ヴィジョン
「ヴィジョン」は、言い換えると
noteであれば、投稿内容という作品を通じて
「書きたいこと、伝えたいこと」。
「素晴らしいものではない」
と言われると、えーっそんなことない、と
ゆいたくなりますが、一旦受け止めて、
美的な表面
精神の片鱗
そして
「心地よい知的なもの」
と言われると、妙に納得します。
「書きたいこと、伝えたいこと」
を通じて、それは「任意の一点」として、
そこから世界が見えてくる気がします。
そして、書いているうちにそのヴィジョンは
より鮮明に、自分の中でトキメクものに、
変わっていく感覚、もわかる気がします。
ここでは、紙、とありますが、
スマホ画面で打っているとすると、
その画面と自分は一体化していくと同時に、
別物にだんだん乖離していくようなときも、
あります。
そして、
「あれ?なにを言いたかったんだっけ」
と、忘れていきます。初心を。
すでに書かれた文章を、
数秒前に書いた言葉が小道となり、
辿ってきた足跡になり、
その具合によって、
調整していきながら、次の道、
次の言葉を選んでいきます。
そこにはヴィジョンは忘れられてることが
あります。
ますます、朧げになります。
書くこと、書き上げることがゴールになり、
時に退屈になります。
同時に書き上げる自体が、
駆動力になります。
ヴィジョンが駆動力ではなく。
ありったけに夢中です。
それは、否定的なものではなく
可能性を秘めていて、
自分でも気づかない、秀逸な文章が
不意に出てくることがあります。
その時それは、自分ではなく紙側から。
スマホ画面側から、ぴょんと教えてくれます。
そのとき、作品と自分がひとつになります。
紙に書いてるのではなく、
紙が書いてるような感覚。
ヴィジョンがより鮮明になるのは、
紙の方から与えられることが面白い。
その起点は、自分なんだけれど。
という意図でアニーディラードさんが
言ったのかはわかりませんが、
そんなきっかけやひらめきを、与えるような
ヴィジョンをもって
書いてくれていたのかもしれません。
きょうもお読みいただきありがとうございます
きのうは久しぶりの梅雨の晴れ間でした。
空は、自分を映す大ヴィジョン。
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