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「縄文旋風」副読本  縄文、弥生、そして皇室

歴史学では、水田稲作の開始をもって弥生時代の始まりとしています。以前は弥生時代の始まりは2300年前となっていましたが、今では3000年前と遡りました。これは、日本での水田稲作の始まりが3000年前だと修正されたためです。
しかし、その時その場で使われていたのは、縄文式の土器でした。ということは土器様式を基準に見れば、縄文時代に水田稲作は始まっていたと言える訳です。

そこで稲作開始基準ではなく、土器様式基準で時代区分を行った場合、つまり縄文土器から弥生土器への移行をもって弥生時代の始まりだとした場合、一つの重大な事実が浮かび上がります。

福岡県の板付遺跡、ここは縄文晩期の土器と弥生土器とが出土する、つまり縄文時代から弥生時代にまたがった遺跡です。ゆるやかな丘陵地に竪穴住居跡を伴った居住区域があり、その丘陵地から少しだけ離れた場所に水田跡が見つかっています。土器様式で見た場合、ここでは縄文晩期から水田稲作が行われていました。

そしてこの遺跡の丘陵地を囲むように、環濠跡が見つかっているのです。要するに、ここは日本最古級の環濠集落だったのです。では、その環濠が、いつ掘られたのか?
最初から存在していたのではありません。

縄文土器が使われている頃、つまり縄文晩期には、水田はありましたが、環濠は存在していなかったのです。環濠の出現と共に、土器様式も弥生式に移り変わりました。ということは環濠が掘られた頃、縄文時代も終わりを迎えたと言っていいでしょう。一万年にわたる縄文文化に終止符を打たせたもの、それは環濠だった訳です。水田稲作が縄文時代を終わらせたのではありません。

大方の歴史系ユーチューバーの、この時代の解説を要約しますと・・・
★縄文末期、大陸から稲作が伝来した。
★水田稲作が始まって、米の備蓄が行われるようになった。
★その結果、持てる者と持たざる者の差、いわゆる貧富の格差が生まれた。
★持たざる村は、持てる村を集団で襲撃した。
★水田稲作が原因で、一万年にわたる平和が崩れ、戦争が始まり環濠集落が出来た。
★そこに鉄の武器が加わって、大規模な戦争になることもあった。

・・・と、大体こんな感じの説明がなされているように思います。
そしてこれは、一般的大多数の歴史解説書の内容と一致しています。

要約しますと・・・
(稲作伝来) → (食料備蓄が可能となる) → (貧富の格差の発生) → (戦争へ)
とまあ、こういう流れでしょうか。
戦争は、稲作の副産物だという捉え方ですね。

ですが私は、この歴史観には大いなる欺瞞を感じていました。事象の本質を糊塗し、まるでどこかへ誘導しようとしている、そんな風にさえ思えてしまいます。
では何故そう思うのか?
一つ一つ見て行くことにします。

第一に、水田稲作の開始によって、初めて食料備蓄が可能となったような解説がなされていますが、まずその認識が間違っています。
縄文時代にも食料備蓄は行われていました。縄文時代草創期に定住が始まったとして、それと同時に食料備蓄も行われたと考えるべきだと私は思っています。
いやむしろ、ヒトは備蓄の為に定住したのだと言っても過言ではないでしょう。移動生活では、物や食料を貯め込むことができませんから。

ではその当時の食料備蓄の一例として、栗の実の長期保存について見てみます。
民俗例を紐解けば、クリやヤマグリの実は乾燥保存するのが一般的でした。いわゆる搗栗(かちぐり)です。
縄文遺跡から、その搗栗だと思われる栗の実の遺体が数多く出土しているのです。古くは縄文草創期、少なくとも約1万3千年前から搗栗は作られていました。
ここで搗栗とはどんな物かを簡単に説明しますと、まず殻(鬼皮)の付いた栗の実を天日干しします。ムシロの上に広げたり、竿に吊るしたりするのです。夜は取り込みながら、2週間ほどそうやって干します。

