クロニクロ

今回のグループ展で出品した絵は、黒地に黒で描いている。なんでそんなことをすることになったかというと東日本の震災のちょと後の年にフォーレの「レクイエム」を合唱団で歌う機会があったのだけど、その合唱の練習の時に「天上にさす光のような響き」というイメージの響きを求められた。その時にふと思った、そんな響きがそんな光が絵で表せたらどんなに素晴らしいことかと。

そんな思いで、2013年ごろから、ここのところ黒地に白で描いている絵がスタートした。「天上にさす光」というと虹のような分光器やプリズムで分けたような光をイメージする人も多いかもしれないが、この歌の元となる「レクイエム」はキリスト教がもとにあって、出てくるイメージであるということが拭い去れないところがあり、クリスチャンでもない私にとってのそんな光は何を表したらいいのだろうかというところから問いは始まった。

描き始めたこと、まずは光を描いてみようということで、日々生活する中で目に見える光を求め考えて見たのだけど、「天上」の光はそれではないのではないかという考えが強くなって行く一方だった。それではどんな光かということで考えて思い至ったのが、「見えない光」「うちにさす光」だった。黒い画面の真ん中にうちからさしてくるような、浮かび上がってくるような光としてのものを描いた。それはそれで納得できたところあったのだけど、しばらく描いて行くとまた疑問が生じる。こんな内省的なものだけでよいのだろうかと、つながりを考える中で外とのつながりを示すような形を表すようになった。浮かび出てくるのを待って描くという方法で描いている事から黒く地塗りしたパネルがいつもたくさん身の回りにある。そんな状況がコロナ禍で部屋に閉じ篭る生活で黒の重さに押しつぶされるような気持ちになり、黒じゃない色をベースにした。そこで赤や緑など他の色に対して白く塗ったところはどういう効果に見えるのか、想像ではわからないものの実際に描いているとわかるということもある。実際に黒ではない背景で光に見えるかということが検証できるきっかけとなった。

それは白黒の時にも単に黒いベースに白い四角を描いても、ただそれだけでは塗り分けただけで黒地に描いた白い四角にしか見えない。それがブレなどのように切り替わりの変化が緩やかになることによって光に見えやすい状況が生まれる。同様のことがベースが黒以外のものではどうなのかということを考えることができたのだ。ベースにする地色の明度や彩度などが光に見えるか否かの条件になるであろうことも見えてきた。今回描いたのは黒地に黒で描く、やってみると微妙な色の明暗の差や光沢の差で微妙な何かが空間のように見えてくる。今まではフラットな黒い面を求めていたのだけど、今回は空間に見えるような黒にするということを目指した。その先にあるものを描いた事によってこれから考えられるものを出てきたものを見ながら考えていけたらと思った。


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