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BeReal戦争

BeRealが流行ったのは、みんながひとりぼっちだからだと思う。


ある日のスタジオ練習。唐突に他のみんながゴソゴソし出したら、大概「あぁあれか」と辟易とする。
もちろんみんなの写真には笑顔で映るが、それは「よくこのシステムを使いこなすなぁ」という感心の表情だ。

1日の中の意図せぬタイミングで来る通知。そして、それに咄嗟に反応して2分以内に写真を撮らなければならない。BeRealの基本ルールだ。
現代人はデフォルトでせっかちになっているが、それに拍車をかけるような流行に、今の私は乗っていない。
24時間のうちの2分にまで意識を集中させられるほど、心の余剰スペースを持ち合わせていない。

私の周りに人に、試しにBeRealをやるべきか訊いてみると、驚くほど意見は二分された。
人間関係を広げるきっかけになるとか、時間に束縛されてスマホ人間になるとか、みんなそれなりの理由があるようだ。

けど、それぞれの話を訊いていて、共通してるなと思ったことがある。

スマホ人間になるという否定的な側面も、交友関係が広がるという肯定的な側面も、どちらも根柢には、「自分では抗えない孤独感」がある。


昔の人々は果たして「孤独」だったんだろうか。
いや、むしろ昔こそ「連帯の幸せ」があったんだろうと思う。
それは、「私の居場所はここだ」という、ある種の諦めが、幸せのハードルを下げてくれていたからというのもあるだろう。
そして、そのため、その居場所のために献身する力が何倍にも強かったのだろう。
この諦めは、まったく消極的なものではなく、覚悟と信念に基づいた誇るべき諦めだ。

現代、SNSを通してさまざまに発信できることが、かえって心の容器を大きくして、ちょっとの幸せでは満たされなくなっている。
BeRealのような発信は、まったく積極的なものではなく、孤独感と承認欲に基づいた哀しい発信だ。

自分にとっての幸せを、他人に誇らしげに語れない人は、本当の意味で幸せではない。
自分の機嫌を自分で取れる人は、そう知っている。


現代社会の特性を巧みに理解して作られたすごいシステム。だが、安易にそれにいいねと言うことは、少し気が引ける。「晩御飯、肉じゃががあるけど?」と訊かれて「それ"で"いい」と答えるくらいの罪悪感だ。小さいようで大きなしこり。

少なくとも私は、自分の幸せを誇らしく発信していきたい。そして、その結果みんなが文章を褒めてくれるなら、それはそれで嬉しがるだろう。あくまでも副産物として。


脳内悪魔「…(嘘つけ、それが嬉しいくせに)」

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