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「“一○○万貫”のいくさ 一天正小牧長久手合戦始末異聞」その2 (全8回)

弥八は生まれ故郷の三河に戻っていた。弥八の本名は本多弥八郎正信、本多俊正の息子である。 

尾張の織田、駿河の今川に挟まれている三河の国衆は離合集散を繰り返し、小競り合いが絶えなかった。本多正信も寄親に従い、各地の戦に駆り出される。正信と旧知の大久保忠世も加わっていた。


寄親の将監が諸将に段取りを伝える「まず民部殿が攻めかかる。次いで左馬助殿。大膳殿は三の丸を攻めて敵方の目を引き付けることとする」 

本多正信 「お待ち下され。最も兵を引き連れている将監殿がまず攻めかかられるべきじゃ。そののち頃合いを見て民部殿と左馬助殿。敵方の目を引き付ける策は結構であるが、攻めるなら三の丸より二の丸がよろしい」

軽輩の正信が諸将の頭越しに指図し、大久保忠世はあわてる。

民部「将監殿の御指図に物申すとは無礼千万!」左馬助「民部殿の一番手柄を奪う気か!」 大膳「なぜ三の丸ではなく二の丸を攻めねばならん!」

本多正信「誰が一番槍とか、そんなことにこだわっているから勝てぬのじゃ、二の丸は昨年の大雨で崩れたばかり、修繕したばかりゆえ攻め易いかと」

大膳「そんなことがなぜ分かる!」 

本多正信 「この目で見たからじゃ!」

民部 「嘘をつけ!」

本多正信「何じゃ! 親切で言うてやっておるのに!」 

左馬助「寄子の分際のくせに、軍師気取りでえらそうに指図しおって!」

大久保忠世が割って入る「ここな、不埒者ー!分をわきまえよ! 正信め、こらしめてくれるー!」 大久保忠世は本多正信の首根っこをつかんで陣幕の外に連れ出し、木の枝をひろって、したたかに地面を叩く。

大久保忠世「えい、えい、この不埒者ーっ!」


しばらくして、大久保忠世は正信を諭す「正信。面子もあれば習いもある。ましてお主が口を挟むべきではない」本多正信「最も勝ち易い段取りを言うたまでじゃ。皆、楽な方がよかろう」 大久保忠世「それにしても、もっと角が立たぬように言えぬのか」


いざこざを起こしてばかりの正信であったが、時折、正信の指図通りにすると、果たして味方は勝ちを収めるのであった。 

本多正信「はははっ! 各々方、賢き者は先駆けであろうとすれば控えるもの、人の上に立とうとすれば素直に学ぶものと言いますからな!」

大久保忠世が小声でたしなめる「正信、その辺にせんか」 

本多正信「人の忠告は素直に聞き入れられるべきじゃ、はっはっはっ」 諸将は正信をうらみがましく見つめるのであった。


その後、三河国の情勢は風雲急を告げる。

永禄三年(1560)、桶狭間にて駿河の大名、今川義元が尾張の織田信長に討たれる。

今川の部将であった松平元康は岡崎城に入って、周辺の城を切り取り勢力を伸ばしていた。

永禄六年(1563)、松平元康は名を「家康」に改めるに続き、三河三箇寺への「不入の権」も改める。これは三河国衆の反発を招き、大規模な一揆につながってしまう。世に言う「三河一向一揆」である。


本多正信は寝そべって書物を読んでいた。そこへ父の俊正が帰ってくる。正信「父上。お帰りなさいませ」 

本多俊正「大事じゃ。正重が「進めば往生極楽、退かば無間地獄」と騒ぐ連中と一緒に寺の方に向かったと聞いてな。本多は此度の一揆には加わらぬ。岡崎の殿にお味方する。正信よ。正重を探して、連れ戻して参れ」正重は正信の弟である。

正信「なぜそれがしが」

本多俊正「わしは戦支度をせねばならん。早う連れ戻して参れ!」 

正信はしぶしぶ、あちこちの寺を回り正重の行方を尋ねる。正信「正重という者を知らぬか、三弥と名乗っておるかもしれぬ」 

境内の中は騒がしかった。一揆衆の一人が正信に槍を渡す。

一揆衆「おう。おぬし、何をもたもたしておる。ほれ」正信「いや・・・・・・、それがしは人を探しておって」一揆衆「具足はその辺から適当なものを見つけて備えよ。松平勢が仕寄せてきておる、出あえっ」 


