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「“一○○万貫”のいくさ 一天正小牧長久手合戦始末異聞」その3 (全8回)

三河国を逐われて数年。本多正信は京の商人、茶屋四郎次郎の家屋の一室で寝そべり、無聊をかこっていた。 

徳川家康は約束どおり食費の分は茶屋に届けてくれた。戦乱続きとはいえ、京の町は華やかで書物も手に入りやすかった。だが物の値は高く、書物の値に至っては目が飛び出るほどの高値であった。

茶屋四郎次郎「正信さん、暇をつぶすなら他所でやっておくれやす。商いの邪魔どすっ」 

正信は懐の銭の枚数を確かめ、場末の飲み屋に向かうのであった。


場末の飲み屋では威勢のいい声が聞こえてくる。正信「おやじ。酒を」徳利に入った酒が運ばれてくる。 

「わしは弱腰の織田の足軽どもをばったばったと切り伏せてぇ、信長に一太刀あびせてやったわっ。姉川一本槍とはわしのことよぉー!」


すっかり酔っ払った浪人らしき男が大声でしゃべっている。 元亀元年(1570) 織田・徳川の軍勢が、浅井・朝倉の軍勢と姉川で戦に及ぶ。正信は織田・徳川の勝ちと聞いていた。


正信は浪人の近くに席を移す「御仁、おもしろそうな話でござるな」

浪人「おおぅ、そなたもわしの話を聞きたいのか。では、はじめから。わしは磯野さまの陣におって、こうっ、天下一の槍を振るうと織田の足軽どもは背中を見せて逃げおった。そこに付け入り、陣立ての五段、六段と乗り崩し信長の本陣まで切り込んだのよ」

別の浪人「待て待て、拙者も磯野さまの陣におったがお主の顔など知らぬぞ。拙者は織田の陣立て、九段目まで乗り崩した」浪人「なにを言うかっ、わしは十一段じゃっ」他の浪人「わしは真柄さまの陣におって、徳川の陣立てを八段、乗り崩したぞっ」

正信「おやじ、酒をもう一本」 正信は頼んだ酒を浪人たちに注いで回り、相槌をうって、しかるのち店からすっと出た。 店を出ると懐から反古紙の綴りを取り出し、浪人たちの言う事を書き留める。茶屋四郎次郎の家屋に戻ると半紙に徳川、織田、向かい合うように 朝倉、浅井、小さく磯野、真柄と書き、余白に浪人たちの言う事を書き入れる。

書き入れて、正信「うーん。何がなんやら、さっぱり分からぬな。これは行ってみるしかないか」


翌朝、正信は旅支度を整え茶屋四郎次郎に言う。正信「ちょっと姉川の方に出かけてくる」

茶屋四郎次郎「お気をつけて。へ?姉川まで何しに行かはるんどす?」

正信は姉川に着くと、近隣の百姓や浪人から戦さの噂話を集めて回る。焚き火や杭を立てた跡から大まかに陣所が構えられた場所を見定める。

あらためて織田・徳川と浅井・朝倉の陣立てを半紙に書き込み、川や丘、湿地や茂みの場所も書き入れた。 

正信「あの浪人、織田の陣を十一段も乗り崩したと言っておったが、三間の槍を持った足軽隊を十一段も連ねては邪魔でしょうがない。また先陣と本陣の間が離れすぎる。さしづめホラを吹いたというところじゃな」 

正信は戦があるたびに現地に出向き、聞き取りをして陣立ての絵図をまとめる。そのうちに織田家中で妙な者の名をたびたび耳にするように なる。


羽柴秀吉。織田家譜代の家臣ではなく名門の出身でもない軽輩のようだが、並みいる重臣を追い抜いて城持ち大名に出世していた。
正信「この、秀吉という男。何者じゃ?」


正信は若狭、近江、越前、摂津、播磨に赴き、 現地で百姓や浪人に聞き取りを重ね、さらに陣立ての絵図を書き溜めていく。


時は流れ、天正七年(1579)。正信が三河国を離れて十五年が過ぎた。暇にまかせて大きな戦があった地を訪ね歩き、合戦の絵図を書き溜めていたが、正信は未だ三河に帰れずにいた。


