(日本の)反知性主義を考える

今年から試験的にX(旧Twitter)を触る頻度を下げたところ、精神衛生はとても良くなったのだがアウトプットする機会がなくなってしまった。Twitterで定期的に本の感想をつぶやいていたので、書かなくなってしまうとやはり内容の定着が悪い。noteの方が(脚注機能がないという欠陥はあるものの)まとまった文章が書けるので、読んだ本の中で私的に気になった/気に入ったところをかいつまんで備忘録として書評風にまとめておくことにした。雑多な本を雑多に要約しても考えが深まらなさそうなので、反知性主義*1を一つのキーワードにしてまとめていこうと思う。一応、読んだ本を個人的な関心に基づいていくつかのテーマでまとめてみた。テーマが大見出し、書評が小見出しである。


カトリックと知性主義の始まり

ジョセフ・ヘンリック『WEIRD』

ヘンリックの本は以前に『文化がヒトを進化させた』を読んだのだが、前書きによると本書のスピンオフとして書かれたものだったらしい。著者は人類学者ではあるが、科学帝国主義的で西洋中心的な本を書く人*2である。抜群に面白い本なので、中で取り上げられている個別研究の内容と全体的な論に飛躍がないかは少し留保しながら読んだ方が良いかもしれない*3。ちなみにタイトルのWEIRDはWestern, Educated, Industrialized, Rich, Democraticの奇妙な(weird)人たち、という意味。
本書で一番面白かったところ。以下の画像*4を見てみよう。紫の部分がカロリング朝の統治領。ではこの境界は何を示すのか。東は鉄のカーテン、南は豊かな北イタリアと貧しい南イタリア、西はフランスとスペイン。少し古い言い方ではあるが、紫色の外側にPIGS(Portugal,Italy,Greek,Spain)と東欧諸国が全て入っている*5。思想と制度は世界を変える、しかも長期的に。

カロリング朝の支配領域

本書の中心となる主張は「カトリック教会は人類史上で極めて特異な思想を持っていた」ということである。人類学者にとって、社会の基本が親族関係であり、土地に根差したものであることは当たり前である。カトリック教会はこの当たり前を取り払った。ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』でユーラシア大陸が東西方向の水平伝播によってその他の地域、南北アメリカ・アフリカ・オセアニアに優位であったことを示したが、本書はその続き、西洋がそれ以外の地域を圧倒した理由について考えるものだ。
概略だけを示しておこう。カトリック教会は「神の節理に従って」近親相姦を禁じた。近親者の範囲をどこまで取るかは文化によって異なるが、カトリックにおいて近親者の範囲は六従兄弟姉妹と姻族まで拡大され、さらに一夫一婦制が強制された。これはヨーロッパから親族ベースの連帯を駆逐し*6、結果的に人々の流動性を高めることになった。長期的にはこれが都市の発展と都市法の分化を促し、現在の西欧社会を構築していく。
かなり幅広いトピックを扱っているので、個人的に興味があるところに話を絞る。ベネディクト『菊と刀』で示された「罪の文化と恥の文化」はイデオロギー的で退けられたものだと思っていたが、時の試練に耐えて文化心理学においては常識化しているらしい。現在では拡張されて、恥の文化は東アジアパーソナリティの特徴として扱われている。個人主義と集団主義の対比も西欧社会と東アジア社会の対比軸になる。例えば西欧社会では相手との関係(友人・親・教授・見知らぬ人)がどうあっても*7誠実さや親密さを同様に表現するパーソナリティの一貫性が美徳とされるが、韓国社会では教授に対しては恭しく、友人に対してはくだけた調子で、関係性に応じて態度を調節することが美徳とされる*8。
ヴェーバー『プロテスタンティズムと資本主義の精神』もデータセットに問題があったと記憶していたが、新たにデータをとって分析すると似たような結論が得られるようだ。個人が聖書を読まなくてはならないプロテスタンティズムの教義が識字率と教育制度の普及に役立ったほか、西欧社会における個人主義をさらに増強する効果が認められるらしい。
とにかく本書では縦横無尽に多種多様な研究が紹介され、西欧社会のパーソナリティ特性がいかに特殊なものであるかが説得的に示される。メタヒストリーの中で重要な一冊といって差し支えないだろう。

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』

子供の時に読んでおきたいミステリーが3冊ある。『オリエント急行殺人事件』『アクロイド殺し』『そして誰もいなくなった』である。アガサ・クリスティーに偏りすぎかもしれないが、とにかくこの3冊は古典すぎて普通に本を読んでいるとネタバレを知ってしまう可能性が非常に高い。独創的なことに加えて応用が効くトリックばかりなので、後続のミステリーではミスリードとして紹介されることも多い。しかもトリックだけの駄作ならともかく、ミステリーとして上質なものだから始末が悪い。ミステリにおいてトリックと犯人のネタバレは読書の質を大いに下げる。ので、アガサ・クリスティーを学級文庫に所収してくれた小学校の教師には感謝している。
エーコ『薔薇の名前』もそんな本である。何ならクリスティーよりも始末が悪い。引用が大好きな人種が大好きな本なのだ。生きていればどこかでネタバレを食らうこと請け合いである。当然、この先には詳細なネタバレが含まれているので念のため注意しておく。
『薔薇の名前』のあらすじとネタバレは読む前から分かっていた。何なら真犯人の名前まで分かっていた。今まで読まないできたのは単に値段が高かった(しかも上下巻)だったから、かといって買わずに図書館で済ますには読むのに時間がかかりすぎるような雰囲気のある本だったから、そしてネタバレを受けているミステリを読むことに気が進まなかったからである。で、重い腰を上げて読んだ。結論としては、本当に面白かった。
舞台は中世、教皇のバビロン捕囚期の北イタリアである。ある程度は世界史的な知識があった方が無用な混乱*9はないだろうが、どのみちキリスト教の細かな会派や異端の区別が難しいので何も知らなくても読めそうに思う。とにかく、修道院における黙示録の見立て連続殺人の話である。
京極夏彦『鉄鼠の檻』が本書を日本に翻案した話だというのはよく聞く話だが、禅宗とカトリックを対比しながら読んだ。「不立文字」を金科玉条とする禅宗とカトリックは好対照である。何よりも文字を重視するという点において。
『薔薇の名前』は本の話である。とにかくずっと本の話をしている。「はじめに言葉ありき」*10の宗教なのである。登場人物はほぼ全員がカトリックの修道僧であり、カトリックの教えを自明のものとして話が進んでいく。禅宗において仏性が身体の中に見出される*11ものだとすれば、カトリックにおいて神意は肉体の外*12に現れる。この世界は神の被造物であり、神は全知全能であり、即ち世界の一切には神意が反映されている。世界の一切を言葉にすること。キリスト教*13の外からはかなり奇異に見える思想が世界を知悉することで神意を汲み尽くそうとするカトリックの知的営為を生み出した。その象徴が本書に登場する異形の図書館であり、世界の書物を全て蒐集しようとする企てである。
エーコが描き出したカトリックのキリスト教を私なりに解釈するならば、神意の現れとしての世界=自然を観察によって言語化し、究極の書物である聖書の完全な注釈を構築しようとする試みである。中世世界の中で一歩進んだ識見の持ち主である主人公バスカヴィルのウィリアムは、シャーロック・ホームズ的な合理性と科学主義の祖型として描写されている。カトリックの特異なあり方が現在の西洋社会、人文主義と科学主義の淵源なのだとエーコは示唆する。貪欲な知に対する使命感に突き動かされて、アリストレスからイスラム世界まで、カトリックの知は越境する*14。
カトリックの知はどこに限界を持っていたのかといえば、明らかにそのヒエラルキーである。教皇を頂点としてその下に枢機卿を置き、司祭と平信徒を明確に区別する姿勢が綻びを見せていることは作中で何度も示されている。しかし世界の全てを神意の反映である、カトリック教会はその最たるものだと考える傲慢さは、教会のヒエラルキー構造を自然の中にも見出した。自然を秩序ある安定した体系と捉え、その中に法則を見出そうとする自然科学の営みは、ルネサンスがギリシャ・ローマを再発見する以前から、カトリック教会の中にも存在していた。
本書で示されるように、カトリックの知に対する姿勢はアンビバレントである。片方で平信徒たちに聖書を閉ざしながら、片方では修道僧同士の批判的な議論が展開される。原因は多義的である。十分な解釈能力を持たない平信徒が断片的に聖書の知に触れてしまえば誤った異端思想に行き着いてしまうことへの懸念とパターナリズムもあれば、グーテンベルク以前は聖書があまりに高価だったという実際的な側面もあるだろう。しかしながら、生産活動から解放された修道僧による批判的な議論の展開はやがてヨーロッパ知識人層を形作っていく。
加えて、作中では異端についてもかなりの紙幅が割かれている。作中で取り上げられる異端は教会から独立して武装したアンチキリストであるが、現世的な罪として犯したのは乱交*15である。また、修道僧のソドミーがおぞましい行為としてやや唐突に取り上げられている。本書が書かれた1980年代の時代背景から想像力をたくましくすれば、次のような疑問が本書から汲み取れる*16かもしれない。フランスを中心に、知識人層の基調となるのは権威への懐疑であり、最も古い権威であるカトリック教会は批判されるのが当然である。しかし、知識人が用いている知の在り方はまさにカトリックが生み出したものであり、知識人が新時代の生き方として提示するフリーセックスや同性愛はカトリックが異端として規定していたところのものそのものである。自由になるための知は実際のところ、カトリックという古い権威の影でしかないのではないか。もちろん素直に読めば、カトリックという権威の腐敗*17とその克服としてのルネサンス、そこから現在まで続く自由な知的営為の賛歌であろう。
さて、最後にネタバレを。真犯人は最終的には知の中枢というべき大図書館を焼失させる。連続殺人を含め、動機は神学論争である。問題となるのはキリストが笑ったかどうか。犯人はキリストが笑ったことはないと信じており、対する探偵ウィリアムは笑ったことがあると信じている。ここでの笑いは権威と権力に対する笑い、批判精神としてのユーモアである。犯人は権威に対する笑いは危険であり、最終的にはカトリック教会を揺るがすものであり、そんな行為をキリストが行うはずはないと考えている。そのために批判的な笑いについて記した書物を秘匿しようとし、結果的にそれは全ての知識を灰燼に帰してしまう。ユーモアとカトリックの権威といえば、パリ五輪で最後の晩餐をパロディしてローマ教皇庁が苦言を呈していたのが記憶に新しい。発見することの多い、古びることのない現代の古典だろう。

知性の在り方を考える

ロバート・M・サポルスキー『善と悪の生物学』

著者はサル研究者でもあり、研究対象としてきたのはキイロヒヒ。私個人は恩師がゲラダヒヒの研究をしていたこともあり、サル研究者というだけ*18でなんとなく身内びいきの感覚が生じて評価が甘くなってしまう。そんなバイアスがかかっているが、ヒトの行動に関する網羅的で優れた一冊である。原題はBehave "The Biology of Humans at Our Best and Worst"で邦題がミスリードではないか、というレビューも見かけたが、テーマには沿っているので問題ないのではないかと思う。ただ確かにBest and WorstよりもBehaveが主題であるとは思わなくもない。
著者も書いているが、本書の結論は「複雑である」こと。私たちの行動は単一要因では決まらない。「氏か育ちか論争」は今や存在しない。遺伝子と環境は両方ともに重要な役割を果たす。そして生物学者が言うところの環境には出生前の子宮内の状況、幼少期の生育環境、脳に損傷を負う事故にあったか、両親のパーソナリティ、学校での友人関係、階級、法制度、社会構造、経済状況、地域の文化、歴史、その日に何を食べたか、前日に恋人と喧嘩をしたか、その他ありとあらゆる文脈が含まれる。もちろん遺伝子にしたところで、遺伝子と表現型が一対一対応しているわけではなく、相互に抑制と強化を繰り返しながら形質を形成する。遺伝的要因に絞ったところで、特定の形質に対する単一遺伝子の影響が数パーセントに満たないようなことはザラ*19である。さらにはそれぞれのトピックに専門研究者がおり、分野内でも意見対立がある。
とはいえ、本書は「複雑なので分からない」という諦観が示されているわけではない。著者の専門分野である神経学や動物行動学のほか、経済ゲーム実験や文化心理学の様々な研究を示しながら何が分かっていて何が分かっていないのか、何が慎重に扱うべきトピックなのかが整理されていく。専門的な内容が多く含まれているが、素人にも分かるように簡素に、かつ不正確にならない形で人間行動研究の全体像がつかめるだろう。
多岐にわたる内容が含まれるが、トピックを知性に絞ろう。ホフスタッターは『アメリカの反知性主義』で知能と知性を区別している。知能は実用的な処理能力*20、予測可能な範囲で、適切に物事を処理できる能力である。対して、知性は批判的な知的能力を意味する。目の前の物事について判断を保留した上で吟味し、疑い、理論化する。そしてホフスタッターは知性の重要な特徴として「遊び」、すなわちユーモアを挙げる。要するに「知性」というのはカトリックとそれを引き継ぐ西欧社会のWEIRDな知の在り方だ。ではとりあえず、人類のデファクトスタンダードである知能の方をざっと見ていこう。
人間は通文化的に禽獣と人間を区別する。獣と人間を区別する解剖学上の領域*21はホモ・サピエンスで顕著に拡大が認められる前頭前野である。便宜上、前頭前野で特に重要な領域を二箇所に絞り、機能も単純化して表現する。論理の座である背側前頭前野と感情の座である腹内側前頭前野だ。背側前頭前野が損傷すると複雑な思考能力が損なわれる。腹内側前頭前野が損傷すると社会的な思考能力*22が失われる。人が意思決定をするときにはこの二つの領域が協力して判断を進める。端的には、背側前頭前野が意識、腹内側前頭前野が無意識*23として。私達の意識的な意思決定は主として背側前頭前野が行っているが、そこに腹内側前頭前野が重み付けをする。腹内側前頭前野は海馬・扁桃体・体性感覚野*24と入出力を繰り返して「今の状況に良く似た状況」を手がかりに意思決定後の状況をシミュレーションする。これがダマシオのソマティックマーカー仮説の概略になる。我々の意思決定は大半がこの無意識のループ側*25だと考えられる。
無意識のメンバーとして報酬系の話も。ドーパミン報酬系は快感を担うが、重要なのは事前の予測に対してどれだけ報酬が得られたかである。私たちは常に予測しながら生きている。事前に予測していた事象に対して、より大きな報酬が支払われたときに快感が生じる。何が報酬だと考えられるかは文脈によって異なる。暴力が推奨される社会ではドーパミンが暴力を予測するが、寛容な社会ではむしろ暴力を抑制する。これで世界で最も報酬系が発達した部族、ハリウッドスターたちがマッチョイズムから寛容と脆弱性に急速な方針転換を図ったことが説明できるだろう。
報酬系は社会的文脈に依存する。西欧社会では興奮した顔を見ると報酬系が活発化する。中国人の場合は落ち着いた顔を見ると報酬系が活発になる。西欧の個人主義では競争が自己実現のためのものであるのに対して、東アジアの集団主義では置いていかれないようにするためのものである。といっても文化的な差は遺伝子に由来するわけでもない。アメリカの韓国移民1世は典型的な集団主義者のパターンを取るが、韓国系2世になれば個人主義者のパターンを取るようになる。ただし例外もあり。ドーパミン受容体の遺伝子配列は反復数が選択を受けており、アジアと欧米で頻度に差がある。
前頭前野の認知能力は有限であり、複雑な課題を実行する場合は他のことに対する集中力が低下する。空腹時には余計なことが考えられなくなる。ストレス状況下も同様で、格差のことを考えるだけでも大きなストレスがかかる。ヒトはもともと序列性が強い社会的動物なのである。格差を目の当たりにすると、例えば飛行機トラブルでファーストクラスの乗客とエコノミークラスの乗客が接触するようなことがあると、乗客はストレスに晒されキャビンアテンダントに対する暴言・暴力が増える。ただし認知能力にも例外がある。習慣は前頭前野のコントロールを離れて自動化される。著者はここに帰結主義に対する徳倫理の復権を見出している。
もう一度結論を。複雑。ありとあらゆるものを説明できる端的な理論は存在しない。一方で、複雑だから還元主義的な科学の手に負えないわけではない。漸進的な進歩の可能性を手軽に感じられる一冊。

