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「“一○○万貫”のいくさ 一天正小牧長久手合戦始末異聞」その6 (全8回)

天正十年(1582)。この年は多事多端の年となった。 六月二日、天下統一を目前にして織田信長が明智光秀の謀叛に遭い、本能寺にて横死したのである。 

徳川家康は東海道遊覧での饗応の返礼として安土城に招かれ、織田信長の饗応を受けていた。
その後、家康は堺見物に赴いたが、そこで茶屋四郎次郎により明智光秀、謀叛の報を受ける。 家康と供廻りは京を避け、伊賀、伊勢へと抜けて、六月五日、三河に帰還する。


浜松城の本多正信、大久保忠世のもとにも茶屋四郎次郎の報せが俊足の伊賀者によって届けられていた。 

六月二日、明智光秀、謀叛。万を越える兵をもって本能寺を囲み、十中八九、本懐を遂げたであろう。 

報せを受け取った大久保忠世と本多正信は三河に急ぎ、六月五日に家康を出迎える。 

大久保忠世「殿……。よくぞご無事で。生きた心地がいたしませんでした」 大久保忠世は目を潤ませていた。 

本多正信「ご無事のお帰り、祝着至極にございます」 徳川家康は本多正信を見る。ごく平静に見えた。


その夜、家康の部屋を訪れる者があった。

正信「殿。正信でございます。火急のお話が」 家康「うむ。入れ」 

正信「今後のことについて策を献じにまいりました」

家康は目を丸くして見せる「なんと!上様(信長)が討たれて何日も経っておらぬのに!そのようなことを考えておったのか!」  

正信は居姿を正して言う「何と言われようと構いませぬ。策を献ず、これがそれがしの役目と思うておりますゆえ」 

家康「ふ。ははははは」 笑い出す家康に正信の方が驚く。 

家康「今しがた甲斐の武田家に仕えていた者たちを徳川方に引き入れよと下知したところじゃ。先々のことは後で考えるとしてな」

正信「これは一本取られましたな」 

家康「さて、わしはどうすればよい?」

正信「上策は兵を一万、 いやいや八○○○でもかき集め、急ぎ岐阜城と大垣城を我が物とすることでござる。時を得るならば、京にも打ち入られるべきかと。下策は浜松城に籠もり、上方の模様眺めをして何もせぬことでござる」 

今度は家康の方が言葉に詰まる。

家康「万が一、上様が生きておられた時はなんとする?」

正信「その時は、美濃の安寧を保ち乱暴狼籍より守るため、とでも何とでも。返せと言われた時は返せばよろしいでしょう」


家康は床に、どかっと座り込み長考する。

家康「やはり八〇〇〇の兵では心もとない。せめて一万数千の兵は欲しい」 

正信はなおも平静であった「最後は殿がお決めになることでござる。それがしはまた新しい策を練るまで」 正信の献策は沙汰止みとなった。


一方、畿内の情勢は目まぐるしく動く。


信長より天下を奪ったかに思われた明智光秀が、毛利を攻めていたはずの羽柴秀吉に山崎で敗北、小栗栖で落ち武者狩りに遭い落命したという。 

徳川家の重臣たちは一様に、羽柴秀吉、という名前が出てきたことに驚いた。遠江、駿河で武田家との戦に掛かりっきりになっていた家臣などは、 秀吉、の名前を聞いても、ぴんとこなかった。本多忠勝「ふうん。羽柴秀吉殿 か。 信長公の腰巾着と思っておったが違ったのか」 

本多忠勝。桶狭間の戦いで初陣、徳川家随一の剛の者、戦場にあってはかすり傷一つ負ったことが無いとの評判を取っていた。


本多正信は驚かなかった。いかなる奇術を使ったのかは分からぬが、軍勢を率いて備中から京の近くまで十日で取って返すような離れ業をやってのける者がいるとすれば、それは羽柴秀吉であろうと思っていた。 

六月二十七日、尾張の清洲にて織田家重臣たちが集まり、遺領の分割が話し合われた。
羽柴秀吉は明智光秀の所領をほぼそのまま加増されることとなった。秀吉は織田家中で、筆頭家老である柴田勝家と並び立つ存在となったのである。


織田信長横死後、平定して間もない信濃、甲斐に入った織田家の諸将は次々と失脚。信濃国と甲斐国は無主の地となった。 

徳川家康は甲斐、 信濃の調略を進めるが、そこへ相模の大名、北条氏直も甲斐、信濃の領有を主張し軍勢を差し向けてくる。 

徳川勢は甲斐、黒駒で北条の軍勢を撃退、徳川と北条は一進一退の形勢となった。 

十月。徳川と北条は織田信雄、織田信孝、羽柴秀吉から和睦を勧告される。家康は家臣たちを集め、意見を求めた。

石川数正「信長公が次男、信雄殿、三男、信孝殿からの和睦の勧めじゃ。聞き入れぬ訳には行くまい」
石川数正は西三河の旗頭と言われる重臣である。

「よろしゅうございますか」朗々とした声が響く。

家康「構わぬ。直政、申せ」 

井伊直政「上方への備えを厚くするべきかと存じまする。このままでは治まりますまい」 
井伊直政は遠江の井伊直親の遺児で、今川氏滅亡後、徳川家康に仕えることとなった。


