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獺祭忌 正岡子規:愉快譚 仰臥漫録

1902年(明治35年)9月19日は俳人、作家etcの肩書を持つ、文豪、正岡子規の命日です。

正岡子規は、明治34年9月から「仰臥漫録」なる書物を著述し始めました。
ただ、これは小説としての作品を意図したものではなく、死を間近に感じるようになった己の内面を吐露している日記という位置づけです。

遡ること、明治21年に至ります。
旅行中に最初の喀血を覚え、その後医師から「不治の病」と宣告され、いよいよ死期を悟った子規は、血を吐いて絶命するホトトギスに自身を重ね合わせて子規の号を称するようになりました。
※それまでは(常規・つねのり)が本名としていた。
そして「医食同源、食こそ治療薬」との、確固たる認識のもととにかく大食に邁進していました。

朝から、粥3杯 菓子パン 佃煮 牛乳のココア入りなど
今に言うところの「ギャル曾根」もどきでした。

本当に医食同源の詔を信仰したのか、食が唯一の楽しみであったのかは分かりませんが、胃腸の方が心配になるのではというような大食漢に変身したようです。

翌年には、執筆活動も衰えて行くものの、「病床六尺」なる闘病日記を随筆しています。
また、死後の始末についての遺言を読み解くに、傾奇者ではないのかという感想を抱きます。
以下のように詳細に残されています。
限定列挙すると

・弔報は無用 → 人が押しかけて混雑する
・友人の弔辞も無用
・戒名もいらん → 長ったらしいのは嫌だ
・墓石は自然石は嫌だ
・みんな泣くな、笑って談笑しろ
などなど・・・

更に生前の逸話として

・苦手な英語試験でカンニングをしたjudicature(司法行政)の意味が分からず、隣席の受験者に耳打ちされたところ「ほうかん」と聞き及び答案に「幇間」と記載したが正解は「法官」だった。
しかし、子規は合格して隣席の男は不合格だった。

・夏目漱石に「ウナギを奢る」と誘っておきながら逆に奢らせた。

・「柿くへば鐘がなるなり・・」の名句は、漱石の作品で「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の返礼句である。

余命を宣告された後も「寿命は己が決めること。やるべきことを成すまで。」と断言して執筆活動に勤しんだ生涯。
34才の若さで夭折した孤高の天才、今でも、学ぶことが多いその生き方ですね。

つらつら思うに、もし子規がNOTE家の一員であったらと思うと、どんな食レポがあるのかと、巨匠を前にして鈍麻な妄想している私でした。

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