「ひゃくえむ」-息が出来なくなるほどアツくて死にたくなるほど面白い漫画-

「ひゃくえむ」をご存知だろうか。漫画大賞2年連続ノミネートされた「チ。」の同作者、魚豊先生のデビュー作であり、陸上競技を題材としたスポーツ漫画である。
マガポケで連載されていたが、人気は出ず、単行本になるのが遅かったが、漫画好きの間で評判が高く、「チ。」影響によってより知名度を上げた作品である。

・天才が凡人になるお話

この作品を簡単に説明すると、小学生の時にめちゃくちゃ足が速くて、ただそれだけがアイデンティティだった主人公トガシが、年齢を重ねる事によって、成長の限界、自分より才能がある人の出現、自分より才能はないけど自分より努力する人の出現といった要因からだんだんと「天才」から「凡人」になるお話である。

・足が日本で1番速い"だけ"の少年「トガシ」

主人公トガシは足が速い事で全てが解決した。友達も地位も足が速いだけ手に入れる事ができた。
走るのが好きなわけではない。全く努力をしていない訳でもない。ただ「足が速い」ことそれ自体が自分なのであり、それ以外で自分という存在を証明出来ないのだ。不満もない、不遇もない、熱もない、それが主人公トガシである。

・辛い現実から目を背けたい少年「小宮」

トガシの小学校に転校してきた少年「小宮」。暗い性格から彼は周りに馴染めず、初日からクラスでいじめられてしまう。転校初日、下校してるトガシは全力で走る小宮と出くわす。
トガシはどうして走っているのかと小宮に聞く

小宮「現実的より辛い事をすると現実がぼやける」

小宮は走るという行為をある意味で自傷行為のような形で行うのだ。ゴール決め、それに向かってただ全力で走る。息は上がり脳は酸欠状態になり、足には乳酸が溜まる。なにも考えない。ただ走る。現実に干渉しなくて済む。

トガシ「それってなんか、もったいなくない?」

トガシは走る事で現実を手に入れてきた、しかし彼はとは全く反対の存在が目の前に現れた。
理解できない存在。

トガシ「どうせ走るなら速い方が良くない?」

走る事で現実から逃避する小宮、走る事で現実を手に入れるトガシ。真反対の2人が出会い、物語は進む。

・超えられない現実に手を伸ばす小宮

トガシからのアドバイスによって小宮はみるみる100mのタイムを縮めていく。それに伴い、クラスではカーストが上がり、小宮をいじめていた人はだんだんいなくなる。

みるみる速くなる小宮、しかしもちろん日本一であるトガシとは比べる程ではない。それはあくまでクラスで速い方であるだけだ。しかし、小宮は恐ろしい程の努力をする。走り方も無茶苦茶。ある日小学校に陸上日本一の中学生が陸上を教えにくる。トガシに対しては「君はまだ自分の才能に気づいていない」と述べる程の賞賛。一方小宮に対しては「君は走るの向いていない」「走り方無茶苦茶過ぎる。壊れる」と言われる。しかし、小宮にとってその言葉は対して響かなかった。速くなくていい。ただ走る。それだけが小宮にとって生きる希望になっていたのだ。練習して、頑張って、ちょっとずつ速くなって、別に越えられない壁があってもいい

「キミ(トガシ)には勝てない」

その日の下校中、小宮とトガシは話す。
小宮は速くなればなるほど分かってきた現実。
トガシを超えることは、トガシより速くなるとは出来ない現実。

「でも、同時に不思議な事が起こってる。」

「これはぼくにも全く予想外の事態なんだけど」

「なぜか、納得していない」

トガシは返す

トガシ「小宮くん、競争する(やる)気か?」

小宮「うん。もちろん(ガチ)で」

トガシと小宮は競争する。それはお互いの何かを変えてしまう行為だと、お互いに分かっていた。
鐘の音とも共に走る2人。
トガシが当然大きくリードする。いつものように、リズムよく呼吸をし、歩幅を間違えなければ勝てる相手。問題はない。問題はないはず。だけど確かに聞こえる。

何かが来る音。

それは確かに近いづいている。

経験した事ない恐怖。

その存在が小宮とするならば、彼は、自分より速い速度で走っているという事。

それは恐怖であり、それは現実である。
その現実からトガシは逃げる(走る)

結果は、トガシがギリギリの勝利。
小宮は奮闘したのだ。

しかし恐ろしい事実を目の当たりにする。実は小宮の足は昨晩から折れていたのだ。練習による疲労骨折だ。
トガシはある一つの、そして考えた事もない仮説を立てる。もしかしたら、万全だったら負けていたのかもしれない。負ける。考えた事もない。負ける事という行為は自分にとっての死を意味する。アイデンティティの喪失。自分が自分ではないという証拠。走るのが日本一速い。信じたくない、見たくない現実。
トガシはその現実を逃避し続けなければならない。0.000001秒でも人より速くなければならない。現実から逃げるために彼はその現実が追いつく速度よりも速い速度で走り続けなればならない。


現実逃避のお話

これは現実逃避の話である。このあとに、小宮は転校し、お互いそれぞれ別々の道を歩く事になる。
このあとに高校部活動編、全日本編とあるが、一貫して「現実逃避」と「走る」がメタファーとして表現されている。

後に全日本編では万年日本2位の海棠というキャラが出てくる。彼はこう述べる。

自分には様々な現実がある、絶対に勝てない存在がいる現実、下の世代が猛追してくる現実、年老いてく現実、遅くなる現実。しかし、なぜだか自分には「まだ日本一になれる」という気持ちかある。その自己肯定を裏付けるのは、「現実逃避」だ。

曖昧で申し訳ないがニュアンスとしてこのようなセリフを述べる。

作者である魚豊先生は「夢を諦めない」という理屈の本質に「現実逃避」がある事を主張する。
残酷な意見であるが、間違っていない。

100m走、時間にしてわずか10秒。「現実から逃避」した人達のお話。その距離に全てを賭けた男達の物語。


感想

読んでない方に向けて描きたい。この作品は元気な時に読んで欲しい。または、何かに熱中したい時、何か目標が欲しい時に読むべきだ。
気を付けるべきはこの作品を読む事によって人生を変えてしまう可能性がある。これは漫画を推し出すための歌い文句ではなく、本当に変えてしまうかもしれない。
これはエンタメ漫画ではない。
息がしにくくなるほどアツくて、死にたくなるほど面白い。そんな作品である。



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