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書くことは「糸を紡ぐ興奮」


作家が日常を栄光のある劇的なものに仕立ててくれるという希望、知恵と勇気と意味のある人生の可能性を吹き込んで私たちを輝かせたり鼓舞してくれるという希望、そして私たちの心に深い神秘を刻み、再び尊厳と力を感じさせてくれるからこそ、人は本を読むのだ。

「本を書く」アニーディラード

この一文を読んで、
内向的で向上心ばかり高くて、
悩み症でコミュ症な自分が、
いかに「本」に救われてきたかー。

あらゆる「作家」さんに、
とりとめない日常、暮らし、生きるを、
照らしていただいてきたかー。

大袈裟ではなく、
気付かされます。

本でない何か、があるとしたらそれは、
「人」かもしれません。

人に救われ、人に悩み、本に救われる。
本が悩ませてくることはありません。
考えさせられることはあっても、
それは、改悪ではなく、改良の暮らし。
じぶん。


本を書く興奮は、愛情と大胆さで我を忘れて糸を紡ぐ興奮にも似ている。それは育てる興奮であり、曲がった草の葉のてっぺんから目を凝らして進行先をみることである。

同上

読む興奮はありましたが、
書く興奮は、noteを書いてからの、
未体験ゾーンでした。

「糸を紡ぐ興奮」

作家さんが、本を書く、のとは、
比較にもならないほど、失礼にもあたりますが
興奮というのは言い得て妙な、
感覚です。

「曲がった草のてっぺんから目を凝らして
進行先を見る」

だなんて!

曲がった草なので、まっすぐじゃないし、
なんなら垂れているし、下向いてるし、
そんな環境や心境の中に身を置いてこそ、
育てていくような、目の向け方と細かさと、
見つめる方向が、尋常じゃない世界へ向かう。

険しい先に。

本の後のほうで、または別の本で使おうと思うな、とっておくな、ということだ。
出すのだ。全てを出し切るのだ。いますぐにら、あとでもっと適当なところに使うためにとっておきたいと思う衝動こそ、いま使え、というシグナルである。

同上

全てを出し切るのだといわれても、
出ません。
とびきりのいい発見は出し惜しみするし、
恥ずかしくて出しきれないし、
隠したいことなんてやまほどあります。

書いては消した、ことをあえて出す。
あえて、とか考えるまもなく、出す。

そこにある興奮は抑えずに、
どうみられても構わない気概で、出す。

作家さんの域には到底及びませんが、
noteなら書けそう。

プロセスに意味はない。
跡を消すがいい。
道そのものは作品ではない。

作家がそれを書くためにどれだけ
苦労したかを読者に知らせる必要はない、
最終的に紙の上に残った文章がすべてだ。

同上

紙の本を今、執筆中なので、
なんとなく、このことはわかります。
わかると言えないけど、わかる気がします。

が、noteなら、
プロセスも書けるし、書いていい。
とも思うんですよね。

で、たまに同じようなことを書くけど、
それこそが残り香のようにそこに漂い、
残らないものは自然と風に流されていく。

そうして、文字通り生み、だしていきたい。

今日もお読みいただきありがとうございます

梅雨に入り、好きな空が撮れません。
曇りです。曇りを撮りました。

雲の向こうにあるものに目を凝らせるくらい、
強い気持ちを表現していきたいなあと、
晴れ間を待ち望んでは、待たずにいきます。

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