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第二次大戦を生き延びて③

(2) 空襲と機銃掃射の恐怖 広東はその後もたびたび空襲を受けており、1942年北回帰線の通る港町の汕頭に移ったときは空襲がなくホッとしたのだが、それもつかの間だった。 1944年,戦争の最終段階に入ると、週に2-3回の空襲が始まった。目標は日本軍の軍事施設だが、幼児、子供を含む一般市民も爆撃と機銃掃射でたびたび殺されていた。戦争での殺人に例外はないのである。 空襲が始まると、私の家族は、自宅一階の半地下式防空壕に退避する。天井と壁は厚さ30センチの鉄筋コンクリートで覆われ、

    • 第二次大戦を生き延びて②

      (続き) 1941年12月8日の開戦の詔勅は、広東の英国疎開地紗面の二階建てビルの社宅で聞いた。会社の若い方が二名おられ、父と三名で聞いているのを覚えている。人には話せないことだったが、アメリカには到底勝てないだろうということで三名の意見が一致していた。商社の人間として、物資の豊かさでは日本はとてもアメリカの敵ではないことを普段から知っていたからであろう。 その後首相となった芦田均が広東に来た折り、父が車で市内を案内しているが、この時芦田は「何で勝てない戦争を始めたのかねー

      • 第二次大戦を生き延びて①

        Ⅰ. 中国南部の大都市広東(現在の広州)と帰国の旅 1. 空襲に追われた小学校の5年間 (1) 中国南部の都市の空襲は米空軍基地の桂林が拠点 1934年東京で生まれ、父の勤務の関係ですぐタイに移る。1939年までバンコックに在住、中国南部の広東(今の広州)には1942年まで、その後汕頭へ移動し、母、家族の一員だった茨城県出身の看護婦北村やすと子供たち3名の合計5名は、1942年汕頭を離れ上海経由で同年5月に東京へ帰ってきた。父は現地の収容所で1年過ごし、翌年引き揚げ船で帰国し

      第二次大戦を生き延びて③