イツァーク・ギルボア『不確実性下の意思決定理論』

懐疑主義的な高校生だったころ、経済学という分野に対して抱いていた疑問がある。経済学が世界を説明できるなら不況が起こるのはおかしい。経済学の理論は現実的な前提を無視している。だから経済学は不要である。単なる知的怠慢の言い訳であったと思うが、入門経済学の本を読めばその疑念は強化される。限界需要が逓減すること、需給は貨幣を媒介として釣り合うこと、金利の低下は投資を増加させること。そのあたりが何故なのかについての説明は不十分であるように思う。
本書はそんな生意気なティーンにぴったりの本である。経済学の大前提を科学哲学*26まで引っ張り出して説明してくれる。本書の面白い部分から2点。
1.哲学は社会科学の一種である。
2.経済学は記述的なものではなく、むしろ規範の提言である。
というわけで、私は本書を哲学と経済学を和解させる本であると読んだ。あとは本書の多くを数式が占める。正直、私のなまくらな集合論の知識では理解が追いついていない部分も多い。しかし丁寧に数式を追えば、前後に書いてある曖昧な自然言語の文章が明快な論理性に落とし込まれていることが分かる。とにかく著者は数学を信頼している。形式論理で世界を記述しようとする営みが全部不十分なら、数学で表現するのが一番キレイじゃないかと、清々しい開き直りまで出てくる。
白状しておくと、最後まで読み切れていない。とりあえずは八章まで読んでの感想である。とはいえ、日常的な意思決定を数学的に基礎付けていくことの重要性が痛感できる。21世紀は理論経済学より実証経済学の時代に進んでいるという。なら理論経済学をゆっくり学んでも問題ないだろう。もう少し時間があるときにペンとノート、場合によっては集合論の教科書でも片手に読みたいと思う。

スチュアート・リッチー『Science Fictions』

再現性の危機を取り上げた本。危険な本である。著者の態度は誠実であると思うし、再現性の危機に関する分析と科学界への憂慮、問題克服に向けた方向性も概ね妥当に思われる。その上で、センシティブな問題であるとは思う。再現性の危機というのは立場によってかなり関わり方が難しいからだ。少し間違うと科学不信に繋がりかねない。再現性の危機によってまさに科学不信を招いているのは科学コミュニティ自身ではないか、という反論もあるだろうが、恐らく本書が企図しているように正当な科学の姿について考えながら現在の科学を考える人ばかりではない*27のだ。
本書の内容を軽く整理しておこう。再現性の危機に関わるアクターを三つに分けて考える。一つは研究者、一つはパトロン、一つは一般人。それぞれのアクターが異なった利害関係と関心を有しているので整理する。
研究者は再現性の危機を直接的に引き起こす。研究者は自身の研究分野に強い関心を持っていることがほとんどである。個人の経済的なインセンティブは副次的であることが多い。名声への欲求に関してはかなり個人差がある。好奇心のみを原動力とするタイプから、自身の名前を科学史に刻みたいタイプまで。後者は研究不正を行ってでも劇的な成果を出すインセンティブがあるのは分かる。しかし再現性の危機は科学界全般に広がっている。
科学は資金のかかる営みであるため、パトロンは常に*28重要である。現代のパトロンは大学に加えて政府機関や民間シンクタンク、企業と極小数の超富裕層、例えばビル・ゲイツなど、が*29ある。パトロンは(特にシンクタンクや製薬会社などは)特定の方向性を持った研究成果を求めるインセンティブがある。純粋な知的探求を後押しすることを企図しているパトロンにしたところで、良い成果を生み出す勝ち馬に賭けたがる*30だろう。かくして研究者とパトロンの間には典型的なプリンシパル・エージェント問題が生じる。パトロンはできるだけ少ない管理コストで大きな研究成果が出ることを期待する。研究者は分かりやすい研究成果、例えば引用件数が多いとか、トップジャーナルに掲載されたとか、を出してそれに応えるインセンティブが生まれる。こうしてキャッチーな研究が増えると、「普通の」研究者たちも自身の研究を誇大広告する赤の女王的な軍拡競争が発生する。
一般人の関心は多様であるが、パトロン寄りだと考えられる。キャッチーな研究を見るのは単純に面白い。科学者が無駄飯食らいになっているよりは、それらしい成果を出してくれていた方が良い。こうして研究者にはもう一つのインセンティブが生まれる。インフルエンサー*31になることだ。
結果的に、世の中には研究が溢れかえる。本書によれば科学文献全体の量は9年ごとに2倍になるペースで増加しているという。そんなにたくさんの優れた成果が出るわけではない。様々な方法で研究成果が偽装され、誇張されている。研究偽装の手法、HARKingやp-hackingといったものは最近よく聞くようになった。その上で著者が提案する対策はかなり抑制が効いて穏当なものだ。新しいツールで科学的成果を監視したり古典統計学の代わりにベイズ統計学を導入する、といったものではない。オープンサイエンスを進めること。資金配分を正常化すること。全体として科学を退屈で信頼できるものに変えること。
その方針については同意した上で、やはり再現性の危機という語が魅力的なのは余計な心配してしまう。科学というのが形式論理のような印象を与えかねないように思うからだ。一つの基礎的な研究の再現性が失われてしまえば全体の体系が崩壊するような印象を科学が持たれてしまうことは、開かれた科学にとってマイナスである。また、再現性が否定された科学的実験からは何の教訓も得られないような理解は、やや浅薄*32に感じる。
私が理解できる範囲で具体的な話をする。本書に以下の記述がある。

有名な「家畜化症候群」は、従順になるように選択的に交配させたキツネの耳が垂れ、顔が平らになるなど、家畜化した種の身体的特徴を持つようになったとされているが、これらはかなり誇張された説明で、「家畜化」の特徴のほとんどは選択的に交配させる前から存在していたことがわかっている。

『Science Fictions』P59-60

ベリャーエフのキツネ交配実験は家畜化研究の最重要古典とも呼ぶべき研究で、これが否定されたというのは大きな話である。この部分を読めば多くの人は家畜化されたキツネが原種の時点で家畜的形質を有していた、という印象を受けるだろうし、ともすればベリャーエフの家畜化過程全般がでっちあげ*33だと考えるかもしれないし、「家畜化症候群」をベースにした家畜化研究全体に対する否定だと捉えられるかもしれない。もとになった論文*34を読んでみたが、もう少し細かい話に見える。ベリャーエフが入手した「野生の」キツネはカナダのプリンスエドワード島産で、既に一定の家畜化過程を経ていた可能性があるほか、相関した形質とされる家畜化症候群も家畜で種横断的に見られるものではないとしている。結論としては、家畜化症候群として取り上げられている形質を家畜化の共通する特徴として重視するアプローチよりも包括的な環境-適応関係に焦点を当てるべきだということ。また、ベリャーエフが選択的育種を始めた時点を家畜化のスタートとするか、プリンスエドワード島で管理されていた段階から家畜化が始まっていたとするかのコンセンサスが曖昧であることから、家畜化の定義を厳密にすべきことを提案している。
個人的な感想。研究の要約は難しい。確かに再現性の危機に関係する話であり、家畜化症候群とされる形質セットの境界が曖昧であるという論文ではある。とはいえ、家畜化症候群を焦点化して進められた家畜化研究を全否定するような強い内容のものでもない。そもそも公開論文であっても、論文の主たる読み手は同業研究者が想定され、当該分野に関する広い文脈を把握していることが前提されている。その要約を「再現性の危機」という広いワードで括ってしまうと、分野外の人間にあらぬ誤解を招く可能性がある。
もう一つ。本文中ではスタンフォード監獄実験が科学的プロセスとして非常に不十分なものだったことが書いてある。研究主催者であるジンバルドー自身が積極的に介入しており、仮説検証ではなく結論ありきの研究だったということだ。しかし帯文の「スタンフォード監獄実験はイカサマだった!」はこの内容の適切な要約だろうか。科学研究としては(非常に)問題ありだった*35とは思うが、だからといって超能力実験と同等に扱われるものではないだろう。スタンフォード監獄実験の(正しい科学実験だとしての)一般的な表現、人間の本性を明らかにする実験であったこと、の側面が全くないわけでもないからだ。
スタンフォード監獄実験が実施されたのは1971年。囚人役は学生ボランティアが採用されているが、この時点でバイアスがある。学生ボランティア自身は囚人役をすることに対して積極的なインセンティブがあった。前段として、1963年にマーティン・ルーサー・キングが公民権運動で投獄されたときの文*36から一節を引用しよう。

良心が不正なものだと教えてくれる法に違反し、地域社会の良心がその不正に覚醒するように進んで拘留の刑罰を受ける者は、実際には、法に対して最も尊敬の念を表明している者だと私は考えます。

バーミングハム刑務所からの手紙

スタンフォード監獄実験に参加した学生は市民的不服従として逮捕・拘留される覚悟があった。ベトナム戦争反戦運動の真っただ中だったのだ。囚人役は実験後に「自分たちがいかに暴力に対して無力だったか」を思い出してトラウマを覚えることになる。ここに教訓を見出すこと*37はおかしくはなかろう。
あらためての感想。「再現性の危機」という言葉は劇薬だ。クーンを考えても分かるが、古いパラダイムには不合理で非論理的な旧弊にしがみつくロートルがいるかもしれないが、それなりの正当性を持って論じられている。文脈を無視した要約を一般人が目にすると研究コミュニティ内部での研究の重要性を過大に、あるいは過少に評価することにつながりうる。同様に、「現代科学は再現性の危機に晒されている」という主張は科学全般への不信につながるだろう。もう一度書いておくと、本書自体は抑制的な筆致で書かれているし、全体を読めば科学の正当性と健全な批判精神について理解を深めることができる。とはいえ、まさに全体的な文脈を無視して言葉が独り歩きするのではないか、という懸念がなくなるわけではない。やっぱり危険な本である。

