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「自分はからっぽ」と気づいたところから書くことが始まる。


「文章を書いて、
自分がからっぽだ、
って思わなかったら嘘だよ」

加藤典洋さん

noteを書いて、
「自分がからっぽ」
と思うことはなかった。

むしろ、
「自分」

を感じるからこそ、111日目の
111回目の
noteが書けている。

とさえ思う。

それは嘘なのか?


と聞かれたら

嘘ではない!

と言いたいけれど、
それは「嘘ではないと言いたい」

という時点で、

嘘かも?

とさえ思えてきた。

「自分ポイ」

とは感じる。

けれど、「ポイ」

どまり。

「からっぽ」

と言われてムキになってるだけかも。

ムキにならずに、自分への向きに
矛先を変えてみたらどうか。

どうか。

「からっぽ」

かもしれない。

言い換えると、

「42年生きてきて、与えられたもの。
あるいは、掴み取ろうと掴んだものの集積」

であって、

「自分」「だけ」ではい。

それが「からっぽ」とまではゆわないけど、
そこに自分だけが「在る」
とはいえない。

「からっぽ」

と認めるところから始める。


からっぽだと自覚するところから
文章は始まる

『世界は贈与でできている』近内悠太さん、


「自分はからっぽ」
ということは、今自分が手にしているものは一つ残らず誰からかもらったものだ、
ということです。
他者からの贈与がら
自分の中に蓄積されていったということです。

同上


『世界は贈与でできている』


「自分は贈与でできている」

それでいい。

それを認められてから、
それで初めて、「自分」がはじまる。

明日から
「書きたいが書けるに変わる創作講座」
年12回シリーズ、の一回目がはじまる。

「創作講座を通して、一年間で実現したいことを、一行程度で教えてください」

と先ほど、コーディネーターの方から
メールが届いた。

「自分も知らない、自分の物語が書けた時、
それが知らない誰かの、知らなかった何かに
気づくきっかけになれること。そんな3冊の本になること。」

としたい。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

写真は今日食べたマルゲリータです。

マルゲリータのもとは、ベージュの生地。
ただの、生地。

生地があるから、彩がある。
彩れる。

のかな。(ちょっと強引)

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