干し栗の民俗例 吊るし干し


すると殻はさほど縮みませんが、中の実は乾燥して硬く縮みますから、振ればカラカラと音がするようになります。
それを杵(きね)で押したり搗(つ)いたりして殻を割り、シワシワに皺の寄った中身を取り出します。この時に渋皮も簡単に剥がれます。実に皺が寄っているのが保存食としての搗栗の特徴ですが、そんな剥き実状態の栗の実が遺跡から大量に出ているのです。

函館市 大船遺跡出土品 クリ

縄文前期から中期にかけては気候も温暖で、その頃に植物相の照葉樹林化や落葉樹林化も進みました。当時の日本列島が現代と同じような植物相になっていたということが、花粉化石の分析などから分かっています。
ちなみに当時のイノシシの中には超巨大な個体も存在していました。生前は180㎏超えだったと思われる遺骨も、普通に遺跡から出ています。餌となる木の実や根菜が豊富だったのでしょう。秋になれば、縄文人の周りは様々な木の実であふれたはずです。その気になれば、相当量の備蓄が可能であったと思われます。クリに限らず、クルミやドングリも乾燥保存させていたと思われる証拠品はたくさん出ています。
(ドングリについては、貯蔵穴で保存したという説もありますが、その保存法が一般的であったかどうかについて、私は懐疑的です。乾燥保存こそが一般的であったろうと考えています。)

しかも、お宮の森裏遺跡出土の約1万3千年前の搗栗には、糸を通した孔がハッキリと確認できます。つまり吊るし干しの技法はすでに存在していたのです。

長野県 お宮の森裏遺跡出土 クリ 
左のクリの孔は、土で塞がっている。元々は、明らかに貫通孔が存在していたとされる。


長野県 栃原岩陰遺跡出土 骨角器
中央の針の針穴の直径は0,8㎜しかない。
約1万年前の物。これらはたまたま条件が整い、非常に良好な状態で出土したのであって、当時の人々は、普通にこのような道具を持っていたと思われる。なお糸については、例えば麻の繊維を、指でこするようにして撚ったとしたなら、本体部分は太さ1㎜を越えたとしても、糸の末端部分は非常に細くなるので、0,8㎜の針穴に通すのは可能である。このような道具を使えば、栗の吊るし干しも可能となる。これが1万年前の縄文人の生活レベルである。ちなみに「し」の字の釣針の左にあるのは、製作途中の釣針。


左 佐賀県 東名(ひがしみょう)遺跡出土 カゴ
右 その復元品
左は、約8千年前の物。編組(へんそ)製品は残りにくく、なかなか遺跡からは出土しません。ただ出た物を見て行くと、縄文人の、編む、組む、技術の高さに驚かされます。編み方も様々で、現在存在する技法のほとんどは8千年前にはすでに有ったのではないかとさえ言われています。とにかく縄文人は用途に応じて素材を選び、様々な形のカゴや袋を作ったのだと思われます。よく土器に入れて保存したなどと言われますが、土器とはあくまで水と接する道具です。水瓶として使ったり、煮炊きに使ったりしました。乾燥した木の実の保管には、カゴや袋を使ったはずです。炉の上部空間を利用したりして、それらを湿気から守ったはずです。

おそらくですが、栗だけではなく、根菜やきのこ類、鮭や鱒、アワビやイカ、などなど様々な食材を吊るし干ししていたかもしれません。

縄文期に塩は貴重品でしたから塩蔵(塩漬け)は行われなかったとしても、乾燥保存を基本として、それに木灰を組み合わせた酸化防止策や、燻煙による腐敗菌を発生させない措置も施していたはずです。

