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ヴィジョン


ここからは、狭い部屋で作家と作品のあいだになにが起きるのかということに関する考察である。それは画家とキャンパスの関係とよく似ている。
まず、頭の中にある芸術作品についてのヴィジョンを形作るのだ。このヴィジョンは、ここで強調しておくが、けっして素晴らしいものではない。それは作品の知的な構造であり、美的な表面である。
それは精神の片鱗であり、心地よい知的なものである。
それは作品のヴィジョンであって、世界のヴィジョンではない。

「本を書く」アニーディラード

「ヴィジョン」は、言い換えると
noteであれば、投稿内容という作品を通じて
「書きたいこと、伝えたいこと」。

「素晴らしいものではない」
と言われると、えーっそんなことない、と
ゆいたくなりますが、一旦受け止めて、

美的な表面
精神の片鱗
そして
「心地よい知的なもの」
と言われると、妙に納得します。

その構造は光を放ちながらも光を通すものだ。あなたはそれを通して世界が見える。
仕事を進めるにつれて、あなたは多くのことを変え、学ぶであろうと知っている。
そして、あなたの手元で形が大きくなり、新しい、より豊かな光を放つだろうと知っている。

同上

「書きたいこと、伝えたいこと」
を通じて、それは「任意の一点」として、
そこから世界が見えてくる気がします。

そして、書いているうちにそのヴィジョンは
より鮮明に、自分の中でトキメクものに、
変わっていく感覚、もわかる気がします。


紙は嫉妬深く、横暴だ。
紙は時間と物質によってできている
紙は必ず勝つ。
ヴィジョンは壊されるというより
あなたが執筆を終えると、
忘れられてしまうのだ。
別物に取って変わられる。

同上


ここでは、紙、とありますが、
スマホ画面で打っているとすると、
その画面と自分は一体化していくと同時に、
別物にだんだん乖離していくようなときも、
あります。

そして、
「あれ?なにを言いたかったんだっけ」
と、忘れていきます。初心を。

言葉は他の言葉へと導き、庭の小道を下る。
あなたは絵の具の価値と色合いを、
世の中でもヴィジョンでもなく、
すでに塗った絵の具の具合に合わせて調節する。

同上

すでに書かれた文章を、
数秒前に書いた言葉が小道となり、
辿ってきた足跡になり、
その具合によって、
調整していきながら、次の道、
次の言葉を選んでいきます。
そこにはヴィジョンは忘れられてることが
あります。

一つの小道(段落)には
必ずもう一つの小道(段落)が続く。
さらに文章が、さらにすべてが退屈に続く。
時間と材料が仕事を駆り立てる。
ヴィジョンはますます遠くおぼろげな
領域に退く。

同上


ますます、朧げになります。
書くこと、書き上げることがゴールになり、
時に退屈になります。
同時に書き上げる自体が、
駆動力になります。
ヴィジョンが駆動力ではなく。

苦しみ抜いて生み出される難解な文章でゆっくりと埋められていく紙。可能性の純粋さに満ちた紙。命取りの紙。あなたはその紙にありったけの生きる力を持って集めた完全にはまだ及ばない秀逸な文章を刻み込むのだ。その紙があなたに書くことを教えてくれる。

同上


ありったけに夢中です。
それは、否定的なものではなく
可能性を秘めていて、
自分でも気づかない、秀逸な文章が
不意に出てくることがあります。
その時それは、自分ではなく紙側から。
スマホ画面側から、ぴょんと教えてくれます。
そのとき、作品と自分がひとつになります。

紙に書いてるのではなく、
紙が書いてるような感覚。

ヴィジョンがより鮮明になるのは、
紙の方から与えられることが面白い。
その起点は、自分なんだけれど。


という意図でアニーディラードさんが
言ったのかはわかりませんが、
そんなきっかけやひらめきを、与えるような
ヴィジョンをもって
書いてくれていたのかもしれません。


きょうもお読みいただきありがとうございます

きのうは久しぶりの梅雨の晴れ間でした。
空は、自分を映す大ヴィジョン。

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