閑話:知性主義と反知性主義の整理

リチャード・ホフスタッター『アメリカの反知性主義』

ここから先に「知性主義」や「反知性主義」の語がたくさん登場すると文章として混乱を招きそうなので原典に立ち返って論点を整理しておく。
反知性主義というのは、「知性主義」に反対するものである。「知性」に反対する主義、その側面もあるが、知性主義への反対というのが主だ。「知性」、先述したとおりユーモアと批判精神のこと、が「存在すること」を否定するアメリカ人はそうそういない。問題になるのは、「知性が権力と結びつくこと」である。それが知性主義だ。アメリカにおける「知性主義」とは何か。多面的は話ではある。二つの点から整理しておこう。
まずは学歴の面から。アメリカは移民の国だ。現代はともかく、建国当初前史に立ち返れば、多くの移民たちが学も無く、しかし誇り高く生き抜いてきた自負がある。これがアメリカにとって重要な「セルフメイドマンの哲学」である。『薔薇の名前』の話で書いたが、歴史的に見れば本は極めて高価である。本を読み、学問を身に着けることができるのは特権階級であった。彼らのデモクラティックな社会が嫌悪するのはヨーロッパの階級社会であり、何よりも遺産によって不正な権力を得ている貴族たちである。だからこそ、アメリカ人は「アメリカ精神にもとる実業家」を泥棒「男爵」と呼ぶのだ。「お前たちは貴族だ」というのは、アメリカ的には侮辱なのである。
泥棒男爵たち、ロックフェラーやカーネギーが大学に積極的な投資をしたのは現代的な視点から見れば良いことなのだろうが、当時のアメリカ人からすれば複雑な気持ちはあっただろう。アメリカ人が大好きなのはエジソンである。小学校すら中退した男が神話的英雄なのだ。高学歴者が権力中枢に入り込み、「普通の」アメリカ人たちが疎外されることに対する危機感。そういうことはヨーロッパでやってくれ、という思いもあったはずだ。だから「反知性主義とは高学歴者が権力を握ることに反発するものだ」というのは間違いではない。ここで知性主義とは、権力中枢が高学歴者に占められることである。トランプが学士でハリスが博士だ、とまとめても良い。
もう一つの定義を挙げよう。思想的な定義である。ホフスタッターはアメリカの反知性主義の中心に福音派を見出した。そして福音派が懸念する知性主義とは何か。キリスト教精神、キリスト教的道徳の否定である。それを実現する権力作用とは、教育である。エジソンが小学校を中退していることを思い出そう。エジソンは小学校の教育が合わず、ホームスクーリングによって偉大になった。教育というのは権力的なのだ。思想的な意味での知性主義とは何か。キリスト教精神とセルフメイドマンの哲学を否定するもの。知性主義とは「人文主義と科学に基づいた教育」なのである。
キリスト教精神という語があるから混乱するが、この文脈であっても知性主義というのはカトリック的なものである。ホフスタッターもアメリカでカトリック的な知が根付かなかったと指摘している。現在の教皇庁はともかく、1300年に福音派が出現していたら間違いなく異端として審問されていただろう。西欧における知性主義の祖型としてカトリックを置くことは、アメリカの反知性主義を知るためにも有効である。
カトリックから人文主義と科学が引き継いだ知性主義の性質は何だろうか。テキストベースの記述というのはまず挙げられる。数式を含め、現代の知性主義はエクリチュールがパロールよりも圧倒的にオーセンティックなものであると認められている。科学者が同僚との会話で重要な着想を得たり、批判的な議論を経て理論の精度を高めるようなことは日常的にあるだろうが、論文という形で発表されない限り、成果としては認知されない。
階層的な知という側面も、人文主義と科学がカトリックから引き継いだ大きな特徴である。こういうと自由でフラットで平等主義的な学問を自負するアカデミアから反発を受けるかもしれないが、現在の学問体系というはかなり教条主義的なのだ。『薔薇の名前』で修道僧たちはかなり大胆な議論を行っている。異端的な説を提唱することさえ許容される。しかしそれはあくまで修道僧のコミュニティ内部に留まる限りである。外部で発生した異端的な説は、そのまま異端として処断される。学説に対して異を唱えられるのは、実際にはかなり限られた人たちである。誤解を招きそうな表現なので、あとで進化論と絡めて補足をする。
しかし何より重要なのは、「世界には大きな法則がある」という前提に沿って知が体系化されていくことである。人文主義にしても、普遍的かつ論理的な知的体系を企図している。ある集団にだけ適用される特別なルールがあるべき、とは考えない。結果的に帝国主義的な侵略をともなった啓蒙主義にしたところで、建前としては普遍的な知を理解していない未開人を普遍的な知に目覚めさせることが目的だったはずだ。この包括的で統合的な知的体系というのは絶対的な神の存在をけして疑わないカトリックという揺り籠から生じたのではないか。文脈を超えた絶対的な法則への信頼というのは、人類史的に見て特異なことである。人類の脳は即時に文脈を判断して状況に即した行動をとるように進化してきた。論理的・批判的思考能力はあっても、それはあくまで状況ごとに適応されるものである。レヴィ=ストロースの言い方を借りるなら、野生の思考、WEIRDではない人類の一般的な思考様式はブリコラージュである。ブリコラージュをパッチワークと言い換えて比喩的に話をすると、論理という布柄はあくまで一枚の端切れの上に存在するのであって、パッチワーク全体を統合する一貫的な布柄というものは存在しない。
たとえば地球平面論者がいかに大量の「証拠」を集めてきたとしても、それが科学への挑戦になることはありえない。科学、ひいては現代の知性主義は、個別の事例に対する反論だけをもって揺らぐ種類のものではないからだ。過去の議論は全体として精緻に体系化され、他の知的領域と論理的に一貫している。もちろん、個別の領域において矛盾する証拠が全体の体系を揺るがすこともあるだろうが、大抵の場合は周辺的な話として整理される。だからクーンはポパーの反証可能性を超えた概念であるパラダイムを持ち出さざるを得なかったのだろう。「科学」においては批判が日常茶飯事であるにもかかわらず、「科学史」においては大きな転換点が極めて少ないという矛盾に対する回答として。
このようにして、現在の科学は再び中世カトリックの様相を呈している。『Science Fictions』では分野における全ての先端的知識を有していたのはダーウィンが最後だと述べている。過去の積み重ねをもとにした科学的議論は概観はともかく全容を把握できないほどに巨大化してしまっている。進化論一つとっても、ダーウィンの時代と比べて驚くほどに複雑化しているのだ。反進化論者、例えば福音派が進化と矛盾する証拠の山を持ってきたとしても、それぞれの証拠には異なった観点、ひいては異なった専門領域の異なった研究者からの反論が必要になる。時には特定の専門領域で通説となっている理論に対する反証が反進化論者から提供することはあり得る。しかしその反証がどのような形で理論と接続され、どのような形で理論を修正するのかは証拠を持ってきた反進化論者ではなく、専門領域の研究者によってしか理解できないのだ。そして全体パラダイムとしての進化論が揺らぐことはない。ポピュラーサイエンスの世界においてエピジェネティクスがラマルク説の再来でダーウィン的な進化論を覆すものだと説明されたとしても、現代的統合におけるネオダーウィニズム、遺伝子中心の進化観はマイナーな修正を受けるのみなのである。
さて、反知性主義の話をまとめよう。ホフスタッターはアメリカにおける反知性主義を詳述したが、他方で反知性主義は他の地域でも見られると述べている。イギリスにも反知性主義はあると。ホフスタッターはアメリカの歴史主義者だから、アメリカの反知性主義を研究したということだ。ここまでの話をざっとまとめるなら、反知性主義の根本にあるのはカトリックとそれ以外の対立である。正確を期すなら、カトリック「的」な、普遍的法則を前提に体系化され批判的に精緻化されていく知性を正しい知の在り方であるとする権力作用に対する、場当たり的で実用的でその場しのぎな野生の思考の反発である。知性主義の極北にはハードサイエンスがあり、対してホモ・サピエンスの日常は未だに古めかしい脳が支配している。
さて、閑話休題して次は日本における反知性主義を見ていこう。カトリックと比していささか不徹底な知性主義である科挙と、科挙を持たない島国の話である。

日本の反知性主義

渡辺浩『明治革命・性・文明』

好著である。日本史における黄金時代の一つである明治維新について、平明かつ多角的な視点で語っている。あまりに面白いので明治維新を話の枕にした三文記事を読めなくなるという問題*38があるかもしれないくらいだ。章ごとの独立性が高いので、気になった章を取り上げて感想を書いていく。

〇「明治維新」論と福沢諭吉
明治維新は革命だった。社会構造の変化としてはフランス革命と変わらない大きな変化が起こった。何ならば幕政復帰が起こらなかったという点で、帝政と共和制を繰り返してきたフランス以上に徹底した革命であったかもしれない。しかし革命の主体は武士と公家に限られていた。それ以外の身分階級はほとんど革命に関わらなかった。だから西洋社会の市民革命を範として捉えたとき、明治維新は革命には感じられない。この革命がどのようなものだったのかを検討するのが本章である。
まずは一般的な理解から。明治維新は何より尊王攘夷運動であった、というもの。建前としてはそうである。しかし日本には本音と建前がある。源流から追っていこう。水戸学の中で「尊王攘夷」という語が出てきた文章はどのようなものかというと、次のとおりである。

我が東照宮、乱をおさめ正にかえし、王を尊び夷をはらひ、まことに文、まことに武、以て太平の基を開けり

『明治革命・性・文明』P9『弘道館記』

東照宮徳川家康こそが「王を尊び夷をはらう」、尊王攘夷の範なのである。私のような素人はいささか面くらうが、よく考えると水戸藩は水戸徳川家であって、そこで生まれた水戸学が反徳川であるはずもない。元来の文脈において、尊王攘夷というのは徳川幕府を否定する思想ではない。
通俗的な歴史理解としては、徳川幕府は黒船の暴威に容易に屈し、征夷大将軍である徳川家定と家茂は病弱で「征夷」の大任を果たすことができず、天皇親政の政府が生まれたというのが普通である。とはいえ、この説明では明治新政府が海外との通商を積極的に推し進めたことと矛盾する。結局、明治政府も1904年の日露戦争までは夷狄をはらうことはなかったわけで、お抱え外国人を招聘して日本語廃止論*39まで飛び出させたのだ。ついでに、日本を植民地化しようとするような列強諸国の動きも結果的に見れば起こらなかった*40。よって著者は通説を明治政府の建前だと退け、もう少し「本音」に向けて考えを進める。
明治維新は権力闘争だったのだ、というのがリアリスト的な見解である。徳川本家に対して、尊王攘夷を建前として三つの勢力、徳川御三家・外様大大名・禁裏と公家がそれぞれ勢力拡大を狙った。どの勢力も徳川幕府を打倒する意図はなかったが、他勢力とのパワーバランスもあり、結果的に明治維新が起きてしまった、という見方である。紀州徳川家・水戸徳川家はそれぞれに将軍を擁立することで台頭を図り、薩摩島津家は徳川家と島津家が対等となる、薩長土肥に徳川家を加えた五大老制の確立を目指していた。天皇と公家にしても、天皇親政というより徳川幕府を温存したまま京都の権力が拡大することを企図していた。これはこれで説得力がある考えである。
とはいえ、明治維新で勢力を伸ばしたのは結果的に見れば徳川親藩でも外様大名でも公家でもない。下級武士たちである。そこで著者は真打となる説を提示する。明治維新は下級武士が自由を求めた革命だった。それは武士と少数の公家だけを社会と見た幕藩体制の市民社会における、まぎれもない市民革命であった、という説である。
下級武士の生活は苦しかった。建前からすれば支配者階級の一端であっても、実際は町人から家内手工業を請け負っていた。当然、モテない*41。下級武士の目線からすれば、町人や農民には自由があった。彼らは身分秩序の中とはいえ、出世の余地があったのである。対して武士は家柄に縛られていた。福沢諭吉が「門閥制度は親の仇」とまで言ったのには実感が込められていたわけである。武士が出世する伝統的な方法は武功を挙げることである。だから攘夷、そして戦争が必要であった*42。幸いなことにこの不満は尊王攘夷の建前のもと昇華され、王政復古による幕藩体制の崩壊*43を目指すことになる。とはいえ、戦争を必要とする武士の不満から始まった明治新政府が長期的には帝国を目指すことになったのも無理からぬことかもしれない。

〇アレクシ・ド・トクヴィルと三つの革命
西欧の知性主義は祖型としてカトリックを有していることをさんざんに書いてきた。東アジアにはそれに対応する知性主義があった。科挙*44である。
トクヴィルは読んだことがないので本書の主張を無批判に受け入れるが、トクヴィルはデモクラシーdémocratie国家の典型例として明/清朝の中国を挙げている。皇帝を除いて、全人民が形式的に平等に国家運営に参画することができる制度を有していたからである。その制度こそが、科挙である。その政治的意義は日本と比較すれば分かりやすい。武士の家督秩序が定着していた徳川幕藩体制は、下級武士が地位の流動性を確保するために革命を必要とした。対して中国には科挙があった。そのため、清朝は革命を必要としなかった。辛亥革命が起きたのは科挙制度が廃止された直後である。欧米列強の来訪という未曽有の危機は日本よりむしろ中国において暴力的な様相を呈していたにも拘わらず、清朝はアヘン戦争以後も七十年の命脈を繋いだ。対して日本はペリー来航から大政奉還までわずかに十年である。中国では政治的な不満を抱いた人民がそれを直接に解決できる経路が、少なくとも形式的には担保されていたからだという理解である。この科挙がどのような点において知性主義であったか、日本と朝鮮の関係を見ていく。

〇「華夷」と「武威」
現代に続く日韓のわだかまりというのは、むろん日本の植民地支配に由来するわけだが、もとを正せば豊臣秀吉の朝鮮出兵が原因である。豊臣秀吉は江戸時代に市井で英雄視*45され、大政奉還後の征韓論につながっていく。とはいえ、徳川幕府と朝鮮王朝は友好関係にあった。表面上は。
李氏朝鮮は科挙制度を有する「小中華」*46の国である。ので、東アジア三国の中では日本だけが科挙制度を有していた歴史がない。そのあたりが「日本の反知性主義」に独特の色彩を与えていると考えられる。
ひとまず本書の記述を整理する。朝鮮通信使を介した日朝交流は、儒教道徳に基づくようなものではなく、侵略国家である日本への敵情視察と緊張緩和の面が色濃いパワーポリティクスであった。論点がまとまっている箇所を引用しておこう。

正当性の無い戦争ではあったものの、ともかく日本の「武威」を海外に示したとして、誇る気分があったのである。道徳的には不正でも、ともかく強かったことが誇らしいのである(それは、武力では一時圧倒されたが、道徳的には自分たちが一貫して優れているという朝鮮側の自負と、裏返しの関係にある)。しかも、徳川政権自体は(中略)自分たちが滅ぼした豊臣政権による侵略に何の罪責感もなかった。朝鮮側も、徳川政権に向かって、同じ「日本国」の政権ではないか、と責任を問うことはなかった

『明治革命・性・文明』P141

徳川幕府は「武威」の政権である。儒学を採用したものの「日本的華夷意識」のようなものが生じたわけではなく、あくまで武力が権力の根拠となっている。それは第一義的には対内的なものである。諸大名と禁裏を統制するために、徳川幕府は武威が必要であった。朝鮮通信使に対して鷹揚に振る舞い、時に武力行使をちらつかせること*47は国内に対して権威を誇示するためのディスプレイだった。
対する朝鮮国は普遍的な「道」とその具体化である「礼」の護持者であることが権力の根拠となっていた。科挙によって選抜された道徳と教養の選良の組織なのである。カトリックと対比して、科挙がどのような知性主義であったかを整理する。
科挙はテキストの試験である。カトリックにおける聖書に四書五経を中心とした中国の古典が対置される。神意に対応するのが道である。そして科挙は四書五経を暗記するのではなく、四書五経の正しい解釈*48を記述させる試験であって、書物のヒエラルキーと中心的なテキストに沿って世界の法則を解釈するという方向性を有していた。一定の法則性のもとに世界を言語化していく能力が、中華文明を形作っていった。
「礼」についても軽く触れておこう。法則である道は言語的に探求され、実践として礼が徹底される。ノルベルト・エリアスが言うように、儀礼的な礼儀作法は文明化の過程において極めて重要であり、礼儀作法の面については東アジアは西欧社会よりも数世紀進んでいた可能性が高い。
そんな文明人である朝鮮通信使は日本の人々をどう見たのだろうか。端的に「野蛮」だと感じたようだ。一般庶民が無作法なだけでなく、支配者層の武士ですら、儒教の礼儀作法が甚だ不徹底であることに呆れ返った。そして何より、為政者たちが科挙ではなく世襲で選ばれることを未開国の証左だと感じたようである。通信使たちは徳川泰平を経ても文明化されない「東夷」たちを見ながら、次の侵略戦争を起こさせないために「羈縻」を模索し続けた。
逆に日本人は朝鮮通信使をどう見たのか。一般の目には奇矯に映ったようである。礼を重んじる割に紙を使って鼻をかまない。銘々膳を無視して隣の料理に手を出す。日本で当然の「常識」を知らない。他方で儒学的素養のある日本人からしてみれば文明国の象徴であり、逆に日本の習俗がいかに未開で恥に満ちたものであるかを感じさせたようだ。しかし日本の儒学者は日本の習俗を「正しい」形に改めることは出来なかった。世襲の日本においては科挙の知性よりも武家の常識が優先されたためである。
最終的に、朝鮮と日本の儒者は天皇に関して別の解釈に至る。朝鮮では天皇と将軍が並び立つ日本を名実不一致で儒教道徳に欠けると考えていた。王政復古で天皇親政が始まったとき、朝鮮は日本が文治主義の文明国への歩みを始めたから、もう警戒する必要はないものだと考えた。
対する日本は将軍と朝鮮国王が形式的に同等である以上、天皇は朝鮮国王より格上であると考えた。そして武威の優越という武家の論理は明治新政府に引き継がれ、征韓論が優勢になり、やがて朝鮮を併呑していく。暴力を善悪の彼岸として仁より上位に置く常識は、ともすれば大日本帝国がアメリカの軍事力のもとに破壊されたことを経ても温存されたかもしれない。

