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鏡の中の音楽室 (13)

第一部 さくら と まゆ
第5章 合唱コンクール(5年3組さくら編)


次の5年2組の曲は「太陽がくれた季節」だった。これは昭和のドラマの主題歌で、終始テンポが速く情熱的な曲であった。しかし、さくらにはその曲を聴く余裕がなかった。さくらはあれこれ考えるうちに『迷宮へと迷い込んだ旅人』のような気分になってしまっていた。
5年1組の合唱が終わった後、1組のみんなは満足そうな表情や会話をしていたが、まゆは暗い表情で下を向いていた。周りからは「上手だったよ」という声も聞こえてきたが、まゆはそれらにも反応しなかった。さくらは自分がどうしたらいいのかわからなくなっていた。まゆは昨日まで意気込みアレンジして勇をびっくりさせようという計画を立てていたのに、それが実行できなかったのだ。「普段通りに演奏する」とは何なのか?さくらの緊張感はこの疑問とともに最高潮に達していた。
 
「5年2組の皆さんでした。それではプログラムの横のコードから採点をお願いいたします。5年2組の皆さんありがとうございました。続きまして5年3組の皆さんです。それでは合唱の準備に取り掛かってください」
 
さくらに答えが出ないまま司会進行がなされた。
 
『まゆ・・・まだ下を向いているの・・・ファイトを頂戴。私はどうやって演奏したらいいの・・・』
 
さくらはまゆのほうを見ながら、指揮者とともに舞台袖にスタンバイした。するとまゆがうつむきながら上目遣いでさくらのほうにこぶしを突き出し、親指を立てたのである。それには『さくら、私の分まで頑張って!』という意味が込められており、さくらもそれは理解していた。それを見て、さくらもまゆへ同じように返した。しかし、さくらの心の中は、標識のない分岐点で、どこへ向かえばいいのかわからない観光客が楽譜をという地図を片手に持ち、しぶしぶ「普段通り演奏する」という方向の道をわなわな震えながら見つめ途方に暮れているという状況に似ていた。
 
「ありがとうございます。5年2組の採点を終了いたします。それではお待たせいたしました。次は5年3組の合唱となります。ピアノ伴奏者は安達さくらさん」
 
盛り上がっている会場の雰囲気とは裏腹に、異様なさくらの表情に気づいたのは、まゆ、さくらの家族、まゆの家族だけであった。
 
「指揮者は大西圭さんです。大きな拍手をお願いします。曲目は『オーシャンゼリゼ』です。それではお願いします」
 
この時、さくらにとって司会者の言葉や会場の歓声そして拍手が、まるでプールの底に沈んだ時に聞こえる外からの声や音のように聞こえていた。練習してきたアレンジ、感情を乗せた演奏、今まで培ってきたすべての経験が体の隙間という隙間からすべて漏れ出していき、もうさくら自身にもどうすることもできなくなっていた。
 
『もう、何をしたらいいのかわからない・・・大西君の指揮に合わせて、楽譜通り弾くしかできない。あれだけ余裕で弾くことができていたはずなのに、頭の中に楽譜が浮かんでこない。とりあえず楽譜だけでも広げておこう・・・・まゆ・・・・いつもどおりがもうわかんないよ…』
 
さくらは高熱が出たときのフワフワした感覚に似た状態を感じながら、指揮者の両手が動くのを待った。そして、曲が始まった。さくらは楽譜通り演奏するので必死だった。一番のサビの部分で会場から手拍子が起こる。その雰囲気に乗って、クラスメートの合唱の声が少し大きくなった。そして、指揮の大西君がさくらに手で合図を送ってきた。手のひらを上にし、上方にちょんちょんと2,3回振り上げる。
 
『あれは「私に少し音を上げろ」という合図だけれど、ここでまゆは失敗したんだ。けれど指揮者の指示に従ったほうがいいはず・・・後で戻すことを忘れないようにして少しだけ強く弾こう・・・』
 
さくらは自分の意志ではなく、あくまで指揮者の命令だということで自分自身を納得させて指揮に従った。さらに1番と2番の間奏に入ったとき、指揮の大西圭はさくらに『そのままを維持せよ』との指示を出していた。
さくらは、まゆが失敗した部分を、そのまま自分がやらされていることにかなり不安を感じていた。しかし、その時の会場はさらに手拍子が大きくなっていた。
 
『これはかなり手拍子の音が大きくなってきているなぁ。このまま2番に突入すると最初の柔らかな部分が台無しになってしまう。よし2番に入ったときに少しボリュームを下げてみよう』
 
指揮の大西圭は音楽室での音と歌声、体育館での音と会場の声や拍手との違いで雰囲気が変わってきていることを敏感に感じていた。そして、彼はこの曲を『最初の部分で、なにか期待感を持たせ、サビではその期待感が現実に迫ってきた軽やかな歌い上げが必要である』ことに気が付いていた。つまり、『表情を柔らかく、にこやかな表情で歌い上げること』に徹しなければならないことを熟知していた。そして、2番に入る前に大西圭は満面の笑みを浮かべた。それにクラスのみんなは呼応する。さくらも笑顔を浮かべるが、必死で楽譜通りにピアノを演奏していく。最後には会場が一体となって手拍子が起こる。5年3組の「オーシャンゼリゼ」は観客から大喝采を送られて終了した。
 
「よかったー」
「さくら、お疲れー!ピアノよかったよ。うたいやすかったー」
「大西君2番の笑顔よかったよ、つられて笑顔になったよ」
「今までで一番気持ちよかった!」
 
クラスのみんなは達成感と満足感で抱き合って喜んでいる。ただ、さくらだけは違っていた。
 
「ごめん。みんな私…そんなに貢献できてないよね」
 
さくらがそういうと、何人かのクラスメートたちは
 
「今までよりなんか歌いやすかったよ。ピアノが引っ張っていくって感じよりピアノの音と一緒に歌えたって感じがしたよ」
 
さくらはこの言葉を聞いて、ピアノが曲を引っ張ったわけではなく、圭君がこの曲を引っ張っていたことがよくわかった。
 
「さくらさん、圭君。いい作品に仕上がりました。ありがとうね。みんなもこれまでとは違ってよく声が出ていました。わたしは皆さんに満点をあげましょう」
 
全員がステージを降りたところで担任の臼杵先生に呼び止められ、褒められた。
 
『大西君のおかげだ。わたしは何もしていない。観客の人たちやクラスの人たちはそれでも私に声をかけてくれるんだ・・・』
 
さくらは涙さえ出なかったが、悔しくて目頭を熱くさせていた。
 
「さくら。よかったよ。楽譜通りのいい演奏だったよ。どうしたの?落ち込むような演奏じゃなかったよ。」
 
さくらたちが席に戻ろうとしたときに、5年1組の席にいたまゆが声をかけたが、さくらは何も言わず首を横に振ってその場を通り過ぎた。

第五章 合唱コンクール(5年3組さくら編) 完

次回 第五章 合唱コンクール(さくら と まゆ 完結編)

(鏡の中の音楽室 第一部 さくら と まゆ)

(タイトルの画像は「気持ちよさそうにピアノを演奏している女の子のバストアップ」というお題でBing Image Creatorが作成した作品です)
 

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