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神は「ぼやけた輪郭」に宿る

絵を描く下準備として、スケッチを描いていた。
何を描こうか方針もなく始めたため、最初は意識が何もなかった。
けれども、無意識でも描き続けていた。
すると、拙いながら、何とか具体化しようと画策していた中で、だんだんとこうしたいという像が浮かんできた。

描いては消し、ではなく、描き重ねることでイメージを鮮明にさせる。それは私たちの言葉もそうかもしれない。

「手」という言葉も、もともとは体の部位を指す言葉だったが、使われていく過程でいろいろな意味が付け重なっていったわけだ。

そうやった私たちは、言葉を、気持ちを、人との関係を、上塗りしてきた。


「明言至上主義」
今の社会は、これで満ちていると思う。
討論番組が人気になってきていたり、質問者に対して「質問が不正確」と高圧的に振る舞うお人が増えたり。
はっきりと言うことが果たして本当に良いのだろうか。

だいぶ前のテレビ番組で、ある政治家が野党の政治家を非難していた。
そのとき非難の理由を訊かれたのだが、彼は少し考える素振りをするものの、一貫して「人間的についていきたいと思えない人だ」と一点張った。
スタジオのコメンテーターも「その理由は?」と執念深く訊いていた。
しかし、彼は一点張りを続けた。

私は、なんて頑固な人なんだと思ったが、後になってその意味がわかった。

その野党政治家のエピソードは「障害を持つ子どもを育てながら勤めている大臣に、執拗に責め立てるように質問した」と言うものであった。
もしそれを言ったら、障害のある人を批判の材料したことになる。そして何より、その大臣がつつましくも懸命にお子さんを育てているのに、その事実をまた公に晒すのは仁義に合わなかったのだろうと思う。

日本には「慎む(つつむ)」「察する」という言い方がある。最近では、目の敵にされているように思う。
今の生き苦しさは、すべてをおおっぴろげにするのが正義だとする社会にもあるかもしれない。


凪良ゆうの『流浪の月』は、その現実をありありと描いている。
「事実と真実は違う」という文中の一言に要約されるその意味は、必ずしも目に見えた情報だけがその世界の輪郭線ではないということだろう。

「不確実性の世の中」と叫ばれる中で、しかしその歩むべき道筋を考えることは重要だ。
しかし、その材料である「過去」が、本当に情報通りなのかはもっと柔らかく考える必要がある。

あのとき彼はどう思っていたのだろう。
あのとき彼女は何をしていたのだろう。
考え続けて、引き続けられた輪郭線の中に、神のみぞ知る真実が宿っているはずだ。

答えられない、話せないことに考えを巡らせ、しかし詮索しないやさしさを持ちたい。

滲みながら空を去る夕日の光のような、
打ち寄せるたび変わる波打ち際のような、
そんなのんびりした答えさがしを。

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