〇「夫婦有別」と「夫婦相和シ」
教育勅語はややもすれば奇妙な文章である。国学風の皇国史観が披瀝されたかと思えば明らかに儒学的な徳目が列挙される。そして一番奇妙な徳目が「夫婦相和シ」なのである。
何が奇妙かというと、教育勅語は明らかに儒教道徳に沿って書かれている。儒教の基本的な道徳概念は五常と五倫である。そして五倫には「夫婦有別」とある。夫婦は仲良くしましょう、とは書いていないし、どちらかと言うと反対のことが書いてある。
夫婦に別有り、というのは文字通りの意味で、夫婦は物理的に別けて過ごしましょう、ということを含む。中国は纏足の国なのだ。「女は家、男は外」というのが文字通りの意味で存在するのである。
江戸時代の儒学者たちも悩んだようだ。「夫婦有別」とだけ書いてあるなら抽象的な性別役割分担を示したものかもしれないが、『礼記』にはより具体的に浴室を共用してはいけない、寝床も共用してはいけない、物の貸借をしてはいけない、と書いてある。夫婦が物理的に分かたれていることが礼であり、禽獣と文明人を分ける分水嶺なのである。とはいえ、これはいかにも日本の常識に反する。
誰もが知っての通り、江戸時代の日本人は混浴を習俗としていた。浴室を共用する文化である。夫婦は同衾するのが当たり前である。そして農作業にせよ商いにせよ、夫婦は協力して生業に当たるものだった。「夫婦有別」では成り立たない経済構造でもあったのだ。こうなると日本の儒学者をもってしても儒教より常識を優先せざるを得ない。儒教道徳は概ね正しいが、夫婦は相和すのがよろしい。何度も書く通り、日本には科挙がない。四書五経の正統解釈に拘るインセンティブが低いのである。これを柔軟で批判的な思考があったと見るか、行き当たりばったりのブリコラージュ思考だったと見るかは微妙なところだ。
そういうわけで、教育勅語は非常に日本的なテキストになった。日本独自の皇国を作るという宣言をしながら、臣民は儒教的な道徳に従うべきだとする大陸の知性に阿りつつ、世間の常識には逆らわない。そこには首尾一貫した法則がなく、だからこそ日本の道徳は徳目主義を取らざるを得なかった。しかしながら、人類史を眺めればテキストベースで普遍的な法則を見出そうとする知性主義の方が異常であって、直感的な常識が支配する反知性主義の方が普通*48なのである。

〇思想問題としての「開国」
梅棹忠夫は『文明の生態史観』で鎖国を否定している。鎖国をしていなければ日本はもっと早く海外進出をしていたのではないかと書いている。それが良いことなのかはともかく、本能寺の変がなければ織田信長が大陸ではなく南洋に目を向けていた可能性もあるいはあったかもしれない。高山右近が国外追放を受けるのではなく、マニラの大名として栄転するような歴史というのも、想像することはできないでもない。
現代的に鎖国はよろしいこととはされていない。しかしながら、日本開国時には賛否両論があったようである。日本国内だけでなく、世界的にも。
日本を訪れたイギリス人、ローレンス・オリファントは以下のように幕末日本のことを表現している。

個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているようにみえることは、驚くべき事実である。ところがアメリカでは、まさに正反対の結果が生じている。共同体が個人のための犠牲にされているのに、各個人が権利を求めてたえず騒々しくわめき立てている

『明治革命・性・文明』P90『エルギン卿遣日使節録』

実際に庶民が幸福で満足だったかはとにかくとして*50、当時の外国人から見ても日本はそのように映った。そしてこの国を開国させる、即ち普遍の万国法を受け入れさせ、啓蒙して文明化させることが正当なのかについて、いささかの悩みが生じたようである。
結果的に日本は開国している。開国の当事者であるペリーは西部開拓の国からやってきた。「西の果て」を文明化することに対するマニフェスト・ディスティニーの感覚もあったことだろう。次のように彼は記している。

これらの国々[西洋諸国]は、自分たちとの通交によって日本の利益が促進されることを、日本に示すべきである。そうして偏見が徐々に消えるにつれて、制限のより少ない通商条約の締結交渉がなされていくことを期待してよいであろう。それは、我々のみでなく、ヨーロッパの全通商国の利益であり、日本の前進のためであり、さらには我々の共通の人間性の向上進歩のためである。

『明治革命・性・文明』P86

ペリーは単に開国を要求する国書を持ってきた*51わけではない。西欧の知的体系を持ってきたのである。私たちは協力しコミュニケーションをとることで大きな成功を成し遂げられるという、現代においても支配的なアイデアを持ち込んできたのである。これに対する混乱が、あるいは日本が戦争を連発する原因になったのだと「江戸時代の日本人」は考えている。ペリーに対する直接の返答ではないが、捉えられて函館に抑留されていたロシア人、ゴローニンの回想にある日本人の質問を記しておこう。

仮に日本と中国が、ヨーロッパの諸国と国交を結んでヨーロッパの制度にならうと、人間同士の間の戦争はますます頻繁になり、よけいに人間の血が流れることになるのではないですか

『明治革命・性・文明』P81

当時の東アジアは歴史的に見てかなり安定していた。日本は鎖国し、李氏朝鮮は豊臣秀吉による朝鮮侵略を経ても統一を維持し、清朝は(結果的に見れば)女真族という外患を内部に置き、台湾は鄭成功による独立運動を鎮圧され、モンゴルとチベットは清朝の一部になった。内部には貧困と反発が蓄積していたかもしれないが、国際関係としては安定していた。これが自由の制限を伴い、貿易を制限し、政府間の接触を限定することで実現した。これは相互依存を深化させることで平和を確立する*52というのと反対の、相互接触の限定によって紛争の発生を抑える仕組みだった。対するヨーロッパは戦争に倦んでいた。大きなものに限るにしても、フランス革命で自由・博愛・平等を獲得したフランスから始まったナポレオン戦争を経験している。外国掛老中である堀田正睦は「万国之形勢」を「漢土春秋列国の時、本邦足利氏の末年に似たる有様の大なるもの」と見ている。蒸気力を備えた戦国時代なのである。そこに国交を結ぶということ、アジア的安寧を捨て去るということは、即ち戦国乱世に参加することであった。そして前述のとおり、日本には武威の国であるという誇りがあった。
当時の日本人もアジア的な安寧を失うことへの危惧があった。自由な通交により「強大繁華」を目指すことと、ひそやかで質素な安寧を目指すことのどちらが良いのか。最終的に日本は武威に屈する形で開国を選ぶ。しかしながら、「道理」に従った開国ではなかったという感覚は残ったであろうし、アジア的安寧に対する郷愁が残ったことは疑うべくもない。グローバル化の弊害が叫ばれる昨今、これはおそらく様々な形で世界的課題となっているが、その形態は各地の歴史的経緯を反映して多様なものであろう。
最後にペリーの遠征記録からもう一つ引用する。

米国の力強い握手が、日本の孤立を揺るがし、外の世界との関係を感得せしめた。日本はその利己的な排外の規則をみずから破り、交誼の普遍の法に従ったのである

『明治革命・性・文明』PP86-87

東アジア文化圏が集団主義的であることは多くの研究が示している。他方で実感として、東アジアには個人主義が存している。しかしその現れ方はアメリカと対照的である。アメリカの個人主義は「各個人が権利を求めてたえず騒々しくわめき立てている」のに対して、東アジアの個人主義は「他者との関係を途絶し、自らの安寧に閉じようとする」のだ。そして他者との関係を閉ざすことはアメリカからすれば「利己的な排外の規則」なのである。

片岡栄美『趣味の社会学』

「妃の位も何にかはせむ」*53という一言に、日本の女性が平安時代から置かれてきた状況が表されている。結婚による階級上昇と文学少女。一見無関係なこの二つは、もしかすると重要なテーマかもしれない。
九鬼周造が『いきの構造』でいきなり遊女の話をし始めると現代の読者としてはいささか面食らうものがある。九鬼が祇園から講義に出ていた話は有名だが、文化論がプライベートに毒されていないかと。しかしながら、日本の文化を支えてきたのは女性なのである。
『鬼滅の刃』が吉原編に入ったところで遊郭の解説記事がネットに溢れた記憶がある。当然、遊郭を批判的に検証するようなものが多かった。遊女が教養深かったことも書かれていた*54。当時の男性は教養深かったから、それと同等の文化レベルの女性が求められた、という理由が示されていた。そこからもう少し論を展開したい。
九鬼によれば、「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初にも物の直段を知らず、泣言を言はず、まことに公家大名の息女の如し」とは江戸の太夫の讃美であった。金銀、つまり経済的なものから切り離されているのは女性の美徳である。そして「公家大名の息女の如し」であることは女性の美徳である。ではなぜ、公家大名の息女は教養深かったのか。というか、なぜ公家と大名が並んでくるのか。もう少し複雑な構造*55がある。
日本の公家は貧しかったが、とにかく家格と教養においては他の追随を許さない人々であった。世間的にもそういう了解があった。全国の大名家は家格を保つため、大名家だけでなく公家との婚姻を進めることにした。当然ながら、大名家の家督を継ぐのは男子であるから嫁を取ることになる。公家の息女を通じた婚姻ネットワークが出来上がっていった。東男に京女という言葉は、そういう文化的背景がある。
こうして公家の息女たちは京の教養文化を全国に輸出した。京の息女の頂点である和宮が降嫁の条件として大奥においても御所の暮らしを守ることを誓約されたのは有名な話である。公家の娘たちは京文化が日本文化の頂点であることを譲らなかった。そもそも武家の女性は野暮で美的憧れの対象ではなく、公家の息女の方が美的な対象である、という常識もあった。こうして文化教養のトリクルダウンが起きた。直接に公家の奥方と接することはないにせよ、女性の教養には百人一首や源氏物語が組み込まれた。
無論、武家が公家に対して実体として優位であることは疑いない。また家父長制もある。男性が女性に対して基本的に優位であることは日本においても前提されている。だからこそ、女の文化においては公家の文化が頂点となることが許された。そして花魁が「最高の女性」を演じるためには、当然のことながら深い文化的教養が必要となった*56。しかし女の知は、そもそもが公家の知と結びついていたこともあって、武家の実践的な知とは切り離されていたのである。
さて、歴史の話はここらで置くとして『趣味の社会学』に戻ろう。ブルデューの文化資本論を中心に話が展開するので、議論を簡単に整理しておく。
「趣味は階級を刻印する」というのがブルデューの言である。ブルデューがまず分析したフランス社会においては社会階級が厳として存在する。高学歴のエリートたちが高所得を得て、その子もまた高学歴のエリートになる。この階層再生産において、経済資本や社会資本に加えて、文化資本が重要な役割を果たす、というのが文化資本論の骨子になる。この社会は機会均等な法制度によって支えられているように見えても、実際のところは親とその階級に付随する文化が再生産され、階級を温存している。
当座、現代社会はメリトクラティックにできている、と考えらえている。能力と才能があれば成功できる。しかし、ブルデューによれば「能力や才能それ自身が、時間と文化資本の投資の産物」である。そして階級を規定するのは単に経済的な財の豊かさだけでなく、振る舞いによるものもある。いわゆる「品の良さ」「趣味の良さ」のようなものが、階級と分かちがたく結びついているのである。
ここまでの論が日本では受け入れられてこなかった。そもそも日本に階級はない、というのが一般的な了解であるからだ。入試を中心としたメリトクラティックな試験は文化資本の影響を受けていない。確かに日本においても格差の拡大がさかんに言われているが、その場合にまず問題になるのは私立学校に通わせることや中学受験で塾に通わせることといった形で教育を媒体にした経済階級の再生産であって、文化が入り込む余地はなさそうに思える。
少なくとも、華族制度を廃した戦後日本においては、経済階級や社会階級があっても文化階級のようなものはないのではないか、という前提となる理解がある。
結論を先に。日本において、男性の文化階級あるいは階級文化は弱い。存在しないと言っても良い。しかし女性には階級文化がある。この状況をいかに説明するか。
まずどのようにして階級文化が成立するのか。特定の階級において特定の文化が好まれる、というだけでは不十分である。特定の階級が他の階級の文化を好まないこと、が必要になる。全ての階級がサッカーを好んでいて、労働者階級が特にサッカーに詳しい、という状況で「サッカーは労働者階級の文化である」と述べるのは不適切だろう。労働者階級はサッカーが好きだが、中産階級はゴルフを好み、上流階級は乗馬をする、そして各階級が他の階級の文化を好まない、という状況になって*57初めて、階級文化が生まれる。この自分の階級の文化を好む特性を、文化的ユニボアと呼ぶ。
実は日本以外にも階級文化が弱い国がある。アメリカである。アメリカにも経済格差はあるし、その再生産はあるが、少なくとも階級的に文化が分かれているわけではない。ここにはアメリカの全体的な文化がある。アメリカではお高く止まることが良しとされない。ビジネスで成功するのは素晴らしいことだが、貴族的な雰囲気を嫌う。アメリカの成功者はもちろん超高額な現代アートを所有したがるが、ハリウッド映画を鑑賞し、アメフトやバスケを楽しめないのであれば同じ経済階級の中にあっても尊敬されないのである。こうして階級横断的に文化を吸収することを文化的オムニボアと呼ぶ。
日本の男性は文化的オムニボア志向が強く、女性には文化的ユニボア志向が見られる。かといって、日本に階級文化らしきものがないわけではない。全ての文化が同格である、と考えているわけではなく、例えばクラシックはJ-POPよりは上であるとか、娯楽としては舞台鑑賞の方がパチンコより格が高いといった、文化の序列はある。高級なハイカルチャーとそれより劣る大衆文化の区別はある。ただ、特に男性においては階級と実際には結びついていないのだ。
本書は研究結果から言える以上の強い結論を導いてはいない。ただし、次のことは示唆されている。男性においては、ハイカルチャー志向を保持することは経済階級の維持あるいは上昇に対して「不利に働く」のではないか。集団主義的な同調圧力が強いため、文化的オムニボア戦略をとっていく傾向があるということだ。他方で女性は文化資本を身に着けることで婚姻を通じて経済階級の上昇を見込むことが出来る。そのため、文化的洗練を好む傾向が母から娘へ伝播されていったと考えることができる。
ここからは私見となる。戦後日本では平等性が強調されてきた。男性社会においては単線的な偏差値序列を主たる差異の源泉とし、その後は出世によって序列化されるサラリーマン社会が想像された。逆に言えばそれ以外の差異は小さくなることが良しとされた。実態はどうあれ、メディアから発信される日本人男性像はそのような前提があったのではないかと妄想する。
だから少なくとも文化においては、階級を無化しなくてはならないという規範が、男性には強く内面化されたのではないか。その結果が文化的オムニボア*58である。ダークサイドとして出る杭は打たれるという側面はあるかもしれないが、必ずしも悪い面ばかりではなかったはずだ。かなりの程度ボトムアップの効果はあったと思われる。日本の男性は経済階級にかかわらず、いささかトリビアルであっても教養を備えている。クイズ番組と金曜ロードショーをみんなが見ている社会というのはそういうものであろう。男性にとっての文化とは、第一義的には団結のための手段なのである。
一方で、本音の部分では階級がすっかり不要とはならない。悪い面ばかりが強調されるが、階級には良い面もある。社会的分業として余暇と潤沢な資産を文化的洗練に費やしてくれる上流階級*59がいることで、少なくともその社会における文化の絶対的な高さは向上するのである。非実用的な知的教養を持つことを女性の美徳とする伝統から、いささか奇妙な妥協点として、文化的な活動については女性のシャドウワークに含まれたのではないかと思う。それは(しばしば母子一体と評される)家庭内教育を通じて垂直伝播するものでもあった。他方で経済的な階級上昇の手段が婚姻に限られた女性にとって、文化は重要な自己実現*60の領域であった。そのため女性には手段としてではなく目的それ自体として文化を扱うハビトゥスがあるのではないかと想像する。
妄想のまとめ。戦後日本は平等主義化が大きな規範であった。これは国民の団結を理想とする右派と階級の平等を目標とする左派、そして集団主義文化に根差した世論の奇妙な共闘だったかもしれない。サラリーマン社会が前提とされて男女の分業は強まり、専業主婦が一般的になる中で、階級文化は女性のシャドウワークに組み込まれていった。ともすればハイカルチャーの軽視は文化を女性的だと見做したマッチョイズム*61によるものもあるのではなかろうか。だからこそ日本におけるジェンダー平等は、家事と育児を男性が分担することだけでなく、文化の担い手としての男性の在り方を考える必要もあるのである。

