他人のための行動による見返りは、即時的・直接的ではない

皆さんは普段から他人のための行動をしているでしょうか。
困っている人の手助けをしたり、忙しい誰かの代わりに何かしてあげたり。
ちなみに私は優しさの欠片も無い人間なので、他人のために時間や労力を費やしたことがありません。

また皆さんは、他人のために何かすることについて、どのようにお考えでしょうか。
私のように全く人のために動かない人間というのも冷たくて嫌な奴という印象を持つかもしれませんが、
かと言って、普段から他人のために進んで動くような人も、見返りを求めているような人だったり、あるいは人のために何かをするのが当たり前だからと周りの人にも気遣いを強要したり、そういう面倒臭いイメージもあるかもしれません(私は最近までそう思っていました)。

とは言え、他人のための行動をする人々がいるお陰で、自分が助かっていることも多いのも事実です。
みんながみんな自分本位に生きていたら社会は上手く回りません。
では、他人のための行動というのは、本来どうあるべきなんだろうか。
ということを最近考えていて、思いついたことを書いていこうと思います。

人の為の行動が自分に返って来るまでの流れ

人の為の行動は、巡り巡って自分の為になる。
ただしそれは、即時的、直接的なものではありません。
例えば誰かの作業の手伝いをしたとして、その相手から直接お返しやお礼をされるとは限りません。
でもそれは決して悪いことではないのです。
何故なら、あなたのサポートによりその人の作業が捗れば、その作業が別の誰かの作業を捗らせたり、生活上のトラブルを減らしたりして、そうやって誰かの役に立つ連鎖が続いていけば、最終的に、間接的ではありますが自分の為になるかもしれないからです。
社会というのは一人ひとりが微力ながらも影響し合うことで成り立っているのです。

イメージしやすいように具体例を挙げて説明しましょう。

例えばあなたの家族(親とか配偶者)が医者だとします。
その病院には毎日沢山の患者がやって来て、医者であるあなたの家族は毎日とても忙しそうにしています。
どんなに患者が多くても、時間にも体力にも限界があり、1日に診れる患者に限りがあるため、遅い時間に来る患者は診察できなかったりしてしまいます。
そんなある日、偶然あなたが暇だとします。
そこで、医者である家族のちょっとした手伝い、例えば食事をすぐに取れるように準備をしておくとか、車で職場に送り迎えするとか、家に帰ってからのちょっとした家事やら名前のない雑務やらを手伝ったとします。
そうすることで、少しではありますが、医者に時間や体力の余裕が生まれます。
その結果、今までより多くの患者をみられるようになるとします。
この時点では病人でも何でもないあなたには何の見返りもありません。
しかし、そこで診察や治療を受けられるようになった患者の中に、何かのイベントのスタッフがいるかもしれません。
早めの診察と治療を受けられたお陰で、そのスタッフが携わっていたアイドルのライブが予定通り行われるかもしれません。
そしてそのアイドルのライブが、まさにあなたが行きたかったライブかもしれません。

あるいは、そういう良いことが起こるって話じゃなく、何か嫌なことやトラブルが起こる可能性が低くなる、という見返りかもしれません。
あなたが誰かの手助けをすることで、過労とかストレスで病気や怪我をする人が減り、医療の現場に余裕が生まれて、あなたがいざという時にスムーズに助けてもらえる、みたいな。

……例えがわかりづらかったな。実際はこんな直接的じゃなくてもっともっといろんなものを介して進むわけですよ。

まぁ例えを出すのが難しいってのは、逆に言えば何にでも当てはまるってことです。なんか医療系の例えを出してしまったけど、別に医療に限らずどんな職種でも、あるいは仕事でも何でもない些細なことでも、何か良い影響や流れを起こすきっかけになるかもって話ですよ。

要は、あなたが直接手助けした相手からではなく、その相手を介して巡り巡って助けていった他の誰かによって、あなたに見返りが来るかもって話です。
社会におけるあらゆる作業や生活の一つ一つは繋がっていて、1つ何かがうまく進めば、それに繋がっている他のこともスムーズになったり、良い影響を及ぼしたりして、良い連鎖が起こっていくわけです。社会の流れがより効率的になる、と言えばわかりやすいかもしれません。

