グリーニー〜伝説のギタリスト、ピーターグリーンからゲイリームーアに引き継がれた伝説の59年製レスボールその2

さてその1では本題と関係ないことを長々と記述してしまっただが、今回はいよいよ本題に入ろうと思う。
フリートウッドマック、実はピーターグリーン在籍の頃の音楽は聞いたことがないのだが、ピーターのあの有名な59年製レスポールがなぜゲイリームーアに渡ったのかを記述する。
その1で記述した通りギブソンレスポールのバースト塗装は発売当時人気がなく短期間での製造に終わった。レスポールがミュージシャンの間で再注目される様になったのは製造中止後10年近く後である。代表的なのはエリッククラプトン、ヤードバーズ脱退後に自己名義で再デビューしたジェフベックくらいであろう。そのジェフベックも自作ではストラトをメインにしている。
再注目されたと言ってもミュージシャンの間でも限定的であったレスポールはピーターグリーンにとって売却してもいいギターだったのだろう。
ピーターはゲイリーに無償で提供したのではない。まずはゲイリーに売却を持ちかけた。当時駆け出しのミュージシャンであったゲイリーはピーターの言い値にうんとは言わなかった。その代わり彼は自分が持っているギターと大金ではない対価を併せてピーターのレスポールとの交換を持ちかけたのである。
ご存知の方も多いと思うがピーターは音楽業界に嫌気がさしていたのかメンタル的に活動できなくなっていたのかはよく分からないが彼が惜しまれつつも音楽業界を去ったのは周知の事実である。
ピーターは音楽業界を離れるために一時的にでもお金が必要だったのかも知れない。
こうしてゲイリーの交渉に応じた結果、ゲイリーはピーターグリーンの、後に伝説となる59年製バーストレスポールを手に入れることになったのだ。
ゲイリーが手持ちのお金にプラスして交換に差し出したのはレスポールjrとも言われている。ギブソンがいわゆるステューデントモデルとして廉価でリリースしたモデルである。それくらい当時のバーストレスポールの価値は低かった。
ゲイリーはその後ライブでもいわゆるグリーニーを頻繁に使う様になる。ゲイリーの演奏動画で頻繁に出てくるピックガードを取り払ってその部分の一分が削れ上がっているあのレスポールである。
その後バーストレスポールの市場価値がどんどん釣り上がってもゲイリーは要所要所で使っていた。そのサウンドに心底惚れていたのであろう。
しかし突然転機が訪れる。
自分は覚えていないがある国でのライブの直前、ゲイリーは体調不良のためライブをキャンセルせざるを得なくなる。
そこはビジネス、サラリーマンが有給を申し出る様にはいかない。結局ライブをキャンセルせざるを得なかったゲイリーは多額の賠償金を払うことになる。その額は日本円のレートなら億単位、自分の記憶が正しければ当時のレート80-100円でも1億だったと思う。
1980年代にアップルの共同創業者スティーブウォズニアックがアメリカで大規模ロックフェスティバルを開催し、出演者の1組ヴァンヘイレンが当時市場最高のギャラ2億円を獲得して話題になったが興行全体ではその数倍くらいかかるのが普通ではないか(事実ウォズニアックは興行収益としては赤字だった)。
そうしてゲイリーは多額の負債を負うことになる。なぜ保険をかけなかったのか?今だに不思議なのだが。
そうしてゲイリーは手持ちの楽器を売ることになる。
ゲイリーは実は59年製バーストレスポールを持っていた。一つはピーターグリーンから引き継いだレスポール、もう一つは別ルートで保有したものであった。しかしもう一つの方は車で移動中に交通事故でネックを折ってしまいリペアしたものだった。
突然使用傷以外はなくピーターグリーンから引き継いだという伝説を纏ったレスポールの方が鑑定額は遥かに高かったであろう。
そうしてゲイリーは泣く泣くグリーニーを手放すことになった。その額は数千万円から一億と言われている。

その後グリーニーは右葉曲折メタリカのカークハメットが買い取ることになる。ゲイリーがいくらで売却したのかは明らかではないがカークが買い取ったと言われる価格を聞くとゲイリーの売却価格は言うほど高くなかったのではないかとも思わされる。それを考えると少し寂しい。カークが買い取ったグリーニーのコピーモデルにギブソンがゲイリーの名前を付けていないのも、ゲイリーファンだった自分としては残念だ。
しかしカークはグリーニーをコレクションの一つに加えず、メタリカのレコーディング、ライブでも積極的に使っている。
ピーターグリーンにとってもゲイリームーアにとっても本望だろう。伝説を纏った楽器はショーケースに展示されるより演奏者に使ってもらう方がよっぽど嬉しいだろう。

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