にわかキリスト教徒と狭い門

今までファンボックスでなんか語りたいときに書いてましたが、ゲートルーラーの有料記事購入するためにnote登録したしこっちに移行します。


突然ですが、私はキリスト教の全寮制に3年間通ってたことがあります。宗教とかどうでもよかった私にとって、宗教に触れ続ける3年間は結構刺激になりました。この刺激は、いいことも悪いことも両方ありました。

その全寮制の高校で盗みがありました。わりと頻繁に何度も起きてて、財布の金とかお菓子とか、そういうものが勝手に消えているというものでした。

それに対して先生と生徒を交えて話し合いをした時に、被害にあった生徒の一人が言いました。

「盗ったもの返せとか罰しろとか言わんから再発防止だけしてほしい」

その言葉に促されて犯人捜しはせずに再発防止策を協議する会になりました。

生徒から出た案をまとめると「部屋に鍵をつけてくれ。というか鍵付きロッカーとか用意してほしい」

そう。この寮、プライバシーとかガバガバでした。一応は部屋に入る前にノックするって決まりあったけど、それだけでした。

それに対する先生の意見はこんな感じでした。

「鍵をかけるということはお互いを疑うことだ。被害者も言ってる通り、そして聖書にもある通り隣人を愛すること、そして罪を赦すことを考えたい。難しいかもしれないが、安易な考えに流されるのではなく試練だと思って何か解決策を探していこう」

結局なんか全員でいいこと言って絆を再確認して解散しました。でも私と同じ学年の生徒はクソほどもやもやしてました。他の学年もそうだったんじゃないかな。

そのことが今までずっと胸につっかえてたんですが、最近なんとなく理屈が分かった気がしたので書き連ねていきます。


そもそも日本のキリスト教徒って性善説好きですよね。でも聖書って性悪説の本だと思うんですよ。アダムとイブの血を引く人間全員原罪持ちなってところから始まってるし。

ちなみに、厳密に言うとキリスト教の性悪説は最初から悪だと決めつけてるのではなく、人間は弱い。だから悪の道に流れたくなる。故に心に悪を飼っている。みたいな感じです。原罪は悪ではなく弱さなんです。たぶん。

それを象徴する聖書の言葉が『狭い門から入りなさい。 滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。 それを見いだす者は少ない』ってやつなんじゃないかなって思います。

私はこの言葉を辛いことから逃げて楽な方に向かわんほうがええぞって感じだと解釈してます。

ちなみにこれと関連付けて語られるキリストの『私は道で真理で命だ。私によることで父のもとにいける』みたいなやつとはシーンが違います。別物だと考えた方がいいです。

在学中聖書の教えを馬鹿にしてあんま本気で聞いてなくて、そのあとで聖書に漬かってた人たち面白かったな、なんでああいう思考になったのかなって10年くらい暇なときに掘り下げて、それがきっかけで最近宗教にはまってるんですが、
キリスト教とは人間の原罪(弱さ)と向き合ってそれを克服するための宗教です。たぶん。全体的にそんな感じだと思います。そこそこ会ってきたキリスト教徒の中で、こいつええやつやなって思った人は大体そんな認識でした。

宗教っていい人間になるための指標みたいなものなので、いい人間の共通して抱えてる宗教観は正しいです(偏見)その教義に書いてないことでも正しいです(暴論)


ところで、日本人は勧善懲悪が大好きですよね。

SNSで叩けそうな人を見ると被害者でも被害者の友達でもなく裁判官でもない人らがワラワラ集まって勝手な裁量で暴言を浴びせるくらい勧善懲悪が大好きです。

でも日本人って喧嘩両成敗も大好きです。何故か両方悪役にしたがります。一方的に悪かったやつが「でもお前も悪いよな」って言ったり一方的に被害者だったやつが「いやでも俺にも落ち度あったよ」とか言ってます。

なんでやろって思った時に、なんとなく答えっぽい仮説にたどり着きました。

日本人は自分を客観視しながら動く傾向にあります。どんなにヤンチャな人でも恥の概念を持ってけっこう頻繁にそれを意識してます。

だからこそ正義に溺れる自分や相手を恐れているのではないかなって思ったり。これはキリスト教の弱さにあらがう精神と少し似てるなと思ったり。

その弱さにあらがう精神から、裁くことを嫌う精神から派生して性善説的なキリスト教が生まれたのかなって。



ちなみに、キリスト教を象徴する言葉で「目には目を歯には歯をと言われているが、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という言葉があります。山上の説教と呼ばれるやつの一部ですね。

しかしその言葉の前にこういう記述があります。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」

律法自体は悪くは言ってないんですよね。

他にもキリストは姦淫した女に石を投げる人へ「あなた方の中で罪のない者だけが石を投げろ」と言ってます。

罰することを否定してる訳ではなく、律法を扱う者や不完全な律法を否定してるように感じます。

律法に穴があったり扱う人がゴミで悪用し始めてるから今この世の律法はゴミだけど律法ってものの存在自体はええもんやでって。

そしてキリストの下で大衆よりは一歩進んだ『ええやつ』として育ってきた弟子たちが『ええやつ』が故に陥りやすい過ちを先に止めとこうとしたんじゃないかなって。

お前ら律法とか全く知らんやろ、私刑とか間違っても走るなよ。律法自体はクソだけど律法の当初の目的はめちゃくちゃ立派だから、それを無視して正義面してお気持ち棍棒振るうなよみたいな。ちなみに12使徒全員が律法知らん人なのか分からないけど、漁師出身とか多かった気がします。もうあんま覚えてないけど。


あの時の先生は鍵をかけるという楽から逃げたのか、判断をしないという楽に向かったのか。それとも浅い判断力で律法学者のまねごとをすることを嫌ったのか。

とにかく彼は鍵を使わないという判断をした。それが正しいかはそれ以外の判断をした先の未来を見てないから誰にもわからない。

鍵をかけないで良心を信じるという判断の後、盗みは止まらなかった。それは数ある選択肢の中で最低に近いものだったかも知れないし、盗みが発生しているクソのような現在から派生するクソのような未来の中で、そこそこ良い方の未来だったかもしれない。

あの時の私は、意見を言うだけで決定権はなかった。それでも議論の舵を少しでも曲げることはできたかもしれない。また、いずれ何かの選択の決定権を握った時のための予行練習として、他の択を選んだらどうなっていたか考えることをやめてはいけない。

己が関わって決定されたことが正しかったのか、もっといい択は無かったのか。考え続けることが進歩の道であり、狭い門なのだと思う。


※この記事で『日本人は』って連呼してるのは日本人disとかの意図ではなく、私が日本人以外をあまり知らんからです。もしかしたらアジア人全部だったり北半球人だったり地球人全部に当てはまる傾向かもしれないけど日本人しか知らんので『日本人は』って言ってます。

この後有料記事です。個人的な聖書との付き合い方の正解と最後にちょっとしたオチを語ってます。


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