説明が難しくて投げやりになってるけど許して。大した話はしてないから察して下さい。

直接的な見返りを求めてはいけない

巡り巡って自分の為にもなる、という話を先ほどしたわけですが、
かと言って、助けてあげた相手からの直接的な見返りを求めてはいけません。
その助けてあげた相手には、その人のやらなきゃいけない作業や生活が他にあるわけで、そもそもあなたの手助けというのは、その作業を円滑にスムーズに進めるための手助けなのですから。
でも人助けが全く自分の為にならないというわけではありません。ただし自分の為になるのは、先ほど説明した通り、色んな出来事や多くの人々を介して、巡り巡って自分にやって来るのです。
あなたが手助けした相手の作業が直接あなたのためにならなくても、それは巡り巡ってあなたのためになるわけだし、
そもそも人にはそれぞれのやるべきことや向いていることがあるんです。適材適所こそ効率が良いのです。あなたとは別の役割を持つ他人の仕事や努力にどんな意味があるのかなんて、赤の他人であるあなたにはわからなくて当然なのです。あなたに直接わかりやすい見返りを寄越してくれないからと言って相手を責め立てたり、お礼をすることを強要したりしては、むしろその社会の流れを妨害することになってしまいますし、そもそもそうやって強要して得たお礼やお返しなんて虚しいだけですよね。
社会の良い繋がりを、良い連鎖を、スムーズな作業の流れを妨害しないためにも、直接的な見返りを求めてはいけません。


“人の為の行動”を他人に強要してはいけない

相手からの直接の見返りを求めることだけでなく、
“人の為の行動”を過度に他人に強要してはいけません。

確かにここまで、他人のための行動は社会にとっても自分にとっても良いことだと説明して来ました。しかし、自分自身のやるべきことを疎かにしてまで他人の手助けをしていては本末転倒です。
先程少し述べたように、適材適所こそ効率が良いのです。明らかに自分に向いてないことをしてまで他人の手助けをしようとしてもお荷物になるだけです。
それに、疲れてるのに無理して他人を助けようと頑張って、怪我したり病気になったりしたらむしろ迷惑です。
他人のための行動は、あくまで自分に余裕がある時で、かつ、自分にとってその手助けが苦ではないときに限ります。

周りに暇そうにしてる人がいるからと言って、その人に「暇なら他人のために動け!それこそが社会のためにも自分の為にもなるのだ!」などと強要してはいけません。
その人にはその人のやるべきことがまだ残っているかもしれない。
暇そうに見えても何かやるべきことをやっていたり、考え事をしたりしているのかもしれない。
あるいは、周りの人の手助けをしようにも、それがその人にとって苦手なことなのかもしれない。
それとも、暇なのは確かだけど疲れていて休息が必要な状態かもしれない。

必要なのは、暇で、体力的にもある程度余裕があるときの、自分にとって苦ではない手助けなのです。

私がさっきから言ってる適材適所が何なのかと言うと、人によって何がストレスになるのか、何が嫌で何が楽しいかは違うんだよって話です。
単純作業が好きな人もいれば、ストレスになる人もいるし、
人と話すのが好きな人もいれば、吐くほど嫌でたまらないという人もいるんです。

だから、他人の価値観や気持ちや能力や考えをろくに理解もしてない赤の他人である立場のあなたが、他人に人助けを強要してはいけません、ということです。


最終的に私が何が言いたかったかっていうと、それこそ適材適所みたいなことです。
あと、むやみやたらに人助けしようとしたり、
逆に闇雲に自己犠牲っぽいことを馬鹿にしたりするのはおかしいって話です。

ここ最近では自己犠牲の精神とかは馬鹿にされがちで、自分の好きに生きよう!みたいなのがかっこいいと思われがちですが、
だからと言ってみんながみんな自分本位に生きたらむしろ自分の首を絞めることになるわけですよ。
自分が嫌な思いをしてまで他人のために何かするのは確かにおかしいけど、
だからと言って他人のための行動は一切合切やめるべきだ!ってのもおかしな話ですよね。

さっき言ったように、社会ってのはどんな些細なことでも繋がってるわけだから、あなたが何かをサボったり、人に迷惑をかけたりしたとき、それ自体は誰かが尻拭いをしてくれるかもしれないけど、その尻拭いの皺寄せも巡り巡ってあなたに影響を及ぼすのです。

とにかく社会は繋がっているんです。
限られた人材、人という資源を効率よく配置して社会を回していくには、より自分が快適に生きるには、自分にとってそれほど苦ではない程度の手助けを、各々がお互いにすること、それが、Win-Winな関係、Win-Winな社会、ってわけです。

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