幻の世界

面会の度に母は幻の世界の人になっていく。私のことは認識している。亡くなった父の写真を見ても誰だか今ひとつ分からない。弟のことも誰か親切な男の人だと思っている。「この前K 、来たでしょ」と言うと「そうそう来たけども風があんまり強くて怖がって泣いてねえ」と返って来た。母にとっての弟は小さい男の子で、現実の50を越えたおっさんではない。

2月になってから母はよく転ぶようになり、福祉用具の人、理学療法士、ケアマネ、施設のスタッフで転倒防止策相談をした。歩行器は新しく道具の使い方を覚えるのが難しい。置き型の手摺は台座部分に躓く危険がある。検討の結果、縦の突っ張り棒でつかまる所を設置することになった。皆その道のプロフェッショナルとして適格な判断提案をしてくれる。

そんな相談を横で聞いてる母が時々、口を開く。小さい子が転ぶことを気に掛けているようだ。
「それでも、ハイハイの赤ちゃんは何処へでも行っちゃうからね」
「転ぶくらいは良いけど怪我するといかんから」
施設の方によると食事の時も誰か子どもに食べさせているらしい。
どうも母の周りには小さい子どもが何人かいるようだ。
20年くらい前に亡くなった母の末の弟も子どもの姿で訪ねて来たらしい。

同じ病で、去年亡くなった知人の母親も、いつも小さい女の子と日がな1日おしゃべりしていたそうだ。

小さい子どもが気にかかる。小さい子どもの世話をしたい。母親っていうのは、そういうものなんだろうか。男の人にも小さい子どもの幻が現れるんだろうか。

取り敢えず、穏やかな幻の世界なら悪くない。村上春樹みたいだ。母の影も薄くなっているかもしれない。

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