アメリカの知性主義

ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話』

ホフスタッターが『アメリカの反知性主義』を記した1963年は今から考えればかなり歴史的な転換点だった。前年にキューバ危機が発生し、同年にはケネディ大統領が暗殺される。そしてアメリカはベトナム戦争の泥濘に引きずり込まれいく。ケネディを継いだリンドン・ジョンソン大統領はアメリカ南部での民主党支持を失い、南北逆転の結果として現在のブルー・レッドステートが形成される。そしてヒッピー文化が花開く。サマー・オブ・ラブは1967年のことである。
1970年に早逝したホフスタッターがアメリカのダイナミズムの中でどのように位置づけたかは分からないが、福音派を中心とした「右側」の反知性主義に対する「左側」の反知性主義こそがカウンターカルチャーである。カウンターカルチャーは主流社会に反対する。その主流社会というのは何か。一言で表すのは難しい。カウンターカルチャーの論者によって、場合によっては同じ論者でもその特徴が変わるからだ。しかし一般的な特徴からすれば、主流社会とは資本主義*62のことである。
ケネディとジョンソンの対ベトナム戦争チーム、ベスト・アンド・ブライテストはあまりに出来すぎであった。最年少のハーバード教養学部長にロックフェラー財団理事長、極めつけは科学的管理法で名を馳せたフォードの社長までいたのである。ホフスタッターがアメリカの反知性主義について述べたその時、アメリカで最も知性主義的なチームが政権中枢にいた。そういう意味で、ケネディがアメリカをもっとも一つにできた大統領であった、という評価はあながち間違いではない。スプートニクショックによる後押しがあったにせよ、根深い反知性主義を越えて科学と知性を政治に持ち込むことに成功したのだから。そのために、ベトナム戦争の泥沼化は知性主義に疑問を抱かせるに十分なものになりえた。
カウンターカルチャーを反知性主義の一種に分類するかはやや疑問があるところである。カウンターカルチャーの主たる担い手には高学歴者が多数含まれていたし、その理論的根拠は名だたるインテリが含まれている。ヒースの議論はあとにまとめるとして、まずは私なりにカウンターカルチャーの時代を取り巻く部分を飲み込んでいこうと思う。
日本の戦後アカデミズムに影響力を持った知的ビッグネームを思い出そうとしたときに、フランス人が多いことには驚かされる。サルトル、デリダ、ドゥルーズ、ブルデュー、レヴィ=ストロース、ラカン、バタイユ、アルチュセール、ガタリ、ラトゥール、ボードリヤール、フーコー。素人でもそれなりに名前が出てくるくらいには、フランスの影響が大きかったことがうかがえる。同じ敗戦国として、戦争を引き起こした原因に対する反省を共有するドイツを参考にするのは論理的に分かりやすいが、どうして極東の地でこれほどにフランスが勢いを持ったのだろうか。
私が思うに、フランスの知識人たちは資本主義のオルタナティブを模索していた。一つの筋道は、資本主義に対する共産主義の道を辿ることである。冷戦期にはソ連という実践事例があったが、のちに中国がそのあとを追ったように共産主義というのは無数の実現経路が考えられた。よって、ありうべき共産主義の形を構想することは意義があったはずだ。それ以外の道は、単に資本主義の否定という形がとられた。これらの多くは理想社会の姿を示すことはなかった*63。
そもそも資本主義の何が問題なのか。マルクス主義に明るくないので印象論になるが、まず単に資本は労働者を搾取する。さらに労働者を管理する。労働者は分業化された一部の業務にのみ携わることになり、全体から疎外される。こんなところだろうか。あまり良いことではなさそうである。
もう一つ、フランスの知識人は科学に対して否定的*64である。皮相な見方としては、これを権力闘争ととることもできる。まさにその「一見科学的な物言い」こそがソーカル事件においてポストモダン哲学者たちが否定された理由である。分析手法と論理体系の深化によって、20世紀から進歩が加速した科学的方法論は人文学の研究分野とされていた領域に踏み込むことができるようになった。科学が権威を得る中で、従来までは典型的な知の営みとされていた哲学の権威に陰りが出てくる。そんな中で科学に対して否定的な態度をとる人文系知識人がいても不思議ではない。別の見方として、急速に発達する科学が提供する成果が不十分であったことに対する不満というのもあるだろう。スキナーの行動主義やフォードの科学的管理法が現代的視点から言って満足のいくものかというと疑問である。そんな中で、科学万能主義に走らないように戒める必要があったというのも理解できる。
しかし、本書の著者であるヒースによればもっとも大きな原因はホロコーストである。カントを生み出したドイツ*65が起こした愚行は、近代合理主義と西洋の知的体系全体を揺るがすに十分であった。そしてその懐疑はファシズムに関連しそうなあらゆるもの、社会規範、法律、官僚組織に向くことになった。既存の社会体制全てを批判することになった結果として、二十世紀社会において中心的な役割を果たしていた資本主義と科学もその矛先から逃れられなかった。
カウンターカルチャーはこういった思想背景を受けて行われた大衆運動である。少数の知識人が論文を出版しただけというわけではなく、かといって密室の権力者たちが何かを推し進めたわけではない。特にアメリカにおいて、膨大な人々が参加する巨大なムーブメントとなっていった。しかしカウンターカルチャーの当事者たちは市民であっても大衆であることを望んでいなかった。この「自分たちが大衆ではないことをブランディングしたい大衆」という構造が巨大な需要となり、結果的にカウンターカルチャーは資本主義に飲み込まれる、というのが本書の大まかな内容となる。
著者が示す解決法は、簡単に言えば経済学による漸進主義である。分かりやすい解決法などないと認めてしまうこと。その晦渋な語り口と裏腹に、ポストモダン哲学者は世界にはシンプルな問題、既存のものは全部ダメだということ、しか存在しないと主張してしまっていた。何なら表面的には民主主義と平等主義に接続しているようで、その実は大衆嫌悪と選民主義が見え隠れする。それと比べれば、シンプルな功利主義を基礎に置く経済学*66は知的に退屈かもしれないが一般市民全員の選択に意味を与えるものである。ハイエク(読んだことはないが)が言うように、何らかの中枢による意思決定を想定する社会主義と比べて、個々人が固有に持つ情報を自律的な選択によって市場に反映していく市場主義は効率的なのである。
もう一つ、著者はホッブズ的な世界観を再評価する。私が一読者として本書に一番同意するのはここである。悪意なき軍拡競争と利己性から利他構造が進化しうることは経済学と生物学の共通認識*67であり、おそらくはロマン主義的な自然と人の対立を解消するものである。人間以外の生物は何等かのメタ認知を持っていて調和的だという幻想は、まず生物に対して不敬である。進化論は均衡分析であり、経済学と大きく変わらない。生物学と経済学の違いがあるとすれば、生物個体と違ってサピエンスの個人は知的であることぐらいである。
さて、著者も最後にフォローしているが、カウンターカルチャーが全面的に悪かったわけではない。公民権運動もフェミニズム運動も環境保護運動も、そしてインターネットとパーソナルコンピューターも、カウンターカルチャーなしには現在ほどの成功を収めることはなかっただろう。考えてみれば、今や私たちを取り巻くメインカルチャーはカウンターカルチャーによって強く影響されていて、そしてそれは悪いものではない。ただ、その成功体験がカウンターカルチャーのアプローチを正当化することはない。ルールを守って漸進主義を取ろう、という退屈な結論が本書のまとめである。

クリス・ミラー『半導体戦争』

カウンターカルチャーはインターネットとパソコンを生み出した。たぶんジョブズとウォズニアックによって。しかしながら彼らが作ったのはどちらかと言えば思想とソフトである。ではハードを作ったのは誰か。メトロセクシャルなカウンターカルチャーと違い、ハードは男の世界で生まれた。
スプートニクショックの翌年、1958年に初の実用的半導体をテキサス・インスツルメンツが生産した。半導体の歴史はアメリカの現代史でもある。半導体の初期の需要はNASAで、次はペンタゴンだった。アポロ計画とベトナム戦争を揺り籠にして、半導体産業は民生品市場へと踏み出していく。ムーアの法則のゴードン・ムーアに言わせれば「現代社会の本当の革命家はわれわれだ」。ムーアは続ける。「何年か前に学校を破壊した挑発やひげ面の学生たちなんかじゃなく」。
どうしてアメリカはベトナム戦争で苦戦したのか。ヒッピーたちは科学と資本主義に対する過信だというだろう。半導体産業の人々はそうは考えない。計算能力と資金力の不足が原因だった。北ベトナムのタンホア橋はベトコンの主要経路の一つであり、アメリカ軍はこれを爆撃によって破壊しようとした。しかし失敗に終わった。爆弾やロケットによってついた傷は800にも上ったが、直撃することはなかった。橋が落ちたのは1972年。テキサス・インステルメンツが半導体制御を組み込んだ精密爆弾によってである。
台湾のTSMC、今や東アジアで最も有名かもしれない企業の創業者であるモ張忠謀も、テキサス・インステルメンツで半導体産業を作り出した一人である。台湾政府は張を招聘したあと、張が必要と考えたことを何でもした。TSMCは台湾の国家戦略の中枢だった。ほとんど博打と言えるこの一手によって、台湾は半導体産業で不動のアドバンテージを得る。TSMCで研究開発を進める蔣尚義は言う。「台湾人は不平不満を言わない。配偶者も」
TSMCの何が強いのかといえば、最先端半導体はTSMCにしか作れないからだ。なぜなのかと言えば、TSMCだけが設備を持っているからである。最先端半導体は極めて高密度、言い換えれば微細なので、製造するためには小さな絵筆で基盤の上にパターンを描くわけにはいかない。障壁が元素数個分になってトンネル効果が発生しかねないような世界なのだ。これまで二次元配置だった半導体は微細制御のために三次元配置になっている。どうしてこんな微小半導体が必要になったかと言えば、スマートフォンの性能強化競争のせいである。この場合、半導の表面パターンは7ナノメートル単位であり、極端紫外線(EUV)による光学的な制御が必要不可欠になる。これを実行するための装置、EUVリソグラフィを作っているのはオランダのASMLという企業である。そして装置は1億ドル以上し、そこから導き出される損益分岐点はトップメーカーしか導入不可能なものになる。
ASMLのサプライチェーンとそこに乗っている先端技術のカタログは面白い。オランダにあるASMLであるが、自社生産というわけではない。ASML自身が製造している部品は全体の15パーセントほどだ。極端紫外線を発生させる光源はアメリカのサイマー社が作っている。光源のためにはレーザーが必要になる。そのレーザーをスズの小滴に当てて粉砕する。機序は良く分からないが、これによりEUVが発生する。具体的には、真空中を時速320キロメートルで移動する100万分の30メートルの大きさのスズの小滴に対してレーザーを2回照射して50万度のプラズマを発生させ、このプロセスを1秒間に5万回繰り返せば先端半導体を作成するのに十分な量のEUVが出来る。このレーザー装置はドイツのトルンプ社が開発している。無論、このレーザー開発にも多数のイノベーションが含まれている。レーザー開発には10年の月日がかかった。ここで終わりではない。光源から放たれたEUVは鏡面で制御される。このミラーを作っているのはドイツのカール・ツァイス社である。これはモリブデンとシリコンの数ナノメートル単位の薄膜を交互に100層繰り返すことによって得られる。その精度は、仮にこのミラーをドイツ国土と同等の36万平方キロメートルにまで拡大したとしても、凹凸の差が最大0.1ミリメートルであるほどである。だからといってASMLが仕事をしていないわけではない。むしろ、数十万の部品から成るEUV装置全体の構造を理解し、そこにどのような技術が必要で、その技術を提供できるのがどの企業なのかを把握し、品質管理を行うことが出来る企業はASMLしかない*68のだ。
さて、アメリカ人である著者は半導体産業に大きな懸念を覚えている。背景にあるのは国際関係におけるパラノイア的な懐疑だ。アメリカのエヌビディア、今や世界最強企業の一角を支えているのはTSMCの半導体であり、有力なライバルはサムソンくらいしかない。これを日本まで拡大しても状況は変わらず、地政学的に中国の影響圏にある東アジアに集中しているのである。本文では1989年の石原慎太郎の発言が引用されている。

