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「私ノンフィクション」


ふつう、ノンフィクションやドキュメンタリー制作の現場においては、伝え手は中立の存在であり、取り上げる対象にはなるべく関与しないのがよしとされています。
でも、沢木耕太郎さんは違うんです。めちゃくちゃ対象にコミットされるんですよね。

「笑える革命」小国士朗


ふつう、noteを書く時は、
中立の存在であり、取り上げる対象には
なるべく関与しない。

とは、ならないですね。

とことん主観。
そこがnoteで、書くコトの魅力。

だれとだれ、なにとなに、に対して
中立か?を考える必要は、基本ないですね。
(もちろん、人を傷つけてはいけないけど)

でも、だからこそ
「中立」ってなんだろう?と考えてみる。

自分の中で、ある考え方や価値観、
伝えずにいられない経験があったとして、
その考えをドーン、とnoteで書くのか
あえて、その逆の考えに自分で振ってみて、
「どっちも正解かも」→中立の立場
と考え遊ぶ意味はある気がします。


「一瞬の夏」という、沢木さんの初期の代表作があります。この中で沢木さんは、対象との距離感を保った客観性のある書き手ではなく、自分をその物語の当事者として登場させます。これは沢木さんが確立された「私ノンフィクション」と呼ばれる新しい手法で、もう対象との距離感はぐっちゃぐちゃなんですね。

同上

「私ノンフィクション」

エッセイも小説も、超初心者の私には
そんな域にかんたんにはいけませんが、
物語の当事者に、「私」が登場するなんて、
面白い。

noteを書く時は、「私」が物語の主人公だし
ノンフィクションで、私を書きます。

だとして、そこに、
「もう一人の私」を登場させてみたら
どうだろう?

私にツッコミをいれる私。

いま、こう書いている私に対して、

「え、この記事、どこがおもろいん?」
「あー、それわかるけどさ、
 本音隠してへん?」

みたいなことを書いちゃう、みたいな。


僕は本を読みながら、沢木さんの、作品を「書く」という行為を超えた、人生をかけた真剣勝負の熱に触れて、ただただ圧倒されてしまいました。そして、「この人は、何かを伝えるために、どれだけのリスクを背負ってるんだろう」と背筋が寒くなるくらいの狂気をそこに感じたりもしました。

同上

「書くという行為を超える」

ってなんだろう。

人生を超えた真剣勝負の熱、というベクトルも
もちろんあると思います。
そうありたいなとも思います。

思います、が、

書くことは、人生そのもの、でもあります。
その人生は、
熱さも、冬の寒さも、夏から秋に向かう冷も。
全部ひっくるめられている。

その、小さな気温と体温の変化を、
飾り気なく記していくこと。

真剣勝負。というか、勝ち負けではなくって、
自分の強さも弱さも、さらけだすという、
「リスク」はありますが。が、
むしろ、薬。漢方薬のように、じわじわと、
自分の人生を快方して、開放していく
プロセスそのもの。結果、ではなくって。

狂気を、歓喜にして。

辞書を引くと、テレビは、「テレビジョン」という言葉の略語だと書いてありました。さらに調べると、テレビジョンというその言葉の語源は、「Tele」はギリシャ語で「遠く離れた」、「vision」はラテン語で「視界」の意味を指すことが分かりました。つまりテレビとは、「遠く離れたものを、視界に映す」という意味を持つ言葉なのです。

同上

自分とは遠く離れたものを、
手繰り寄せるかのように、というよりは、
そのままにしておいて観察することを味わう。
観察している自分を中立的に。

あ、じぶん、こんなことに、
心ゆらしたんだなぁ、なんて。

遠く離れたものは自然だけでなく、他にもたくさんあるなということに気がつきました。
たとえば、会社の中のリアルな交渉だって簡単には見られないわけだから、これはTeleです。人の心だってそう。そんなに簡単に理解できるものじゃないし、そもそも映すのが難しいものなんだから、これもTele。社会課題だって、ふだんの暮らしの中で意識されないことが多いし、そもそも知られていない課題もたくさんある。

同上

映らないものを、移していく。
意識してなかったものを、ちょっとだけ
意識に移していく。

私ノンフィクションは、
私に嘘をつかないこと。
私を、投影していくこと。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

沢木耕太郎さんの、エッセイしか
読んでないんですが、面白くて。


小説も良いけれど、
小説家の方のエッセイは、どことなく、
肩肘張らない私ノンフィクション感がすきです

こうべをたれる、ススキもすきです。

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