































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