幽閉 07
自宅へ帰るまでの道のりが、全く記憶に無かった。確かに自分の足で歩いて帰宅したはずなのだけれど、まるで真夏の陽射しに容赦無く照らされたアスファルトに撒いた打ち水があっという間に跡形も無く消えてしまうようにその時の記憶が消えてしまったかのようだった。昨夜の出来事で鮮明に覚えているのは、先輩達が歩く後ろ姿とシャンプーの香りと、Sさんの質問だけだった。花火もりんご飴も盆踊りの風景もそれらどれもが、色と味と雰囲気を失ってしまっていた。
翌日の日曜日は何の予定も無かったので1日本を読んで過ごそうとしたのだけれど、予想通り本の内容はほとんど頭の中はおろか心の中にも響いてこなかった。頭の中では昨夜の出来事を何度も反芻しそれが間違っていなかったのかどうかを検証し続けていたし、心の中ではSさんの言葉に翻弄されて途方に暮れていた。僕は読書を諦めて本を閉じ、ヘッドフォンから流れる音楽の音量を少しだけ上げた。大瀧詠一が【ペパーミント・ブルー】を歌っていて、素敵なメロディに乗せて僕にこう語りかけた。「空も海も遠のいて行くよ 君のはにかんだ笑顔を残して」
週が明けて学校へ行くと、昇降口で先輩たちとばったり出会った。僕はまずりんご飴をご馳走してもらったお礼を言い、「とても楽しかったです」と言葉を添えた。2人は手を振って「いいんだよ」と言ってくれたけれど、僕はその言葉を聞くと軽くお辞儀をしてすぐに自分の下駄箱へと向かった。僕の背中でNさんが「また後でね」と声をかけたので、僕は振り返ってもう一度頭を下げた。
放課後、いつものように放送室で雑務をこなしていると別のクラスの同級生で放送委員の3人が入ってきて、先週末の盆踊りの話題を僕に持ちかけてきた。僕が先輩達と一緒にいたことを指摘されたけれど、僕はあらぬ誤解を生まないよう丁寧に事情を説明した。僕の懸念をよそに3人は冷やかすわけでも無く花火や屋台の話に話題を移したけれど、僕はその場に言いようの無い雰囲気を感じ取った。それはひょっとしたら僕の思い過ごしなのかも知れないけれど、ある話題について「それ以上は立ち入らないでおくよ」とでも言いたげな空気が漂っているように感じられた。僕は会話の中にいて、まるで川の中洲に取り残されたような錯覚に陥った。それは僕に居心地の悪さと、僕抜きで何かが進行しているのではという不安を残していった。
話を終えて3人が放送室を出ていくのと入れ違いに、先輩達が入って来た。2人は先の3人と挨拶がてら事務的なことでいくつか言葉を交わし、それが終わると「お疲れさま」と言って僕の隣に座った。僕が「お疲れさまです」と言ってまた雑務に戻ると、Nさんが「お願いがあるんだけれど」と言って僕の方へ向き直った。
「今週末にお昼の放送で使う新しいアナウンスの録音をしようと思うんだけれど、〇〇君にも手伝って欲しいの」
「いいですよ、ところで僕は何をすれば良いんでしょう?」
「〇〇君も何かしゃべってみない?」SさんがNさんの向こうから僕に提案する。「僕がしゃべるんですか?やったことが無いので上手く出来るかどうか…」急な提案に少し動揺する。
「〇〇君はとても丁寧に話をするし、いままでずっと裏方で頑張ってくれたたからこういう仕事も良いんじゃないかと思って」Nさんがちょっと身を乗り出す。
「どうでしょう?僕に務まるんでしょうか?」どちらかというと表には出たくない僕はちょっと渋る。
「大丈夫、きっと出来るよ。私からもお願い」Sさんも身を乗り出す。
「ね?私たちを助けると思ってお願い」Nさんがさらに身を乗り出す。
「判りました、やります。上手く出来るかどうかは判らないけれど」断る勇気が萎えてしまった僕はやや遠慮気味に承諾する。
「ありがとう!とても助かる」Nさんはほっとしたような笑みをこぼす。
「本当に上手く出来るかどうか、判りませんよ」Nさんの笑みに不安を感じた僕は、念を押す。
「これが私たちが作った原稿。今週末までに目を通しておいてね」僕の不安をよそに、Sさんが手書きの紙を僕に渡す。
僕はその原稿を受け取って、一通り目を通す。女子らしい丸まった字でたくさんのセリフが書かれていたけれど、僕の頭の中にはなかなか入ってこなかった。とりあえず引き受けてしまったのだからと、僕は諦めて原稿を四つに折りたたんでポケットの中に入れた。
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