見出し画像

自分に嘘をついている

「カメラは、撮る人を写しているんだ」
の著者 ワタナベアニさんと、
編集者の今野亮介さんの公演に行きました。

まじめに学ぼうとしすぎて、自分にとっての正解を後回しにしてしいまいがち
好きなようにふざけてやりなさい
正解を求めない

本にも書いてあったこと、ですが、
その話の前後の文脈のなかで、著者自らが、
語られるときに、
その語調や、語気から受ける迫力が違います

「まじめにやる」ことが美徳で、
「ふざける」ことが悪徳のような世の中で、
「こたえを合わせていく」ことが、
本当に多いです。
そしてそれに気づいてない自分が怖い。

まじめとは? 枠内の答え合わせ。
ふざけるとは? 枠をはみ出す冒険。

だとすると、
書く世界も撮る世界も、

「自分にとっての正解」の追求こそ、
創造的であれる。
「読みたいことを、書けばいい」

昔は、ふざけること、
人と違うこと、が好きだったのになあ。

笑ってる写真がすばらしいわけじゃない

きのう東京で、うちのメンバーとの
懇親会のさいご、みんなで写真を撮りました。

ピースしてました。
それは、照れ隠し。
写真を撮られることは、恥ずかしい。

無意識なのか、意識的なのか。
たぶん無意識の虚像。

「笑わなければいけない」

なんてことはないはずなのに。

さらに、撮る側にまわれば、
「はい、チーズ」という。凶器。


とすると、
書く側は、「読み手に何かを求めず」
委ねたい。

読む側は、「正解を求めない」。

「街の人に写真を撮らせて欲しい時、
 なんて言葉をかけますか?」

という参加者の問いに、

写真を撮りましょうよ。という。
お願いするものではない。
それで対等であり、協働作業になれる。

shall we dance?

の世界。

let's ほにゃららの世界。
let usの略だと思えば、

そこはいつも、「私たち」になれるんです。

may I ?
can you?

は、私かあなたの世界。
交われない。

私たち、にしか作れない世界があるし、
そこにはお互いの強制力はなく、
想像力と創造力がはたらく。

書くときはひとりだけど。
だれかを思ってその人に向けて書くのも
いいけれど、
正解を合しにいかないほうがいい。

もう一人の自分との共同作業にしよう。
「自分に嘘、ついてない?」と
確認し合いながら、we で書く。


写真は体験だと思っている。
同じ時間を過ごしている、ことが残る

AI生成では撮れない写真。
AIには書けないものがたり。

という二者択一ではなくて、
もはや、まったく違うものに見えてきた。

書くことも読むことも、体験。

自分に嘘をつかずに、やりたいことをやる

人はどういうときに、
自分に嘘をつくんだろう。

いや、嘘をついてるとも気づかない
状態になるんだろう。

見栄を張るとき。
自分を大きく見せてるとき。
相手に合わせるとき。
自己犠牲が喜びになるとき。
正解を探すとき。

やむにやまれて、
やってると、まひしてくる。

自分に嘘をつかないためには?

自分の胸に手を当てる。
自分に、「ほんとか?」ときいてみる。
無理しない。
そして、無茶をする。
ふざけてみる。

まじめを捨てる。

相手の言うことを、横に置いてみる。

noteをかく。

撮りたい写真を撮ってみる。


きょうもお読みいただきありがとうございます
ワタナベアニさん、
今野良介さん、ありがとうございました。

写真と書くことは、どこか似ています。

「書きたいが書けるに変わる創作講座」

に出ていると言うことで、
コーディネーターの三砂さんが呼び止めて
くださり、
編集者の今野良介さんとお話しする機会を
いただきました。

平静を装いつつ、内心喜んでました

今野さんの講演を聞いて以来のファンで、
つい、自分のnoteにスキをいただいたこと
を画像見せながら、恥ずかしげもなく、
言ってしまいました。
今思うと恥ずかしい。
ファンです、といえなかったことを
後悔しています笑

当時、本を書けるようになるためには?
の問いに

「毎日書くこと」を勧めてくださって以来、
毎日書くことを続けられています。


その時の記事が、いまだにスキ一番
いただいています。

書店ゲーム、も気になって、
様子を見に行きましたが、
変化はありませんでした笑

真ん中の棚が自分の棚


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?