すでに前の方からは怒号、罵声、鍔迫り合いの音が聞こえてくる。正信「くそっ、なんでこんな羽目に 」

金陀美具足の侍大将に率いられた松平勢の勢いはすさまじく、一揆勢は押しまくられる。

逃げ遅れた正信は金陀美具足の侍大将と向かい合う。正信はやみくもに槍を突き出すが、金陀美具足の侍大将は刀を左回りに、巻き落としで応じる。 

正信はたまらず槍を取り落としてしまう。

正信「ま、まいった。命ばかりはお助けを」

金陀美具足の侍大将「・・・・・・、弥八どの?」


正信は縄で縛られ、金陀美具足の侍大将の陣幕に引っ立てられる。そばには大久保忠世がひかえていた「正信ではないか!」


正信は金陀美具足の侍大将に尋ねる「貴殿はなぜ、それがしの名を知っておられる?」 

大久保忠世「こちらは岡崎城に入られた松平家当主、蔵人佐、家康さまじゃ」

松平家康「弥八どのには鰯の恩がある」

大久保忠世「鰯の恩?」 

正信「今川館。左衛門尉。岡崎の松平? そういうことか!大きゅうなったのう」
 大久保忠世「こ、こらっ!正信!」
竹千代はあの時、本名を偽っていたのであろう。正信は合点がいった。 

家康「構わぬ。それよりも弥八どの、いや正信どのはなぜこのようなところに?」

正信は、弟の正重を探していた所を巻き込まれただけと答える。 

大久保忠世「正信よ。三河の国衆の中で粗略にされた腹いせに、方々で策を授けて回り意趣返しをしているとの噂が立っておる」

正信「なぜそんな無駄なことを。一文の得にもならんのに」

家康「わしも正信どのの言に嘘はないと思う。忠世、解き放って構わぬであろう?」

腕を組む大久保忠世「さて。恨みを買っている上、既に方々で顔を見られておりますからな。三河にいる限り、闇討ちに遭わぬとも限りませぬ」
家康「・・・・・・。ほとぼりが冷めるまで、京の茶屋四郎次郎の所で預かってもらうこととしよう。食っていける分の掛は用立てるゆえ」


正信は居姿を正し、家康に頭を下げる「なりゆきとはいえ、主君に弓を引いた身に寛大なお沙汰。有難うございまする」 

大久保忠世「わしもお主の妻子や本多の家のことは、出来るだけのことをする」正信「かたじけない」 

正信は密かに三河を抜け、伊勢、伊賀を通って、京の商人、茶屋四郎次郎の許で寄寓することとなる。


桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長はその後、数多の危機に遭いながらもそれをはね退け、 元亀四年(1573) には、室町将軍、足利義昭を京より追放するに至る。


