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「神保町」

 地下鉄神保町駅は、都営新宿線と東京メトロ半蔵門線の両線が乗り入れている駅で、ちょうど隣の駅である九段下駅もまた両線が乗り入れている。こうした駅が珍しいのかはわからないが、日頃より同じ地下鉄に乗り、決まったルートでしか電車を利用しない私にとっては、おもしろい構造である。
 神保町駅のA5番出口から左方向に歩き、信号があるのでそれを渡ると、坂に差し掛かる。両側に飲食店やマッサージ店を構えるその坂を、下から上にほんの少し歩みを進めると道路に突き当たるから、そこを更に左折する。リバティタワーなる建物が堂々とそびえたっているが、その建物こそ私の通う大学である。特段、愛校心のある学生でなくても御茶ノ水のオフィス街に、だいだら法師たる塔が位置していれば、自身の大学に一定の評価をするのではないのかと思ってしまう。
 まだ正午になっていない時分の土曜日にわざわざ大学に来る学生は多くない。まして私のように二年生の学生は少ないだろう。一般的な文系学生は一・二年を新宿の向こう側、明大前で過ごすからである。そして三・四学年が、私が今いる駿河台の地でキャンパスライフを送るのだ。
 巨人の内部に入ると左手側に図書館があるから、私は学生証をかざし、入館する。正面に下りの螺旋階段が位置しており、ダンジョンのように深層に下ることが出来る。中々洒落ているデザインで私はかなり気に入っている。
 私は図書館に来ると、中世日本史のコーナーに行き、大抵二・三冊をとり最低層階の奥まった机で選んだ本を広げる。良く言うと、静粛たる聖域で本に集中するということだが、私はこの自分の習性を、まるでナメクジであると理解している。だが、ナメクジが暗く湿ったジメジメした場所を好むように、私も奥まった聖域を好まないわけではない。
 五味文彦、岡田章夫の本を借りた。私は、皆と比べて頭が良くないため、彼らの本を理解するにはかなりの時間を要する。更に酷い飽き性である私は、そもそも本を徹頭徹尾読み終えたことがない。これは良くない性格であると理解しているのだが、どうも直すことが出来ない。バスケットボールも、ベースギターも、恋愛も、途中までは愛し求めるのに、どれも最終的には情熱が消滅していた。
 そんな性格の私が、ダンジョンの中で集中して本を読むことはもちろん出来ないため、昼食をとるがてら退館した。まだ六月であるというのに太陽がカンカンと私を照らしている。

