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熊野 湯の峰温泉

12月初旬、熊野を旅した。日が暮れかかる頃、新宮市から湯の峰温泉を目指して車で走ると、やがて雨粒が落ち始めた。南紀線の電車に揺られた朝方は、青い空がまぶしい程の好天だったのに、山深い温泉に到着する頃には傘無しでは歩けない程の雨である。湯煙のあがる鄙びた風情と湿った雨の匂い、硫黄臭に包まれて、旅の緊張がゆるゆるとほどけていった。宿泊先である4階建ての民宿を見上げると、切立った崖に細長く張りつくように建っていた。

 湯の峰温泉は熊野本宮大社へ参拝する前に温泉の湯で潔斎をする湯垢離場として知られる。ここの温泉は難病とくに皮膚病に効用があり、熊野の神の加護とあわせて、医療に見放された病人でも治癒すると信じられてきた。
 湯の峰温泉を天下に知らしめたのは、小栗判官と照手姫の純愛物語である。『小栗判官物語』は人形浄瑠璃や歌舞伎でも演じられる演目であるにも関わらず、今回宿探しの時点で初めてこの物語を知った。「照手姫」の札を下げた幼木が湯の峰に植えられているのを見ても、何故桃の木を湯の峰に植えるの?と首を傾げる始末。

 何百年もの間伝承され続けている『小栗判官物語』は、江戸初期の画家、岩佐又兵衛の手で絵巻物になっている。その『小栗判官絵巻』15巻は、現在は宮内庁三の丸尚蔵館に収められている。又兵衛とその工房で制作された古浄瑠璃絵巻群のひとつだ。

『小栗判官絵巻』より 

 『小栗判官絵巻』には、変わり果てた姿の小栗が車に乗せられて湯の峰温泉まで引っ張って来られる様子が描かれている。小栗は一度殺されて冥土に行くが、閻魔大王の計らいで現世に戻されたのである。目も見えず口もきけない「餓鬼阿弥」の姿となって塚から這い出た小栗を、藤沢の上人が見つけた。そして「この者を一引きすれば千僧供養、二引きすれば万僧供養」と札に書き、それを小栗の胸にかけて土車に乗せて東海道を熊野に向かわせた。人々に引かれて熊野に辿り着いた小栗が湯の峰温泉で湯治すること49日。すると小栗は元の雄々しい姿に蘇ったのだった。
       (『世界遺産熊野古道を歩く』JTBパブリッシング より)

 この物語を聞いたとき、冥土から戻った人の姿をどのように描くのか興味があった。『小栗判官絵巻』には土気色の肌をした小栗が四肢や胸はひどく痩せこけて腹だけ膨れた餓鬼の姿で描かれている。餓鬼とは死せる者、逝きし者を指すそうだが、ヒンドウー教では死語1年経って祖霊となるまでの死者霊を指すというのが面白い。ここで餓鬼のイメージとして思い浮かぶのは『餓鬼草紙』(12世紀)に描かれている餓鬼の姿だろう。六道のうち、水や食物を得ることができず土や泥水まで得ようとするが、常に飢えや渇きに苛まれ苦しむのが餓鬼道である。江戸期に活躍した岩佐又兵衛にしても、餓鬼のイメージは『餓鬼草紙』の影響を免れないのだろう。

 生前に多くの罪を犯した小栗は、餓鬼のような醜悪な姿となってこの世に戻されたが、功徳を積もうとする多くの人々のリレーによって代わるがわるに熊野まで引き継がれていく。その中にはかつての妻である照手姫もいたというわけである。ここに出てくる「餓鬼阿弥」とは、ハンセン病患者の暗喩と解釈されている。この病は治療法が確立される19世紀末まで不治の業病とされ、それに侵された者は「不浄のもの」と忌避され見捨てらた。しかし、熊野の神は「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」あらゆるものを等しく受け入れたのである。

小栗が湯治したといわれる「つぼ湯」 (わかやま12湯 協同組合和歌山県旅行業組合)

 小栗が湯治したと語り継がれている「つぼ湯」に入る時間がなかったが、泊まった民宿のお湯は無色透明の含硫黄ナトリウム炭酸水素泉で、微かな硫黄臭がした。湯の峰温泉のお湯は源泉温度93℃、ボーリングしていない自噴泉だという。宿の温泉分析表にも自然湧出泉とあり、「熱すぎたら水を足して」と宿主が言っていたようにお湯は熱い。お湯に身を沈めるとじんわりと身にしみる心地よさで、しかも湯冷めしにくく翌朝まで足先がほかほかだった。

民宿『瀧よし』さんのお風呂

 蘇りの湯で湯垢離を済ませて、明くる日いよいよ初めての古道ウォークへと向かった。

 


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