石川数正「なぜじゃ。信長公の嫡孫、三法師君の下、信雄殿、信孝殿、柴田勝家殿、羽柴秀吉殿がどうにかこうにか合力し、治まるかもしれぬではないか」 

井伊直政「恐れながら、幼い主君、反りの合わぬ一門衆に、これまた反りの合わぬ家老二人。まとまれ、と言うほうが無理にござる」

本多忠勝は立て膝で座り、柱に寄りかかっていた。本多忠勝「ふうん。どうであろうな。 まあ、そんなことより信濃、小県の真田がこれ以上悪さをせぬよう、睨みを利かせる方が先ではないか?」 

家康「直政の言は心に留めておく。今は甲斐、駿河の仕置きを急ぎたい。南信濃も片付いておらぬしな」


徳川と北条の間で和睦が成立。家康は三河、遠江、駿河に加え、甲斐、信濃の五力国を領するところとなる。


家康は本多正信と碁を打っていた。家康「直政の言、なかなか先々が見えていると思うが」 

本多正信「殿は東海道と中山道を掌握なされた。ここで美濃の岐阜城の織田信孝殿、北陸道の柴田勝家殿と手を組む。四国の長宗我部、紀伊の雑賀衆と何とか渡りをつける。畿内につながる六つの道のうち、四道をこちらが押さえれば山陽道の毛利も黙ってはおらぬでしょう」 

家康は碁石を持つ手を止める。

家康「待て待て。まるで羽柴秀吉殿が畿内の主になったかのような物言いじゃな。仮に柴田勝家殿が秀吉殿を追い落とした場合はどうなるのじゃ。大体、当家は織田信孝殿、柴田勝家殿と縁が薄い。手を組むと言って一朝一夕に出来ることではないぞ」 

本多正信「これは。早計でありました」 

図らずも、そのような考えが口を衝いて出た正信であった。


天正十年十二月。羽柴秀吉は近江に出陣、長浜城を攻めて城主の柴田勝豊を降伏させ、次いで岐阜城に攻め掛かり織田信孝も屈服させる。 

長浜城は清洲会議の結果、北近江十二万石と共に柴田勝家に譲られ、勝家の養子の柴田勝豊に与えられていた城であった。
織田信孝は言うまでもなく、織田信長の三男である。柴田勝家は雪に阻まれ、援軍を送ることができなかった。


あけて天正十一年(1583)一月。滝川一益が伊勢で挙兵におよび、長島城に篭城。羽柴秀吉は伊勢へと進軍、長島城を包囲した。 

柴田勝家は兵を率いて二月に越前を出発、三月には近江、柳ヶ瀬に進む。柴田勝家に呼応して織田信孝も岐阜城で再び挙兵する。 

四月十七日。羽柴秀吉は織田信孝の動きに対応し、美濃、大垣城に入った。十九日、秀吉の隙を衝き、柴田勢は南の羽柴勢、および賤ヶ岳砦に攻め掛かる。


ところが美濃を攻めていたはずの羽柴秀吉は二十日未明、近江に取って返し、柴田勢を乗り崩す。


賤ヶ岳砦を攻め疲れていた柴田勢は総崩れとなり、柴田勝家は四月二十四日、越前、北ノ庄城にて自刃する。


本多正信「まさか柴田勝家殿がこうも早くに崩れるとは」 柴田勝家、自刃の報を聞き、正信は京の茶屋四郎次郎に文を送る。 羽柴秀吉が明智光秀を破った山崎の合戦の絵図、同じく柴田勝家を破った賤ヶ岳の合戦の絵図を送るよう頼んだ。 


後日、正信のもとに山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦の大まかな絵図が送られてくる。山崎の合戦は羽柴勢が多数であった。 賤ヶ岳の合戦では羽柴秀吉は陣城、堀、柵を数多く築いたことが窺えた。


十月。羽柴秀吉は摂津国、淀川を臨む上町台地に新たな居城、大坂城の着工を開始する。


そして羽柴秀吉から徳川家康に書状が届く。家康は大広間に家臣を集め、秀吉からの書状について意見を求めた。


酒井忠次「かいつまんで申さば。甲斐、信濃の平定はご苦労、関東の惣無事に関してはいずれ秀吉が差配するつもりである。という所であろうか」酒井忠次。東三河の旗頭とも言われる、家康古参の重臣である。 