松平家康は苗字を改め、徳川家康となる。今川家は滅び、 遠江は徳川家康の領するところとなった。


天正五年(1577) 九月。琵琶湖のほとりに築かれた長浜城は羽柴筑前守、秀吉の居城である。

奥の間で秀吉は脂汗をかきながら立ったり座ったり、立ったかと思えば、ぐるぐるとうろつくばかりであった。


羽柴秀長「兄者、何をしとるんじゃ。早う岐阜城に行かなっ」

秀吉「小一郎(秀長) 、宴の支度じゃ。戦でお疲れの堀秀政殿をお接待するのはどうかのう?」

羽柴秀長「何を言うとるんじゃ、上様(織田信長)からの書状を読んだんじゃろう。堀殿に取り成してもらってどうなる段ではねえわ」

秀吉「分かっとるわっ。上様のことはよーく分かっとる」

問題の信長からの書状はごく簡潔に一文。岐阜城に参ずべし。期日は書かれていなかった。 

普段は微に入り細に入り、悪く言えば長々と伝える信長の書状としては常に無いことであった。

秀吉「松永久秀殿の口車に乗せられたせいじゃ・・・・・・。どうする・・・・・・?」


さかのぼること、ふた月ほど前。秀吉は長浜城の広間で書状の差配をしていた。

佐吉「佐吉でございます。ちとよろしゅうございますか。大手門の前で怪しげな爺が居座っておりまして」

秀吉「怪しげな爺?」佐吉「筑前(秀吉)を呼んで来い、筑前以外とは話をせぬ、の一点張りで。追い返しますか?」

秀吉「いや。会おう」 秀吉が大手門まで出ると、そこには涼やかな目元、通った鼻筋、素襖を着流し、華美な小袖を肩から掛けている老人がいた。 

松永久秀「よう」
秀吉「こ、これは弾正(松永久秀) 殿」
 松永久秀は大和国、信貴山城の城主である。 

松永久秀は酒の入った瓶子を見せる「お主と一献、酌み交わしたいと思うたのだが、この石頭が通さぬのでな」久秀は佐吉を指差す。 

秀吉「佐吉、弹正殿を奥にお通しせよ」
佐吉「ははっ」


秀吉は松永久秀を奥の間に通し、佐吉に肴を用意させる。松永久秀「上杉謙信を知っておるか」

秀吉「知っておるも何も、その謙信を迎え撃つため戦支度の真っ最中でござる」


越後、春日山城を発した上杉謙信は北陸を進み能登に攻め入ったという。織田家が平定したばかりの加賀の目前まで、上杉勢が迫ることになる。 

松永久秀「上杉謙信はたびたび関東の北条氏の領国に攻め入っておる。巨城と呼び声も高い小田原城を包囲したこともある。上杉謙信が関東に打ち入れば関束の大名、国衆は上杉になびき、謙信が越後に引き返せば北条は寝返った大名、国衆を従わせるため、また兵を出さねばならん。その繰り返しじゃ」

感心する秀吉「ほう一。弾正殿は遠い関東のことを、なぜご存知なのじゃ?」 松永久秀「伝手を探したり噂話を集めたり。まあ、やりようはあるものじゃ」

松永久秀は秀吉の盃に酒を注ぐ。酒を飲む秀吉。久秀はまた秀吉の盃に酒を注ぐ。

松永久秀「儂の読みではな、織田家もそうなる。お主も身の振り方を考えるべきじゃ。酒は置いてゆく。呑んでよいぞ」


そういうと松永久秀は席を立ち、長浜城を後にした。秀吉は何か引っかかるものがあった。

松永久秀も大坂の本願寺攻めに加わっている最中ではなかったか?

長浜城にふらりと現れたが、信長はこれを知っているのだろうか、信長の許しなく陣を離れたのだろうか?、と。


天正五年八月、松永久秀は信長の許しなく本願寺攻めの陣を引き払い、大和国の信貴山城に立てこもった。織田信長は能登まで進んだ上杉謙信に対し、柴田勝家を総大将に任じ上杉勢を迎え撃たせる。


上杉勢を迎え撃つ織田家の軍勢には羽柴秀吉も加わっていた。しかし秀吉は九月、信長の許しなく陣を離れる。

柴田勝家ら織田勢は上杉謙信を前に加賀、手取川で大敗。川に追い落とされ、溺れる織田の兵は数え切れなかったという。

ところが十月、このまま畿内に攻め上るかと思われた上杉謙信は越後に引き返してしまう。

勝手に陣を離れた秀吉には信長からの書状が届いたのであった。


長浜城の奥の間。秀吉は二、三度ぐるぐるとうろついたあと座り込む。信長の顔がちらつく。

秀吉「このままでは上様に会えぬ・・・・・・。申し開きできぬ・・・・・・」 
ふと、秀吉は文机に置いてある平積みの書物を見る。一番上に「孫子」があった。「孫子」を手に取り、ぱらぱらとめくる。
秀吉「これじゃあ・・・・・・、これで行く、これしかない……」


秀吉は弟の羽柴秀長を伴って岐阜城に参じ、広間で平伏する。
上段の織田信長が口を開く「言いたきことがあれば申せ。聞いてやろう」 

秀吉「ははっ。某に他意はありませぬ、まして柴田勝家殿への隔意もありませぬ、ただ、越後の龍、軍神、上杉謙信を相手に戦をすると思わば、肝は縮こまり足はすくんでしまい申した」

織田信長「そうか。戦がおそろしいか。では、うぬは武士をやめるべきじゃな」 

秀吉「あ、いやお待ちを! 某、刀、槍を交わすばかりが戦ではないと、かねてより考えておりました。 刀、槍を交わさぬ、矢玉も交わさぬ戦を上様にご覧に入れたく存じまする」 

織田信長「ほう。矢玉も交わさぬ戦、とな」


織田信長は秀吉の顔をしばし見つめた「ならば見せてみよ」 

秀吉「ははーっ。必ずご覧に入れまする」

秀吉と羽柴秀長は岐阜城を下る。羽柴秀長「矢玉も交わさぬ戦とは。兄者がそのような軍略を考えていたとは知りませなんだ」 

秀吉「たわけたことを。今から考えるんじゃっ」


天正五年(1577)十月。大和、松永久秀が立てこもる信貴山城は織田信長の嫡男、信忠率いる織田軍に攻め落とされる。


松永久秀は天守に火をかけ、名物の茶器とともに自害した。 同年十月二十五日。羽柴秀吉は信貴山城攻めに参陣したのち、播磨国に出陣することとなる。
(その3に続く)

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