自分自身で「頑張った」と言える自分に

 この気持ちを残したくない。
でも、未来の自分のために残そうと思う。

 教員採用試験の1次試験が終了した。一般教養試験、教職教養試験、専門科目試験と小論文というセンター試験ぶりの筆記試験だった。

 「終わった!よく頑張った!やり切った!」と晴れ晴れとした気持ちになれなかった。「できた」、「できなかった」という感覚よりも、「もう少しできたはず」という気持ち。この気持ちの正体は、おそらく『後悔』である。それも、1次試験そのものへの後悔ではなく、試験に臨むまでの私に対する後悔だ。努力不足だと筆記試験が教えてくれた。心底、自分に嫌気が刺した。何やってるんやろ…と。

 手を抜いたつもりはない。でも、「この筆記試験に向けて本気でやったのか」、「やるべきことを徹底的にやったのか」と問いかけても、即座に首を縦に振ることができない。それが気に入らないのである。その自分に気付いてしまったら、結構苦しい。本気で取り組まなかったと過去の自分を振り返って、今の自分が受け取る代償は案外大きかった。いや、代償じゃないか。過去の自分があるからこその今の自分がここにいるわけで。

 今まで、何をするにも真面目で一生懸命なところだけが取り柄だと思っていた。しかし、今回、そうしなかった自分に突きつけられたのは、美しくない悔しい気持ち。本気でやって上手くいかなかったときの清々しさのある悔しい気持ちを美しいとすると、その反対である。もしかしたら、初めての経験かもしれない。(もしくは、都合が悪くて記憶から抹消されているか(笑))

 帰りながら、今まで勉強した教材を開こうとするが、試験の答え合わせをしてしまいそうな気がして開けなかった。開くと、受け止めなければならない現実がありそうで。その現実も自分が招いたのかもしれないと思うと、余計に自分に腹が立つ。

 真面目に一生懸命にやっていればどんな気持ちが湧いていたのか。もし、1次試験に通っていたら、この灰色の気持ちは晴れてなくなるのだろうか。分からないけれど、この後悔した経験を意味のあるものとするために、今の私ができること。それは、未来の自分が二度と同じような後悔をしないようにすることだと思った。だからnoteに残したくないけど、残すことにした。

 自分には自分にしか実感できない頑張りの物差しがある。きっと、それは誰しもにある。「頑張った」という感覚は一つではない。だからこそ、「頑張った」と自分で自分に言ってあげられる自分でいたいだけなのである。これこそ、自分の機嫌を自分で取ることなのではないか。どんな自分であっても「頑張った」とするのは私には難しいので、自分の思う「頑張った」姿に当てはまるように自分自身がすることが、自分の機嫌を下げないためには必要だと思った。私は、自分の何事にも真面目に一生懸命取り組むところがかなり好きである。その一方で、肩の力の抜き方が分からずに、頑張りすぎてしまうところもある。でも、頑張らなかったと思う自分に突きつけられたこのモヤモヤとした気持ちを味わうくらいなら、苦しみを伴いながらでも無理し過ぎる私である方がいい。気持ちの落ち込み具合が少しでも緩やかになるならその方がいい。感情の起伏が激しい私。そんな私の機嫌を自分で取る一つの方法。未然防止という意味での対処方法。それは、起伏の角度をできるだけ緩やかにするように、何事においても全力投球で生きていくということ。二度とこんな思いを味わいたくないと思うから。

 真面目に一生懸命、本気で生きるということは「かっこいい」だけではなく、「楽」という意味も私の中にはあるのかもしれない。本気で生きていたら、自分のことを自分で後ろ向きに責めることなんてできないと思うから。何かそこに違う意味付けを行えると思うから。

 次の試験は1ヶ月後。頑張らなくてもいいかと自分を甘やかすことのできる要素は色んな所に転がっている。でも、そんな弱い自分がいることも受けとめた上で、少しだけ自分に誇れるように頑張ろう。だって、頑張らなかったと自分で評価をすることの方が苦しいと分かったから。書けば書くほど、後悔の気持ちは膨らんでいく。でも、膨らませて落ち込んでも先には進めない。今日は「頑張った」と自分に言ってあげられるように、本気で生きますか!!


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