榊原康政「慇懃無礼な物言いではありますが、それはひとまず置きましょう。近ごろ秀吉殿は織田信雄殿を差し置いて、織田家の事を意のままに差配していると聞き及んでおります。織田信孝殿の顛末を慮れば、このまま座して無為に過ごすは秀吉殿をして、当家を秀吉殿の命に唯々諾々と従うばかりの、羽柴の郎党のようなものにせしめる結果となりましょう」

榊原康政。三河大樹寺で書を能くする英才と言われ、家康に引き立てられて徳川家臣となった。いかにも才気煥発といった風体である。 

家康「秀吉殿に恩こそ無いが仇も無い。それでも戦は避けられぬか」 

榊原康政「はばかりながら信雄殿では秀吉殿を扱いきれぬかと。また当家は先年、北条と盟約を結んだばかり、舌の根も乾かぬ内に、とは参りますまい」


家康「ううむ……」 居並ぶ家臣たちの目が家康に集まる。家康の発する言葉に注目していた。 

本多忠勝 「ふあああ」 本多忠勝はあくびをして見せた。

酒井忠次がたしなめる「忠勝。評定の最中ぞ」

本多忠勝「子細は皆さまにお任せいたす。戦が始まったらお知らせ下され。おれは習練をしてきますゆえ」

本多忠勝はのさのさと大広間を後にする。


家康「引き続き美濃表、上方への備えを怠らぬよう。また、いま少し上方の様子に探りを入れてくれ。今日はこれまでとする」


家康は二の丸に向かう。そこでは本多忠勝が一隊を率いて習練をしていた。

本多忠勝「殿」 足軽大将たちも手を止めて姿勢を正す。

家康「構わぬ。そのまま続けよ」 

本多忠勝「ははっ」 


家康は胡坐をかき、頬杖をついて習練のようすを見ていた。

真ん中に本多忠勝と足軽大将五人、忠勝の前に五人、右に五人、左に五人、後ろに五人。ひし形のような陣形を組んでいた。 

陣鐘が鳴る。本多忠勝が西を向くと、真ん中に五人、前に五人、右に五人、左に五人、後ろに五人。陣形を崩すことなく西向きになった。

陣鐘を鳴らし、忠勝が北向きになれば同様に陣形も北向きに、東向きになれば陣形も東向きになる。忠勝が一間、前に進んでも、はたまた一間、後ろに下がっても陣形は崩れなかった。

家康はその様を興味深く見ていた。 

本多忠勝「休憩じゃ。休め」 

家康「なるほど。これが戦場でかすり傷一つ負ったことがないという、忠勝の武勇の秘訣か」

本多忠勝「いえ。このようなことは戦場では役に立たぬでしょうなあ」 

頬杖から家康の顎がずりおちる。

家康「なんなんじゃ」

本多忠勝「怒号、罵声が飛び交い、気が立っている中で陣形を悠長に整えている暇など有りませぬ」

家康「では何のためにこのような習練をしておるのじゃ」 

本多忠勝「まあ、その、このような習練を欠かさぬことが戦場に在って、生き死にを分けるようなことが、有ったり無かったりするのやも知れませぬなあ」

家康は鳩が豆鉄砲を食ったような面持ちになった。


本多正信は家康に呼ばれ、書院の間に向かう。家康「正信。前の、六つの道の内、四道を押さえる。あの話の続きを聞かせてくれぬか」 

本多正信「まず越前、北ノ庄城の城主は柴田勝家殿から丹羽長秀殿へ、美濃、大垣城は織田信孝殿から池田恒興殿へと替わりました。岐阜城には池田殿の子息、元助殿が入りました。どちらも羽柴寄り、北陸道と中山道の出口を押さえられた格好でござる。

北陸道が半分、中山道が半分と申すべきか。

当家は甲斐、信濃が領国として増え、一万と数千の兵を動かす余裕が出来ましたが、 六つの道という話になってくると都合、三道を押さえられるかどうか、と言ったところかと。

越中では羽柴勢相手に佐々成政殿が気炎を吐いておられるとのことですが。佐々殿が持ち堪えているうちに、なんとか一勝して流れを当家に引き寄せられれば、何とかなるやもしれませぬ」 

家康「なかなか難しそうではあるが。......腹を据える時か。正信よ、策と布陣をまとめておいてくれ」家康は手を口元にやり爪を噛んでいた。

本多正信「あまり心配はしておりませぬ。柴田勝家殿、織田信孝殿を追い落とし、主家を蔑ろにする秀吉に比べ、三法師君、織田信雄殿を守り立てる殿の義は明らか。羽柴方というのは勢いづく秀吉の尻馬に乗ろうとする烏合の衆、かたや当家は譜代の家臣が一致団結して殿の許に集っております」 

家康「何じゃ何じゃ、持ち上げても何も出ぬぞ」 

自分で言っておきながら、本多正信は苦笑をこぼした。
(その7に続く)


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