sonny boy-アニメ史上1番素晴らしい最終回-


サニーボーイを観たこのない方は観た上でお読み下さい。大ネタバレです。

長良という人物は異世界においてセカイを変える能力を手に入れ、様々な体験を通して充実した日常を過ごしたが、現実世界では、家族とは上手くいかず、肩をぶつられては怒られ、バイトでは怒られ、特別な能力をもたない凡人であり、充実しない生活をおくっている事を強調している。凡人な主人公が異世界に行き、特別な能力を得るというのはごくありがちな設定であるが、この作品では全く逆の展開を最終回に用意したのだ。なぜ作者はこの展開を用意したのだろうか。この作品のテーマとして「現実に向き合う」というのがあると考えた場合、ハッピーエンドを描くのはナンセンスなのだ。もし、家族とも、友達とも上手くいき、恋人が出来たりなど充実した生活をおくる長良が描かれるとすれば異世界にいるのと変わらないのだ。長良が異世界に居続ければ能力によっていつかその世界に辿りつく事が出来たかもしれない。しかし元の世界を選んだ長良にはそうではない現実が待ち構えている。視聴者が求めるような長良と瑞穂の幸せなハッピーエンドを描いてしまった場合、それ自体がアニメーションとしてストーリーとしての都合の良い展開になってしまい、現実と向き合うというテーマには沿わなくなってしまう。長良と瑞穂にあえて酷な展開を用意することでフィクションと我々が実際にいる現実とのリンクを計ったのではないだろうか。瑞穂が最初に記憶を無いふりした理由について、おそらく愛猫が亡くなり、現実逃避を行うために再び漂流を起こしたかったのだろう、だから夜中に学校に入るコップを割るなど、漂流のトリガーとなる行為を行った。しかし能力は使えず漂流を起こす事は出来なかった。彼女は長良に「ラジタニのオウムは笑う」と言う事で漂流出来ず、能力の使えない現実向き合う事を覚悟したのだろう。私たちはいくら走る練習をしてもボルトよりも速く走る事は出来ないし、木村拓哉のような美男や橋本環奈のような美女になる事は出来ないし、行きたい会社に行くことも、とてつもない豪邸を買うことも、芸人になって売れること無いかもしれない。結果の用意されたこの現実では結果を変えることも、世界を変えることもできない。しかし可能性というサイコロを何度でも振り直す事は出来る。それが幸か不幸であるかもしれない、もしかしたら死ぬかもしれない。確率は操ることのできないがそれでも現実と向き合えという思いをこの作品は伝えたかったのではないだろうか。

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