コンピュータの心臓部に使う1メガビットの半導体、つまり小指の爪の3分の1という小面積のシリコン台に100万回路を入れた半導体は日本でしかつくれない
(日本製のチップを使ったコンピュータは)軍事力を含めた国家パワーの中枢部に位置するのが現在の世界状況ですから(中略)そういう意味では日本はすごい国になった

『半導体戦争』P165『「No」と言える日本』

原爆を落とされ、敗戦を受け入れたはずの日本ですら、その国粋的な野心を50年を経て温存していたのだ。少々交易しているからといって中国のどこが信用できるだろう。そして、仮に台湾海峡を中国が閉鎖するようなことになれば、アメリカの最先端産業は全てストップする。アメリカで最先端半導体の自力生産を目指せる可能性があるインテルは風前の灯である。リアリスティックな"Make America Great Again"への期待が本書にはある。
アメリカの歴史はダイナミックだ。それは恐らく、強力な勢力が多数存在して相互に牽制し合いながら競争していくことに由来している。カウンタカルチャーのヒッピーと半導体産業のパラノイアめいた男たちはその一例である。そして半導体産業は反知性的なビジネスと知性的な科学が止揚された結果として発展した。アメリカの知性主義の現在位置は複雑である。

ダロン・アセモグル&サイモン・ジョンソン『技術革新と不平等の1000年史』

まずは率直な感想。『国家はなぜ衰退するのか』『自由の命運』と比べると精細に欠く。もしかすると前2冊で共著者になっていたロビンソンの筆致が良かったのかもしれないが、おそらくテーマが難しいことが一因だろう。
全体の論をまず。テックジャイアントたちがテクノロジーの発展が全てを好転させるというテクノオプティミズムを発信しているが、歴史的に見ればテクノロジーの発展は必ずしも個々人の生産性向上と所得向上に寄与してこなかった。社会の成員全員のためになる良いテクノロジーと、エリートだけを利する悪いテクノロジーの違いは何なのかを探るのが本書の主題となる。
入門的な経済学の範囲で、経済成長がどのように起こるかを整理しておく。まず、コモディティの販売においては完全競争が働き、最終的には生産者側の利益がゼロになるところまで価格低下が起きる。これがまず競争による消費財の低廉化プロセスである。そのため企業は利益を上げるためには完全競争にない状況の産業を模索する必要がある。寡占市場でなければ企業は利益を上げられない。企業はブランディングとイノベーションによって、他の財と質的に異なる財を提供することを目指すことになる。もしくは既成の財をより低廉に提供できるイノベーションがあっても良い。これは知的財産保護の制度によって後押しされる。こうして、新奇な財が市場に出回るようになる。経済成長とは財の低廉化と多様化の二つのプロセスを軸としており、駆動力はイノベーションである。
ここで利益を得ているのは消費者である。そのことは良いことだ。私たちは誰もが消費者であるから、財の低廉化と多様化は私たちの可能性と自由を広げてくれる。ただし、上記のモデルには生産者側の競争がどのようであるかの説明が含まれていない。私たちは(ほとんど)誰でも生産者だから、生産者の側に生じる悪い経験は社会全体の厚生を下げる。本書はこちら側、競争のダークサイドに光を当てたものだと理解した。
イギリスの産業革命を例に見てみよう。全体としてイギリス産業は大きな飛躍を遂げた。これは上流階級と同様の暮らしぶりを目指した中流ブルジョワジーの成長がまずあり、その後に中流階級の暮らしを目指そうとした労働者階級の上昇志向が動力源になった。スティーブンソンは典型例で、当人が成り上がっただけでなく効率的な鉄道ネットワークをもたらし、これは新しい巨大な雇用を生んだ。とはいえここにもダークサイドがあり、児童労働を含む、生活が向上しない労働者たちの長時間労働を伴うことになった。そして利益の多くは資本家が総取りすることになった*69。
アメリカが19世紀から20世紀にかけて大きな経済成長を実現できたのは、アメリカ特有の事情も関係していた。アメリカはイギリスと比べ産業化されておらず、農業従事者が大半だった。そのため、アメリカが大量生産体制を整えるためには(時にイギリスからの)熟練労働者を高賃金で雇い入れ、効率的な工場システムを構築し、労働者の生産性を伸ばすことが重要だった。アメリカでは労働者が相対的に希少だったから、労働者個人の限界生産性を伸ばすアプローチが必要だったのだ。そしてイノベーションも起こった。フォードが効率的な生産システム、科学的管理法で生産性を大幅に伸ばすと、対するゼネラルモーターズは少量多品種生産を始めて市場を奪い取った。ポストフォーディズムはフォーディズムと並行する事象だったわけだ。
だから、良いテクノロジーとなるか悪いテクノロジーとなるかは事前に決まるものではない。どこにターニングポイントがあるかというと、テクノロジーをどのように活用するべきかということに対してエリートたちが持っているビジョンに依存している。だがこのあたりで「どんなビジョン」が悪いのかに関して勢いが弱まる。植民地主義者のレセップスを引き合いに出すのはともかく、現代のテックジャイアントたちとの接続が今一つ弱いのだ。
現代的なテクノロジーについても少し。初期のハッカーたちはコンピュータテクノロジーが独占されていることに不満を覚え、個人が自由にコンピュータを使える世界を夢想した。その夢は叶ったが、実態としては格差の拡大に寄与しただけだ。背景にはミルトン・フリードマンを頭目とする新自由主義*70がマクロには政府、ミクロには(MBAを通じて)経営に入り込み、労働者を無視した効率化が横行し、賃金格差が生じた。これからはAIの時代だと言われているが、AIはモデルを形成する力に欠けるし、テックジャイアントたちのビジョンは(カウンターカルチャー一般の特徴として)具体性を欠いて夢想的である。さらに中国を見れば分かるように、AIが自由を制約することすらありうる。だからこそ、新しい包括的なビジョンが必要だということになる。が、それがどのようなものなのかを探るのは今後の課題になる。
あらためての感想として、やはり議論が難しいテーマなのだと思う。個人としての雑感を示しておくと、ITテクノロジーが個人の消費に圧倒的な自由と多様性を与えたのは事実だろう。ITによる生産性の向上効果は微妙だという話はロバート・ソロー以来ずっと言われているが、こうしてコンピュータで文章を書いている間もYouTubeを(無料で)流している身としては、従来の経済指標で測定が難しい消費者厚生に対する正の効果があったという実感がかなりある。
ミレニアル世代に属する個人としての感想は、イノベーションとテクノロジーの進歩による消費サイドの厚生上昇が収穫逓減ラインに達しており、生産サイドの労働者として個人が被る不利益の方に目が行くようになってきたのではないか、ということだ。中国の寝そべり族やアメリカでも流行っている静かな退職といったブームはその反映であり、その世相を受けて本書も書かれたのではないか、という感覚がある。イーロン・マスク的な、宇宙に飛び出し自動運転車にのってウハウハパーティー生活*71、みたいなビジョンを提示されても困るのである。どちらかというと15分都市のようなコンパクトなアイデアの方が魅力的である。
最後に細かいところに対する感想を。本書ではセルフレジが労働者個人の生産性を伸ばすわけでもなければ消費者が便利になるわけでもない微妙なイノベーションとして紹介されているのだが、例えばアメリカ旅行に行ったとして、英語の話せないアジア人とコミュニケーションを取らされる店員のストレスと、不機嫌な店員相手に慣れない支払手続きをする客のストレスを考えれば、セルフレジは労働者に優しいイノベーションではないか、と思ってしまうところ。

マイケル・ヘラー&ジェームズ・ザルツマン『Mine!』

アメリカにおいて一番重要なのは私有財産権である、という主張に目新しさはない。では「私有財産権とは何か」となると少し目新しさがある。私有財産とは何かは常識が決める。常識に従って解決できなければ裁判で決める。これがアメリカである。
常識で決めるとはおかしいじゃないかと思うかもしれないが、アメリカの法律では私有財産の境界が曖昧にされているところが多い。法律で明文化されていなくても日常生活を送る上で支障はない。しかしトラブルが発生したときには裁判に発展する。アメリカは慣習法の国なのだ。それを裁く法曹界は、アメリカ建国当初からエスタブリッシュメントなのである。
分かりやすい例を一つ。バリー・ボンズがシーズン最多ホームラン記録を達成した時の記念ボールはとんでもない価値があった。そのことを見越して、アレックス・ポポフは入念な準備を行った。ボンズのホームランの軌道を探り、ミットを装着してボンズのホームランを捕球しようとしたのである。そして見事にキャッチした。しかし誤算が一つ。キャッチしたポポフは観客にもみくちゃにされ、彼の手から離れたボールは別の男の手に渡ってしまう。さて、ボールの所有権は誰にあるのか。
ホームランボールの所有権に対する明文法はない。判例もなかった。常識はあった。ボールの所有権は球団にはなく、キャッチした観客のものである。そして観客にも不文律があった。最後に持っていた観客がボールの所有者になる。しかしながら納得がいかなかったポポフは裁判を起こす。些末ながら難しいケースである。
これ以外にも色々な話が載っている。ニューヨーク州はイギリス法に則った法体系になっており、テキサス州はスペイン法を引き継いでいる。ユナイテッドステイツは法の多様性から見ても文字通りステイツなのである。結婚後の共有財産の所有権は夫婦のどちらに権利があるのか。ブルーステイツのニューヨーク州では夫、正確には可処分所得が多い側に優先権がある。テキサス州は法的に夫婦が平等である。州のカラーが法律の隅々にまで行き渡っているわけではない。
ロー&ウェイド判決と最近の顛末を見ても、アメリカにおける法曹というのは大変な仕事なのだろうと思う。原告被告ともに往々にして我が強く、世間を含めて個人の意見を持っていて、それぞれに正しくそれぞれに論理が不十分な人々に一定の結論を出さなくてはならない。そこでは過去の判例だけでなく、歴史的経緯や常識、場合によっては科学的証拠までも理解しなくてはならない。実際はともかく、法曹は全知であることが期待される。
本書を読んでいて思ったが、アメリカの知性主義はモンロー主義なのだろう。ステイトごとに法律が異なり、個人ごとに常識が異なる人々を目にし続けていれば、首尾一貫した論理体系などないことが否応なしに思い知らされる。法と判例は経路依存的なのである。アメリカの知性主義が他の国に通用するものではないと、アメリカの法律家たちはよくよく知っている。牽強付会な議論を続ければ、アメリカの文化は帝国主義的である。ハリウッド映画は世界中で通用すると無邪気に信じている。そしてヨーロッパの知性主義は帝国主義的である。フランスの博愛とドイツの理性は世界に通じると考えている。しかしヨーロッパの文化はモンロー主義である。自国の文化を真に理解できるのは自国民だけだという予断が、ヨーロッパ文学には残っている。
素人考えだが、知的エリート層における法学の伝統こそが、ビジネスと社会科学中心のアメリカ型知性主義の強みなのだ。ケーススタディ中心のMBAはロースクールの伝統を引き継いでいるという。普遍的な原理などない。普遍的な原理に見えているもの、世間一般がそう捉えているものは実のところ歴史的経緯によって形成されてきたもので、適応される文脈によっては簡単に揺らいでしまうことが法律の世界では常識である。それが普遍原則を発見し、あるいは作り出そうとするヨーロッパ人文主義の伝統に対して疑義を呈してきた。カウンターカルチャーより法学的アプローチに好感を抱くのは、エリート主義的な法学の世界が持つ世界観が、一人一人が異なり、そこには地域差や歴史の影響が色濃いことを認めているからである。原告たちに向き合うとき、法曹たちは全員がそれなりの理を有していることを認めざるを得ないのである。
テクノロジーの台頭でアメリカのエスタブリッシュメントは勢いを落としているように見える。しかしながら、アメリカで最も知的な人々、文脈を広く捉えて論理に位置づける能力の持ち主は未だ法学界隈にいるのだろうと感じさせる。その意味で私が一番期待していた大統領候補はエリザベス・ウォーレンだったのだけど、さすがに御歳が。今後の新星に期待したい。