 神保町は東京でも有数の飲食店街ともいえる。特に神保町のカレーは有名で、多くの店舗が存在する。カレー屋に関して言えば、明大前から徒歩三十分で行ける下北沢も有名であり、そんな環境で学生をしている私は、もちろんカレーに拘りたいのである。
 ただし、六月であるというのに灼熱地獄に抛られたのかと、この暑さに、邪見をしたわけではあるまいと思いつつ、地獄を彷徨する事は私には出来ない故、大学のすぐ横のカレー屋に入った。
 店内は、カウンター席にテーブル席が数席あり、半ばと少し埋まっていた。
 私は、入り口正面のカウンターに座った。ややぬるめのお冷をもらい、BBQセットを頼んだ。百円安いAセットと悩んだが、チキンが付いてくるみたいであったので、少し贅沢してこちらにした。たかが百円だが、個人的にランチの百円は大きいと思っている。私の経験上、百円多く支払い、ワンランク上のセットを頼むと満足度が五割程増すのだ。
今回の予見も的中であった、間違いなく美味しい。カレーに入っているチキンとはまた違うテイストで、辛そうに見えるが、蜂蜜の風味を感じることが出来る、チキンの大きさも見本よりも幾ばくか大きく見えた。これは、大変な主観であるが。
昼食ではない、ランチだと思った。
満足のいく自分の決断に、小田原へ馳せ参ず独眼竜の様な面持ちで店を出た。相変わらず暑いのだが、土曜日ということもあって、適度に賑わいを見せる神保町に笑みがこぼれた。
一度大学に戻って古本屋にでも行こうか、そう思い、拠点に戻ろうとすると、雨が降り始めた。突然降りだした大粒の雨は、途端に街から賑わいを奪った。折角以て晴れやかな気持であったのに、大変無念であった。
忽ち、外は蛙の故郷となってしまった為、すぐ近く、弊学の博物館に行くことにした。
この建物には何度か来たことがある。それは、此処が考古学を深く取り扱って居るからであり、人並みより日本史学に傾倒している者としては教養として知見を深めておきたいためである。
その為、何度かバックヤードツアーなるワークショップに参加したこともある。そこでは石器の年代による変化や注記体験が出来るという大変貴重なものであった。しかし、私が最も驚いたのは、その体験に多く史学学科以外の学生が参加していたことである。
私の良くない習性はステレオタイプを何時までも懐妊させたままでいる処だろう。良く言えばプライドといった処だが、どう考えても、ただ頑固であるだけだ。
博物館の構成は、概ね「考古・刑事・伝統産業」といえる。先ほど、考古について述べたが、私はこの「刑事」の展示にも評価をしたい。これこそ、大学の展示であろうそう思える処があるからであり、そもそも博物館がこの刑事を扱う理由として、弊学が法律学校として開学した事に由来している。
土曜日であるからか、館内はかなり混んでいた。私は、混んでいる空間を何よりも好まない。但し、この好まないはアレルギー的な好まないではなく、掃除の時に雑巾がけを任される程度のものである。つまり、やろうと思えば、何ら苦はない。ただ、私は誰よりも先に箒を希望する性格であるため、やはり留まろうとは思わなかった。無粋なことを云うならば、何時でも来られる訳であるし、決して何事にも無気力な自分を肯定したい訳ではない。
たった十五分であるけれど、少しは期待したくなるのだ、このような怠惰病を患っておきながら、割と順調に生き抜いてきた、強運たる私であるからこそ。
しかし、すぐこの期待は打ち壊された。止む気配など毛頭ないのだろう。まったく、天上の神様は何を御考え遊ばすのだろうか。なにか我々が気に障る事を致しましたでしょうか。それとも、我々の利便を高める故に行ってきた重罪により熱くなり過ぎてしまった惑星に水をかけて冷却でもしようとしているのか。だとしたら、なんと強引な。但し、私も今その恩恵を享受しながらクーラーの効いた巨人の内部に鎮座している反面、私こそ神様に謝罪をしなければならないのだろう。
先ほど借りた本を読んでみる。女性所領について書かれた論文のようであった。私は特段、女性史を専攻したい訳ではないが、興味がある。中世という時代柄、性による封建支配の機械的な分別を理解しておかなければ、本質的な歴史研究にはならないと考えるからである。だからこそ、ジェンダー史というものにも敏感にアンテナを張るようにしている。駆け出しとはいえ、史学徒である以上、公平で客観的な判断を下したい、私の信条として、根拠なき主観的考察は全く学術的であると認めないのだ。但し、凝り固まりすぎるのも良くないとは考えている。例えば、小説はめっぽう解放的であるといい。学術とは別に、ただ「娯楽」として向き合いたいのだ。だからこそ、私は小説に魅せられた。そういう意味で、学術の規範的な堂々たる考察が可能で、小説の煌びやかで自由な考察が可能な、二面的に補完しあう「文学」というジャンルを愛しているのであろう。それは私が神保町という街をこよなく愛することにも影響を及ぼしている。
全く、今日の至高なるスケジュールを乱してくれたお天道様には敬意を示すべきであろう、そう仕方のない不満を孕みながら軽く椅子に腰かけていると、恐らく傘を持っていなかったのであろう初雪のような純白のワンピースを着た女性が散々にも濡れた様子で構内に入ってきた。彼女の容姿は驚くほど端麗で、やや小さき身体はいかにもかぐや姫の様で、見ているだけで幻想世界に誘われ、今にでも彼女に燕の子安貝を奉りたく思うほどである。
彼女は本学の学生であろうか、はたまた学部こそ同じであれば大変狂喜乱舞してしまう、と天性の小心者であることを忘却している私は胸を躍られたわけである。
「ねぇ、あなた。~~~~~。」
彼女が、すぐ近くの女性に話しかける。後半は上手く聞こえなかった。
まあそうであろう、なぜ自分が話しかけられると錯覚していたのであろうか。何とも空虚な期待に胸を躍らせてしまったのだろうか、私はあまりの恥ずかしさにこの巨人に自分の骨を埋めても構わない、そう思った。そうだな、宗派は何だっていいから、とにかく迅速な埋葬を頼んだ。

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