ということで、まず長期保存が可能であったのは分かりました。では、貧富の差は生じ得たのか? 
それについて言えば、木の実には成り不成りが付き物です。たくさん生る年もあれば、ほとんど生らない年もある。
年だけでなく、地域差も生じます。山一つ挟んで、豊作な地域と不作な地域に分かれたりもしたでしょう。
植物だけではありません。鮭がいい例です。鮭が遡上する川筋の住民は、秋にはわんさか鮭を獲ったはずです。それを保存加工したでしょうから、越冬に十分な食料を抱えていたと思われます。
結論を言えば、縄文時代にも貧富の格差は生じていた可能性は十分にあるということです。でも彼らはその格差を、暴力で埋めたりはしなかったのです。

ここで本筋からは少し外れますが、「稲作伝来」という言葉に触れておきます。
イネという植物からは、まず米が収穫できます。そして米の他にも、藁(わら)、籾殻(もみがら)、糠(ぬか)など、有用な素材の集合体が、イネです。これらの素材を利用し倒していたのが、かつての日本人です。
ですから「コメ作」ではなく、「稲作」と言った方が的を射ていますね。特に藁の利用は広範囲に及び、藁を様々な用途に用い、藁で様々な物を作ってきました。

ところがですね、アジアの他地域を見渡しても、藁はそれほど利用されていないようなのです。捨ててしまうか、一番の利用法は焚き付けだったりします。燃やしてしまう物、それが藁です。例えば中国では、今に至るまで米俵(こめだわら)は存在していないと言われています。
ということは、伝来したのは「コメ作」だったのではないでしょうか?
「米を作り米を食す文化」が伝来したのではないでしょうか?
「コメ作文化」を「稲作文化」に変えた者、それは編み物の天才・縄文人だったのではないかと私は思っています。「藁」というアイテム、それは縄文人にとって、この上ない編み物の素材だったはずです。もしかすると、藁を手に入れたいが為に、稲作を始めた縄文人もいたのではないかと思うほどです。
はっきり言ってしまえば、大陸から伝わったコメ作文化は、日本の地において縄文人によって稲作文化に変わって行った・・・ 稲作文化発祥の地は日本、私はそう思っているのです。

さて、「稲作伝来」から「戦争開始」までの流れの解説が欺瞞に満ちたものだと感じる理由をここまで説明してきました。ですがこれではまだ半分です。大事なのは「環濠」の存在ですから。

環濠集落とは何なのか、その点について言及することを、歴史学者はあえて避けているように私には思えます。それこそが、私が感じる大いなる欺瞞の本質なのです。
環濠集落とは、言ってしまえば皆殺し文化の現れです。ここで行われたのは、皆殺し略奪戦争だったのです。

あのですね、弥生時代以降、持てる者と持たざる者の差、貧富の格差は、常に存在していましたよ。鉄製の武器だって、むしろ進化する形で、常に存在していました。
しかし、日本の歴史において、環濠集落が存在していたのは、弥生時代だけなのです。上記の理由で戦争が始まり、それが為に環濠が出来たのであれば、その後も環濠集落が存在し続けなければならないでしょう?

環濠集落とは、大陸文化そのものです。大陸では、ずっと以前から環濠集落や城塞都市が存在し、そしてずっと以降まで存在し続けていたのです。しかし日本の地では、弥生時代にあった環濠集落は、やがて無くなって行きました。戦争の形態が変わったのだと思います。どうしてそうなったのでしょう?

大陸から、皆殺し文化、略奪文化を持った者達が渡来した。いえ渡来者全員がそうだったとは言いません。おそらくそういう一団がいたという程度だったでしょう。しかしその文化は強烈です。容赦なく他者を巻き込みます。一時、彼らの文化が大手を振るうことになります。
しかしそれほど時を経ずして、縄文人が意識の巻き返しを図ったのだと思います。縄文人の意識とは、持てる持たざるの差があろうが、鉄器があろうが、戦争をしない文化です。

日本人は、ハッキリ認識するべきなのです。日本の地で、縄文人が一万年の平和を築いている間に、大陸では、皆殺しの文化が発達していました。その文化が、そのままの形で日本の地に持ち込まれたのが弥生の始まりです。繰り返しますが、環濠集落と言う形態は、大陸そのものです。居住地全域を、城壁で囲む文化ですから。それまでの日本には無かったし、それ以降の日本にもありません。

