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『どうやって死にたいか』という問いが教えてくれた『今をどのように生きるか』ということ

 昨日、大学院の仲間とランチに出かけた。大学院の仲間の中には、私の話にとことん耳を傾けてくれる人がいて、いつも甘えて聴いてもらう。
 昨日も、いつものように急にテーマを投げかけた。
「私たちって直接会ったことないのに、SNSを通じて色んな人の生き方を知ることができるんだよね。例えば、『食』というテーマ一つとっても、ヴィーガン、ヴェジタリアン、オーガニック、グルテンフリー、無添加、PFCバランス、低糖質・低脂質・高タンパクとか…多分、他にもたくさんある。色んな考え方を信じている人がいて、その根本にはそれぞれの人の思想がある。私たちは、人の生き方を主に視覚的情報で強く記憶して、一方的に膨大な生き方の選択肢を投げられた上で、常に問われ続けるの。『あなたはどうしたいの?』『どのように生きていくの?』って。でも、それっていじわるじゃない?私は選べない。」

 それを聴いた仲間の一人が、「今の話を聴いて思ったんだけど…」と言葉を紡ぎ始めた。
 「最近、『どのように生きるか』とか『どうやって生きるか』っていうことが盛んに言われているけれど、私は、『どうやって死ぬか』と聴かれた方が楽。これを聴くと、人によってはネガティブに感じるかもしれないけど、『生きるか』と言われると、ゴールがない、見えてこない。でも、『死ぬか』と聴かれると、『こうやって死にたい、だから、今をこう生きよう』と私は思えてくる。」と言った。

 その言葉を聴いたとき、確かに、私も『死ぬ』という言葉は使いたくないと思った。でも、何となくほっとした気持ちになった。今までは、自分が『どのように生きたいのか』の答えを考えているはずなのに、『誰かがいいと信じている生き方をなぞっている』ようにしか感じられなかった。でも、『どうやって死にたい』と問われると、『笑って死にたい』という一つの答えが自分の中に浮かんできた。それは自分の中にすごくしっくりきた。その答えが浮かんだ瞬間、自分が笑っているシーンが次々と溢れ出してきた。そして、これからは、もっともっとその笑顔の瞬間が切り取れるように生きたいとも思った。そう思ったら、『今』の私の生き方がぼんやりと見えてきた。

 どの問い方が正解というわけではなく、
『どのように生きるか』
『どのように死ぬか』
問われ方次第で気持ちが楽になれる、答えが見つかって安心できる人がいるというところが大切である。
もちろん、そんなことは考えずに、
『今その瞬間だけに意識を向けて生きている』
人もいるだろう。何でもいいし、どれでもいい。

流行からはじき出される人を少しでも拾い上げたい。

 どんな生き方であってもいい。でも、たまには、少し肩の力を抜いて、自分が楽に生きられる考え方を取り入れてもいいのかもしれないと思えた。


 これは全然、話が変わってしまうのかもしれないけれど…(言いたいことを順番も考えずに次々に話すところが私の悪いところです💦)

 SNSで公開されるのは、その人が社会に見せてもいい一面。言い換えると、その見せられる部分だけを見て、違うと分かっていても、それがその人のすべてだと思い込んでしまうことがある。見せられる部分だけを見たら、自分の生き方よりも他者の生き方の方が何倍もかっこよく、キラキラして見える。それに比べて私は…と思ってしまう。そんな思いを抱きながらだと、私は自分の心に素直になって自分の生き方を選ぶことは難しい。だって、選ぶときにもその人のかっこいい姿、キラキラした笑顔が頭をよぎるから。そんな頭が選択するんだから、自分の気持ちは横に置いて、そのかっこいい誰かの真似をしようとしてしまう。例え、その選択が自分の意思とは一致しない場合でも。

 私は小学校教員を目指している。小学生の頃から、SNSが身近にある子どもたち。そんな子どもたちは、SNSを通じて色んな生き方、それも、他者に見せられる用に加工され、切り取られたものをどんどん吸収していく。そして、自分の生き方を知り、見つける経験をしないうちに『あなたはどのように生きたいのか』と問われる。結構、酷なことではないかと思うときがある。

 教師との出会いは、子どもが人生で出会う出会いの一つである。直接的な出会いの機会が希薄化しているからこそ、学校でどんな先生と出会うかは子どもにとって大切である。そんなとき、目の前に生き生きと楽しそうに生きている先生が現れたら、年齢・性別に関係なく、いつまでも子どもと本気でおにごっこをする先生に出会ったら、先生らしくない先生が一つのロールモデルとして登場したら、子どもたちは自分の未来をどのように想像するのだろう。その想像する自分の姿が少しでも明るく、ワクワク感のあるものになったらいいなと思う。

 私は、本気で生きる先生になりたい。でも、それは先生という仮面をつけた私ではなく、私自身を生きたいのである。子どもの前で格好つけず、嘘偽りなく語れる先生に。できないこと、苦手なことを赤裸々に告白できる先生に。一方で、好きなことや楽しいことには夢中になれる先生に。一人の人間が生きる姿を直接見せること、それが、子どもが未来を前向きに生きられるひかりになったらいいなと思う。



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