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インナーチャイルド・ヘヴン

ここのところ、自分の中の本質的な「子供っぽさ」に嫌気が差している。

大人とは、裏切られた青年の姿である。

太宰治『津軽』より

と、太宰は言うが、私にはこの言葉がとても深く見える。
私の姿は、大きな裏切りにもあってないのに、勝手に傷つく子供なのだ。

今から満たされようとしていた心の器。できる限り大きく作って待っていると、とうとうその水はやってこず、ただ空虚な入れ物だけが心に存在するような感じだ。

芸人の又吉直樹さんが、三島由紀夫賞の候補者になったとき、一応の準備としてジャケットを用意したそうだ。
結局、賞は取ることができなかった。最初から取れるとも思っていなかったようだが、なぜか一応の準備のジャケットが、気恥ずかしく空虚に感じたそう。彼は咄嗟に、トイレに行くタイミングで、カバンの奥にジャケットをぎゅうぎゅうに押し込んだ。

同じような心が、私にも起こっているようだ。


会話は、今の日々にとても重要だ。
しかし、いざ色々と話してもらえると、今度は返すのが億劫になる。

求めていたものが与えられると、急に漣のように引き下がっていく人を何度も見てきた。
その被害にあったことがあるものとして、気持ちが痛いほどわかるはずなのに、ふいに自分もそれをしてしまっている時がある。

「明日は何が用事あるん?」
「明日は○○がある」
「へぇ、○○な感じ?」
「うん」

自動質問生成器になって、相手が自動回答ロボットになると、心が冷え切る。
と言っておきながら、そんな対応を自分がしてしまうときもある。

つくづく、わがままだと自覚させられる。
このバイオリズムが存在していることに、自分自身を信頼できなくなるのだ。


人は皆、心のうちに子供を棲まわせているという。
誰しもにあるその精神的なばらつきが、時に自分の存在を危機に陥れる。こればかりは、根性論ではどうにもならないものである。

私の中にも、自分の思考に囚われて、自分勝手な動きをすることが多々ある。
迷惑もかけてしまう。

一方で、それを「そのモードあるよね」と思いつつも、平常運転で見守るような存在で居なければならないという意識もある。大人であらねばと思う。
本を読んだり、映画を観たり、散歩したりして、ふと自分を顧みれば、この達観が得られやすいのかもしれないが、執筆時の自分にはどうも難しい。

うちなる子供が、今日も我が天国とばかりに生を蠢いている。
どうか、長い目で面倒を見てやってほしい。
みんなと一緒に、この子を見守っていきたい。
だから、みんなのインナーチャイルドも、存分に喚かせてくれたらいいな。

インナーチャイルド・ヘヴンが地獄にならないような、持ちつ持たれつの共同運営を。

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