「“一○○万貫”のいくさ 一天正小牧長久手合戦始末異聞」その1 (全8回)
部屋の隅で竹千代は書物を読んでいる。師の太原崇孚から薦められた「吾妻鏡」は斜め読みしてほったらかしていた。
竹千代にとっては、「吾妻鏡」は腑に落ちないことばかりであった。「吾妻鏡」よりも「太平記」の方を竹千代は熱心に読んでいた。
ところどころ本筋がずれて取り止めの無い箇所もあったが、それもむしろ竹千代には好ましかった。
書物を読む竹千代の目の前を、侍の衆が上へ下へと女房衆は右へ左へと、あわただしく行きかっている。
今川館はとかくさわがしい。駿河の大名、今川家が急速に伸びている証しでもある。そんな中、女房衆の目下の関心事は今川家の若殿である今川氏真に誰が嫁ぐのか、ということであった。 ふとみると、部屋の隅では書物だけが置かれ、竹千代の姿は消えていた。今川館で気に留める者は誰もいない。
竹千代は今川館を抜け出し海の方へ歩いていく。日はてっぺんよりやや西に傾き、白浜に波は静かに寄せては返していた。 海岸では、佇まいは松のよう、体格は鶴のような、身の丈六尺ほどの男が釣り糸を垂らしていた。 男「釣れんのう。あー、どひゃーっと鯛が十匹ぐらい釣れんもんか」
竹千代「何をしとるんじゃ?」
後から声をかけられ男は驚いた「おう、なんじゃお主は。釣りじゃ、見たことないのか」
竹千代「ほう。これが釣りか」
男は竹千代の格好を見るともなしに見る。仕立てがよく、きちんと洗濯された着物を着ている。 男「お主、名は?」
竹千代「えーと、くらのすけ、じゃ」
男「くらのすけ。富限者のような名じゃな」
竹千代「そなたは?」
男「それがしは、弥八、じゃ」
竹千代は弥八の身なりを見る。 小ぶりの鍋、火打石、墨入れ、あとは使い道のよく分からないものがごちゃごちゃと風呂敷から飛び出している。
竹千代「わしも釣りが出来るか?やってみたいんじゃ」
弥八は竹千代に釣竿を渡す「まあ、構わんが。しかし今日は潮目が悪い、そうそう釣れんぞ」
釣り糸を垂らすやいなや、竹千代が言う「釣竿が引っ張られる、引き上げればよいのか?」
弥八「む?上げよ、上げよ」
竹千代が釣竿を引き上げると魚がかかっていた。弥八「鰯じゃな、まあ無いよりはよいが」 竹千代「また引っ張られる、上げるのか?」
弥八「また当たりがきたのか? 上げよ、上げよ」 その後も竹千代は鰯を次々と釣り上げる。
弥八「あれじゃ、初めて釣りをした者にはよくあることじゃ」
竹千代「弥八どのは伊勢海老を食べたことはあるか?」弥八「知っとるが食べたことは無い」
竹千代「明石は鯛がうまいらしい、越後は鮭がうまいと聞く。食べてみたいのう。越後に行けば食べられるのかのう」 弥八「そんなことは無理じゃろ。上方も信濃と越後の国境も戦続きで、命がいくつあっても足らぬわい」
竹千代「それなら上方でも越後でも、その身を危うくすることなく誰でも往来できるようにすれば鯛でも鮭でも食べられるぞ」
弥八「お主は天下の経略を論じておるのか、ただの食い道楽なのか、よう分からんな」
日もだいぶ傾き、竹千代は二十匹ほどの鰯を釣り上げた。弥八「ひい、ふう、みい、よう、けっこう釣れたのう。お主の取り分はこれ」
弥八は竹千代に鰯を五匹わたすと、残りは自分の物とした。
竹千代「あ、わしが釣っ た鰯じゃぞ」弥八「釣竿はそれがしのもんじゃ。貸し賃じゃ」
竹千代 「こっすいぞ、弥八どのはけちじゃ」
弥八「何とでも言え、世の中きびしいんじゃ」 竹千代「けちじゃ、けちじゃ」
竹千代の不平を聞き流しつつ、弥八は山あいの村に向かう。竹千代「何をしにいくのじゃ?」
弥八「この辺の村とはちょっと付き合いがあってな。鰯を買い取ってもらうんじゃ。おう。仁兵衛どん。また魚を買い取ってくれんか?」
弥八は村人に声をかける。呼ばれた村人は深刻な面持ちであった。
仁兵衛「弥八ではないか。悪いが買い取りはできん。それに早くここから立ち去ったほうがええ」弥八「どうしたんじゃ」
仁兵衛「野伏せりに目をつけられてのう。銭を渡して帰らせたら、今度は食い物をよこせ、出さねば大勢ひき連れて村に火をつけて回る、と言うてきおった」
弥八「そういうことであったか。今回は立ち去るとしよう。これはいつも世話になっとる礼じゃ」弥八は鰯を十匹ほど仁兵衛に渡す。
仁兵衛「すまぬな。銭は無いのでな、野蒜(のびる) を持っていってくれ」
野蒜を受け取る弥八「かたじけない」
弥八は火を熾し、鰯を串に刺して焼く。鍋で水に溶いた味噌を炒る。弥八「お主、いつまでくっついてくるんじゃ」
味噌を炒っている鍋をしげしげと見る竹千代「味噌はどうするのじゃ?」
弥八「これは野蒜に付けて食うとうまいんじゃ。ほれ」 弥八は野蒜に味噌を付けて竹千代に差し出す。
味噌を付けた野蒜をかじる竹千代 「ほう! これはうまい。野蒜を食べて、つづけて鰯を食うとまたうまいぞ、弥八どの」
竹千代の言う通りに食べてみる弥八「どれどれ・・・・・・。本当じゃな。このような食べ方は思いつかなかった」
竹千代「弥八どの。さっきの村、野伏せりに狙われておったが何とかできぬか?」
弥八「それがしとお主と二人だけで何ができるんじゃ。村は村でなんとかするはずじゃ」
竹千代「野蒜を貰った」弥八「言うても野蒜じゃろうか」 竹千代「あの村には一飯の恩がある。恩を返さぬのは不義理じゃ。弥八どのはあの村にたびたび世話になっているのであろう」 弥八「ううむ・・・・・・」一飯の恩義と言われて弥八はうなった。 一方で、村にたかりに来た野伏せりの事を考え始めていた。数を頼みにするなら脅す必要はない。最初から付け火をして根こそぎ略奪してしまえばよいのではないか?