まとめに代えて:反知性主義を生きる

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

ここまでホフスタッターの「知性主義とは政府・権力の運営を知性によって行うこと」という少し特殊な文脈で見てきた。そして知能と異なり知性が人類史上特殊なこと、知性主義の原型がカトリックに措定されること、武威の実践を儒教の礼より上に置く常識が形成されてきたこと、現代の知性は科学的思考が典型的であることを知性と知性主義全般の特徴として発見してきた。日本に限定すれば、東アジアの知性主義である科挙を導入することなく身分社会を維持したこと、文化を女性的なものとして軽視してきたことを見出し、そこに日本で知性主義が不徹底で反知性主義が優勢である歴史的経緯を汲み取ってきた。最後に、ヨーロッパ人文主義の系譜とは異なる、ビジネスと科学が結びついたアメリカの知性主義がホフスタッター以後にどのように展開されたかを考えた。書評の形を取ったことで論理的飛躍が随所に発生しているが、元の本に当たればそれぞれに精緻な議論が展開されているので、違和感のある部分は原典に当たってもらえると幸いである。
さて、知性主義を読書が下支えするのは明らかであろう。カトリックも科挙もテキストベースであったことが重要である。一方で、読書がそのまま知性主義というわけではない。知性主義というのは(私が解釈するホフスタッター的な文脈においては)まず政治的なものであるし、また科学を含めた現代的知性に拡張しても、知性はかなり特殊な体系化のパターンを前提していることは強調してきた。だから体系化されていない読書は、必ずしも知性主義では、もしかすると知性的ですらない。
本書はそんな自由律の読書が、どのように日本で展開されてきたかを探っていくものだ。言文一致による読書ハードルの低下と流通の発展による書籍の多様化は、まずエリート層の男性に黙読としての読書の可能性を提示した。そして都市の上流労働者層であるサラリーマンの登場、立身出世のための読書、気晴らしのための読書、社会変革のための読書と幅が広がっていく。戦後には労働者階級を抜け出すための教養主義的な読書が隆盛してくる。誰もが司馬遼太郎を読むのが是とされたのである。ここは私見だが、やはり戦後日本は階級を解体しようとする社会規範が強かったのだろう。ヨーロッパにおける労働者階級が従事している仕事は当然日本にもあるのだが、そういった職業に従事している人が労働者階級のエートスを持っているかと言うと、階級というほど横断的なものではないような感覚がある。
本書の話に戻ろう。おそらく平等主義的な感覚によって下支えされていた戦後日本の横並び的な教養主義的読書は、高度経済成長の終結によってピークを迎え、そこから個人を主体とした自己啓発が優勢になる。そしてバブル崩壊による経済低迷でこの傾向が加速していく。そしてサバイバルバイブルとして行動主義が隆盛し、反動として燃え尽き症候群が問題になってくる。著者によれば、現代はノイズのない情報収集が求められる時代であり、ノイズが多く含まれる読書は求められていない。自身が身を置く文脈に接続するような余裕がないのだ。
要約が分かりにくくなったので改めて整理を。日本は(特に労働者としての役割が最重要の性役割であった男性は)労働を自身の中心的な文脈とする社会規範が強く内面化されている。これは終身雇用と低失業率の時代には会社に対する自己同一視の側面が強かったが、バブル崩壊後の就職難とリストラの時代により個人主義的な側面が強くなり、労働者(広くフリーランスなども含む)としての自己がアイデンティティの中核になった。就職活動で「これまでの人生がどのように仕事に役立つか」を考え続けることはこれを強化しただろう。そして労働こそが自己の中心的な文脈になり、それ以外の文脈がノイズになる。
補足しておくと、現代はノイズ過多の時代である。SNSやニュース記事は常にインプレッション増加の選択圧に晒されており、注意をひくために情動反応を強く惹起するようになっている。ヒトの認知能力は有限であり、情動反応は前頭前野が担当していたことを思い出そう。労働によって削り取られた貴重なノイズ受容の認知リソースは容赦なくインターネットが奪い取っていく。読書をしたいのであればもう一つ。インターネットやめろ。
最後に著者は全身全霊で生きること、労働でも、あるいは家事・育児でも政治でも何でもいいのだが、とにかく何か一つを自身の中心的な文脈、アイデンティティの核に置くことをやめて、半身で生きることを提案する。そしてそれを全体として許容する社会規範が求められているとする。もちろん簡単なことではない。全身全霊は楽なのだと著者は言う。半身で生きることは、その実で多様な文脈を身につけることであり、一つの文脈だけに身を置くより大変なのだと。私としては全身全霊で生きる方が大変なように思わないではない。
さて自分語りである。職業としての学問に漠然とした憧れを抱いていた大学生のころ、私は本が読めていなかった。本が読めるようになったのは働き始めてからである。だから「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」と言われると、いささかたじろいでしまうところがある。
そもそも図書館が苦手なのである。返却期限が決まっていることにも妙なプレッシャーがあり、かつ鞄の中は散らかっている。鞄の底から潰れた菓子類が出てきたことはいくらでもあり、実際に本を入れて汚した経験もある。借りた本が傷みかねない環境にある自覚があるのにどうして本を借りられようか。無論、借りた経験がないわけでもないが、専らレポートのために借りていたのであって、趣味として何となく借りることは滅多にない。
かといって貧乏な大学生に本をたくさん買う余裕があるわけではない。可処分所得はデート代で消える。そこである種のスノビズムへの憧れもあって、本を買う量を絞って哲学書に当てることにした。これなら読むのに相当な時間がかかる。コスパは最高である。教員陣にあったカウンターカルチャーの雰囲気への憧れもあっただろうと思う。ヨーロッパの知識人の本こそが「正しい」読書であって、実用的な気配のある本は退けるべきという規範を勝手に内面化していた。それこそ、知的労働に対する文脈を自己の主たる文脈だと位置づけていたのだろう。
時間をかけてハイデガーを読んだし、ドゥルーズとガタリにも手を出した。フーコーもいささかは読んだ。哲学書ではないが、モースや柳田あたりは何とか手を付けた。あとは高尚な雰囲気のある本を読んでいた。幸いにして実家に祖父が見栄で買った文学全集があったので、カフカやドストエフスキーに織田作之助あたりを。とはいえ、読んだ冊数で言えば圧倒的に少なかっただろうと思う。そしてあくまで見栄のために、あるいは将来の漠然としたキャリアの下積みとしてする読書であって、心底から楽しんで読んだわけでもない。男性の、労働のための読書はいつだって目的それ自体ではなく手段の気配*72がするものだ。
働き始めて可処分所得は相対的に増えた。アカデミアに進むつもりもなくなっていたのでオーセンティックな古典を読むことに対する義務感もなくなった。思えばずっと半身であり、何かに全身全霊になったことはない。二回生くらいにはアカデミア気質を温存しながらも何となく就職することにしてしまっていた。そんなわけで「半身が素晴らしい!」と言ってしまうのはナルシスティックな自己陶酔の気配がするので同意しかねる。
読書の自由度が増して雑多に本を読むことが多くなった。働き始めたから仕事に関係した本を読もうとしたわけではない。それこそアセモグルであるとかレヴィットであるとかピンカーであるとか、何となく「軽そう」で敬遠していた本*73を読むようになった。ハイカルチャー志向を抜け出して、文化的オムニボアになったわけである。そういった「軽い」本は、古典哲学と比べて圧倒的な量の参考文献が付いている。参照される学問領域も多岐にわたる。実存主義と比べると深みには欠けたかもしれないが、経済学用語が職業生活に彩りを添えるものであったことも確かである。働いていて対他存在と即自存在が問題になることはないが、情報の非対称性やプリンシパルエージェント問題、コースの定理あたりは普通に出くわす話だ。そういった「ノイズ」の楽しさは、むしろ働いてから知るようになった。
一方で、専門研究者と一労働者の越えられない壁を痛感することにもなった。私が働きながら本を一冊読み切るうちに、研究者はもしかすると数十倍の論文を読んでいる。参考文献リストに載る膨大な書籍と目前の一冊の本が彼我の差である。そしてエーコの、あるいはボルヘスの図書館に暗示されるように、知性の量的な差は本の数から生じる。そうした中で一労働者が市民としての対等を主張するならば、いささかの自嘲を込めて自身を反知性主義者に位置づけざるを得ない。そして反知性主義的であることは、恐らく市民の義務なのである。圧倒的に知性的な人々の存在を認めるとき、知性主義を取ることは選民的なメリトクラシーの哲人国家を志向することを意味する。それは現代的な自由と民主主義とは相容れない。その重みはまずアメリカが引き受けたのだろう。だからホフスタッターは『反知性主義』ではなく、『アメリカの反知性主義』を書いたのである。

最後に、日本での知性主義について。日本には科挙という知性主義の型がなく、その後に生まれた知性主義らしきものは儒教道徳と西洋哲学と国粋主義のブリコラージュだった。その歴史を反映して、現代日本において「知性主義」というシニフィエが指すシニフィアンは多様*74である。日本の知性主義とは鵺なのだ。傾向として、リベラルな知識人はヨーロッパ人文主義の普遍道徳に訴えることが多く、対して保守派は徳目主義的な「鵺」を常識としてそのまま日本的知性として提示することが多い。知性主義の内実が良く分からないので、リベラルを自認する人が常識を振りかざす珍事も頻発する。ここにかなり異なった論理体系である自然科学が(しばしば自然主義的誤謬を伴って)知性主義の最たるものとして提示されるのでいよいよ状況は混沌とする。
大方が期待するところのヨーロッパ人文主義について言えば、やはり日本の文脈にはそぐわないだろうと思う。ルソーとホッブズは自然状態に対する理解が正反対である。そして東アジアのリアリズムはホッブズ的な世界観を前提しており、だからこそ禽獣の自然状態を抜け出すためにリヴァイアサンとしての為政者が仁と礼を広めなくてはならないというのが儒教道徳の基本である。ヒースの議論を見る限り、ヨーロッパの普遍主義はかなりルソーに寄っている。歴史的経緯として、普遍道徳というよりかはローカライズされた知性が求められる。であれば日本の知性主義者を自認する方たちには、まず反知性主義の重みを引き受けることを期待したい。さながら背側前頭前野が腹内側前頭前野からの重み付けを得るように。それは冷や汗を伴うかもしれないが。

注釈

*1 2015年に内田樹ほか『日本の反知性主義』が出版され、そのあとトランプ当選に続くあれこれが起こってホフスタッター『アメリカの反知性主義』を淵源とする議論が細々とあったのは背景知識として前提している。最近だと河野有理と森本あんりが『「反・東大」の思想史』をフックに日本の反知性主義の対談をしている。

*2 (アメリカの)人類学者のイメージがあまりよろしくない話は以下を参照。さすがに2024年現在は変わってるかもしれないが…

*3 キャッチーな研究が一般人に良からぬ影響を与える話は『Science Fictions』の紹介で詳述する。
*4 画像出典wikipedia

*5 もう一度書いておくと、面白すぎる研究はたいてい複雑性を見落としている。1300年前の王国領土が現在の社会・経済格差を説明できるという主張は単純すぎるし、割り引いて考えた方が良いと思う。
*6 安直な反論として近親相姦だらけのハプスブルク家はどうなるんだとか不倫が文化のブルボン朝はどうだ、などの反証が浮かぶが、上流階級では贖宥状などの抜け穴があったようだ。とはいえ抜け穴もかなりのコストを伴ったようで、広い社会階層に対してこの影響が生じたことが統計的に詳述されている。個別事例を示すことによる反駁よりはロバストという印象と、1600s以降の教会権力が低下して統制が緩んだころには全般的な社会規範が固まっていたのだろう、という推測ができる。
*7 本当だろうか。『反逆の神話』でカリフォルニアの社会学者ハロルド・ガーフィンケルが(カリフォルニアの)学生を対象に行った実験を示している。学生が同居家族に対して「下宿人のように」「よそよそしい態度をとり、堅苦しく呼びかける」ことを行うものだ。これに対する同居家族からは激怒を含む敵対的な反応が生じることが報告されている。
*8 この話を見たときは衝撃を受けた。アメリカ社会における「アイデンティティの一貫性」はここまで強くなくてはならない、というのは本当なのだろうか。本当だとすれば、欧米社会においてアイデンティティ・ポリティクスがあそこまで強くなるのは仕方ないように思う。東アジア社会におけるTPO概念が存在しない社会は想像することも難しい。日本社会における一般的なパーソナリティとして、友人相手にきわどいジョークを飛ばす人物が上司の前ではネクタイを締めて真面目なプレゼンテーションしかしない、というのは自然なことだが、欧米ではそうでもないのだろうか。友人相手に「おちんちんびろーん」とかいう奴は上司に対しても「おちんちんびろーん」するのか?アメリカ社会は3億総オモコロチャンネルなのか?
ただ、そういった社会においてANTIFAのような過激主義が重大な社会問題になるのは理解できる。2chで爆破予告をする奴はほぼネタとして受け取られる(最近はそうでもない)が、パーソナリティは首尾一貫するのが当人にとっても当然の社会でRedditで爆破予告をする奴は本当に爆破するのだと社会的にも了解されるのだろう。
参考として「文脈による人格分裂」が病理化した社会は陳楸帆『未来病史』(ケン・リュウ編『金色昔日』所収)で取り上げられている。ここでは中国の「もともと分裂的なパーソナリティ」を生み出す道教が特効薬として輸出されている。
*9 作中で登場するイギリスの「ベーコン」をフランシス・ベーコンのことだと勘違いし、しばらく読み進めるまで舞台年代を1600年前後と勘違いしていた。ここではロジャー・ベーコンのことであるらしい。1500年代でも大概にオーバーテクノロジーな話だと思っていたが、1300年代だと知ったときは驚いた。
*10 『ヨハネによる福音書』第1章1節
*11 あくまで素人の荒いイメージである。禅宗における仏性の発見、悟りというのは梵我一如、自他の境界が存在しないことに対する気づきを含むものであり、身体の「中」のような境界性があるイメージは正確ではないものと想像する。不立文字を文字で書くのは無理難題だ。
*12 外は「そと」であると同時に「ほか」でもあり、肉体と魂を切り離す心身二元論のイメージが含まれる。
*13 あるいはアブラハムの宗教。
*14 「ローマは三度世界を征服した。武力とキリスト教とローマ法によって」という話があるが、ヘンリックはローマ人の部族法に過ぎなかったユスティニアヌス法典を真の万民法に変えたのは神の生み出した世界においては普遍的な法則が存在するはずだ、という前提のもとにキリスト教徒が再解釈を行ったためだと論じている。
*15 一夫一妻制の強制がカトリックの権力の中枢にあることは前述のとおり。乱交を禁忌とする背景には女性蔑視があったことも述べられている。
*16 エーコの本は『薔薇の名前』しか読んでいないので、エーコがどのような思想を持っていたかは知らない。
*17 腐敗の象徴である異端審問官は暴力と抑圧そのものである。
*18 ただし特定の種(多くはボノボかゴリラ、オラウータンとチンパンジーはやや頻度低め)を他の霊長類(ヒトを含む)より優れた種であると考える選民思想に対しては反発がある。本書はアカゲザルやタマリンといった同胞たちも平等に取り上げているので安心して読める。
*19 この手の本でほぼ確実に取り上げられるMAO-A遺伝子についての話も充実しており、遺伝子と内分泌系に絞っても経路が複雑で、大規模研究でも「戦士の遺伝子」と呼べるほど反社会行動の頻度を予想する役には立たないことが示されている。
*20 日本語で言うところの地頭(じあたま)と呼ばれるところのもの。
*21 脳以外なら食物を調理することによってかなり退化、というか簡素化されている消化管も挙げられるだろう。
*22 トロッコ問題で一人と五人を選ぶとき、ほとんどの人は一人を犠牲に五人を助ける方を選ぶ。しかし犠牲にする一人が家族であるとき、多くの人は躊躇する。腹内側前頭前野に損傷があると躊躇が失われる。家族を大切にするのは人間にとって当然のことであり、スターリンが父親を告発した少年に対して激怒したエピソードが紹介されている。全人民の平等を理想とする共産党精神より、家族への愛情を優先するのは自然なことなのである。
*23 フロイトは無意識という画期的なアイデアを提示したし、超自我・エゴ・イドの三分割は操作的定義として現代においても有効ではあると思うのだが、無意識がどのようなものなのかについてフロイトから学ぶ必要があるかは疑問である。現代的には神経学の方が簡単で分かりやすくてとっつきやすいのではないだろうか。
*24 腹内側前頭前野のお墨付きが得られた意思決定は心地良い内臓感覚を伴うため「腑に落ちる」ことが想像される。
*25 我々の意思決定は無意識によって支配されており、意識が無力だという話ではない。無意識を構成する脳領域は構造こそあらかじめ規定されているが可塑的で柔軟である。だから無意識の領域も経験と知識によって個体分化が著しい。私達の意思決定が無意識の影響下にあるとしても、個人ごとの無意識に一番うまくアクセスできるのは当人の意識であると思う。
*26 「科学者にとって科学哲学の無益さは、鳥にとっての鳥類学と大差ない」というのはファインマンの言だが、経済学は社会領域を扱う都合上、哲学者の領域に踏み込んでいかざるを得ない。ポストモダン哲学が経済学を毛嫌いする原因はそのあたりにもありそう。科学と経済学の話は『反逆の神話』で触れる。
*27 左派のウォークカルチャーと右派のトランピズムを見ていると科学不信を煽ることに対する懸念がどうしても大きくなる。実際は杞憂で多くの人がこの本を正面から読んでいると思いたい。
*28 ヴェーバー『職業としての学問』でも最初に扱われるくらいには資金調達とポスト確保は研究者の関心事であったらしい。
*29 実態は複雑怪奇であり、大学が投資などで自ら資金調達しているケースから富裕層の卒業生による寄付が主たる財源となっている、政府機関が大学に投資している、民間企業が自社社員に研究を推奨しているケースまで、パトロンの主体を特定することは難しい。
*30 文科省が当たり馬券だけを買おうとするネットミームがあるが、文科省だけでなく競馬好きまでバカにしている。少なくとも競馬好きは当たり馬券、正確には(ワイドだろうがボックスだろうが構わないが)期待値が正になるような馬券の組み合わせ、を選択して身銭を切っているのであり、競馬好きたちの観察眼・真剣さがオッズとなって競馬というギャンブルの面白さを担保しているのである。
*31 19世紀から続く科学者の伝統であるとクルーグマンが言っている。

