『悪は存在しない』は嘘

悪の正体それは濱口竜介さんあなたです。

あらゆる現実を避けてきた私に対して、この作品はあまりにも酷だった。
この作品が評価されることを心の底から憎む。

現実とは何かという疑問を私に投げかけることは次に悪だ。そういう人たちは私にとっての現実であり、私をこうさせる全ての元凶だということを肌身を持って実感しなければならない。

あらゆる流れの中で私は抵抗してきた。その過程が今であり、この姿勢を今後とも崩す気はさらさらない。私は恋愛と革命を愛しているし、私に抵触することがあれば、いつか必ず非殺害で結果を示すだろう。

私は何も血生臭いことをしたいわけではない。でも全てが否定されたような気がして、とてもとてもショックだった。だから反動としてこれを書いてしまう。芸術とは最もラジカル行為である。

私が一番この作品を許せないのは、この現実が広がりを見せないことだ。私の映画鑑賞履歴は『瞳を閉じて』→『ブルーロック』→『悪は存在しない』なのでそのせいでもあるだろうが、この作品は木が、自然が、(人間が)水のように流れるのと同時に、ビクトルエリセのような空間の広がりがまるでなかったし、青い監獄などは眼中にもなかったように思えた。むしろ、動作そのものを映画の比率に落とし込み、車の動線を揺れの中に押さえ込む。この作品を観て現実に対して私たちはこれ以上のことが本当に考えられるだろうか?私たちは本当に考えさせられたのか?それはすごいことなのか?

久しぶりに楽しい映画をみたなと感じた。時間が溶けて、もう終わりー?と余韻に浸ったのはいつぶりだろう。私の防衛本能が脅威に向かって発射する。決断はなく、すでに実行されている。喜びに浸っているのではなく、溺れているのだ。この世界を肯定してしまったとき、私はこの外側にいるものたちを絶対に蔑ろにしてしまう。面白かったではなく、否定的に摂取しなくてはならない。

だんだんとポエムになってきたのは、映画を観てからだいぶ時間が経ってしまったためだ。もう正直あまり覚えていない。私が言いたかったことなどほぼおぼえていないし、もうそれを発信する気力もない。でも悪が存在しないなどということはない。悪は必ず存在し、悪は必ず裁かれる。私たちは理性も感性も持っているが、だからといってそれが正当化されることはない。ある意味で、神の法がそれを定めている。エモーショナルな態度は人間を描くということではなく、映画においてそれはただの悪である。

私はジョン・カサヴェテスがきついということをいっているのではなく、悪は存在すると言っているのである。現実とはそのような混沌でなくては、生存権拡大が正当化されてしまう。

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