もちろん城郭都市・堺とか長島一向宗の居住地とか、一部の例外はありますよ。でも彼らは、一般の民とは別の括りでしょう。
民は常に無防備の里で暮らしていました。石垣で囲み防衛線を張ったとしても、それはイノシシ除けの「シシ垣」です。
たとえば戦国時代、戦闘員は敵の戦闘員と、無人の原野で戦ったのです。民は巻き込まない・・・ そういう矜持を持っていました。民家を焼き払ったりもしましたが、殺しまくったりはしていない。

弥生時代に行われた殺戮は、日本の他の時代では見られない様相を呈しています。その具体的な有り様についての言及は避けますが、それが行われた証拠はいろいろ出ています。この殺戮文化の到来によって、縄文人の意識は大きく変わりました。とてもそれまでの文化を維持することは出来なかった・・・ それは容易に想像が付きますよね。

しかしそんな凶悪な文化も、日本の地では収束を迎えます。それは縄文人が、意識の巻き返しに成功したからだと思います。縄文人の意識が浸透し、やがて和の心、やわらぎの心が生まれました。だから集落に環濠が無くなったのでしょう。

さて話は変わりますが、京都御所にはお堀りがありません。塀だって、簡単な造りの物です。その気になれば、容易に乗り越えられるし、打ち壊すことだって出来る。これは国家最高権威者の住まいが、ほとんど無防備だと言ってもいい、世界でも極めて稀有な例だと言われます。

世間では、弥生時代に皇室は誕生したと見るむきも多いようですが、私はこの点に非常な違和感を覚えます。この無防備さ、果たしてこれが弥生の意識でしょうか。 皇室は、弥生文化から起こったのでしょうか。
大陸には無い文化が大陸から伝わるはずが無い・・・ 自明の理ですよね。
この文化の根っ子は縄文にある・・・ 私はそう確信しています。

スメラミコトはタミをオオミタカラとし、タミの安寧の為に祈りを捧げました。コトダマの力を以って国民の為に祈る存在、それが天皇です。
大陸の歴史を紐解くと、何人もの王(キング)や皇帝(エンペラー)が存在していました。でも彼らの中の一人でも、国民の為に祈ったでしょうか。
よく天皇はキングではなくエンペラーであると得意気に言う人を見かけますが、天皇はテンノウでしかあり得ません。何語に訳そうと、テンノウです。

縄文の草創期、定住が始まったのきっかけに、おそらく聖なる地や忌みなる地も生まれたのだと思います。それが言い伝えられ、それらの地には何らかの標(しるし)が立てられたのでしょう。やがてその地に祠(ほこら)が建ち、それが神社になったのかもしれません。
事実、縄文遺跡の真上に立つ神社は、全国的に見てもすこぶる多いのです。考古学者はその件に、まったくの無関心ですが。

エジプトのルクソール神殿やギリシャのパルテノン神殿、そこを訪れるのは観光客です。あるいは研究者が日参したりもするでしょう。しかし残念ながら、信者が訪れることはありません。信者は、絶滅してしまいました。大陸の歴史において、信仰の断絶は数知れず起きて来ました。

ところが日本の神社信仰は連綿と続いています。うらぶれたヤシロであったとしても、それは現役の信仰の対象です。
神社の根っ子は1万年前にある、私はそう確信しています。外形的な様式については、大陸からの影響も受けてはいるかもしれません。古代イスラエルの民が大勢帰化し、神社や皇室に影響を与えたのだと言う人もいて、確かにそうなのかもしれません。
ただ私がここで言っているのは「根っ子」です。
皇室と民との関係を支えて来たもの、それは間違いなく縄文の意識であると私は確信しているのです。

令和 5年 2月 23日      スメラギ イヤサカ



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