*32 私がダン・アリエリーに対していささか贔屓目に見ているところがあるせいかもしれないが。
*33 ベリャーエフはルイセンコの同時代人であり、当然ながらルイセンコ主義との関係が邪推される。実際のところベリャーエフはメンデル主義者であったらしく、1948年にはモスクワ中央科学研究所を追われ、キツネの交配研究はシベリアで行っていたようだ。
*34 "The History of Farm Foxes Undermines the Animal Domestication Syndrome"

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0169534719303027

*35 倫理的にも大問題だ。そもそもスタンフォード監獄実験(ミルグラム実験も)は「再現性の危機」以前に現代の研究倫理基準では再現実験の許可が下りないだろう。そのため、スタンフォード監獄実験の再考としてはBBCが行ったドキュメンタリーくらいしか参考になるものがない。

*36 内容は『反逆の神話』P157からの孫引き。
*37 スタンフォード監獄実験の囚人役に関する話は『善と悪の生物学』第12章より。もう一つの面白い話は、ジンバルドーの最新の研究テーマは不正な権威への反逆、「凡庸な英雄性」だということだ。
*38 明治維新は良かった、徳川幕府はダメだった、今の日本は停滞して江戸時代のようだ、というような三文記事はいくらでもある。日本維新の会もそういう思想をもろに反映している。なお、本書のもう一つの問題はスピン紐がないこと。東京大学出版会の本はもしかして全部こうなんだろうか…
*39 森有礼は日本語廃止というよりChinese、漢文の影響を排除したかったようだ。
*40 清を植民地化しようとする動きは実際にあった。が、良く語られるところの「日本は西欧化して列強入りしたから植民地化されなかったのであって、富国強兵がなければ植民地化されていた」という議論が実際の世界史を反映しているかと言えば、列強を一括りにした微妙な議論に思われる。また、徳川幕府が続いていれば日本が植民地化されたという主張は安易なナショナリズムに結びつくと渡辺も警告している。
一応、アジア圏の列強見取り図を。イギリスが清の海禁政策に苛立ち、市場開放を狙ったことは事実で、その中で植民地化を目指す動きはあっただろう。しかしそれが日本にまで敷衍されるものであったかは分からない。インドネシア・フィリピンを領有していたオランダ・スペインが19世紀から20世紀にかけてアジア植民地を拡大するというのは難しかっただろうし、アメリカがフィリピンを手にしたのはアメリカ南部に付随したスペインとの関係性が強く、南北戦争の混乱がなくても日本を植民地化する意図はなかったようだ。となるとロシアとフランスだが、19世紀ロシアが極東での植民地拡大にどこまで積極的だったか、実際に侵略できる能力があったかは疑問が残るところ。となると有力なのは19世紀に実際にベトナムを植民地化したフランスということになる。まとめると、列強諸国といっても日本を植民地化した可能性があるのはイギリスとフランスに限られるだろうし、その2国にしても必ず植民地化に走ったかというと確実なことは言えない。
*41 第6章に詳しいが、下級武士はモテなかったようである。武士というのは質実剛健を旨とするが、泰平の時代は女性側の価値観を徐々に変えていった。開幕からしばらくは町人の娘は武士と結婚したがったようだが、時代が進むにつれてむしろ武士は嫌煙されるようになり、歌舞伎の二枚目優男が理想像になっていく。武家の奥方や娘までも町人風の風流趣味に走っていたようだ。貧乏では遊女にもモテない。モテるのは立身出世した大商人、大尽である。一方で武士というのは強烈はホモソーシャルでもあり(この文脈で衆道が出てくる)、女に興味がない顔をしなくてはならない。これはかなりのフラストレーションであったらしい。
*42 武威による公然の出世が可能であったという点で、戦国時代は下級武士にとって一つの理想であった。司馬遼太郎が幕末と戦国の人気を不動のものにしたように思われがちだが、底流として日本における理想時代はその二つであったのかもしれない。
*43 うちの家は両親それぞれにルーツが山口県であるので、毛利の殿様が神格化されている節がある、と前置きして、明治維新でもっとも大人物であったのは誰かというと、毛利敬親ということになる。出世に燃える下級武士たちは大政奉還を成し遂げたが、その後に版籍奉還が成立することで武士の身分秩序は崩壊した。尊王を建前とすれば、大政奉還による王政復古を以て一応の目的は成し遂げられた。そこから王土王権、古代の公地公民制を復活させることはさらなる論理の飛躍が必要であった。とはいえ、下級武士たちの真の目標が身分秩序の瓦解であれば、当然ながら版籍奉還が必要になる。
前述のとおり、島津久光は五大老制を目指していたようである。薩摩藩では版籍奉還のため、西郷隆盛を中心とした実質的なクーデタが行われている。対して、長州藩では毛利敬親が版籍奉還の提案をすぐに受け入れた。廃藩置県は現実のものとなり、これによって明治維新は成し遂げられた。
長州びいきでさらに妄想するならば、結局のところこれは島津家と毛利家の家風に由来するのではないか。島津家は鎌倉幕府から続く名門であり、身分秩序を当然のものとして受け入れていた。対して毛利家は毛利元就を実質的な始祖とする新興の家系であり、その成り立ちからして国人連合の合議制を色濃く残していた。長州藩はいささか神話的な意味で、共和制に対して開かれていたのである。
*44 儒教ではなく、科挙である。後述のとおり、日本にも儒教は伝来していたが、知性主義には至らなかった。国家の統治体制の主幹として制度化され、王朝を超えて維持されていった科挙制度こそが、中華文明におけるカトリックなのである。
*45 呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』「意外!豊臣秀吉が『徳川の時代に大人気』だった訳」

*46 世の中には小中華論を「中国に次ぐ国家として朝鮮を位置付ける思想」とする誤解があるという話なので念のため断っておくと、小中華論というのは満州族の清ではなく、朝鮮こそが中華思想の正統な後継者であるとする考え方のことだと理解している。
*47 国書の内容をめぐる紛争の中で対馬の役人が「良好な国交が失われた後には、両国で罪のない人民が塗炭の苦しみに陥るであろう」と恫喝し、それに対して使節が「意見の相違があると、きまって平和的関係が失われると言う。それは極めてよろしくない」と返答したことが紹介されている。
*47 この部分が科挙のウィークポイントで、批判的な四書五経解釈の発展よりもスタンダードな解釈への硬直を招いてしまい、代わりにレトリックの美しさが優先されることになったのではないかと思う。もう一つの問題点は、中華文明の体系化が政治と人文学に限定され、自然科学が相対的に不十分であったこと。医学や博物学へ陰陽二元論が拡張されたにせよ、西欧的な自然科学は生まれなかった。科挙がどこまでも政治的な制度であったのに対し、カトリックは形而上学な信仰に根差していたのが一因だろう。
*49 中国でさえ、皇帝権力と科挙のネットワークは「共通の意見」、即ち世論の影響を免れないとトクヴィルは指摘している。
*50 ともすれば、現在のインバウンド消費やクールジャパン受容の一翼にこういった(いくらかオリエンタリズムによる)視点が引き継がれている可能性すらある。主観的にはともかく、日本人は余計な軋轢を回避して幸福に生きているように外からは見えがちなのだ。
*51 ペリーが単に国書を持ってきただけで知性の無いただのおじさんであるという私の偏見は、間違いなく『ギャグマンガ日和』と『ペリーのピアノ教室』で強化されている。
*52 マクドナルドが存在する二国間では戦争が起きないという「黄金のM型アーチ理論」が象徴的なものとして取り上げられる。ご存じの通り、ロシアにはマクドナルドがあった。
*53 菅原孝標女『更級日記』
*54 例えば以下の記事。本文は『遊郭と日本人』の紹介記事であるため、そちらの本まで当たれば今回書いているような話の広がりがあるかもしれない。

*55 ここからの話も『明治革命・性・文明』の受け売りである。現代の話を接続させるため、ここに概略を示すに留める。
*56 本物の公家息女と比べても、遊女の「本物らしさ」は十分だったようだ。西園寺公望は遊女を妻としている。
*57 もちろんだが、文化階級の障壁として経済力の差が用いられることはありうる。馬を持つのは大変な維持費がかかり、ゴルフの道具一式はそれなりに高価で、サッカーはボールひとつあれば遊べる、というように。
*58 文化的オムニボアでなくてはならない、という社会規範に私はかなり背中を押されてきたように思う。自らのテイストに囚われずに多分野を見渡さなくてはならないという規範がなければ、雑駁な知識を吸収しようという意欲は起きなかっただろう。文化的オムニボアであろうとすることは、ある程度まで社会的分断に立ち向かうものになりうる。
*59 学術や文化に対する助成というのは疑似的な上流階級を市民の中に作ろうとする試みである。ピケティは『21世紀の資本』で知識人を「他の市民と同じ立場だが、でも研究に没頭する時間を他の人よりも持っているという幸運な立場に置かれた人々」と表現している。
*60 マズローの欲求階層説に否定的なダグラス・ケンリックによれば、自己実現の欲求というのは実は地位と承認の欲求である。
*61 戦国時代の敗者たちはしばしば「公家趣味に走ったから」敗れたのだという通俗的な説明がある。今川義元や朝倉義景、大内義隆など。こういった大名を再評価する動きは文化の重要性を見直すであり、もしかするとジェンダー規範の変化に根差しているかもしれない。一例として、今川義元の『信長の野望シリーズ』における顔グラフィックの変化。

*62 もう少し詳しく。「主流社会」とはマジョリティ属性の混交物である。西洋の・白人の・男性の・資本家の社会。主流社会は人々から個性と自由を奪い、体制に馴致させ、管理しようとする。さながら『マトリックス』の世界のように。しかしながらヒースが述べるとおり、管理社会じみた体制など存在しない以上、主流社会を言語化しようとすることは困難を極める。
*63 ルソー過激派とでもいうべき、現行社会を全て破棄して自然状態に戻る考え方や、西洋社会以外の社会に理想状態を求める在り方もあるにはあったが、非現実的と言わざるを得ない。
*64 私の中でラトゥールのウェイトが重すぎる可能性はある。
*65 管見の限りであるが、戦前はドイツ哲学が大きな勢力を持っており、それが戦後になってフランス中心になったのは、ドイツ知識人は過去の反省に終始せざるを得ず、将来に向けた提言を行う役割はフランスに譲らざるを得なかったからだと思っている。
*66 ヒースは別のところで、功利主義は突き詰めればあまりに単純で、それが実存的危機を引き起こすということを論じている。浅田彰も『構造と力』の序文で現代経済学が「一定の技術的な過程をおけば、完全競争のもとで個々人が全く独立に利己的利益を追求することがそのまま社会的なバランスと両立する点が存在し、しかも、その点がパレートの意味で最適であるということを、厳密に証明しうるというものである」ということに対して長大な疑義を呈している。エッジワースボックスの単純さとそれなりの頑健さは、知にとってそれなりに厄介なものなのだろう。

*67 生物学に何らかのロマンを持ってはいけない、という経済学者向けのクルーグマンの提言。

*68 この目くるめく先端技術のカタログを見て、日本の弱みは分業が苦手なこと、そもそも他人を信頼することが得意ではないところなのだろうと邪推する。日本が強かった1990年までは自前主義で事足りたのだ。
*69 推測にはなるが、イギリスには突出した上流階級がおり、そこを目指すためには中流階級がかなりの資本独占をしないと成り上がりの欲望が叶えられない社会だったのに対し、初期のアメリカはそこまで大きな格差がなく、成り上がりの目標値が相対的に低かったことも一因ではなかろうか。
*70 新自由主義という言葉は意味が不明瞭なので好きではないが、レーガニズムとフリードマン・ドクトリンをまとめた呼称として便利なので使ってしまった。しかしミルトン・フリードマンが褒められているところを見たことがない…
*71 イーロン・マスクがウハウハパーティー生活を推奨しているかは分からない。
*72 手段のための男性の読書と、目的それ自体としての女性の読書という構図が見え隠れする古市憲寿と三宅香帆の対談。
https://president.jp/articles/-/84914?page=1
*73 内面化された見栄がすっかりなくなったわけでもなく、未だに電子書籍は苦手である。誰に見せるわけでもないが本棚にハードカバーが並んでいると満足感がある。私にとって本はヴェブレン財なのだろうと思う。
*74 「カフェ風インテリア」という現代の怪物をめぐる歴史がここで出した知性主義の話と収斂進化しているのは興味深い。端的にはカフェ風インテリアというのはアメリカン・インダストリアルスタイルを指すのだが、アメリカンスタイルの前にフレンチカフェが流行し、さらに「カフェ風」というのが定義されないまま言葉が一人歩きし、導入当初のイームズチェアブームや伝統的な純喫茶まで取り込んでいったことで何なのか分からなくなってしまった。分かりやすい解説は以下の通り。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?