弥八「わかった。仁兵衛どんと話をしてみよう」竹千代「おお。弥八どのは腕に覚えがあるのじゃな」
弥八「そんなものはない。頭で勝つんじゃ」
弥八「おそらく野伏せりの数は多くない。村の入り口のあちこちに仕掛けを作って追い返すんじゃ。仁兵衛どん、手伝ってくれんか」
ふたたび村を訪れ、思いもよらぬことを言い出す弥八に、仁兵衛は怪訝な顔をする。仁兵衛「まぁ作物は盗られずにすむなら、それに越したことはないが……」
弥八の指図で仕掛けが設けられる。村の周りには短く切った木の枝を突き立てる。その前に土を掘り返して溝を作り、溝は互い違いになるように掘る。 村の入り口には落とし穴を作る。
弥八「それがしの読みでは、野伏せりどもは夜更けに不意打ちを掛けるはずじゃ」
竹千代「弥八どの。わしも何かできることはないか?」 弥八「童子にできることなぞ、いや、待てよ、お主の身なりの良さを使うか」
弥八は持ち歩いているがらくたや木戸の切れ端を継ぎ合わせ、
それに反古紙を貼り付けた、遠巻きには四尺の大太刀に見えぬこともない。
竹千代「こんなもので戦えるわけはなかろう。そもそも野伏せりの数が読みより多い時はどうするんじゃ?」
弥八「その時は」 竹千代 「その時は?」
弥八「一目散に、必死で逃げよ」
夜更けになり十数人の野伏せりが村へと近づいていた。野伏せりの頭目 「不意打ちを掛けて、取れるだけとって、さっと引き返すぞ」
ところが村の入り口には篝火が焚かれていた。 奥からきれいな着物の童子が、ぬうっと姿を現す。手には四尺はあろうか、という大太刀を持っていた。
童子は四尺の大太刀を事もなげに軽々と振り回す。野伏せり「なんじゃあ、ありゃあ……。物の怪か?」「まやかしじゃっ、なにするものかっ」 野伏せりの一人が村の入り口に突っ込んでいく。ところが地中に引きずりこまれるかのように姿が消える。野伏せりは落とし穴にはまっていた。
「負けじゃ!負けじゃあ!」 野伏せりどもの背後から、茂みに身を潜めてやり過ごした弥八が大声を上げる。
野伏せり「ひいっ」「うわあ」 突き立てた木の枝を踏む者、溝に足を取られる者がうろたえ、刀や槍をやみくもに振り回す。
野伏せりの頭目「やめろ、味方じゃっ。ええい、くそっ、埒があかん」
頭目が我先に逃げ出し、他の野伏せりも散り散りに逃げ去っていく。
野伏せりが逃げ去ったのを見て、弥八は村の入り口で仁王立ちする童子に近づく。弥八「どうやら上手くいったようじゃな」 竹千代「肝が冷えたぞ」童子は竹千代だった。
村ではまず見かけない、きれいな身なりの童子が四尺の大太刀を軽々と振り回す。
弥八「なかなか堂に入っておったぞ。相手はあぶれ者の寄せ集めと見た。心をかき乱し同士討ちを誘う。まともにやりあっても勝てぬからな」
竹千代「それで野伏せりの後から、負けじゃ、負けじゃ、と大声を上げたのじゃな」
東の方では空が白み始めていた。竹千代「しもうた。館に戻らず、夜明かしをしてしもうた」 弥八「館?お主は館の者か。安心せい、それがしが取りなしてやる」
今川館の近くまで来ると竹千代を呼ぶ声が聞こえる。
酒井忠次は数人の従者を引き連れ声を上げる「若一っ! 若一っ! いずこにおわしますかー」
竹千代「左衛門尉(忠次)。ここじゃ」
酒井忠次「若。ご無事であられましたか」
弥八「左衛門尉さま、若様はここにございます。 浜の方で迷っておられましたところをお見かけしまして、既に日も落ちておりましたゆえ、夜が明けてから今川館にお連れした方がよかろうと思いましてな。いやあ、野伏せりなどにかどわかされでもしたら今頃どうなっていたか、それがしが同道していてよかった、それがしが居ってよかった」
竹千代が酒井忠次に問う「あれは何じゃ?弥八は何が言いたいのじゃ?」
酒井忠次「銭を求めているのでごさる。……まったく」 眉間をしかめながら酒井忠次は銭を十枚ほど、弥八に渡す。
弥八「ややっ、これはかたじけない」
弥八の顔を見る酒井忠次「ん?お主、俊正殿のせがれか?」
弥八「え? いや俊正どのなど知りませぬ、人違いかと。それがし先を急ぎますゆえ、これにて御免!」弥八はそそくさと西の方へ立ち去っていった。
酒井忠次「無事で何よりでしたが。若、あやしげな者にはお近づきになられぬよう」
竹千代「うむ。すまなかった左衛門尉」
竹千代。のちの徳川家康である。今は今川館で部屋衆の身分であった。
(その2に続く)
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