昼、正信は一膳飯屋に寄る。落ち着きのない、怪しげな男と肩がぶつかった。
正信「おう、すまぬな」 

正信が詫びたのに、怪しげな男は目も合わさず顔をそむけて店を出て行く。憮然とする正信。ところが懐を確かめると妙に軽い。財布が消えていた。正信「やられたっ。スリじゃっ」

急ぎ店を出て怪しげな男の後ろ姿を見とめる。後を追う正信。怪しげな男は裏路地へ逃げていった。 

正信「くそっ、駆け足は苦手なのじゃがっ」

裏路地は入り組んでいて、怪しげな男の姿を見失ってしまう。

角に十歳ぐらいの女童が座っていた。正信「そこの女童。怪しげな男がどっちに逃げたか、見なかったか?」

女童は右手を突き出す「んっ。んっ 」 女童は正信の腰の墨入れと反古紙の綴りを指差す。

正信「紙と筆が要るのか?」正信が反古紙と筆を渡すと、女童はさらさらと怪しげな男の人相を描いた。

正信「おっ?ほう。上手いもんじゃなあ」

女童「追わなくてよいのか?」正信「そうじゃったっ。かたじけない」正信は怪しげな男の後を追う。


女童は木の枝を拾い、鳥とか犬とか家などを地面に描く。一刻ほど経って正信が戻ってきた。


正信 「お主の人相書きのおかげで男の家が突き止められた。財布もこの通り、取り戻せた。礼をさせてくれ」 
正信は女童を連れて表通りに戻ると屋台に入る。正信「辰之助。いとこ煮を二つ」辰之助「へえ。いとこ煮、二つ」

正信「この屋台はいとこ煮がうまいんじゃ」 正信はカボチャと小豆の入った椀を女童に渡す。
女童は眉が太く、眉と目の間は狭く、四角いあごの丸顔、この辺りではあまり見かけない顔立ちであった。

正信「お主、あまり見かけぬ顔であるが郷里はどこじゃ?」
女童「わーはとーせんに乗って、ここに来た」

正信「とーせん・・・・・・? 名は?」

女童はまた紙と筆を求める「名はわすれた。わーが知ってる字はこれだけじゃ」 女童は、阿摩、月の三字を反古紙に書いた。

正信「ときにお主の絵図を描く才は大したものじゃ。それがしに手を貸してくれぬか? それがしは各地を巡って絵図をまとめておる。それがしと一緒に各地を巡り、お主に絵図を描いてもらいたい」

女童は正信を、ちらと見て「暇なのか?」 

正信「ぐっ。まあ、暇じゃな。どうであろう?」 女童「わかった。絵図を描く」
正信 「さようか!かたじけない」

正信は阿、摩、月の三字が書かれた反古紙を見る「お主は何と呼ぼうか。あ、ま、つき。語呂が悪いか」正信は、阿、月、摩と反古紙に書く。正信「阿月、摩。月や、摩せん。……、桂花(けいか)はどうじゃ?」
女童「桂花。桂花がよい」


正信は桂花を伴って播磨に出立する。
正信「桂花。長旅であるし山歩きもするゆえ心しておくのじゃぞ」
桂花「うむ。わかった」 

ところが歩き始めると桂花が先を行き、正信は遅れてへたばってしまう。
正信「け、桂花。きゅ、休憩じゃ。一休みじゃ」桂花「さっき休んだばかりではないか」 
正信「いや、健脚。天晴れじゃ」

こうして正信と桂花は畿内の各地、播磨、ときには因幡、但馬まで足を伸ばし、より詳細な合戦の絵図をまとめていった。


そのころ、京の茶屋四郎次郎の家屋を行李を背負った男が訪ねていた。

茶屋四郎次郎「おや半蔵さん。おこしやす」 
半蔵「頼まれていた木綿じゃ。正信どのはおられるか?」 

茶屋四郎次郎「おおきに。正信さんは出かけてます。ふらりと出かけると二か月、部屋を空けることもありますなあ」

半蔵「では言伝てを。三河の方は片が付いたゆえ、参すべし、とのことじゃ」
(その4に続く)

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