生と死の狭間の世界

  私たちはいつもどこを見ているのだろうか。
  私たちはいつもどこに向かって歩いているのだろうか。
  私たちはいつも何を感じているのだろうか。

  1991年夏。生まれたばかりの私はまだ小さな赤ちゃんだった。父親に対しては反抗的でよく父を困らせた。母に対しては割と従順で、母親を心の底から愛し求めているいわゆる普通の赤ちゃんだった。

  しかし、夜寝る時にいつも相手をしてくれるのは決まって父だった。母は仕事が忙しく、夜寝る時にはまだ家に帰ってきていない。寝付きのいい姉と兄がすやすや寝ている中、父の手を煩わせ、時には12時、1時までキャピキャピしている赤ちゃん。それが私だったのだ。
  正直申し訳ない気持ちでいっぱいである。私は今親となり娘を育てているが、娘もまた寝ない子で、母である私の妻や私を困らせている。

  さて、次第に赤ちゃんは何かにつけて立ち上がるようになり、その弱々しい小さな足で立とうとする。その日から私がどこに向かって歩き始めようとしているのか、私自身にも分からないが、やがて確実に迫り来る「死」そのものへ、私自身、自覚なく歩き始めていたのである。

  私の「死」というもへの実感的なものは幼い頃に亡くした従兄弟のことであろうか。それが私の身近では最初の「死」だった。私は泣きもしなかったし、ただ、泣き崩れる叔母の背中を見ているだけの幼い子どもであった。葬式の中で、死とは悲しみであり、寂しさであり、別れであることを漠然と知ったような気がした。知ったふうな気がした。実感なんてものはなかった。

  次に私の身近に「死」が迫ったのは小学校6年生のときだった。私の母方の祖父が舌癌の末期状態になり死んだのだ。
  その頃聞いた話では舌癌は苦しいらしい。すごく苦しむらしい。当時はまだタバコをやめようというような文化もなく、父も父方の祖父も叔父も、母方の祖父も叔父も当然のように吸っていたし、まさか舌癌になるなんて、祖父も思わなかったに違いない。
  この母方の祖父は気難しい人だったらしい。この話は私がうつ病になってから読み返した父著作の私の「保育日誌」に書いてある。父曰く「あの偏屈爺さん」だ、と。少なくとも、義父に言う言葉ではない。ただ、そんな気難しい爺さんは、私のことが可愛かったらしく、何かにつけて、私を読んで傍に置いていたのを思い出す。私は割とこの祖父が苦手だったように思う。あまり喋らないのだ。私はどちらかというと(というか超がつくほど)お喋りだったので、喋らない人は苦手だったのだ。何考えてるか分からないから。
  でも何となく、悪い人ではないんだろうなと思っていた。しかし、今考えてみると、この祖父との思い出はほとんどない。強いて言えば、ランドセルを買ってくれたこと、学習机を買ってくれたこと、そして、いつも決まった定位置にいて、膝を立てて座りタバコを吸っていたことだけ覚えている。あとは市役所勤めだったらしいのだが、農家に転向して、いつもコメを作っていたことだ。(割とあった)

  祖父のお見舞いに行ったことがある。病室の個室にベットがひとつ置いてあって、今にも死にそうな死人が一人寝ている。祖父である。まさか祖父も孫にこんなことを書かれるとは思わなかったであろうな。
  私は少なくとも一挙手一投足ちゃんと見ていたのである。生き様を見ていたのである。
  祖父は身じろぎくらいはしていたがほとんど動けなかった。久しぶりに来た可愛がっていた孫にかける言葉もなかった。というか舌癌だから、声が出せなかったのかもしれない。
  私は横たわる祖父になんの声もかけられなかったのを覚えている。祖父はそもそも軽く声掛けていい人ではないと思っていたし、怒られたら嫌だし、悲しませたら嫌だったから、何も声をかけられなかった。それにどうでもいいとさえ思った。いや本当はどうでも良くなんかなかったと思う。死なないなら死なないで欲しかったし、もう少し生きていて欲しかったのかもしれない。別に祖父から暴力を振るわれたことはないし、かといってよしよしとされたこともない。いや、もしかしたらあるのかもしれないが、それはもちろん幼い頃でもう小学6年生になるとその記憶はない。

  人はいつか死ぬ。しかし、人は死を受け入れるのが難しい。人は死ぬと分かっていても、今日明日死なないのなら永遠に生きるとさえ思ってしまうのもまた人ではないかと思う。

とにかく、祖父の死から目を逸らしたくて、私はずっと俯いていた。最初から最後までずっと目を逸らしたかった。
  泣きたくなかったのだと思う。泣くのはかっこ悪いと思っていたし、周りの人を不安にさせるのも嫌だし、しきりに己を鼓舞していたんだと思う。端的に死が怖かった。怖くて悲しかった。そしてその感情というのは、繊細な私を悩ませたし、苦しませた。

  もちろん苦しんだり悩んだりすることが必ずしも悪とは限らないが、死に対しての根本的な対処法というか、対峙法というか、そういったものを私に提示してくれる人なぞ、周りにいなかったのである。

  私は大人は冷たいと思ったことを思い出す。死んだ、悲しんだ、忘れた、そして終わる。
  これだけなのかと、寂しいものだと思ったものである。人の死というものは軽いものではないと本能的に思っていたのでやはり、大人は冷たいと思ったのである。

  特に祖父の最期が苦しそうだったからそう思うのであろう。どんな偉い人間であろうと、最期が詫びしければ悲しい人生だったとしか言いようがないという絶対の事実だけは揺るがないであろう。

  祖父の死はきっかけだった。
  私は今生と死のことを考える時、従兄弟の死と祖父の死が未だに脳裏に焼き付いている。
  


#創作大賞2024


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